兵藤家住宅
Hyoudou



 
登録有形文化財 (平成17年7月12日登録)
愛媛県大洲市長浜町出海乙9-1
建築年代/江戸末期
用途区分/農家(庄屋)
登録範囲/主屋・土蔵・門・外塀
公開状況/非公開
戦国期に水上(水噛)城主であった兵藤石見守直政が天正13年の豊臣秀吉による四国征伐に伴い、小早川隆景の軍勢によって開城して帰農。江戸期には新谷藩領の出海村庄屋として存続。


肱川に架かる道路可動橋が有名な長浜町と、嘗ては養蚕の町として知られた保内町の中間地に出海集落は所在する。集落は豊予海峡に向って僅かに谷間が開けた地形で、集落の南西端の小高い山上に金毘羅社が祀られているが、中世末までこの場所には水上城(水噛城)という城砦があり、兵藤家は建久年間(1190年前後)から天正13年(1585)までその城主たる地位にあった家柄である。豊臣秀吉による四国征伐の折に配下の小早川隆景によって開城せられ、時の当主であった兵藤石見守直政は帰農したという。戦国期の宣教師であったルイス・フロイスは著書「フロイス日本史」の中で、四国征伐にあたって伊予国には騒乱も叛乱も無かった旨を記述しており、四国の覇者であった長曾我部氏の配下の城主連中は誅殺されることなく、穏やかに槍刀を捨てたようである。当家はそのまま江戸期には大洲藩の分藩である新谷藩の庄屋職を務めたという。屋敷は緑泥片岩の青石垣に白壁の練塀を廻らせ、中央部に棟門を開く典型的な庄屋屋敷の風情で、西面する主屋は江戸末期建築の座敷棟と明治初期建築の住居棟が雁行形に並ぶ珍しい配置を取っている。現在は両棟とも入母屋造桟瓦葺の平屋建の形態であるが、当初は茅葺屋根であったらしい。



 

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