游津藤桃記2「白舞陽 大海に己が力量を知る。」
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 不覚、としか言いようが無い。舞陽はつくづくそう思った。
 明槐に岩場に連れ出された翌日のことである。
 日が昇って随分経つというのに、舞陽は今だ妹たちと一緒に借り住まいしている小屋の、自分用の寝台の中に居た。
 ……頭が重い。
(この程度のことで風邪を引くとは。情け無いにもほどがある。)
勿論、いつもと同じように仕事に出ようとした舞陽ではあったが。
妹たちにこぞって止められたのと、小屋を出る前に膝が砕けてしまったのでは、おとなしく寝台に引き返すしかなかったのである。
 ……全身がだるい。
 昨日やり掛けたままになっている仕事の続きが気になる。
 いや、それよりも。隣の部屋に居る末の妹に自分の風邪をうつしてしまわないだろうか。
 昨日安石が言っていた「軍船」は、いつこちらに回してもらえるのだろうか。
 海に不慣れな兵たちに、どうやって海戦を仕込めばいいのだろう?
 …なにより。自分がいない間に海賊が攻めてきでもしたら。安石だけではたして応じきれるだろうか……?
 そんな事ばかり考える。が、熱の為に頭がぼうっとして、上手く考えがまとまらない。
(……何をやっているんだ、私は………。)
故郷北威を出て、どれくらい経っただろう。
亡くなった父の後を継いで家長になり、亡くなった母に代わって妹たちを養っていくことになった。
なのに。己のなんと不甲斐無いことか。
 けれど。弱音を吐くことは許されない。自分が揺るいだら、妹たちに、兵たちに、余計な不安を与えることになる。それだけは絶対にしてはならない。
(父上…母上……私は…………。)
目頭が熱くなりかけたときだった。
 外界とつながる扉がある部屋の方で、何やら話し声が聞こえる。片方は耀のようだが…。
(………?)
なんだろう、といぶかしんだのと、部屋の扉が開いたのは同時だった。
 「お見舞いだよ〜ん。」
飛び込んできた元気な声は耀のもの。いつもは頼もしくすら感じるのだが、今日ばかりは頭に響く。
「見舞い……?」
東海に親戚などいないはずだ。赴任してからまだ日が浅いから、知り合いだって限られる。
誰だろう?と首をめぐらせると、そこには舞陽が今最も顔を見たくない相手が居た。
 「…ほらみろ。言わんこっちゃない。」
半ば呆れた眼差しで寝台の病人を見下ろしていたのは、白軍の担当官吏だった。
「だから休めと言ったんだ。」
「……貴方に指図されるいわれはない。」
……さらに頭が重くなった……。
「んー、お茶淹れてくるねー。」
「あ、お構い無く。」
「出さなくていい!」
明槐と舞陽の声が見事に重なる。耀はしばしきょとんと二人の顔を見比べていたが。
「すぐ持ってくるから。」
そう言ってすぐに扉の向こうに消えてしまった。
 そう広くもない小屋の一室に、舞陽と明槐は二人きりになった。
 「…嘲笑いに来たか。昨日の豪語はどうしたと。」
掛布を鼻まで引き上げ、それでも目線だけはきろりと射抜くように明槐を見据える。
しかしそんなことなど意に介さず、明槐は部屋の隅からごとごとと椅子を引っ張ってきて、勝手に舞陽の寝台の隣に腰掛けた。そして懐から何か取り出す。
枕元に置かれたのは、小さな巾着袋だった。
「……俺がいつも煎じて飲んでいるやつ。よく効くんだ、それ。」
舞陽が首を巡らせると、敷布にかかる圧力が微妙に変わり、巾着袋がわずかに傾く。袋の中身がしゃらり、とかすかな音をたてた。
「…要らん世話を…。」
「だって。俺は貴方たちの世話係だぜ? これくらいのことはするよ。」
さも当然、と明槐は答えた。
「北威とここじゃ、随分と気候も違うんだろう?
慣れない土地でずーっと休みも取らずに毎日無茶していたら、体を壊さないほうが不思議だって。」
「見舞いなんぞに来ている暇があったら、さっさと戻って仕事の続きをやったらどうだ。
どうせ私を訪ねてきたのも、怠けの口実を得るためだろう。」
「……あのさぁ。」
両の眉尻を下げて、明槐は嘆息した。
「…………まぁいいや。それだけ減らず口が叩けるのなら、大丈夫だろ。」
減らず口とはなんだ、と言いかけて、舞陽はむせた。
どうにも調子が出ない。やはり、この担当官吏とはとことん相性が悪いようだ。
「とにかく。余計なこと考えずに、養生に専念しなよ。あれこれ考えてていつまでも長引かれちゃ、こっちも迷惑だから。じゃ。」
言葉とは裏腹ににかっと笑うと、明槐は椅子から立ち上がった。そのまま扉に向かうかと思われたが、ふと足を止める。
わざわざ戻ってくると、布団の中の舞陽にだけ聞こえるような声で、一言。
「あの人のことは……俺が見張っておくから。」
それだけ言うと、今度は本当に扉の向こうに消えてしまった。
 (………「あの人」…………??)
一体「あの人」とは誰のことなのか。舞陽には心当たりなど全く無い。仮にあったとしても、頭がぼうっとしている状態では何も考えられない。
…それどころか明槐のおかげで、さらに熱が上がってしまった感すらある。
(まったく…………。)
掛布を頭まで被ると、舞陽はまどろみの中へと帰っていった。


 明槐が扉を閉めると、台所から湯気のたつ湯呑の載った盆を運んできた耀が戻ってきたところだった。
「あれ? もう帰っちゃうの?」
「とっとと帰れって言われた。」
苦笑して返す明槐。
「せっかく淹れたのに。勿体無いから飲んでってよ。」
そう言って、耀は半ば無理矢理明槐に湯呑を押し付けた。
 根負けして湯呑を空にし、耀に返す。今度こそいとましようと、扉に手を伸ばしたときだった。
 明槐の手が取っ手に触れるその半瞬早く、扉のほうが開いた。
 扉の向こうに居たのは、一人の少女だった。初めて見る顔である。年の頃は十二前後といったところか。
「…………?」
目が合ったのは一瞬。しかし明槐が事態を把握するより先に、相手の目つきが変わった。
「……どちらさまですの?」
初対面であるにもかかわらず刺々しい口調で明槐に言葉を向ける。誰何するというよりは、部外者に対する警戒心剥き出しといった感じだった。
「あ、嘉姉おかえり。この人はね、」
「俺? 俺は李明槐。白舞陽殿の相棒だ。」
「相棒?」
明槐の言葉に、少女の柳眉が片方だけ器用に吊り上る。耀が「嘉姉」と呼んだところをみると、彼女も白家の者なのだろう。
なるほど、象牙色の髪といい、面立ちといい、舞陽や耀とも通じるものを持っている。
ただ、舞陽を日の光を映して輝く剣とするならば、この少女は研ぎたての剃刀(かみそり)に近いものを感じさせた。
 じろじろと明槐を、文字通り頭のてっぺんからつま先までつぶさに観察する。太守の身辺警護をする近侍もかくや、な勢いだ。
さすがの明槐もこれにはたじろいで、思わず一歩身を引いてしまった。
「その相棒さんとやらが、仮住まいとはいえ、どうして白家の敷居をまたいでいらっしゃるのかしら?」
「ああ、それはね…。」
「あなたには訊いておりませんわよ、耀さん。」
ぴしゃりと言われては、耀も引っ込まざるをえない。反論どころか口出しそのものを封じられてしまい、耀は不承不承言葉を飲み込んだ。
「どうしてって…。仕事仲間が風邪引いて寝込んだって聞いたんで、見舞いに来ただけだけど?」
「見舞いですって!?」
悲鳴が明槐の耳を直撃した。女性の甲高い声に慣れていない明槐は思わず首をすくめる。
その後ろでは耀が「だめだこりゃ」といった表情で天井を見上げていた。
「な、な、な、な、なんて破廉恥な!! ちょっと耀さん、あなたこの殿方をお姉様の寝室にお通したんですのっ!?」
「だって〜、せっかくお見舞いに来てくれたのに……。」
「そうだよ、小耀は悪くないよ。」
「あなたはお黙りなさい! 私はこちらの方とお話しているのですよっ!」
「入れたのかって訊いたのは、嘉姉じゃないか〜……。」
……話しているというより、一方的に怒鳴られているような気がするんだけど…。そんな感想を明槐は抱いたが、もちろん口に出せるような雰囲気ではない。
嘉姉と呼ばれた少女がずいっと一歩詰め寄ってきたので、つられて明槐もその分退く。それがますます彼女の気に食わなかったようだ。
「貴方も貴方です! 相棒だかなんだか存じませんが。
病に臥せっている婦女子の寝室に殿方が立ち入るなど、言語道断!! し、しかも『お姉様の寝室』に……っ!!
恥を知りなさい、恥をっ!!」
「え、あ、はぁ……ごめんなさい……?」
よく解らないけれど、とりあえず謝っておいたほうがよさそうである。
完全に気圧されてしまい、明槐はそのまま退散することにした。……もとより帰るつもりであったことだし。
 別れを告げて明槐が敷居をまたぐと、嘉姉こと白嘉(はく・か)はさっさと扉を閉めてしまった。
そのまま部屋中の家具を集めてきて扉の前に積み上げそうな勢いだったが、さすがにそこまではしなかった。
「耀さん。」
代わり扉を施錠すると嘉は、空になった湯呑の載った盆をいまだ手にしたまま呆然と姉の様子を見ていた三妹に向き直った。
「今後、あの方が訪ねてみえた場合は必ず妾(わたし)に報告してくださいね。くれぐれも無断で敷居をまたがせないように。」
「……なんで?」
無駄だとは知りつつも疑問を口にしてみる耀に、しかし嘉はきっぱりと予想通りの返答をもたらした。
「どうしても、です。」
(この勢いだと、オレにまで「町で会っても口を利くな」とかそのうち言い出しそうだなぁ…。)
やれやれ、と耀は心中で嘆息したのだった。
 …どうやら明槐は、知らぬ間に『敵』を一人、作ってしまったようである。


 さて。白家から「追い出された」明槐は、予定通りそのまま游津城市へと足を向けていた。
 明槐は游津の官吏である。
担当になったから白軍の駐屯村へは頻繁に足を向けるようになったが、彼の本来の仕事場は役所の中にある。自分専用の机まであてがわれているほどだ。
…さりとて、今の仕事を与えられる以前はおとなしく事務作業に専念していたかと問われれば、首を縦に振るのはいささかためらわれるが。
 游津の城門は三つある。
ひとつは莱とを結ぶ街道の起点である大きくて立派な北門、
ひとつは町の東側にある湊とを結ぶ東門(通称「海門」)、
そして町の南側にある松林に囲まれたわずかばかりの耕作地へと続く南門(通称「農門」)、の三つである。
規模は前者であるほど大きく、順にみすぼらしくなっていき、農門に至ってはちょっとした屋敷の通用門と間違えそうなほど貧弱だ。
だがその農門も、件の海賊騒ぎのおかげでここ数年は警備が厳しくなっていた。
 白軍の駐屯村からは海門へも農門へもほぼ等距離である。明槐の職場は町の中央からやや北寄りにあるので、いつもは海門を使っているのだが。
今日はなんとなく歩きたい気分だったので、わざわざ遠回りして農門を使う事にした。
 游津は半島の付け根にある町だが、地形と、何より海から吹き付ける潮風のために、作物を育てられる土地は限られていた。
それも、松林によって直に海風があたらないように囲まれている地区に、比較的強い作物しか育てることができない。
故に游津の食糧自給力は、現在の人口をやっと賄えるかどうか、といった程度でしかないのだ。
(それでもまぁ、井戸水が塩辛くないだけマシだって、催先生も言ってたっけ…。)
塩分を帯びた水を畑に撒けば、作物ではなく塩のほうが水を吸い上げてしまい、大地を殺してしまう。
そんな話を、読み書きを教えてくれた催老人がしていたのを思い出す。
游津が海上交易の中継地として発展してこれたのも、海を行き来する交易船に飲み水を供給することができたからだ。
そしてその飲み水の代金や船乗りたちへの非物理的な商い――料理や酒といった飲食関係、整体などの医療関係、そして「女」――の料金として食料や外貨を獲得することで、昔は小さな集落でしかなかった游津は、今日のように発展することができたのである。
 今日の風は比較的穏やかで、松林を越えて作物の葉を揺らすだけの力は無い。
雲は多めだが、それでも柔らかい日差しをいっぱいに浴びて、緑の子供たちは力の限りに葉を伸ばしていた。
 「あーあ、さっさと海賊退治してくれれば、俺も安心して釣りに行けるんだけどなぁ。」
昨日以上の釣り日和であるのに、軍隊の世話役など仰せつかってしまっては、仕事の合間に抜け出すこともできない。
(とはいえ。先は長そうだしなぁ……。)
先ほどの舞陽の様子を思い起こし、明槐はそっと嘆息した。
職務熱心なのは彼も大いに感心しているのだが、生真面目を過ぎて取りつくしまが無いというのは、はっきり言って閉口していた。
(俺と仲良くする気あるのかね、あの人。)
そのあたりの見極めも必要だろう。
本当に嫌われているのであれば、必要以上に接触を持とうとするのはかえって相手の神経を逆なでするだけだということは、去年橋を掛ける費用を捻出するよう上司にかけあったときに、嫌というほど思い知ったのだから。
聞いた話によると、明槐を白将軍の担当に推薦したのも、その「元上司」らしい。
この土地に深く根付いている「中央に対する反感情」の一端が、ここにも現れていた。
 (……悪い人では、ないんだけどねぇ……。)
病床にあってもなお、舞陽は明槐に対する警戒を解こうとはしなかった。
赴任してからはや二ヶ月も経とうというのだから、いくらなんでもそろそろまともに相手してほしいものである。
(それとも……游津に来るまでに、何か嫌な思いでもしてきているのかな…?)
眉間に縦じわを寄せながら首をひねったとき、ふと、白家で聞いたある台詞が明槐の脳裏によみがえった。
『病に臥せっている婦女子の寝室に殿方が立ち入るなど、言語道断!! し、しかも「お姉様の寝室」に……っ!!』
(『お姉様』???)
舞陽には妹が三人いると聞いている。うち二人は耀と芝玉だということは、以前舞陽自身の口から聞いた。
先ほどの『嘉姉』が耀の姉であるのならば、嘉が言うところの『お姉様』とはいったい……?
「…………あれ……?」
明槐の脳裏が一瞬真っ白になる。足が止まっているのにも気づいていない。
「え? え?? え???」
その結論に達するのに、それほど時間はかからなかった。
「あ………………。」
……ようやく、白姉妹の白い視線の意味を悟る。しかし。
「……なるほど。そういうことかぁ。」
ごくあっさり納得すると、明槐は再び歩を進め始めた。
 畑の周りをぐるりと散歩してから、明槐は農門へと足を向けた。さすがにこれ以上帰りが遅れると、上司に何を言われるかわかったものではない。
一見飄々としていて、何を言われても馬耳東風と思われがちな明槐だが、やっぱりねちねちと小言を言われるのは嫌なのである。
 今日農門に詰めていた兵は明槐の顔見知りだったので、身体検査も職務質問も受けることなく、すんなり通してくれた。
「中央から来た軍隊の世話役を押しつけられたんだって?」
十歳上の門衛が、すれ違いざまに明槐の頭をわしわしと撫でてきた。
「やめてよ。もう子供じゃないんだから。」
知人の腕から逃れると、明槐はぷっと頬を膨らませた。その仕草が子供っぽいのだということに、本人は気づいていなかったりするのだが。
「はは、悪かった。今は立派な官吏様だものなぁ。」
「そうだよ。これから役所に戻るんだ。じゃあね。」
「泰寧様とはご無沙汰しているけど…お変わり無いかい?」
その言葉に、何故か奇妙な沈黙が訪れる。
「……親父とは、しばらく会ってないから……。」
一呼吸の間の後ぽつりとそう答えると、そのまま明槐は振り返りもせずに門をくぐった。その小脇に抱えられていた仕事道具の中から、紙切れが一枚、風にさらわれる。
門衛が慌ててそれを拾って声を掛けようとしたときには既に、明槐の姿は游津の町中へ消えていた。

          ◆   ◆   ◆

 浜辺では、できる限り波の静かな日を選んで、兵たちに水練(水泳術)の指導が行われていた。
海上で戦う気があるのなら、万が一船から落ちた場合に溺れ死ぬのはつまらないから、と明槐に言われたからである。
なるほどもっともだと思ったので、舞陽はその提案を聞き入れ、安石に水練指導を行うように命じた。
安石一人では手が回らないので、地元からも何人か泳ぎの上手い者を招き指導に当たらせるよう、明槐も手配してくれた。
 だがそれでもさすがに三百人一度に指導することはできないので、いくつかの班に分けて順繰りに指導していくことになり、結局兵たちの泳ぎの腕は遅々として上達しない。
それでも飲み込みの早い一部の者たちは、なんとか波に逆らって泳ぐ術を身につけつつあった。
 しかし。舞陽が現場に復帰してから一ヶ月が過ぎる頃になっても、使用許可が出たはずの軍船は今だ白軍に貸し出される気配は無かった。
幸い、白軍の担当である游津周辺にはまだ海賊が出たとかそれらしい動きがあるとかいった類の報告は無かったが、だからと言っていつまでも手をこまねいているわけにもいかない。
現に、游津の民の間では白軍の存在自体を疑問視する声が出始めていたりする。
 「何故、軍船を貸してもらえない? 使用許可はとうの昔に降りているのではなかったのか!?」
 その日。とうとう舞陽は事務所で明槐を捕まえると、今までこらえにこらえていた不満を口にした。
兵たちの水練もなんとか様になりつつあるというのに、肝心の軍船が無ければ海戦のための繰錬すら行えない。
 「あー……うん……。」
今にも掴みかからんばかりの勢いで詰め寄られて、明槐は珍しく言葉を濁した。ほりほりと頭を掻く。
一つ嘆息すると、備え付けの椅子に腰掛けた。
「俺も変だなぁと思って、軍部の人を何度か突ついてみたんだよ。でも返ってくる返事は『もう少し待て』ばかりでさ…。」
「もう少し、とはいつだ? 賊が攻めてきてからでは遅いんだぞ。」
頭を抱えつつも、明槐は持参した荷の中から一枚の書類を取り出して机の上に広げた。
游津太守が発行した軍船の使用許可書である。もちろん本物だ。その文面の、船名が記された部分を指で示した。
「その、貸してくれるっていう船ってのがさ。……うちとこの海軍で一番古くて、一番使い勝手の悪いものらしいんだ。」
「……なんだと?」
担当官吏の言葉に、舞陽はしばし二の句が繋げなくなってしまった。
海賊の横行に対処しきれないから援軍を送ってほしいと恒陽殿に陳情したのは、他ならぬ游津である。
その游津が、賊退治に派遣された軍に対して非協力的だというのは、一体どういうことだ!?
その問いに対し、明槐はしばし逡巡した後、舞陽にこう問い返した。
「……ねぇ、舞陽殿は東海の歴史についてどれくらい知っている?」
東海と一口に言っても、貴州(きしゅう)、泱州(おうしゅう)、甲州(こうしゅう)…と実際には広範囲を指す言葉である。
赴任する直前にざっと地形や都市の位置関係などは調べてきたが、実際には出立準備などで慌しく、とても歴史まで調べている余裕は無かった。そう素直に白状する。
「……甲州ってさ。変わった名前の都市が多いだろ?」
東海一帯には、巍建国以前の国名が今も地名として残っている場所が多い。
 今でこそ『大巍』と尊称される帝国であるが、やはり最初から広大な領土を所有していたわけではない。
巍の皇帝は今上帝で十五代目にあたるのだが、その十五代という長い歴史の中で、徐々に勢力を広げていった結果なのである。
そしてここ甲州は、巍建国の過程の中でも特に激しい戦が何度も繰り返された地でもあった。
勿論それは今から三百五十年ほども昔の話、当時のことを知る者など既に誰一人としていないのだが。
それでも土地柄とでもいうのか、中央政府に対する『しこり』のようなものは、人々の根底に今でもひっそりと、だがしっかり残っているのである。
 現游津太守は東海の出ではなく他の土地から政府の指示で派遣されてきた者であったから、あまり帝都に対するわだかまりを持っておらず、素直に援軍の要請をしたのだが。
これが裏目に出た。
援軍と称し、莱と函湊にまで軍が派遣されたのだ。
また游津の内部からも、これを機に「中央に尻尾を振る」太守に対する不満が徐々に膨らみつつあった。
だから太守が出した軍船の使用許可も、海軍側が「意図的に無視」している可能性があるのだ、と明槐は言った。
「…それは、すなわち聖上への叛意ということではないのか?」
「なんで?」
「私たちは正規の手続きを経て正式に都から派遣された軍だ。それを疎んじるなど、叛意以外の何だという?」
「そんな大げさなものじゃないよ。
なんて言うのかな、平たく言えば『自尊心を傷つけられた』ってことなんだよ、要するに。
…函湊や莱にしてみれば、『游津め、余計なことしやがって』ってのが本音じゃないかな。」
今度こそ言葉を失い、舞陽は椅子に身を投げ出すようにしてどっかりと腰掛けた。
「なんという……。」
「もしかしたら、甲州の牧もそう思っているかもしれないよ。
…そんなつまらない意地の張り合いしている暇があったら、とっとと海賊退治すりゃいいのにな。」
 『お国』に仕える以上は、いつかは権力争いというものに触れることになるであろうことは、ある程度覚悟していた。
なるだけ関わり合いになりたくなかったが、それでも全くの無関係でいることを貫けるほど、世の中は甘くない、ということも。
游津の人々が自分個人を睨んでいるのではないということは判っていても。
帝国の為に命を捧げると誓った自分にとっては、やはり身を斬られるにも等しい仕打ちには違いない。
何故、と声高に叫ぶこともできたかもしれないが、それには三ヶ月という滞在時間は、彼女が游津の民に親しみを覚えるのに充分な時間であった。
 ――嫌われていると知っていて、それでも気づいていないように、妹たちに余計な心配をかけないよう気丈に振舞わねばならないのは、十六歳の少女にとってはいささか負担が大きい。
「…すまなかったな。」
ぽつりとつぶやいた声が耳に入り、明槐はだらしなく机にもたれた姿勢から首だけを将軍のほうに向けた。ここからは舞陽の表情は見えない。
「?」
「『仕事だから』都から来た私たちの世話をしてくれているのだろう? …事情は解ったから、今後は余計な気を使わなくてもいい。」
『嫌われ者』の官軍の世話をしているだから、明槐もさぞや肩身の狭い思いをしてきたのだろう。
それならそれでもいい。どちらにしろこちらも『仕事』さえ終わればさっさとこの地から引き上げるつもりだったのだから。
必要以上に馴れ合うことも無い。
「……あの、何か勘違い……。」
明槐がいぶかしげな表情を浮かべて口を開いたときだった。
 開いた扉から入ってきたのは、舞陽の直属の部下である厳安石だった。卓上で重ねた両腕にあごを乗せた姿勢の明槐に、無言のまま視線だけを向ける。
特に何か言われたわけではないが、明槐は慌てて姿勢を正した。
「なにか?」
代わりに舞陽が声をかける。その表情には既に先ほどまでの迷いは無く、指揮官としての顔に戻っていた。
「今、游津府から連絡がありました。先ほど湊に入った船が、沖合いで不審な船影を見かけた、とのことです。」
その言葉を聞いた途端、舞陽は音を立てて椅子から立ち上がった。
同時に頭の中がめまぐるしく動き始める。握った拳の内側がしっとりと湿り気をおびていた。
「それは、いつの話だ?」
「ほんの一、二刻ほど前のことのようです。湊に入るとすぐ、荷を降ろす前に通報したようですから。」
「水練指導を直ちに中止し、兵を宿舎に戻せ。非番の班も武装し、次の指示を出すまで待機するよう伝えろ。」
はやる心を押さえ、てきぱきと安石に指示を出すと、舞陽は自身もまた詳しい情報を得るべく事務所を出た。その後を明槐がついてくる。
 「本当に海賊なのかな?」
「わからん。だが、用心しておくに越したことは無いだろう。」
大股で歩を進めながら、舞陽の頭は既に海のほうに向いていた。
安石が言っていた「不審な船影」がまさしく海賊のものであったなら。一体どうやって戦えばいい?
結局船は間に合わず、兵の中でも満足に泳げる者はごくわずかだ。海戦はできないから、敵が上陸してくるのを待って迎え撃つしか方法は無い。
湊町として栄えているくらいなので、游津の東沿岸部は陸地近くまで比較的水深があるのだと、いつぞや明槐が言っていた。
だから海賊たちはぎりぎりまで船のまま集落に近寄ってこれるのだとも。
それはつまり、「どの集落を襲うのかは、近寄ってくるまで見当がつけられない」ということを示していた。
(こちらの手勢は三百。この長い海岸線全てに陣を広げることはできん。
しかも風は海から吹いてくるから、こちらから矢を射掛けても吹き戻されて届かないだろう…。)
やはり相手方の上陸を待って、白兵戦を挑むしかないのだろうか。
先ほどまで海に浸かっていた五十人は、水練のため疲れているだろうから、恐らく使い物にならないだろう。
残り二百五十をどのように配置するか…。
「明槐。」
「…なに?」
「この近辺で最も見晴らしがいいのは、何処だ?」
「見晴らしのいい場所……?」
考え込むこと、しばし。やがて明槐が示したのは、農門の南西にある小高い丘だった。
「あそこなら、游津の町から湊から、まるっと見渡せる。勿論、海も…。」
「…少し距離があるが、いたしかたるまい。そこに斥候を送る。」
自軍に所属する者から、足の速い者と目の良い者の名を数人あげ、その丘に向かわせるよう、舞陽は明槐に指示した。
その言葉を聞き、明槐は少しばかり嫌そうな顔をしたが、先をずんずん歩いていく舞陽はそんなことになど全く気づかない。
「貴方はどうするつもりなんだ? そっちは宿舎とは別方向だぞ?」
「湊へ行って、軍船を貸し出してもらえるよう、游津海軍に直に掛け合ってくる。非常事態だ、文句は言わせん!」
口を挟む間も無い。事態が事態なので、明槐はそれ以上追いかけるのを諦め、足を止めた。舞陽の体を包む外套が、大きく潮風にはためく。
その後ろ姿をしばし複雑な表情で見送ると、明槐もまた指示された内容を実行すべく、踵を返した。


 游津の湊は、三つの区域に大別される。
一つは地元の漁民が漁に出るための漁船等を係留し、水揚げを行う、通称「一の湊」。
一つは各地を行き来する貨物船が一時的に停泊したり、荷の上げ下ろしを行ったりする、通称「二の湊」。
そして游津海軍の駐屯拠点であり、大小さまざまな軍船が係留されている通称「三の湊」だ。
 舞陽が「三の湊」に着く頃には、既に海兵たちが軍船に乗り込み始めていた。船上では出航準備が着々と進められている。
甲板を行き来する兵たちに無駄な動きは一切無く、指揮官の能力の高さがうかがえた。
「責任者はどこだ?」
船と桟橋とをつなぐ渡し板に足を乗せかけた兵の一人を捕まえ、舞陽は早口に問い掛けた。
突然声を掛けられて兵はいささか驚いたようだったが、すぐに眉間にしわを寄せた。
「ここは、女子供の来る場所じゃない。ましてや、今は出撃準備中なんだ。さぁ、帰った帰った。」
「私は、都より派遣された賊討伐軍の指揮官だ。こちらの責任者に話がある。どこにいるのか教えてくれ!」
「…聞き分けの悪い小娘だな。邪魔だからさっさと行けってば。でないと、海に叩き落すぞ。」
…取り付くしまも無い。何より、こちらの事情を知りもせずに「女子供」ときた。
頭に血がのぼりかけたが、今はこの男一人に構っている場合ではないと自らを納得させ、再び足を動かすことにする。
 湊と船とをせわしく行き来する海兵たちの間を縫うようにして抜けると、舞陽は湊の端にあるひときわ立派な建物へと足を向けた。
果たして、そこは彼女の予想通り、海軍の事務所であった。
 入ってすぐの間に居たのは、およそ兵隊らしくない、ほどよく痩せた初老の男だった。身なりからして、海軍担当の官吏なのだろう。
焦れる心を無理やり落ち着かせ、舞陽は彼に自身の身分と来訪目的を告げた。
「と言われましてもねぇ…。」
処理している書類から目をようやく離し、官吏は舞陽を視界に入れた。
「今、将軍はお忙しいのです。ここにおいでになる途中で、湊の様子は御覧になったでしょう?」
先ほどの海兵よりはるかに物腰穏やかで、人もできているようだが、やはり手応えはかんばしくないようだ。
だが、ここで引くわけにもいかない。無理を承知で、再度交渉を試みる。
「先月、游津太守より軍船の使用許可をいただいた。一隻でいい、小さいもので構わない、頼む、船を貸してくれ!!」
「私の一存ではどうにもなりませんよ。歓将軍の許可がないことには…。」
「その歓将軍は、太守の命に従う気は無いのか? 使用許可を出したのは、太守なんだぞ!」
「滅多なことをお言いでない。」
声が大きい、と官吏は眉根を寄せた。
「歓将軍は、代々游津に仕えてきた譜代のお家柄の方です。游津においでの間は、歓家の方を向こうに回されるのは、得策ではありませんよ…。」
「しかし、賊はすぐそこまで来ているかもしれないんだぞ。中央から派遣されて、賊と一戦も交えなかったとあれば…!」
「面目が立ちませんか?」
表面上は穏やかに先んじられ、舞陽は一瞬言葉を失った。
「お言葉を返すようですが。面目が立たないのは游津軍も同じなのですよ。
特に、あなた方『海の素人』に横から余計な手を出されて、むざむざ賊を逃がすようなことにでもなれば、ね。」
「なんだと……!」
「例えばの話、ですよ。」
さらりとあしらうと、官吏は再び手もとの書類に目を戻した。
「現にあなた方は、海賊討伐であるにもかかわらず、騎兵隊を率いてこられたではありませんか。」
 官吏の言うとおり、舞陽が率いてきた兵の中には三十騎の騎兵がいた。だが彼らはお国の兵士ではなく、「馮州の白家」に仕える、いわゆる舞陽の私兵であった。
馮州は草原の郷。男も女も物心ついたときから馬の背で揺られて育つ。武を志すものは皆優秀な騎兵であり、それは至極当然のことであった。
だから彼らの存在に疑問を抱いたことは無かった。…実際に砂浜に出て、その歩き難さを身をもって知るまでは。
 「…白将軍、とおっしゃったか。これは貴方がたのためでもあるのですよ?
海は貴方が思っているほど生易しい場所ではないのです。甘く見て掛かると、本当に命を落とされかねませんよ?」
「もとより、その覚悟はできている。」
「それは、賊と刃を交えて、のことでしょう?
接敵する前に溺れ死んでしまっては、武人の誉れどころの話ではないのではありませんか?」
目を通し終えた書類を机の上で揃えながら、初老の官吏はそんなことを言った。…先ほどよりも語調が幾分柔らかくなったような気がする。
「…海は恐ろしい場所ですよ。確かに私たち游津の民は海無しに生活を成り立たせることはできないが。
それでも、生まれたときから海に親しんで育っても、ほんのわずかな油断のために命を落としてしまった者を、私は大勢知っています……。」
彼が言外に何を言いたいのか、舞陽ははかりかねた。だが少なくとも自分の身を案じてくれていることは判る。
けれど、それでも。
 そのとき、建物の外で銅鑼(どら/青銅製で盆状の楽器)の音が響いた。出航の合図だ。
「…海が恐ろしい場所だということは、解った。
けれど、だからといってひるんでいるわけにはいかない。私たちは、游津を海賊から救うためにやってきたのだから。」
 肝心の歓将軍とやらは、出航した六隻の軍船のどれかに乗り込んでいるらしい。もはやつかまえることはかなわぬと知り、舞陽は全身から何かが抜けていくのを感じた。
「…ともかく。今日あなたがおいでになられたことは、将軍にお伝えしておきますから。」
よほど落胆の表情を浮かべていたのだろうか。官吏が気の毒そうにそう言ってくれた。
よろしく頼む、とだけ告げると、舞陽はそのまま建物を後にした。


 船が無いからといって、何もしなくていいというわけではない。大急ぎで駐留村まで戻ると、舞陽は早速、すぐに動かせる二百五十の手勢を整列させた。
時を同じくして、小山に送った斥候が戻ってくる。斥候の靴には黒い土が付いていた。
 安石から聞いていた通り、游津にほど近い小さな岬の突端付近に停泊している怪しげな船影を一つ、確認したとのことだった。
そして、先ほど湊から出航した六隻の軍船が、まっすぐそちらに向かったということも。
「将軍、我々の出番は無いのでありましょうか?」
班長の一人が心配そうに尋ねてくる。遠路はるばるこんな片田舎に来て、結局何もせずに恒陽に戻っては、いい物笑いの種だ。
「案ずるな。」
しかし舞陽は、きっぱりと力強く、答えた。
「確かに、陸地に居ては直に賊を捕まえることはできんかもしれん。しかし、戦の場は海上だけとは限らない。万が一に供えて、我々は陸上の防備を固める。」
…口にしたものの、舞陽自身納得できているわけではない。
けれど、自身の動揺を兵たちに悟らせるわけにはいかないし、何よりこの言葉は、自分自身に向けられたものでもあった。
(そうさ、私には私の戦い方があるはずだ。)
 隊を率いて海岸に出ると、沖合いでは既に戦いが始まっていた。
遠すぎてよくは判らないが、不審船を游津海軍が取り囲もうとしている。どちらも帆をいっぱいに張り、風を巧みにつかまえる。
だが初めて見る海戦ということもあり、戦場から遠く離れているということを差し引いても、展開の早い騎馬戦に慣れている舞陽の目には、ひどくのんびりした戦いであるように感じられた。…もどかしい。
 やがて、戦局が動いた。といっても戦らしい戦になっているようには、誰にも見えなかったのだが。
 もつれ合っているようにしか見えなかった船団から、一隻の船がすい、と離れた。
他の船と形が違う。不審船だ。
慌てて海軍船が追いすがるが、よほど優秀な航海士が付いているのか、船足はあちらのほうが速い。
あれよという間にぐんぐん距離が開き、やがて水平線のかなたに消えてしまった。
わずか四半刻(三十分)足らずの出来事であった。
 「…………。」
部下たちに表情を見られないよう、舞陽はその間ずっと海を睨み続けていた。眉間に皺が寄っているのが、自分でも判る。
(正規の海軍ですら、手も足も出ないとは…。)
なるほど、今まで完全に取り締まることができなかったわけである。敵が想像以上に厄介な相手だと知り、舞陽は静かに唇を噛んだ。
 砂の上を駆けてくる足音が近づいてきたのは、そんなときだった。
「報告致します! 游津の西側にある漁村が賊に襲われているとのことです!!」
「なに!?」
白軍に小さな動揺が走った。


 ――游津沖合いに出現した不審船は、囮だった。
報告を受けてすぐ、白軍は自慢の機動力を駆使して現場に駆けつけたが。既に海賊たちは引き上げた後だった。
 血臭が村中に漂っている。人口数百人ほどの村だそうだが、ざっと見ただけでも一割は殺されているようだった。
家という家の扉は開かれるか壊されるかしており、男たちが漁に出て留守のところを襲われたらしく、赤く染まった大地に横たわる者のほとんどは老人や女子供ばかりだった。
「……なんという……。」
眉間に深くしわを刻み口元を押さえたまま、舞陽はうなった。しかしすぐに気を取り直し、生存者の救出と手当てを兵たちに命じた。
 遠くの漁場から戻ってきた男たちが、家族の姿を求めて半狂乱になって走り回っている。
無残な姿となった赤子を抱えあげてむせび泣く者がいる。
家族とはぐれて、泣くことすら忘れて、呆然と立ち尽くしている幼子がいる…。
 「あんたら、なんのためにはるばる都から来たってんだっ!!」
舞陽のすぐ近くで怒鳴り声がした。振り返ると、側近の一人が村の男に襟首を捕まれていた。
 「娘を、家族をこんな目に遭わせるために、オレたちが血の汗流して納めた税で食わせてやってるんじゃねぇんだぞっ!! この、この無駄飯食らいの役立たずどもがぁっ!! 娘を返せえぇぇぇっっ!!!!」
「よせ。こいつらを責めたところで、あんたの娘が生き返るわけじゃないだろう…。」
別の男が止めに入る。だがその顔にも憔悴の色がくっきりと浮かび上がっていた。
「けど! こいつらがもっと早く来ていれば、あんたのおっ母さんも死なずに済んだんだぞ!!
五十年、ただひたすら真面目に働いて働いて働いて、その最期がこんなだなんて、あんまりだっっ………!! 悔しくねぇのかよぉっ!!」
止めに入った男は一瞬表情をゆがませたが、無言のまま仲間が掴んでいた手をほどかせた。
そして彼を促して、ゆっくりと立ち去っていった。
 …心臓を、鋭利な刃物で切り刻まれているような気分だった。
あの男が掴みかかっている相手が自分であったなら、まだ耐えられたかもしれない。
…責任者はこの、私なのに。
責を受けるのは、船にばかりこだわって、判断を誤った自分なのに。
そのほんの小さな誤判断のために、こんなにも大勢の命が失われてしまった。
……脳裏に蘇ったのは、今は亡き従兄弟の顔。彼が身をもって教えてくれたことを、私は……。
 夕暮れが迫っていた。遅れて到着した游津陸軍が、遺体を一ヶ所に集めている。数が多すぎるので、まとめて埋葬するのだ。
生存者に遺体の確認をさせてやりたいところだが、夏場なので腐敗が早く疫病が発生する可能性もあるので、あまり長くは待てない。
黙々と作業をする兵にも、無数の遺体にも、夕日は分け隔てなく赤い光を投げかけていた。

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