箱木家住宅 Hakogi ![]() その他の写真 |
| 国指定重要文化財 (昭和42年6月15日指定) 兵庫県神戸市北区山田町衝原字道南1-4 旧所在地・兵庫県神戸市北区山田町衝原 建築年代/室町時代 用途区分/農家 指定範囲/主屋・座敷 公開状況/公開 室町中期に建築されたと推測される日本最古の民家建築である。嘗ては奈良時代の大同年間(800年頃)の建築とも謳われたこともあったが、これは古い家であることを示す俗謡のようなもので実際には有り得ない話。ただ元禄3年(1690)に死去した当主・箱木伊兵衛の代に当地の代官・小堀甚右衛門から「千年家」の称号を授かっていたというから、当時から既に相当な古い家であったことは間違いない。屋敷は昭和53年に山田川流域の衝原ダム建設により、南東方向に70m程移動させられたが、工事の際に地下調査が併せて実施され、出土品などから室町中期の建築ということで落ち着いた経緯がある。復原前には主屋と離れが一体化した一棟の建物であったが、解体調査により離れ部分は18世紀初頭に別棟で建てられたものと判明、現在は各々を別棟建で復している。建築当初から残存するのは主屋の土間境付近の柱や梁、頭貫材などに限られているらしいが、近世民家とは明らかに異なる風情は他では味わえない貴重なものである。 【以下は作成中です】 箱木家住宅は、恐らく日本で一番古い民家だとされている。但し、あくまでも「恐らく」なのである。それは住宅が建てられた築年を明確に示す資料が発見されていないためである。棟札や墨書、普請帳なと家作の記録が一切見つかっていない。なので建築年が明確な住宅のうち、もっとも古くにまで遡れる民家は、奈良県五條市に残る慶長12年(1607)築の栗山家住宅とされている。但しこちらは町家であり、かなりの豪商で外観は塗籠の大壁造、大屋根は本瓦葺で寺院建築のように反っている。平面や間仕切りに古い要素は見られるが、構造手法にはかなり新しい技術が取り入れられている。これは当住宅が建築の先進地であった奈良に所在しているという背景も絡んでいるためと云われているが、民家建築というカテゴリーにおいては所在する地域の進遅の違いのみならず、町家と農家の違い、富裕の具合など同一視はできない要素が多分にあるというのが実際である。しかしそれでも箱木家住宅が更に年代を遡る建物であろうと確実視されているのは、全く近世(江戸時代)以降の住宅とは明らかに雰囲気を異にするためである。誰が見ても古いということが決め手となっているのである。では、どれぐらいまで建築年は遡り得るのか。室町中期、あるいは後期、最近では鎌倉期の建築を唱える説まであり、今でも学者間で断定的な見解は示されていない状況にあるのだ。 さて、箱木家住宅は一般に「千年家」と呼称されている。千年家という呼称については、少し以前まで大同元年(806)に建てられたと伝承される家を指すものであった。なので千年家と同義で年号から大同屋と称されることもあった。しかし最近は江戸前期に建てられた住宅を千年家と称することもあり、単に「古い家」という意味で用いられているようになりつつあるが、そもそもは字面のとおり千年を越える歴史を有する民家のみを指す言葉であった。(しかし現代において実際に千年を超えて残存した例は確認されていない) 千年家という呼称を冠された例は箱木家住宅の他には宍粟郡安富町皆河の古井家住宅や福井県坂井郡丸岡町の坪川家住宅、福岡県糟屋郡新宮町の横大路家住宅などが国の重要文化財に指定され現存しているが、嘗ては箱木家住宅の周辺には室町期まで建築年が遡るのではないかとされた千年家が複数件残されていた。著名な例では阪田家住宅(神戸市北区山田町上谷上)が昭和の中頃まで、栗花落家住宅(神戸市北区山田町中村)も寛永年間まで残存していたとのことである。六甲山の北側の現・神戸市北区周辺は奇跡的に中世の住宅が残る特別な地域だったのである。 建築年が中世にまで遡る根拠として、箱木家住宅の場合、元禄5年(1692)に梁文が発見されたと云われ、そこに大同元年3月11日未刻に棟上げし、日原という大工が建てたと記されていたことが挙げられていたが、現在ではこの伝承は、江戸時代に書かれた記録に違いないと半ば無視され、元禄3年(1690)に死去した当主・箱木伊兵衛の代に、当地の代官職にあった小堀甚右衛門から千年家の称号をもらっていることを根拠に、逆算すると少なくとも建築は室町期に遡ることは間違いないという見立てをしている。 箱木家の祖先は17世紀に書写されたとみられる「箱木氏系図」から少なくとも明応3年(1494)に死去した箱木右馬佑まで遡ることは可能だという。山田庄の地侍であったと伝えられており、身分的には武士であり、数多くの家来を抱えていたが、、生活の実質は農民であったようである。江戸時代に入ると家来達は自作農、あるいは小作農となって独立していくが、烏帽子親として家来筋の子供達を烏帽子子とする習慣が残っていたそうである。また応永4年(1397)に山田庄が分村した際には、地元の氏神である六条八幡神社の下頭屋役を務めており、山田庄内で頭屋役を務めた政所・鷲尾家、栗花落家の下司として衝原村の支配を担ったとのことである。 現在の箱木家住宅は移築・復原されたものである。昭和42年(1967)に重要文化財に指定されたものの、昭和49年(1974)に山田川流域に呑吐ダムの建設が決定し、水没予定地に含まれたために移築が決定したのである。 移築前の旧位置は、現在地より約70m程北西の旧山田川に沿った台地上に建っていたとのことで、敷地西側は山田川の浸食による崖地になっており6m程の石垣を築き、対岸からは壮観な眺めであったようである。家の背後には小さな丘があり、そこには持仏堂が祀られていた。こ持仏堂の存在も、当家が単なる農民階級ではないことを示す証左とされている。 現在目の当たりにする箱木家住宅は、主屋と座敷棟が軒を接して併存する別棟建となっているが、移築前の姿は両者が一体化した一棟のみの建物であった。私はその頃の様子を写真でしか見たことはなく、実際を知らないが、その当時の様子を知る方に伺えば、「規模も大きく、屋根の棟飾りである針目負を17本も連ねる様は旧家としての威厳を示し、異様なまでの軒の低さは独特の風情を醸していた」と教えてもらった記憶がある。解体修理前の姿は東側の土間の上手に畳の間が6部屋が整然と並ぶ整形六間取であった。 けれども建築技術が大いに発展し、生活態様も大きく進化した江戸時代にあって、建て替えられることなく、江戸時代以前の建物が残った理由は何にあったのであろうか。例えば、戦後の昭和の高度成長期を経て、平成、令和という時代に、戦前に建てられた家は急速に失われている。日本人は、住まいに快適さを求める中で存外に古いものを簡単に打ち捨てられる民族のようである。その中で当住宅は何故に残ったのか、古い民家というものに興味を覚える根底には、その謎への知的好奇心が沸々と湧き起こるからに相違ない。 【参考文献】箱木家住宅解体修理工事報告書/解説版 新指定重要文化財12建造物Ⅱ(毎日新聞社刊)/民家は生きてきた(伊藤ていじ著 美術出版社刊)/近畿農村の住まい(平山育男著INAX ALBUM29)/民家 最後の声を聞く(藤木良明著 学芸出版社) |