船辨慶 玉三郎の新演出 2005.12.27 W134

17日と26日千穐楽の、歌舞伎座夜の部を見てきました。

主な配役

知盛の霊
玉三郎
弁慶 弥十郎
義経 薪車
船頭 勘三郎

「船辨慶」のあらすじ
壇ノ浦の戦いに勝ち、抜群の軍功をあげたにもかかわらず頼朝に疎まれた義経は、都を落ち延び弁慶たちとともにここ大物浦から船で九州にむかおうとしている。

弁慶はここまで一行に従ってきた静御前を都に帰すようにと義経に進言する。義経も同意するので、弁慶がそのことを告げにいくが、静御前は義経の口からじかに聞くまでは納得できないと応え、義経の前へやってくる。

あくまでも同行を願う静御前に、義経は都へ戻って時節を待つようにと諭す。静御前は涙にくれ弁慶に差し出された別れの杯も飲みほすことができない。そこで弁慶は旅の門出にひとさし舞うようにと烏帽子を渡す。静御前は烏帽子を着けて、義経の行方を思いつつ舞う。

そこへ船頭が船の用意が整ったと知らせに来るので、静御前は悲しみをこらえながらこの場を立ち去る。船出して、しばらくすると俄かに暗雲がたちこめ嵐がおそってくる。この様子に郎党たちは船にあやかしがついたのではと気味悪がる。

すると海に沈んだはずの平家一門の亡霊が波の上に浮かび上がる。薙刀をもった知盛の霊が船に近づいて来て義経一行を海に沈めようとするが、義経は全くひるむことなくこれに立ち向かう。。

亡霊を相手に刀ではかなわないと思った弁慶は、数珠をもみながら一心に祈る。すると力を失った知盛の亡霊は再び波間に消えていくのだった。

「船弁慶」といえば黙阿弥作の新歌舞伎十八番のものを思い浮かべますが、今回はそれが出来る以前に杵屋勝三郎が作曲した曲を使い、藤間勘吉郎の振り付けで玉三郎が今年の6月に南座で初演した新作の「船辨慶」です。「藤娘」の斬新な演出も記憶に残っていますが、玉三郎だからこそ出来る試みでしょう。

まず緞帳があがると、のし菱の紋をつけた裃の長唄連中が正面段の上と所作舞台の上二列に並んでいて、能がかりで始まります。変わっていたのは破風という屋根のようなものが上から下げられて能舞台を表わしていたことと、下手に出入口がなくて、全員が花道から登場していたことです。

どっしりとして立派な弥十郎の弁慶がまず登場して名乗り上手に座ると義経の一行が登場しますが、郎党を三人伴った薪車の義経は白皙の貴公子という感じで、よくあっていました。知盛の亡霊に襲われた義経が「その時義経すこしもあわてず」と自らいう科白を、能でこの役を演じる子方を意識したような高く張った声で言ったのが印象に残りました。

弁慶が花道七三で鳥屋から静を呼び出すと、静は花道の逆七三に留まって応答していましたが、ここの静は上からだと全く見えないだけに、この間はけっこう長く感じられます。

玉三郎の静は「壷折」という能の衣装の着方がよく似あい、普通だとこの壷折は能面がない分顔が大きく見えてバランスが悪く感じるのですが、本当に綺麗な立ち姿でした。玉三郎の科白は謡そのもののように高音と低音の音程差が11度ほどあったのが面白く思えました。静の舞は能うつしということですが、極端に動きが少ないものでした。

前シテの静が花道を引っ込むのと入れ替わりに、船頭の勘三郎が登場。いつものやり方ですと舟子を連れていますが、今回の新演出では一人きりでした。勘三郎が片側だけの白い船を持ってきて、皆これに乗り込みますが、能でもこのような船を使っています。

波に帆の衣装を着た勘三郎の船頭は、「いぇ〜ぃ」とか「あ〜りゃ」とかいう掛け声が愉快で「波よ、し〜〜っ」といいながら櫓で海面をなでるところなど、動きの少ないこのお芝居のアクセントになっていました。

その後花道のすっぽんから登場した知盛の霊の玉三郎は、これまた普通の隈取とは違っていて、能の船弁慶の後シテがつける「怪士(あやかし)」という面のような金壷まなこにちょび髭という顔だったのにはびっくりしましたが、このほうが玉三郎には似合っていると思いました。

知盛の霊の引っ込みは、普通だと幕外で薙刀を担いでぐるぐる回転しながら花道を豪快に入っていきますが、今回は出てきた時と同じすっぽんから消えていきました。

見終わって、豪快さという点では普通の「船弁慶」の方がやはり勝っているものの、女形である玉三郎らしい美の世界をそこなわない「船辨慶」だったと思いました。

夜の部の最初は福助の重の井で「恋女房染分手綱」―重の井子別れ。福助の重の井はお菓子を手に出てきた姿が決まっていましたし、めぐり会えた子供と別れなくてはならない母親の悲しみはよくわかるのですが、あまりにも悲鳴のような高い声を使いすぎるので聞いていて疲れ、気持ちがついていけません。

三吉の児太郎は、17日に見た時はだんだん音が下がってくるのが気になりましたが、千穐楽に再び見た時は改善されていて、とてもしっかりと演じていたのには感心しました。

家老の弥十郎は夜の部の演目全てに重要な役で出ていて、まさに大活躍。全部良かったと思いましたが、中でも「松浦の太鼓」の其角が一番生き生きとしていました。

最後が忠臣蔵外伝「松浦の太鼓」。初役で松浦候を演じた勘三郎にはお殿様らしい品と、少々おっちょこちょいなこの人物の愛嬌がありましたが、「ウフフフフ」という笑い方だけには抵抗を感じました。句会のメンバーの五人・亀蔵、男女蔵、薪車、桂蔵、由次郎がカルガモの雛の群れのようにいっせいにお世辞をいったりする様子がなかなかユーモラスでした。

勘太郎の縫は後ろを向いた時に以前はほっそりしていた首筋が幾分たくましくなっていたのにはちょっとがっかりでしたが、最近立役が多いのでそうなるのは仕方ないのかと思いました。この縫が煎茶のお手前をやっていたのは、珍しかったです。

大高源吾の橋之助は、仇討の報告をする時は威勢がよくて良かったのですが、竹を売っている声がやけに時代がかっていたのがなんだか気にかかりました。

「松浦の太鼓」の幕開きの「両国橋の場」では、浮世絵のように美しい雪景色がお芝居を見る喜びをしみじみと味わわせてくれました。

筋書きには「松浦の太鼓」(まつうらのたい)と書いてありますが、「まつらのたいこ」と読む方もいらっしゃるのは、松浦鎮信(1622〜1703)というこのお殿様は江戸時代に実在した人物で「まつらしげのぶ」というのが正式だからのようです。討ち入りのあった元禄14年(1701年)は松浦候は79歳の年でした。

この日の大向こう

17日は土曜日だというのに、声を掛ける方が少なく、会の方はお一人もいらっしゃらなかったようです。

二度目に見た千穐楽は、さすがに大勢の方が声を掛けられ、重の井の「姫君様の〜おたち」の〜などでは十数人位の声が掛かったようです。しかし「船辨慶」では雰囲気を大切にする玉三郎さんに気遣ってか、必要な時以外はほとんど声は掛からなかったのが、かえって緊張感を盛り上げていました。

驚いたのは「船辨慶」の幕の幕見の観客の多さ。立ち見まで一杯で、人気の高さを伺わせました。

松浦の太鼓で皆が殿様に「何とおっしゃる」と問いかけた後で、いっせいに「中村屋」と掛かりましたが、これも長ゼリフの前ということだと思います。


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