藤梅後記。
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 游津に、今年も春がやってきた。
 春を告げる魚が今年は豊漁だとかで、湊も、湊から海門を抜けて通じる市場も、賑わいをみせている。
この賑わいが形だけのものでないのは、やはり近海を根城にしていた海賊がようやく討伐されたからなのだろう。
とはいえ、人の世がある限り悪の根も尽きないのが、世の理というもの。
いずれは滅ぼされた一団に取って代わる新たな賊が現れることになるのであうろうが、そんなことを今から憂いたところで出現を食い止められるわけではない。
人々は今の平和が少しでも長く続くことを祈りつつ、この繁栄を謳歌するのである。


 游津政庁の廊下を、山のように巻物を抱えた若者が一人、危なっかしい足取りで歩いていく。
ひょろっとした体躯で、どこをつまんでも筋肉はおろか贅肉もついていなさそうだ。
身につけているものも仕立ては良いのだが、なにぶん中身のほうがそれに追いついておらず、どうにも「服に着られている」といった印象が否めない。
新人官吏であろうというのは誰の目にも明らかだった。
右にふらふら左にふらふら、いつ荷物を取り落とすかと、見ているほうがはらはらしてくる。そして。
「あっ、あっ、あっ…。」
ぐらり、と巻物の山が傾く。慌ててそちらに重心を移すが、足がもつれた。崩れる…!と思った瞬間。
横合いからひょいと伸びた手が、若者と巻物を支えた。
「おいおい、大丈夫か?」
覗き込んだのは、大柄な男だった。上背、肩幅とも若者と好対照である。ただそこに乗っている顔は意外と幼かった。
歳だけで言えば、この新人君と大差無い。身につけているのは官服だから、彼も政庁に勤める官吏なのだろう。
「あ、李先輩…。」
「無理せずに何回かに分けるか、箱か何かを借りてくるなりすればよかったのに。」
そう言うと、先輩官吏は新人君が抱えていた巻物の半分を引き受けた。
五割に減ったというのに、それでもやっぱり新人君は巻物の山に埋もれているという印象が消えなかったりするのだが。
「でも、石先輩が…。」
「また無茶言ったのか、あの人。」
「はい……。」
新人君の隣を歩きながら、先輩官吏は軽く嘆息した。
「まぁ、気にするな。根は悪くないんだけどね、どうにも角が立つ物言いしかできない人だからさ。
…観察していると、あれで結構かわいげがあったりする…」
「そ、そうなんですか?」
「…かもしれない。」
「せ、せんぱぁい……。」
「冗談冗談。」
くつくつと笑うが、そこには何故か厭味のようなものは全く感じられず。
憮然としつつも、新人君もまたいつの間にか、何故か自分の表情がゆるんでいるのを覚えた。
この先輩官吏には、そんな何かがある。彼が自分の上司だったら、と何度思ったことか。
 人となりといい、仕事をさばく能力といい。
決して申し分がないというのに、そんな彼がいまだに自分と同じ平官吏をやっているということのほうが、新人君には不思議でたまらなかった。
それにはなにやら複雑な事情が入り組んでいるらしい、ということくらいは噂で聞いたこともあるが、さりとてあまり裏表があるような人物にも見えないのだが。
 先輩官吏の名は李藤という。字は明槐。
かつては中央より海賊退治の任を受けて派遣された白軍の担当を任じられていた少年も、今は十八歳の若者になっていた。


 無意味と思えるほど複雑に入り組んだ廊下を進んでいくと、二人は一枚の扉の前に出た。
北向きの日当たりの悪いその部屋は、書庫として使われている。游津の政庁で使われる公式文書のほとんどが、この部屋に収められていた。
 開錠し室内に入ると、二人は部屋の入り口付近に設えられていた小卓に巻物を置いた。
何とか載せたもののそもそも量が半端ではないので、ちょっとした衝撃が加わろうものならあっという間に雪崩を起こして次々に落下してしまうのは疑いようもない。
 「さ、早く戻しちゃおうぜ。もたもたしていると昼休みが終わっちまう。」
促すと、明槐は書き付けられている文字を頼りにさっさと元あった場所へ戻していく。
書庫は結構な広さがあり、収められている資料も膨大な数に上る。
それでもちょっと見ただけでどこへ戻すものなのかすぐに判断がつくのは、彼がこの書庫に詳しいことを示していた。
――十年以上勤め上げている中堅の官吏でも、ここまで書庫の中身を把握している者はそういないだろう。
それはつまり――この先輩官吏もまた、ちまちまとした雑用係を仰せつかる頻度が高いことを暗に示していた。
 手分けして、それでも卓に積み上げられた巻物の山がほぼ消えかけた頃だった。
「あっ…。」
棚の向こう側で上がった短い悲鳴と、沢山の物が雪崩落ちる音を聞きつけ、明槐が駆けつけてみると…そこには想像したとおりの光景が広がっていた。
「せんぱぁい…。」
「…そんな顔するなよ…。」
あきれ返りながらも、新人君を書物の山から発掘してやる。
仕事を増やしてしまった責任を感じているのか、新人君は助け出されたあともすっかり恐縮してしまった。
「申し訳ありません…。」
「いいっていいって。どちらにしろ近いうちに一度整理しなきゃいけなかったんだから。
どうにもいい加減な戻し方をする奴が多くってさ…。まったく、誰が暇を見つけて整理しているとでも…。」
後半は全くのぼやきだったのだが、散らかった書物を大まかに選別し始めたのを見て、新人君も慌ててかがみこんだ。
「わ、私も…。」
「手伝ってくれるのはありがたいけど…うろうろしていると昼休み終わっちゃうぞ?
石螺烙殿は時間にやたらうるさい人だから、今を逃したら飯を食い損なうんじゃ…?」
「でも……倒したのは私なのですし…。それに、昼休みが潰れてしまうのは、李先輩も同じでしょう?」
「あー、俺は大丈夫。俺一人居なくたって誰も気にしたりしないから。」
からからと笑う。
その言葉にすら一切の皮肉が感じられなかったことに、新人君はかえって胸が痛くなった。
しかもそれがどうやら事実らしいということを、知っているだけに。
 崩れ落ちた書物をざっと分け終わった頃。廊下を複数の者が談笑しながら通り過ぎていく気配がした。
どうやら昼休みもそろそろ終わりらしい。
覚悟していたものの、新人君の表情が曇った。
後片付けはまだ終わっていないし、けれども直属の上司である石螺烙は遅刻に厳しいことで有名だ。
さりとて、同格とはいえ先輩である明槐に後片付けを押し付けるというのも……。
「…ま、なんだかんだで全部終わる頃は日も暮れているかもな。仕事が明けてからまた手伝ってくれ。」
事情を知っている明槐がすかさず先手を打つ。
しばらく迷っていたものの、新人君は深々と頭を下げ、書庫を辞した。「あとで必ず来ますから」という言葉を残して。
 「やれやれ。『先輩』ってのも大変だよなぁ…。」
新人君の姿が消えると、明槐はようやく長嘆息して首をこきこきと鳴らした。
三年前とは違い、同じ下っ端といえども後輩ができた今となっては、以前にも増して立場は中途半端になっている。
自分と同じ時期に仕官した者に使われている後輩たちに助け舟を出してやろうにも、どうにもならないのが現状だ。
ましてや、そこに派閥などというものが絡んでくると言わずもがなである。
孤立すること自体には慣れているのだが、せっかく慕ってくれる者を「彼らのために」突き放さなければならないのは、やはり心が痛む。
 そんな複雑な心境を抱いたまま、黙々と作業を続けていると。
ふと、明槐の手が止まった。
「……?」
書物の山の間から、紙が現れた。
このあたりは古い時代のもの――紙ではなく竹に情報を記した、竹簡と呼ばれるもの――が納められている区画なので、紙が出てくるわけがない。
(収納効率も格段に上がるので、明槐はこれらを紙に書き写す等再編成したくてうずうずしているのだが。)
少なくとも以前整理したときはこんなものなど見かけなかった。
 がらがらと音を立てて竹簡の間から紙を引っ張り出す。
紙はどうやら信書(手紙)のようだった。それも、全部で七通もある。
何故こんなところから信書など出てくるのか。
以前海賊の根拠地から押収された信書は、巧みに隠してあったという。
なんだか嫌なものを覚えつつも、明槐は正体を確認するべく、そっと開いてみた。
 宛名を見て、彼の顔に一瞬緊張が走った。
が、次の瞬間それはとても優しげなものに変わり。
そっと目を閉じて額に信を押し当てると明槐は、残る六通ともども自らの懐へと忍ばせた。


 「婆ちゃんもさぁ、こういうことになるって判っていながらどうして車で出てこないかな。それも一人でだなんて。」
その日の夕刻。
ああは言ったもののきっちり就業時間内に書庫の片付けを済ませてしまった明槐は、帰途で出会った知り合いの老婆の荷物を請け負って歩いていた。
「店には下男だっているんだろうし。」
「下男なんぞ連れてこられるかい。大奥様大奥様と、あれこれ横から文句をつけるに決まっている。
それじゃあ何のための気晴らしだかわからないじゃないかえ。」
かくしゃくとした老婆はそう言って胸をそらした。
こういうところは孫そっくりである…というか孫のほうが彼女に似たのだろうが。
「それに。商いのことならともかく、これは私の全くの趣味のものだでなぁ。」
「俺ならいいのか?」
「お前さんはほれ、れっきとした官吏殿じゃから。」
「その官吏を荷物持ちにしているのは、どこの誰だい?」
一介の商家の老婦人だというのに官吏サマを捕まえてこんなことを言い放つのは、明槐が仕官どころか、まだ小紫という小字(幼少時の愛称)で呼ばれていた頃からの知り合いだからに他ならない。
何しろこのご婦人はあの玉翠堂の先代の正妻、つまり「呈安のおばあちゃん」なのである。
身分の差があっても一向に頓着しないのは、この家の血なのかどうかはわからないが。
それ以前に、それほどの名家に名を連ねていながら、馬車も立てずに一人でのこのこ出歩いていること自体がどうかしている。
そして、大荷物を抱えて難儀している老婦人を見かけて心配になり、先に荷物を引き受けると称して同道したのは、明槐のほうだ。
そういう意味ではどっちもどっちなのかもしれないが。
 「いつまでも子供扱いされたくなかったら、お前様もさっさと身を固めておしまい。
兄君のように家庭を持てば、少しはしゃんとしようという気構えも持てるだろうに。」
「……また、その話?」
ほてほてと歩を進めながら、明槐は空を仰ぎ見た。
空は春の青から夕刻の朱へ、美しいぼかし模様を画いている。
「また、とはなんじゃ。大体、十八にもなって浮いた噂の一つも無いなど、男としてミソもいいところじゃないかえ。」
血が繋がっているだけあって、遠慮の無いところも呈安そっくりである。
「…実家のことを抜きにしても、想いを馳せる女子の一人や二人は居るのじゃろう?
呈安からもその手の『教育』は受けておるはずじゃろうし?」
「婆ちゃん! 往来の真ん中だぞっ!!」
顔を真っ赤にして怒鳴ったのは、九割が羞恥によるものだ。その怒鳴り声に道行く人々が一斉に振り返る。
萎縮するどころかおかしそうに笑う老婦人に、明槐はまたしても彼女に遊ばれているのだと悟った。
 「真面目な話。お前様がその気になりさえすれば、いくらでも私がお膳立てしてやるものを。
家を出たのならなおさら、父君の顔色をうかがう必要もあるまいに。」
豪商陳家の老婦人ともなれば、方々に顔が利く。甲州の外だろうが、国都「恒陽」が置かれている瑞府にだって、伝手があるのだ。
しかし明槐は。
「いや、いいんだ、本当に……。」
陳家まではまだ少しある。それまではこの話題から逃れられそうにない。
「…俺、自分の嫁さんは、自分で探すって、決めているから…。」
口から出たのは方便だったが、まるきり嘘というわけでもない。むしろ「そうであったらいいな」という願望に近いのかもしれない。
それがかなう確率はとてつもなく低いけれど…。
 結婚願望が無いといったら嘘になる。むしろ家庭というものに強い憧れを持っている。
一昨年、兄に女の子が生まれてからは、その思いはいっそう強くなった。でも……。
 幾つもの思いが去来する若者の横顔に、老婦人は含み笑いを浮かべながらほうと小さく嘆息しただけだった。
その眼差しは、実の孫を見る目と変わらない、柔らかなものだ。
だが、それをこの若者においそれと悟られるほど底が浅い人間でもなかった。
商いに携わる者は多少の差こそあれ、そういった駆引きに長じてくるものらしい。
 やがて、延々と続いていた土壁が終わり、立派な構えの大門が見えてきた。甲州陳家の本家である。
どうやってか老婦人の帰宅が既に知らされていたらしく、門前には数人出迎えの者の姿もあった。
 「じゃあ、俺はこれで。」
出迎えに現れていた使用人に荷を渡すと明槐は、身分はともかく年長者に対しての礼儀として拱手の礼を執り、その場を辞した。
その後姿を見送りつつ、老婦人はまたしても小さく嘆息したものである。
「惜しいものよの。もう少し欲深くても罰は当たらぬというのに。」


 よく知っている道がある。今歩いている道がそうだ。
 昔はここを通って、呈安の家や、催先生の私塾や、イーリャンの小さな店に通ったものだ。
 けれど、明槐はこの道が嫌いだった。
 この道を通って出かけるときは好きだった。けれど、逆の方向へ――今自分が向かっている方向へ歩くのが、とてもとても嫌だった。
 やがて見えてきたのは、何の変哲も無い木製の門だった。
裏門なので飾り気は無いが作りがとても頑丈で、幼い頃はそれを開けるのに散々苦労したものだ。
終いには諦めて、秘密の出入り口を自分でわざわざこしらえたものである。
だがそれもすぐに使用人に見つかり、「防犯のため」とすぐに塞がれてしまった。
だからこの門も好きじゃない。自分と「皆」がいる外の世界を隔てる象徴のような気がしてならなかったから。
 この壁の向こう側に庭があることを明槐は知っている。
屋敷はもっと向こうにあるので、このあたりは裏庭ということになる。
ふと視線を屋敷の壁の向こうに向けると、紫色の花を満開につけた藤の木――明槐が生まれる前からそこにある――の棚の上の端だけが、視界に入った。
それが夕焼け色に染まって、えもいわれぬ美しい色合いへと変化していた。
絵心がある者なら、この感動を何とかして残そうと画布をすぐさま広げたことだろう。
あの藤の木の、丁度彼の腰あたりの高さに無数の古い傷があることを、明槐は知っている。
 游津李家。数代前より游津政庁に官吏を排出し続けている、游津の中では上流に属する家である。
十八年前の今日、明槐はこの家で生まれた。
 二度と門をくぐるまいと思っていた実家に足を向ける気になったのは、幼い頃世話になった使用人が近く退職するという話を小耳に挟んだからだった。
彼女の実家の場所は聞いているが訪ねたことは無いので、その前に一目会っておきたかったのである。
表門ならともかく、裏からなら血の繋がった者と顔を合わせる可能性も格段に下がる。
 しかし。裏とはいえ門の前までやってくると、明槐はその扉に手をかけることができなくなってしまった。
圧し掛かってくる「思い出」に潰されそうになる。
それでも何とか勇気を奮い起こし、扉に手をかけようとした、そのときだった。
 壁の向こう側に人の気配がした。一人ではなく複数である。
びくりとして手を引っ込めたが、何となく気になって、明槐は門の隙間から中をのぞいてみた。
 夕焼け色に染まった藤の木の下、紫色の花弁舞う中に、複数の人影がある。
それをみとめた瞬間、明槐は心の臓がひしりと凍りつくのを確かに覚えた。
 中央にいるのは、実兄慈貝。その隣で幼子を抱いているのが兄嫁。
兄嫁の腕の中できゃっきゃっと歓声を上げながら姪が手を伸ばしている先にいるのは――李泰寧、いまや游津政庁で知らぬ者はいないほど実力と発言力を付けた、その人だった。
その傍らに居るのが、彼の婦人であり、明槐と兄慈貝の実母。
その父と母が、幼い初孫に目尻を下げている。
そこには、明槐の記憶の中には一切残っていない、柔らかい笑顔が、あった――。
 明槐の記憶の中の両親は、いつもしかめ面をしていた父と、泣いてばかりいた母の後姿しかない。
あの笑顔を、自分に向けられた記憶が、一切無い。
そして自分は、今、あの場に居ない。こうして門の隙間越しに、まるで絵物語でも見るように、のぞき見ているだけ――。
 「坊ちゃん? 小紫坊ちゃんじゃありませんか?」
そのとき、不意に背後から声をかけられた。途端にびくりと肩が震えた。
 知っている声である。何を隠そう、訪ねてきた相手だ。
だがその顔を見ることもできずに明槐は踵を返し、今来た道を全力で駆けだしていた。
――何故、そんなことをしてしまったのか、自分でもわからないままに。
 「やっぱりそうだ。旦那様! 小紫坊ちゃんです、小紫坊ちゃんがお帰りになりましたよー!」
はるか後方で昔馴染みの使用人が必死に呼んでいる。
だがそこに返ってきた父の言葉は、明槐が全く予想していた通りのものだった。
「自分の家の門も開けられぬ者など、放っておけ」――。
だが明槐は知らない。そう答えた父泰寧の顔が、寂しさに歪んでいたことを。
 駆けて、駆けて、駆け抜けて。
いくつ辻を折れたのかわからなくなった頃、ようやく明槐は足を止めた。肩で息をし、膝に手をつく。
(……何やってるんだ、俺……。)
己の生家に帰るのを、どうしてこんなに恐れているんだろう?
…恐れている? そう、「恐れている」。十年以上も前、あそこで偶然聞いてしまった両親のやりとりが、恐ろしい勢いで蘇ってくる。
『藤は体が弱いから、恐らく十年と生きられまい。成人できぬ男子に李家の将来の半分を託すことなどできぬ。だから――』。
その後の言葉は覚えていない。いや確かに聞いたはずなのだが、その言葉を聞いて母が泣き崩れてしまったことばかり覚えていて、記憶がかすれてしまっている。
無理に思い出す必要はないし、思い出したいとも思わないから、そのままにしてあるけれど…。
 きりきりと胸を締め上げるような痛みは、まだ引かない。でもそれは姪に対する嫉妬でないことだけは確かだった。
頭を抱えてその場にうずくまりたくなる衝動を、必死でおさえこむ。
往来を家路に急ぐ者たちが、さまざまな色の視線をかわるがわる投げかけてくるが、声をかけてくる者は誰一人としていなかった。
 深く息をつき、思い切ってぐいと面を上に向けると――東の空に一番星が、輝いていた。


 游津政庁や、富豪・名家が軒を連ねる西地区とは反対方向――庶民の住宅がひしめいている東地区――に、その部屋はあった。
 調度品は寝台に、文机が一つ、長持ちが一つ。それで既にいっぱいである。他には何も無い、狭い狭い部屋だ。
西向きに唯一開いている窓からは、夕刻の最後の朱がかろうじて差し込んできている。四半刻(約三十分)と経たないうちに、この朱も消えてしまうだろう。
 部屋に入ると、明槐は引き出しの中から蝋燭を取り出し、苦労して明かりを灯した。そしてどっかりと寝台に身を投げ出す。
「あー……なんか、疲れちゃったなぁ……。」
呟くが、勿論それに応える者など無く。むしろ空しく室内に響いただけ。だがそれもいつものことなので特に気にもならない。
以前は、家を飛び出した弟を心配して兄がこっそり様子を見に来てくれたりもしたのだが、所帯を持ってからはそれもめっきりなくなった。
 夕飯は、先ほど帰り道で買い求めた饅頭が二つ。
でも口にする気は起きず、竹皮に包んだまま文机の上に放置してある。
屋台では湯気を立てていた饅頭も、湯気が冷えて結露した水滴に濡れて、もちもちしていた皮もすっかりゆるくなってしまっていた。
 自身の将来について真剣に考えねばならない年齢になっている、という自覚はある。
四歳年上の兄慈貝が同い年の女性と祝言を挙げたのは、十九のときだった。
 政庁の中では、秦牙雷が失脚したとはいえいまだ三派が睨み合いを続けており、互いが互いを監視する形になり適度な緊張感をもたらすことによって、皮肉にも逆に平穏が保たれていた。
その一角を成すのが李泰寧であることは、改めて述べるまでもないだろう。
 しかし彼とその次男の不仲は三年前の時点で既に庁内で知らぬ者は居なかった。
泰寧を仰ぐ者たちは彼の不況を買うことを恐れて明槐には近付こうともしなかったし、他の二派に属する者たちはというと今度は逆に泰寧と血縁であることを理由に距離を置いた。
この状態は今も続いており、その結果明槐はいまだに「雑用係」以上の仕事が回ってくることは滅多になかったのである。
一応形式上の上司もいるにはいるのだが、言葉を交わすどころか目が合うことすら稀だった。
 こんな状態だから、この先出世する見込みも皆無といっていい。
それでも官吏を辞めて野に下らないのは、そんなことをしたところで自らを養っていく才が他に無いことを大いに自覚していたからである。
 そんな状態で、嫁をとることなどどうしてできよう。
 (同道巡りだってのは、わかってる。わかってるけど……。)
さりとて、游津を出て他所の都市へ士官口を求めるだけの気力も無い。
何よりそれでは…嫌がらせに屈して逃げ出すみたいではないか。それだけは絶対に嫌だった。
大きく嘆息し、寝返りを打つ。
そこでふと胸元に違和感を覚え、明槐は慌てて身を起こした。そういえば……。
 いそいそと懐から取り出したのは、七通の信書。今日書庫で発見した、あの紙切れ群だった。
手紙の差出人と宛名は、七通全て同じである。宛名は李明槐、差出人は白舞陽――。
(覚えていて、くれたんだ…。)
彼女が筆まめで、故郷に頻繁に信を出していたことは知っていた。
だがそれは宛先が彼女の親族であり、故郷の本家の留守居をしてくれている人物だからだと思っていた。
まさか自分にも信書をくれていたとは。それだけで、とても嬉しかった。
だが、それがどうして書庫などという場違いなところから、しかも七通もまとめて出てきたのか。
ともかく詮索は後回しにして、早速読むことにする。
 懐かしい文字だった。三年前、共に仕事をしたときと全く変わらない達筆。
背筋がぴんと伸びた文字を目にしただけで、明槐は己の顔がほころんでいくのを覚えた。
 信書は全て季節の挨拶から始まり、続いてやれ健康には気をつけているかだの、食事はきちんと摂っているかだの、仕事は真面目にやっているかだの、周囲とは上手くやっているかだの、とまるで弟のような扱いである。
 それから彼女の近況報告へと続く。
遼州の北稜(ほくりょう)という都市に着任し、そこで出会った幼い姉妹がかわいくて仕方が無い、と記されていた。
よほど気に入ったのか、その姉妹の事は他の信書にも記されている。
 信書は季節ごとに一通、という割合で出されていたようだ。
そして、七通目の文末には次のようなことが記されていた。
『――今日、新しい辞令が恒陽より届いた。来春には新しい任地へと移らねばならない。それがどこになるのかは追って連絡が来るそうだ。
 出立がいつになるか判らないので、こちら宛の返信は今しばらく待っていて欲しい。落ち着いたらまた信を書く――。』
 どきり、と胸がうずいた。
目を通しながら無邪気に喜んでいたのだが、考えてみれば(いや考えなくても)、今日の今日までこの信の存在を明槐が知らなかったにもかかわらずこれだけの信書をよこしてくれていたということは。
…この二年というもの完全に「一方通行だった」ということではないのか…?
そして差出人の性格を思い出し、明槐は思わず引きつった笑みを浮かべてしまった。
(怒ってる。絶対、怒ってる…。)
 恐らく舞陽は『游津政庁に仕える官吏・李明槐』宛てに送ってきたに違いない。
それが当人に渡る前に、いずれかの派閥の者の目に触れた可能性は充分にある。
明槐と白舞陽が連名で皇甫将軍に訴えたことは秦牙雷が処断されたときに同時に表に出たので、この二人が密かに信のやりとりをすることを危険視した者が、明槐の手に渡らないようこっそり隠したのだろう。
それが今日になってひょっこりあんな場所から出てきた――。
 明槐は心底、新人君に感謝した。彼が書棚をひっくり返してくれなければ、これから先もこれらの信書は書庫の中で眠り続けていたのだろうから。
 (そうだ、返事。返事を書かなきゃ…!)
寝台から飛び降り、文机に向かう。
引き出しの中から文具一式を取り出し、墨をすり、筆を手に取ったところで……明槐の手がぴたりと止まった。
そのままかたりと筆を戻す。そしてふぅと嘆息した。
 もともと明槐は筆不精である。
呈安などそのあたりをよく承知しているから、こちらは商いの修行先から一度しか信書をよこさなかった。
それも「祖母の面倒をよろしく」とだけで、自分のことは書いてこないときている。
はなから返事など期待していない文面だったので、結局こちらからも出していない。
それでも元気にやっているようだとは、実際に荷を預かって衍州との間を行き来している陳家雇いの人足伝手で互いに伝わっている。
だから、舞陽からこれだけ「きっちりした」信書をもらってしまうと、それに見合うような返事を書かねばならないと気構えてしまう。
いや、一応信の書き方も「文人のたしなみとして」学んではいるのだが――今の勢いだと「君に会いたい」と書いてしまいそうで、むしろそちらのほうが怖かった。何故なら……。
(二年も前の話だぜ…?)
游津を離れてもなお舞陽が自分のことを気にかけてくれていると知ったときの、胸のときめきが、あの頃と全く変わっていないことに驚きそして……そのことを彼女が全く知らないことを同時に思い出したからだった。
 ともあれ、返事を書くのはもう少し気持ちが落ち着いてからのほうが良いだろう。
どちらにしろ今頃彼女は新しい任地への移動の最中か、もしくは着任直後で身辺が慌しい時期であろうし。
何より「次の任地」とやらが記されていなかった以上、送りようもない。
 すい、と夜風が室内に入ってきた。藤花の季節とはいえ、やはり日が暮れると上着の一つも欲しくなる。
窓の外に目をやると、そこは既に夜の世界だった。
雨戸を下ろした蝋燭の明かりの下、明槐はようやっと饅頭に手を伸ばした。…すっかり冷めてしまっているが構わずかぶりつく。
そして空いているほうの手で、寝台の上に散らかしたままになっていた信書の一つを再び手に取った。
 迷いの無い、字。境遇に負けることなく己が信じる道を胸張って進む者の、字。
(もうちょっと頑張ってみようかな、俺も……。)
「そのうちきっと、何か良いことがあるさ。」
にっこりと笑ったその顔は、白軍の駐留村の中を駆け回っていた、あの少年官吏のものだった――。

[終劇]
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