田中家住宅 Tanaka ![]() |
| 鹿児島県指定文化財 (平成18年4月21日指定) 鹿児島県霧島市福山町福山2926 用途区分/実業家(海運業) 建築年代/大正8年〜11年(1919〜1922) 公開状況/公開 大隅半島の付け根に位置する福山は、黒酢の産地として全国的な知名度を誇る町である。町名に覚えがなかったとしても、テレビや雑誌のCMで桜島を背景に黒酢の甕が露天に並び置かれる様子を見た覚えはあるのではなかろうか。福山の黒酢産地としての歴史は古く、江戸後期頃から醸造が始まり、当初は「福山酢」と呼ばれて地域的な需要を賄う程度であったが、1970年頃から「黒酢」の名称が一般化し、昨今の健康ブームに乗って全国的に販売展開されるようになった。意外なことに福山町以外では黒酢を醸造する地域は殆ど無く、何故のことか訝しく思われるが、黒酢製造元の方に聞いたところによると、シラス台地から湧き出る豊富な水、大隅半島の各所で収穫された米の流通の要路にあったこと、そして200年以上の長きに亘る醸造の歴史が、空気中に麹菌などを漂わせていることなどが相俟ったらしい。 地元・福山町出身の田中省三が郷里に立てた別荘建築である。 田中は安政5年(1858)に農家兼漁業の網元の家に生まれ、西南戦争では官軍に捕えられ、その後は福山小学校で教壇に立ち、大阪府裁判所書記を務めたり、大阪の商店で働いたりと異色の経歴を持つ。明治時代半ばに大阪に出て海運業を起こし成功。その後も保険、工業、鉱山、銀行等の事業を興し、関西実業界の重鎮となった人物である。大正4年には衆議院議員にも推された。 田中は当然のことながら本宅を大阪に構えていたため、当地に残される住宅は、帰郷時の住まいとして使用するためだけのものであり、生活感の乏しい住まいであるが、けれども、その規模は壮大で小さな町の中にあって際立つ存在ではある。大工棟梁は大阪から、石工は鹿児島の者だったことが棟札から判明している。大正8年8月に上棟式を行い、大正11年に家屋は竣工、続いて翌12年に庭園が完成したと云われているが、省三自身は14年に67歳の生涯を閉じている。 屋敷地の北側に建物を集中させ南側の大半を庭園に割くなど、都会の喧騒を逃れ、邸内でゆっくりと静養するに適った配置を心がけているようだ。 現在の福山の町は健康ブームに乗って黒酢の産地として脚光を浴びつつある。確かに町に入ると黒酢特有の酸っぱい匂いが鼻に付く。商魂の逞しさを見せてもらいたいところだ。 屋敷地は4276uあり、建て坪は432.18uに及ぶ大規模な近代和風建築である。 座敷と次の間、洋間、居住部、台所、蔵の5つの部分から構成されている。 庭園は池泉回遊式の大規模なもので、昭和50年3月31日に旧福山町により名勝に指定されている。 地元の方にとって田中は県立福山高等学校(昭和62年閉校)の前身、私立福山中学校を大正11年に私財25万円を投じて創立した人物としても知られる。邸内の蔵は資料館となっており、学校関係の資料が展示・保管されている。 |