絵葉書でめぐる日本バス紀行(岩手県)
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岩手県 岩手県は、東北地方太平洋側に位置する「日本で一番広い県」です。主に内陸部と沿岸部に区分され、内陸部は県北、県央、県南の3地区に分けられます。県庁所在地は県北の盛岡市で、県南には一関市、沿岸部には宮古市、釜石市などの都市があります。
広い県土は自然に恵まれ、西側には奥羽山脈があり、岩手山を中心にした山岳が連なり、繋、花巻、夏油などの温泉郷も多数みられます。東側の北上山地はなだらかな丘陵地帯を形成し、そのまま沿岸部のリアス式海岸や隆起式海岸につながります。観光資源もそういった地形を生かし、西側には八幡平や小岩井農場、東側には早池峰山や遠野盆地、沿岸部には浄土ヶ浜や碁石海岸などがあります。また、文化の面では宮沢賢治生誕の地である花巻市や柳田国男の「遠野物語」の舞台である遠野市、平泉の中尊寺が知られます。
岩手県の観光絵葉書には、町並みを写した写真にバスが写り込むことが少なく、残念ながらここでもあまり数多くを掲載することはできませんでした。

盛岡

盛岡開運橋
開運橋

撮影時期:1890年代

盛岡市の開運橋。1890(明治23)年完成という初代の開運橋で、2台の人力車、1台の荷車、そして和服を着た歩行者が見えます。
手彩色ですが、淡い色付けには嫌味はありません。
まだ馬車よりも人力車が主体の時代ということで、1890年代と推定しました。
(盛岡)開運橋
開運橋

撮影時期:1900年代

やはり開運橋ですが、対岸の建物が上の絵葉書よりも増えているように見えます。橋の上には相変わらず人力車2台が寄り添って走っています。通行人は和服が主体ですが、左の自転車の人とその脇を走る人は、詰襟を着ているように見えます。
そこで、時代が少し進んだ1900年代と推定しました。
盛岡開運橋
開運橋

撮影時期:1910〜20年代

まだ未舗装の開運橋をバスが走り抜けます。バスが本格的に発達するのは1920年代ですが、この写真はいつごろのものでしょう。
岩手県では、1912(明治45)年に県内初の乗合自動車である盛宮自動車が盛岡−宮古間で運行されています。これにはイタリア製の20数人乗りのバスを用いたということです。

写真のバスは外国製で、大正時代のものだと思われます。
客席は6列ありますので、18人くらいは乗れるように見えます。

開運橋/明治橋
明治橋

撮影時期:1930年代(1932年以降)

開運橋は北上川にに長虹の如くかかり、盛岡停車場から市内に入る関門である。上流の夕顔瀬橋を隔てて厨川柵址の森が見え、岩手の秀嶺がその上に聳えている。
明治橋は往時有名な舟橋であったが今は県下第一の美しい近代色の橋となった。
明治橋には1台のバスが後ろ姿を見せています。それを追うように走る自転車とすれ違うリヤカー。
なお、明治橋は1932年に架け替えられたとのことなので、この写真もそれ以降の撮影です。
仙北町より明治橋をへだてた岩手山
明治橋

撮影時期:1930年代(1932年以降)

明治橋は、盛岡市街地の南側で北上川を渡る橋梁です。駅で言えば、盛岡駅より仙北町駅に近い位置にあります。
背景となる岩手山の偉容が綺麗です。
北上川の最下流のこの橋は8月16日の干蘭盆会には“舟コ流し”で名高い。

白っぽい色と青っぽい色のツートンカラーのバスが、明治橋を渡ってゆきます。

盛岡の風光 開運橋
開運橋

撮影時期:1940年代

盛岡市の開運橋。
雄大な岩手山を背景に、白い帯のボンネットバスが橋を渡ります。よくは見えませんが、リアにガス発生炉を積んでいるように見えますので、薪バスでしょうか。
おもて面に「きがは便郵」と書かれていますので、1933〜47年に発行されたもの。
盛岡 呉服町通り
呉服町通り

撮影時期:1920年代

盛岡市内の呉服町通りです。左側のレンガ造りのどっしりした建物は、第九十九銀行。現在は啄木・賢治青春館となっている建物です。
通りには、6人乗り程度の自動車が走ります。すれ違うのは人が引く荷車で、自転車も数多く見られます。
盛岡の都心地をゆくチャグチャグ馬コ
チャグチャグ馬コ

撮影時期:1960年代後半

みちのくの小京都といわれる盛岡は急速に近代化し、緑したたる森のなかに高層ビルが立ちならび、学園がふえ工場も急ピッチで新設されてゆく。されど樹々の梢は高く市街を流れる川の水は清く、しっとりとした街のたたずまいは消えることがない。馬の神さまにお参りするチャグチャグ馬コの列が、鈴の音もさわやかに官庁街の舗道を流れるように進んで行く。
チャグチャグ馬コの行列の後ろに、おでこの丸いバスが見えます。

県央地区(花巻・北上)

花巻温泉旅館 松雲閣
松雲閣

撮影時期:1924〜33年

花巻温泉の旅館、松雲閣の絵葉書です。盛岡電気工業株式会社経営と書いてあります。温泉軌道(後の花巻電鉄)を吸収合併した会社でもあります。
松雲閣は、今のバラ園の奥に立つ入母屋造りの2階建て旅館で、1924(大正13)年に建てられました。この奥に1927年に建てられた別館は、2018年に登録有形文化財になっています。

2階のベランダからは宿泊客が、玄関では旅館の従業員がお辞儀をして見送る中、2人の乗客を乗せた自動車が発車しようとするところです。前にもう1〜2列はありますので、4〜6人乗りのバスだと思います。
ナンバープレートは白地で岩167と書いてあります。1933年に黒地になる前のナンバーです。

黒沢尻案内(四)新町二丁目通り
黒沢尻

撮影時期:1930年代

黒沢尻というのは現在の北上市。
年末でしょうか、コート姿の歩行者であふれる道路を、バスが通り抜けようとしています。左側には「多木肥料」という看板を上げた商店が、右の店の軒下には「赤玉ポートワイン」の看板が下がります。
志戸平遊楽園全景
志戸平遊楽園

撮影時期:1960年代中盤

花巻の志戸平温泉にあったという志戸平遊楽園の全景。
昭和37年開設以来年々設備の充実を図り、今では東北一の充実した遊園地として有名になりました。モノレール電車を始め十数種類の遊戯機械と数十種類の自動遊戯機械、動物園、登山道、展望台等、バラエテーに富んだ子供の天国です。

サクラの木の陰に停車中の観光バスは、帝産オートのようです。三菱MAR420(1964〜67年式・呉羽ボディ)と推定。
写っている乗用車も大体バスよりちょっと古いスタイルです。バスのちょっと後ろでこちらを向いている車が日産サニーならば、1966年以降の撮影です。

花巻温泉/駐車場
花巻温泉

撮影時期:1960年代後半

花巻温泉の駐車場をテーマにした絵葉書。メインとなるのは、乗用車の三菱コルト1000ですが、その後ろに日野コンテッサ1300も見えます。
その後ろのほうに見えるバス駐車場には、宮城バスと岩手県南バスが2台ずつ停車中。

バスは左から順に、宮城バスの日野RB10P(1962〜64年式・帝国自工)、宮城バスの三菱MR490(1964〜67年式・呉羽自工)、岩手県南バスの日野RB10PまたはRC100P(帝国自工)、岩手県南バスの日野RB10PまたはRC100P(1964〜67年式、金産自工)だと思われます。

小田越
小田越

撮影時期:1960年代後半(1967年以降)

紅葉の早池峰山麓の林道を行く路線バス。早池峰山は遠野市、大迫町、川井村にまたがりますが、この小田越はその南側にあります。花巻バスなので、大迫から来た路線でしょうか。
ここは三陸沿岸に通じる唯一の林道、急峻な早池峰にはめずらしいなだらかな丘である。秋立つ高原の景観は格別で、紅葉に織りなされた牧歌的な風情がくりひろげられる。

バスは花巻バスのツーマン車で、日野RB10(金産ボディ、1967年式)、登録番号は岩2く3130です。方向幕は4文字が見えますが、最初の3文字は「早池峰」と読めます。

県南地区(一関・水沢)

猊鼻渓 菅原旅館
菅原旅館

撮影時期:1930年代

猊鼻渓壮夫岩の写真と、菅原旅館の写真が載った絵葉書。木造3階建の菅原旅館には、「かぢや」の文字が見えるため、後のかぢや旅館だと思われます。看板の上の方には、「猊鼻渓遊覧御案内所」の文字も見えます。

旅館の前には、2台の自動車が並べられています。菅原旅館では、乗合自動車を運行していたそうで、それが岩手県南バスの前身の一つでもあるようです。(注1)

水沢町の一部
水沢町

撮影時期:1950年代(〜1954年)

水沢町と水沢競馬場の写真をあしらった絵葉書。戦後の発行ですが、未舗装の道に交通量は少なく、歩行者数人と1台のボンネット型バスが見えます。
水沢町は1954年に合併により水沢市となっていますので、1954年までに発行された絵葉書だと思われます。

バスは戦後間もないころにしては比較的大型に見えます。地域的には岩手県南バスのエリアですが、濃い色に白い帯が1本入ったデザインが当時の県南バスのものかどうかは分かりません。

岩手県 厳美渓
厳美渓

撮影時期:1960年代

西日が当たっているのでしょうか。一部で紅葉の始まった厳美渓、天工橋を岩手県南バスのボンネットバスが渡って行きます。
 車両画像を拡大

ボンネットバスは新三菱ボディ。同じ窓配置でいすゞBX531の廃車体を見たことがありますが、これはボンネットの丸みからトヨタFB80あたりのようにも見えます。

緑深く暑さを忘れる真夏の須川高原温泉の全景
須川高原温泉

撮影時期:1960年代

真夏の須川高原温泉の全景です。
右上にはシャクナゲの写真がありますが、岩手日日新聞社が「高山植物」という名前で発行した絵葉書の一つのようです。
 車両画像を拡大

中央部の建物脇に2台の岩手県南バスが停車中です。左側はキャブオーバーバス、右側はリアエンジンバスです。

須川高原温泉の夏の夜景
須川高原温泉

撮影時期:1970年代前半(1972年以降)

夕暮れの須川高原温泉です。旅館の窓には明かりがともっています。
駐車中の乗用車の中に、2代目日産ローレル(1972年〜)と思われる車両が写っているため、1972年以降の撮影と想像できます。
海抜1,200米に豊富な湯が滝となって流れる須川高原温泉の夏の夜景

駐車場には岩手県南バスのボンネットバスが駐車中。フェンダの形状から日産U690(富士重工)のようです。
右端には富士重工製のリアエンジンバスも見えています。

作成:IWATE KAWASHIMA PRINTING CO., LTD

沿岸地区

市の玄関久慈駅
久慈駅

撮影時期:1950年代

久慈市の玄関口、久慈駅を発着する国鉄バス。
国鉄バスが八方へ連絡している。日本一の生産を誇る九戸木炭、枕木、石炭、マンガン鉱の積出で知られる。

国鉄バスは、ボンネットバスが全部で7台見えます。手前はいすゞBX91(1950〜51年式、帝国ボディ)、その右後ろはいすゞBX91(1948〜49年式、帝国ボディ)のようです。
左で3両並んでいる後ろ姿は、川崎ボディのボンネットバスです。

釜石 商店街の一部
釜石市

撮影時期:1950年代

釜石の商店街を行くボンネットバス。製鉄所の5本の煙突は、製鉄の街釜石を印象付けています。
道路の上のゲートには「マル富士塊炭」と書かれています。

ボンネットバスはカラフルに色づけされていますが、いずれも赤と白の岩手県南バスだと思われます。
は民生KB3B(1950〜51年式〜)のようです。
は独特のグリル形状から民生BE31(1953〜54年式)と思われます。

釜石市の風光 商店街(釜石ビルの遠望)
釜石市

撮影時期:1950年代

釜石ビルを遠望する釜石市商店街の光景。
工業都市釜石、漁業都市釜石、また同時に東北唯一の国際近代都市として発展を続ける商業都市である。

ボンネットバスはいすゞBX91のようです。東京都営バスカラーですが、手彩色でツートンカラーに変わっています。恐らく岩手中央バスだと思われますので、1953年に運行を開始した盛岡−釜石線でしょうか。

昭和33年 釜石駅前とバス
釜石駅

撮影時期:1958年

撮影年は明記されていますが、絵葉書の発行自体は最近のものと思われます。釜石特産店で販売されていたとのこと。
(提供:都南村民様)

岩手県南バスカラーのキャブオーバーバスで、側面の社名表示から、東部バスだと思われます。東部バスは、1957年に県南バス傘下になっていますので、さっそくカラーデザインを変えたのでしょう。
富士重工ボディで、前面のエンブレムからトヨタではないかと思われます。

発行:Keiko Inagaki
通岡有料道路
通岡有料道路

撮影時期:1960年代(1963〜73年)

高田←→大船渡両市を結ぶ20分コースで頂上展望台から眺望する湾の景勝はまさに絶景である。
通岡峠を通る国道45号線で、1963年に開通し、1973年まで有料道路だったそうです。舗装したての綺麗な路面です。
背景は大船渡湾、

バスは岩手県南バスのキャブオーバーバスで、いすゞBXD30E(川崎ボディ、1963年式)。

陸中海岸浄土ヶ浜
浄土ヶ浜

撮影時期:1960年代

岩手中央バスが発行した絵葉書。「季節の旅路は岩手中央バスで・・・」というタイトルで、岩手県の代表的観光地、八幡平と浄土ヶ浜の写真を掲載、特に浄土ヶ浜にはバスを持って行って撮影しています。
岩手中央バスの盛岡駅前の観光案内所の電話番号は市内局番が1桁です。

バスは日野BD10系列(帝国ボディ)。ブルーリボンカラーの貸切車で、側面に愛称名が書いてあります。右書きで「ほくと」と書いてあるようです。

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(注1)
鈴木文彦(2004)「岩手のバスいまむかし」の年表によると、菅原旅館は1926(大正15)年に都築自動車の車両を借用して陸中松川〜長坂間の運行を開始、1927(昭和2)年に正式に営業許可を得た後、1939(昭和14)年に鈴木旅館と共同で長坂自動車を設立、1943(昭和18)年の戦時統合で岩手県南自動車に統合されている。
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80s岩手県のバス“その頃”