盲目物語 勘三郎の二役 2005.12.9 | ||||||||||||
9日、歌舞伎座昼の部を見てきました。
「盲目物語」のあらすじ そんなお市の方を我が物にしようと藤吉郎と柴田勝家が通っているが、夫と息子の敵・藤吉郎を嫌いぬいているお市は目通りさえ許さない。 お市を慰めるために、按摩と芸事の達者な盲目の弥市が近江時代からまめまめしく身近につかえていた。三人の娘たちも弥市を気に入っていて、療治に来た弥市を遊びにと連れ去る。 お市が琴を弾いていると、亡き夫・長政の亡霊が姿を現し、お市が心の中では柴田勝家に惹かれていて、そのうち嫁に行くだろうと語る。 我に返ったお市のもとへ、領地へ帰ったはずの勝家が一人で訪ねてくる。冷たくされても思い切れないと心の内を述べ、自分の気持ちを受けてくれるよう頼む勝家に、お市は長政の亡霊があわられたことを話して勝家の妻になることを承諾する。それを悟った弥市はどのようになってもそばに置いて欲しいとお市に頼む。 その後へ目通りを許されない藤吉郎が忍んでくる。絶対にお市をあきらめないという藤吉郎に、お市は勝家の元へ輿入れすることが決まったと言い放つ。それを聞いた藤吉郎は愕然とするのだった。 第二幕 天主閣に集まった主従は討ち死の覚悟を固めるが、勝家はお市を逃そうとする。だが「一緒に死にたい」というお市の決心を知り、せめて娘のうち城に残っているお茶々だけは逃げるようにいうが、お茶々は聞き入れない。 そうするうちに木下勢が攻め入ると、柴田の家臣・朝露軒が木下側に寝返って、お市とお茶々を連れ出そうとする。天主閣に火が放たれる中、弥市は茶々の手をつかんで逃げる。藤吉郎が天主に上って行くと、すでにお市は自刃して息たえていた。 藤吉郎は呆然として「柴田を攻めたのはお市を手にいれるためだったのに」とつぶやき、遺骸に手を合わせる。 阿鼻叫喚の戦場で母を求めて泣き叫ぶお茶々に、弥市はお市が自刃したことを告げ、茶々の手が慕っていたお市そのままなので、ぜひこれからもずっと側に置いてほしいとお茶々にすがりつく。 そういう弥市を気味悪く思うお茶々は弥市を置きざりにして走りさる。その後を見えない目で必死に追おうとする弥市だった。 大詰 淀君の願いでここらあたりの乞食を集め、直々声を掛けてやるように頼まれた秀吉はしぶしぶ乞食に声を掛け、施しをする。二人は駕籠に乗って去り、皆が散った後には、今では乞食におちぶれた弥市が残される。 弥市が昔を懐かしみ三味線を弾きながら唄うと、やがて湖の上にお市の方の美しい幻があらわれ、弥市にあわせて琴を弾くのだった。 谷崎潤一郎原作、宇野信夫脚本の「盲目物語」は先代勘三郎の弥市と藤吉郎、6代目歌右衛門のお市の方、現坂田藤十郎のお茶々、長谷川一夫の柴田勝家によって、昭和三十年に第一回東宝歌舞伎で初演された、先代勘三郎の当たり役。当代勘三郎は8年ぶり、5回目の上演です。 藤吉郎が、嫌われても嫌われてもお市の方をあきらめきれず、ついには柴田を攻めることで、お市の方を永久に失ってしまい、そのかわりに娘のお茶々を側室にしたというストーリーの陰で、やはりお市の方を慕いぬいておちぶれていった按摩の弥市の存在が平行して描かれているのが面白いお話です。 按摩でもあり、音楽でお市をなぐさめる役目もはたしている弥市が、焼け落ちる城からお茶々を連れ出しながら、その手の感触が長年ひそかに恋い慕っていたお市に似ていることに気づき、自害したお市のかわりにこれからは自分をずっとそばに置いて欲しいと頼む最も谷崎らしさを感じる切迫した場面で、弥市の勘三郎はあまり異常な暗い面を強調しないで演じていたように思います。 弥市が激しい恋心を秘めながらお市の方の身体に触れている危うさが、谷崎らしいところだなと思いました。 お市の玉三郎は何人もの男性から求められるというのが充分納得できる楚々とした美しさ。琴を弾きながら唄うところも風情がありました。藤吉郎を責めるところには、激しい感情が表れていて新しい役柄の開拓が期待されます。金に赤の錦に白地に桔梗?が継いである打掛も素敵でした。柴田勝家の橋之助は、颯爽としていてかっこよく、今まで持っていた勝家のイメージが覆りました。 天主閣の場で侍女・真弓の笑三郎がやはりお琴を弾きながら唄ったのが印象に残りましたが、台詞が一言もなかったのは残念です。休演した段治郎に替わって浅井長政の亡霊を演じた薪車は、シャープな顔の輪郭も口跡も役に似合っていました。 鶴松が演じた少女時代のお茶々が、藤吉郎になついているのを母からとがめられて悲しげに母の側へ戻る様子が、後に藤吉郎の側室になるという布石になっているようで興味深かったです。 最後の琵琶湖のほとりの場面で、物乞いにおちぶれた弥市が昔を懐かしんで三味線を弾きながら唄う時、バックにお市の方の幻があらわれて、二人で連れ弾きするところが、とても幻想的で美しく印象的でした。お市が現れるところの大道具が実に上手く出来ていて、湖が広がっているように見える空間に幻のようにお市の方が浮かびあがるわけです。 この芝居で藤吉郎と弥市の二役を演じるのは先代勘三郎のアイデアだったそうですが、先代勘三郎の時は、花道七三のすっぽんを使って、勘三郎の声色が得意だった若き日の山川静夫氏と入れ替わり、揚幕まで山川氏の声を聞かせながら引っ込んだので、それと同時に上手から勘三郎が弥市として現れたときは、皆大変驚いたと言う話です。 今回は舞台下手で駕籠にのった藤吉郎が窓から顔を出した後、セリを使って奈落に降り、しばらくして上手から弥市に替わって出てくるという演出でした。序幕で弥市がひっこんで藤吉郎として庭の草陰から現れる時には、自分自身の声を吹き込んだテープを使っていたようです。 9日に見た時は、落城のどさくさで弥市を置き去りにするお茶々は花道を駆け込んでいき、弥市もそのあとを追っていきましたが、15日にはお茶々は上手に入り、弥市はその場に佇んだまま幕が下りました。 前のやり方だと目の見えないはずの弥市が花道を一人で入ると言う不自然さが目立ちます。15日のやり方ですと上手には燃えている天主閣があり、母を探してお茶々がそちらへ戻ろうとするのは自然に思われ、そのためにこうしたのかしらと面白く思いました。 昼の部の最初は「弁慶上使」。橋之助の弁慶、福助のおわさ、新吾のしのぶ、弥十郎の侍従太郎。福助のおわさが芝翫のおわさにとても似ていましたが、娘が殺されたことを一瞬忘れて弁慶に会えたことを喜んでしまうところも嫌味がなく納得できました。 しのぶを演じた新吾は、ちょうど成長期のためか、ゴツゴツした顔がちょっと気になりましたが、見ているうちにだんだん若い娘らしく思えるようになりました。 橋之助の弁慶は、顔姿は素晴らしく立派でまさに錦絵のようでした。ただ出が颯爽としすぎていて、お主・卿の君の首を持って帰らなくてはいけないという重さが、私には伝わってきませんでした。幕外の引っ込みは渾身の力が込められ力強いものでしたが、七三で二つの首を両手で高く掲げて舞台に残された二人に見せるところでは、包みの小ささのせいか首に見えませんでした。 次に勘太郎、七之助兄弟の舞踊「猩々」と「三社祭」。酒売りは弥十郎。六年前、最初にこの二人の「三社祭」を見た時は、若者らしいきびきびした体操選手のような跳躍や動きに大変新鮮さを感じましたが、今回は落ち着きと余裕が出てきて、楽しい踊りでした。「猩々」は上の方から見ると、この踊り独特の足の動きの面白さが一層よく判りました。昼の部の最後が「盲目物語」でした。 |
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この日の大向こう | ||||||||||||
9日は平日の昼の部としては掛け声が多く、会の方も5人見えていたそうです。 盲目物語は新歌舞伎ですので、出と引っ込み以外の掛け所が難しいかと思いましたが、大詰で弥市が唄にかかる前などには、いっせいに声がかかり、この芝居を熟知した方が大勢いらっしゃるんだなぁと感心しました。 15日には踊りと盲目物語だけ幕見しましたが、声を掛ける方はほとんどいらっしゃらなくてがっかり。「三社祭」の柝の頭で「中村屋」と一声だけ掛けました。「盲目物語」の大詰になると「なっかむらや〜」という大きな声が掛かっていました。 |