「俊寛」 珍しい型 2002.9.24

昨年7月の事になりますが、私が大阪の松竹座で見た「俊寛」の珍しい型の事をお話しようと思います。

「俊寛」のあらすじ
平家全盛の時代、鹿ケ谷での平清盛打倒の密談が発覚して俊寛は丹波少将成経、平判官康頼と共に無人の鬼界ヶ島に流される。流されて三年目、俊寛の庵で丹波少将成経と海女千鳥の婚礼を皆でささやかに祝っているところへ、都からご赦免の船が着く。初めのうちは俊寛には赦免状が無く嘆き悲しむが、平重盛らの慈悲で俊寛にも乗船が許される。

しかし千鳥はいくら頼んでも許されない。そのうち妻の東屋(あづまや)が既に殺されている事を聞かされた俊寛は、上使の一人で千鳥の乗船をはばむ瀬尾太郎兼家を争いの果てに殺し、自分は島に残る決意を固める。千鳥は乗船を認められ、俊寛を一人残して船は出ていく。

いったんは一人この島に残る決心をした俊寛だったがやはり思いきれず、突然気が狂ったように船を追って海へと入っていく。だが波に追い返され大きな岩によじ登り、もはや声も届かないほど遠くなった船を呆然と見送るのだった。

遠ざかる船を見送る俊寛が「思い切っても凡夫心」で(その時点で波打ち際と言う想定の)花道に走り出てくる所で、普通だと揚幕から七三あたりまで出てきた浪布(なみぬの)が俊寛を本舞台へと追い返します。がこの日はちょっと違いました。

たまたま花道のすぐ脇の席だったので「どのへんで浪布がでてくるかな?」と注意して見ていたのですが、出てきたなと思ったらいつもの七三で止まらずに花道付け際まで行ってしまったんです!「あらら?」と思っていたら、仁左衛門の俊寛が花道に走り出てきて、すっぽんに胸の辺りまでズボッと入ってまさにおぼれそうな様子です。「もう目が点!!」になっているうちに本舞台にかけ戻り、岩によじ登って最後の場面になりました。

この型を見てまず思ったのは「本当はこうだったのかもしれない!」と言う事でした。自ら望んで島に残ったものの、現実は食べる物もろくに無く、希望と言うものが全く無い孤独が俊寛を我を忘れた無謀な行動に駆り立てたに違いありません。歩くのもやっとで斬り合いをした後ですから余力など全く残っていなかったでしょうが、死に物狂いでおぼれそうになるくらい深いところまで船を追いかけてしまったというのはごく自然なことに見えました。

勘九郎さんが前に硫黄島で「俊寛」を野外上演した時、「衣装がダメになるから絶対海には入らないで!と言われていたのでそのつもりだったけど、思わずどんどん入っていってしまった」と話していましたが、普通の人間の取る当たり前の行動のように思えます。

この型の事は翌月の「演劇界」の劇評を読んでも出ていませんでした。私が見たあれは一体何だったの?となんだか狐につままれたようでした。
ですがこの話には後日談があるのです。つい先日、仁左衛門さんご自身からこのことについて伺うことができたのです。

それによるとあの型は最初の頃はやっていなかったそうです。(それで劇評にとりあげられなかったわけです)あの型は猿翁さんがなさって延若さんもなさったとの事、御本人も初めてとおっしゃったと思います。(仁左衛門さんは気さくに私の質問に答えてくださったのですが、何しろあがってしまってよく覚えていないのです。)

結局私はめったに見られないものを見ることができたと言うわけです。私が見たのは中日過ぎでしたから、もうちょっと前なら普通の型で演じられ、こんな型があることも知らないでしまったでしょう。

ですが良く考えて見ると「俊寛」は洗練されつくされたお芝居です。
浪布の動き、今まで砂浜だったところが見る間に海になり、大岩が前に回ってきて俊寛が孤島に取り残される最後の場面、その前の部分と何もかもが丁度良いバランスで釣り合いが取れているのです。そこへ初めて見たという事もありますが「おぼれそうな俊寛」というのは正直いって「ビックリ!オドロキ!ショック!」という感想が残ります。そこだけ突出してしまうのです。そういう意味から言ったら、これはやはり「ケレン」に属する型なのかなと思いました。

とはいってもこの頃は型が統一されてきているようですので、時には変わった型を見るのも楽しいものです。特に名優がやってみたいと心を動かされるような型ならば、ぜひ見たいものだと思います。

この日の大向う
一年も前のことなのでさだかではありませんが、大阪はさすが文楽発祥の地、お芝居にも通の方が多いようで気になる様な声が掛かる事はほとんどなかったと記憶しています。演じる方も見るほうも安心してお芝居に没頭できたと思います。

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