游津藤梅記4「李明槐 月輪に杯をかたむる。」
巍国万世拾遺譚 目次へ

 その日は満月だった。
 珍しく雲も無い夜で、日が暮れてから既に一刻も経とうというのにまだ賑わっている歓楽街を行き交う者たちの月影の一つ一つが、路面にくっきりと映し出されている。
 その中に李明槐の姿があった。
 望んで出た呑み会ではない。付き合いとか上司の体面を保つための義理というのは、いつの時代だってあるのだ。……例えそれが犬猿の仲の相手であったとしても。
だから適当に口実をでっち上げてさっさと引き上げてきたのだし、そんな彼を引き止める同僚は誰一人としていなかった。
――どうせ呑むのなら気持ちよく呑みたい、というのは誰だって同じなのだから。
 左手には瓶首がひとつ、提げられている。帰り際にひとつだけもらってきた。参加費は事前に徴収されていたので、これくらい持って帰る権利はあるはずだ。
 交易の町游津には、酒場や花街といった、海の旅人たちをもてなす施設が数多く存在する。下手をすると、昼間より宵の方が活気があるのかもしれない。
この時刻に道を行き交う人々も、屈強な海の男や彼らを相手に大きな商いをする者、そしてそんな男たちにしなだれかかる美女が大半で、十五とはいえ小柄な少年の姿はちょっとばかり不釣合いに映る。
けれども生粋の游津っ子でこんな光景など見慣れている明槐はそんなこと意にも介さず、人の波の間を抜けていった。
 瓶首を片手にした明槐が向かったのは、自宅ではなかった。小さな農門を守る今日の門番と二言三言交わし、城市を出る。
顔見知りの相手でなかったら、この時勢だ、頑として止められていたのだろうけれども。


 「おいおい、まだ居たのか?」
扉を明ける音とそんな声が同時に飛び込んできた。反射的に面を上げる舞陽。
「…そういうお前こそ。こんな時間に何の用だ? 城門はとっくに閉められただろうに。」
「何って。忘れ物を取りに来たんだよ。」
そう言って明槐は、駐留村事務所に自分用にあてがわれた机に向かった。机の上を少しひっくり返し、何かを見つけるとすばやく懐に滑りこませた。
ちりん、というかすかな音が聞こえたようだが、気のせいだろう。
「貴方こそ。まさかこんな時間まで仕事をしている人がいるなんて、思わなかった。」
「仕方あるまい。後が詰まっているのだから。」
返答する間にも、舞陽の筆は紙の上を滑っていく。なかなかの達筆である。使っている筆は先日玉翠堂で買い求めた品だ。
「明日は休暇を取ってあるのでな。ある程度は進めておかないと安心して休めんのだ。」
「あれ、そうなんだ。」
「なんだ、知らなかったのか? それでも我々の財布を預かる担当官吏か。」
「財布担当じゃないよ、ただの雑用係だってば。」
そんなやり取りをしている間に、舞陽の用事も片付いたらしい。筆記具を片付け始めた。
 「すっかり遅くなってしまったな。」
明かりを消し、事務所を後にする。ふと見上げた夜空には、美しい満月がかなりの高さにまで昇っていた。
「何も、待っていなくてもよかったのに。」
一緒に事務所から出てきた明槐に、顔も向けずに言う。苦笑した気配だけが伝わってきた。
「あの場で「帰る」なんて言ったら、これ幸いにと仕事のひとつふたつ押しつけていただろ。」
「…ほほう、ではお望み通り徹夜仕事してもらっても私は一向に構わんぞ。」
「げ…。」
藪を突ついてなんとやら。
「冗談だ。それより、誰かと会う約束があったのではないのか?」
「? どうして?」
舞陽が示したのは、明槐が提げていた瓶首だった。ああ、と言って少年が手荷物を胸の高さまで持ち上げると、中身がちゃぷんと音をたてた。
「戦利品、みたいなものかな?」
「戦利品?」
いつもの軽口だろう。
「そうだ。どうせ小嘉たちももう寝ているだろうし。月見酒、というのも悪くないんじゃない?」
そう言って、明槐は空を仰いだ。雲ひとつ無い漆黒の夜空に、見事な満月が煌煌と白金の光を放っている。気高さ、神々しさすら感じる輝きであった。
「ここで、私と、か?」
「せっかくの名月だし。このまま家に帰って一人で呑んでもつまらないし。…今から誰か起こしてくる?」
確かに明日は休暇を取ってあるから、多少酒が入っても構わないだろう。しかし。
「仕方無い、少しだけだぞ? …だが、月見をするには少々風情がな。第一、杯が無い。」
ここは軍の駐留村だ。確かに、頭上には素晴らしい夜空が広がっているし、穏やかな波の音も聞こえてくる。
しかし地上に目を落とせば、周りには兵たちが寝泊りしている小屋が建ち並び、数人の夜番たちが時折交替で見回りにやって来たりもする。
その見張りに、こんなところで酒盛りをしている上官の姿を見せるわけにはいかない。とても「情緒を楽しむ」といった環境ではなさそうだ。
言われて明槐は少しばかり考えこむような仕草をしたが、やがて再び事務所の中に入ると何かを持って戻ってきた。湯呑が二つ。
「杯じゃないけど。無いよりはましだろ?」
「…情緒のかけらも無いな。」
「そんなもの、気分次第でどうとでもなるさ。」
「環境のほうはどうするつもりだ? 言っておくが、これからどこかへ出かける気は無いからな。」
「相変わらず注文が厳しいなぁ。」
ぼやきつつ、明槐は首をめぐらせた。海岸まで出れば「情緒」は望めるだろうが、海賊対策に駐留している軍だから、見張りの数はここよりもずっと多かったりする。
しばらく考えこんだ後明槐は、今度は事務所の裏手へと向かった。何やらがたがた音がする。
「今度はなんだ。」
音を聞きつけて夜番の者がやってくるかもしれない。「もっとも、それくらい敏感であってもらわねば困るがな」と矛盾した感想を抱きつつ、舞陽もまた音がするほうへと向かった。
 明槐の姿は無かった。事務所の裏手はいわゆる道具置き場になっていて、駐留村を建設した際に使った工具や、土木作業用の器具などが保管されている。
ごちゃごちゃと無造作に積み上げられている道具類の陰にでも隠れているのだろうか、と覗き込んでいると。
「おーい、こっちこっち。」
不意に頭上で声がした。首を上に向けると。
「……そんなところで何をしている。」
呆れた声音で問うと、事務所の屋根の上から首だけ覗かせている明槐は、にかっと笑った。
「何って。月見におあつらえ向きの場所を見つけたんだよ。」
「どこだ?」
「いいから、上ってこいよ。」
そう言って示したのは、事務所の壁に立てかけられたはしごだった。先ほどのがたがたいう音はこれを動かしたときのものらしい。
嘆息しつつも、舞陽は言われるままはしごに足を掛けた。平素から戦襖(せんおう/鎧の下に着込む服)に身を包んでいる舞陽とは違い、明槐は略式とはいえ官服のままだったはずだが…。
 はしごを上りきると、はたして明槐は屋根の真中で、こちらに背を向けてあぐらをかいていた。首だけをこちらに巡らせる。
「やぁ、来たね。」
「……まさか、ここで呑めと言うんじゃないだろうな?」
「悪くないだろ?」
しれっと言う。そして、そのまま視線を上に移した。
「ちょっとだけ、月に近くなったような気、しない?」
「月のほうから見れば、ここだって下と大差あるまい。」
「…面白い事言うな。」
なんだかんだ言いつつも隣に座った舞陽に、湯呑を押しつける。受け取らせると、明槐は瓶首の栓を抜いてなみなみと酒を注いだ。
芳醇な香りが二人を包む。思ったより上等な酒のようである。


 それからしばらくの間、二人は無言のまま同じように月を見上げながら湯呑を傾けていた。
日が暮れると風は海風から陸風に変わるのだが、事務所は游津のぐるりを囲む城壁のすぐ際に建っているので、屋根の上であってもほとんど風を感じない。
寄せては返す波の音だけが、遠く、だがはっきりと二人の耳に届いていた。
 「……不思議なものだな。」
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。先に沈黙を破ったのは舞陽のほうだった。
「ここで見る月も、馮州で見た月も、同じものだというのだから……。」
「……馮州に帰りたい?」
湯呑を傾けつつ明槐が静かに尋ねる。問い返したことそのものに深い意味は無かったのだが、舞陽は、ふ、と小さな笑みを浮かべた。
「…帰りたい。」
てっきり「任務を放り出して帰れるものか」とかいった答えが返ってくるものだとばかり思っていた明槐は、驚いて目線を隣に向けた。
舞陽のほうは気づいていないらしく、変わらず月を見上げている。
「帰れるものなら帰りたい。生まれ育った郷だもの……。」
国に仕え、皇帝に忠誠を誓う自分ではあるが、望郷の念が全く無いわけではない。
がむしゃらに前を向いて突き進んで行けば行くほど、ふと立ち止まったときに襲ってくる寂しさには表しようの無いものがある。
そんなとき、無性に馮州の大草原を渡る風が懐かしくなるのだ、と舞陽は言った。
「…故郷の良さは、故郷を離れて初めて解るものだというが。全くそのとおりだな。実家に居た頃は、特に何の変哲も無いところだと思っていたのに。」
「…俺は、生まれてからずっと游津を離れたことがないから、そういうことはよく解らないんだけど。」
試験を受けるために二度ほど州都へ出向いたことがあるくらいだ。
いずれも往復込みで半月程度の旅だったから、緊張と物珍しさのほうが先に立って、望郷の念を覚えるほどでもなかった。
「…そういうものなのかもしれないな。知り合いの船乗り連中も、そんなようなこと言っていたし。」
「お前も、いつか游津を離れるときが来たら、身をもって思い知ることになるさ。」
「俺が? 游津から出るって?」
くくく、と笑いがこぼれる。手酌で湯呑に酒を注いだ。
「来るのかねぇ、そんな日が。」
「わからんぞ? いつどんなきっかけで出世するかなど、誰にも判らんものだ。」
「出世したくて官吏になったわけじゃ、ないんだけどな。」
ぐび、という音がかすかに聞こえた。満足げな嘆息とともに、口の端からこぼれたしずくを手の甲でぐいと拭う。
「欲が無いな。」
「それはお互い様だろ。」
瓶首はだいぶ軽くなっていたが、それでもまだ三分の一くらいは残っているだろう。
「それに。仮に出世したとしても、游津から出るかどうかは、また別の話じゃないか。」
「ここに骨を埋めると?」
「他に行く宛ても無いし。それに俺、游津が嫌いってわけでもないんだ。」
湯呑を傍らに置くと、明槐は鼻歌でも始めそうな表情で仰向けに寝転がった。所詮は屋根の上なので寝心地は悪いはずだが、月を眺めるのであればこの姿勢のほうがずっと楽だ。
「今のところはどこにも行く気は無いけれど。もしかしたら将来、余所の町で仕官することになるかもしれないし、ならないかもしれない。
でも、それはそのときになってから決めればいいことだろう?」
「……そういうのを『行き当たりばったり』と言わんか?」
「そうとも言うな。」
ははは、と笑う。いつにもまして饒舌なのは、そろそろ酔い始めたからなのかもしれない。
 ふと舞陽は、先日游津の政庁や玉翠堂の跡取から聞いた話を思い出した。
最近は互いのことがようやく解ってきたので、明槐とも無駄な軋轢(あつれき)が無くなってきた。
…「見た目よりもずっと使える」この少年官吏が、自分が周囲からどう思われているかくらい、気づいていないわけがなかろうに。
それでもなお、この町は嫌いでないと言う。
(…それが「故郷」なのかもしれない。)
そしてふと、我が身に置き換えてみる。……もし、両親が健在であったなら。自分は今ごろどんな生活を送っていただろう……。
…いや、考えても詮無いことだ。自分は今、ここでこうして明槐と酒を酌み交わしているのだから。
 「しかし。出世が目当てでないとすれば、一体何故官吏になろうと?」
官吏の登用試験は、決して易しいものではない。十数年も勉学を重ねた大人でさえ何度と落ちるのは珍しく無いという。
特に理由も目的も無しに試験勉強をするような男には、舞陽には思えなかったのだ。
 奇妙な沈黙が訪れた。
 「……いや、言いたくないのであれば、無理には訊かん……。」
「…約束、だったから。」
ぽつり、と呟いた言葉が舞陽の耳に届いた。
「約束?」
「…俺の家ってさ、親父も兄貴も、死んだ祖父ちゃんも、みんな官吏だったから。だから俺も官吏になるんだなぁって、漠然と思い込んでいた…。」
腕枕をしたまま、明槐は月を見つめている。だがその目は、もっとずっと遠いところを見ているかのようだった。
「思い込んでたんだけど。それは頭でのことで。心ではちっとも納得していなかった。」
虚空に右手を伸ばす。届きそうで届かない、白金の光を宿した月。
「でも。ある人が言ってくれたんだ。『あなたの人生は他の誰でもない、あなた自身の、そしてあなただけのものなのだから』ってね……。」
その頃は、その言葉の意味が半分くらいしか解らなかったけれど。それでも、明槐を「呪縛」から解き放ってくれるだけの力は充分にあった。
「……あの墓の主か…?」
口にしてしまってから、舞陽はしまったと思った。誰しも、触れてほしくない傷というものがある。舞陽自身とて同じだ。
しかししばしの間の後、彼女の隣でうなずく気配がした。
「その人が望んでくれたから、なのかな。試験を受ける気になったのは。
……結局、試験に通って官吏になれたよって報告をすることは、できなかったけど……。」
ありがとうという言葉も、想いを伝えることも。明槐が晴れて官吏になれたとき、その人は既に土の下だったのだから。
 そこで明槐は、ふ、と小さく笑った。自嘲の笑みだった。
「…死んだ人の話なんかしてもつまらないよな。もうやめよう。
せっかくの月見を台無しにして、ごめんな。」
そうだな、とも、いやそんなことはない、とも、舞陽は言えなかった。自分と明槐の意外な共通点に驚いたから、というのもある。
我知らずと胸のあたりに手を添える。そこには、故郷での初陣の前に今は亡き従兄弟からもらった、大切な贈り物が忍ばせてあった。
元は対になっていた、その片方はとおの昔になくしてしまったけれど。でも捨てることなどできない、大切な大切な「思い出」が詰まったもの。
 ――目の前にいるこの男もまた、誰かの想いを背負って生きている。
 「……良い月だな。」
沈黙に耐えられなくなったのは舞陽のほうだった。
酒の封を切る前よりも、月輪の場所は幾分変わっている。だがその神々しさはさらに増しているように感じられた。
「ああ。」
「せっかくだ。余興として一曲所望する。」
「…え?」
返ってきた返答は、かなり間抜けなものだった。
「月見酒に誘っておきながら、肴も用意していないのだからな。幹事ならば余興のひとつくらいせい。」
自覚は無かったが、よほど意地の悪い笑みでも浮かべていたのだろうか。首だけこちらに巡らせた明槐は、拒否することを諦めた苦笑を浮かべていた。
小さく掛け声をかけて身を起こし座りなおすと、懐からあの、藤色の飾り紐が付いた鉄笛を取り出す。
そっと吹き口に唇を添え、一度月に目をやってから、まぶたを閉じた。
 心に沁みる旋律、というのはこういうのを指すのだろうか。
朗々と、けれど優しい音色が、月光の下夜の中に静かに響いていく。こまやかな息遣いと流れるような運指はそのまま音の螺旋となって、月へと昇っていくようであった。
…時が止まったかのように。舞陽は旋律の中に身を任せていた。
 たまには、こんな夜も、悪くない。


 「そこで何をしている!?」
不意に誰何の声が上がり、舞陽は我に返った。同時に笛の音も止まる。どうやら見張りの兵の耳にもこの曲が届いてしまったらしい。
思わず顔を見合わせる二人。
(まずい……。)
満月の晩に屋根の上でこんな酔狂な真似をしていた、なんてことを部下たちに知られては示しがつかない。
そんな内心の動揺が思わず顔に出てしまったのか。同じく「どうしよう?」と言っていた明槐の表情が、ふ、と変わった。「イタズラ少年」から「官吏」の顔に変わる瞬間だった。
目配せだけで「隠れていろ」と告げると、明槐は鉄笛を手にしたまま立ち上がり、一人見張りの前に姿を現した。
 「明槐さん? そんなところで何を?」
「何って。今日は満月だよ?」
驚いて明かりを向ける見張りににっこり笑うと、明槐は恐れた様子無く堂々と月を指差した。
「せっかくだから、少しでも近いところで見たいって、思わない?」
「……はぁ?」
屋根の上に仁王立ちになった明槐に迷いは一切無い、ように見える。下手をすると、怪訝に思ったり気を揉んだりするほうがよほどおかしいのではないか、と錯覚してしまいかねないほどに。
と次の瞬間、明槐は舞陽が思ってもみなかった言葉を口走っていた。
「そうだ。良かったらあなたも上がってこない?」
(何!?)
見張りを屋根に上げてしまったら、ここに舞陽が居ることを知られてしまうではないか!
色を無くす舞陽を、しかし明槐は視界に入れる事すらせずに、穏やかな笑みを浮かべたまま静かに足元の兵を見下ろしている。
「…いえ、今は仕事中ですから…。」
よほど驚いたのか、あるいは呆れ果てたのか――酒が入っていることは一目瞭然なので、おそらく後者だろう――。
「月見も結構ですけど。屋根から落ちたりしないで下さいよ? 将軍に叱られるのはオレなんだから。」
しばしの間の後そう答えると、見張りは踵を返してそのまま立ち去ってしまった。酔っ払いの相手などしていられない、というのが本音だったのかもしれない。
 「行っちゃったよ…。」
明槐が小声で背後にささやくと、舞陽は小さく安堵の溜息をもらし、次いで憮然とした表情で少年を見上げた。
「どうして私がこそこそと逃げ隠れせねばならんのだ…。」
誇りある白家の家長として、やましい行いなどしたくないというのに。
「それに、あんなことを言って。もし本当に上がってきたらどうするつもりだった?」
「上がってこなかったよ。」
悪びれもせずにしれっと言う。
「こんな時間にこんなところで笛吹いているような酔狂者に誘われて応じる奴なんか、まずいやしないって。」
計算ずくの行動だった、ということか。いや、単に上手く事が運んだだけのことだろう。
軽い頭痛を覚え、舞陽はうつむいて小さく嘆息した。ふわり、と微風が舞陽の象牙色の髪を数本、たゆたわせる。
顔にかかった髪を払いのけようとして、ふと、明槐がじっとこちらに呆然とした視線を向けているのに気付いた。
「…なんだ?」
「ああいや、なんでもない。」
ほりほりと頭を掻き、明槐は元居た場所にすとんと腰を下ろす。そして湯呑の底に残っていた酒を一息で飲み干した。
 「別に、隠れなくてもよかったんじゃないの?」
「馬鹿を言うな。」
…せっかく良い気持ちで呑んでいたのに、すっかり興が醒めてしまった。
尤も、明槐に曲をせがんだのは自分なので強く言うわけにもいかず。舞陽はもうひとつ溜息をついた。
「お前だけならともかく。私までこの場に居たとなっては、沽券(こけん)に関わる。」
「…俺だけならともかくって、どういう意味だよ。」
「そのままの意味だ。」
妙に気分がふわふわしている。興が醒めた途端に酔いを自覚してしまったらしい。ほてりを感じて舞陽は襟(えり)元を少しゆるめた。
「お前は特異な性分だからな。何をしたところで誰に怪しまれることも無かろうて。」
「…なんか引っかかるな、その言い方。」
「? 自覚があったのだから、今も堂々と顔を見せたのだろうに。」
手酌で湯呑に酒を注ぐ。瓶首にはもう半杯分も残っていないだろう。
「だいたい。お前は普段からへらへらしすぎだ。そんなだから、年下である小嘉にまで馬鹿にされるのだぞ。
もう少しびしっとしろ、びしっと。それでも男か。」
「…………。」
「向けられる悪意に反発も反論もせず。唯々諾々と受け入れるばかり。柳に風と言えば聞こえは良いが。要するに抗うことを諦めているだけではないか。全く情け無い。
そんな腑の抜けたことで、この先生きていけるとでも、思っているのか?」
…どこにこれだけのものが眠っていたのか。しかし口をついて溢れ出す言葉に偽りは無い。
むしろ、今まで明槐に対して漠然と抱いていた苛立ち――彼自身の不器用さに対する――が次第に明確な形を成していく。
己の言葉を聞くことによって自分が彼に対してどんな感想を抱いていたのか、舞陽は改めて知った。
「お前、御尊父殿と上手くいっていないそうではないか。何があったのかは知らんが、いつまでも逃げていられるわけでもあるまい。いずれは立ち向かわねばならないときが来る。
いや、それよりも。御尊父殿や賢兄殿に対して申し訳無いとは思わんのか?」
明槐は黙っている。それがさらに彼女に火をつける結果になった。
「親子や兄弟で不仲など、不孝にもほどがある。だいたいお前はいつもそうだ。人の世話ばかり焼いて、己のことも気持ちも明かそうとしない。
それでは互いに歩み寄ることなどできんではないか。口にせねば伝わらないものなど、世の中にはごまんとあるのだぞ。」
自分だけは何でも知っているような顔をして。そのくせ自分のことは何も言わない。
それがいかに腹立たしいことなのか、この男ははたして解っているのだろうか? 呈安や門番の男がどれほど心配していたか、知っているのだろうか?
「人のことばかり知りたがって自分のことは黙っているなど。端からはどんなに気味の悪いことか……、」
「…言いたいことは、それだけ?」
ぽつりと出てきた明槐の言葉は、恐ろしく静かだった。思わず舞陽の口が止まる。気まずい沈黙が訪れたが、勢いがついていたこともあって、無理矢理振り払った。
「……ほら、またしてもそれだ。反論のひとつもしてみろ! 私になど言い負かされて、悔しくないのか!」
「…黙れ。よけいなお世話だ。」
語気こそ荒げはしなかったが。低く静かな声には、普段の明槐からは到底連想できないような冥いものがこもっていた。
「……ほう、やればできるではないか。」
「……けんか、売ってるのか?」
「売られていると感じたのなら、それはお前自身に負い目があるからだろう。」
わずかに抜けてきた夜風が、二人の間をゆるゆると通り過ぎていった。
「結局。甘えているんだ、お前は。」
「…うるさい。」
「黙って、一人で抱えこんでいさえすれば、それで万事丸く事が収まるとでも、思っているんだろう。」
「…うるさい。」
「悲劇の主人公にでもなったつもりか。そういうのを自惚れと……。」
「うるさいっ、黙れっ! 何が解るって言うんだ、余所者の君に!!」
がばと立ち上がり、明槐は正面から舞陽を睨み据えた。相貌にはたぎる感情が、どこから飛び出そうかと出口を求めて暴れているのがうかがえる。
二人の間に置かれていたほぼ空の瓶首を掴み取り、高く振り上げ…投げつけようとして瞬間戸惑い、そのまま足元に叩きつけた。
ぱぁん、と小気味良い音が夜闇に響き、陶製の瓶首は屋根の上で粉々に砕けた。
「俺だって! 今の自分が嫌いで嫌いで仕方無い! でも! 嫌いだからどうだなる?
嫌いだって口にすれば、事は改善されるのか!? 親父は、俺の事を見てくれるのかっ!? 母さんは、俺を庇ってくれるのか!?
違うだろう!? 結局、自分の身は自分で守るしかないんだ!! 自分で……。」
そこまで一息にまくしたて、舞陽が驚きに固まっていることに気付くと、明槐は肩で息をしながら自ら目線をそらした。…その横顔には既に、後悔の色が浮かんでいた。
「……家族仲の良い君にこんなこと言っても、始まらないよな…。小嘉も、小耀も、小玉も。皆良い子達ばかりだもの。
…きっと、羨ましかったんだ、俺は……。羨ましくて、妬んでいたんだな…やっと判ったよ……。」
「明槐……。」
悪かったね、と呟くと明槐は立ちあがった勢いでひっくり返してしまった湯呑をのろのろと拾い上げ、袖の下に入れた。
その間面はずっと伏せたままだったが、先ほどの怒気はいつのまにか消失して一片も残っておらず、ちらりと見えた表情は……。
(何か言わなくては。)
そう思えば思うほど、何故か適切な言葉がみつからない。躊躇している間に明槐は「それは明日片付けるから」と言い置いて背を向けた。
「…私には、もう両親はいない…。」
するりとこぼれたのは、舞陽自身思ってもみなかった言葉だった。何を言っているのかと己の言葉に戸惑う。
しかし明槐のほうは少しも驚いた気配を見せなかった。それどころか。
「うん、知ってる。以前小耀から聞いたから…。小玉のお父さんのことも……。」
おしゃべりめ、と三妹の顔を思い浮かべながら舞陽は内心で舌打ちした。
「解っているよ、君たちから見れば、俺の悩みがいかに瑣末で贅沢なのかってことは。…だから言いたくなかったんだ。」
明槐の言葉は、とても静かで――先ほどの激昂がまるで嘘のように――。静かであるが故に、何倍も重く舞陽の耳に響いた。
 重い重い空気が、二人の間を流れ。
 その重さに耐え切れなくなった頃、明槐は「おやすみ」と短く告げると、そのままはしごに足をかけ、屋根から消えた。
 最後まで、明槐は舞陽と目を合わせようとしなかった。
 初秋の月は、神々しい白い光を保ったまま、じっと下界を見下ろしている。穏やかな波の音だけが、遠く遠く聞こえていた。

游津藤梅記5へ。