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更新後記(2019.8.4)
Re:更新後記(2019.8.4)
こんにちは
今年の納涼特別企画、良いですね。
滝沢営業所所属の元北海道中央バス、親戚が青山町に住んでいたので何回か乗りました。テールランプに特徴があったのでよく覚えています。
他に滝沢車で運転席のすぐ後ろの座席2列ぐらいのシートが2人掛けだったBUがあったのを思い出したのですけど、どのBUだったのかが分からないです。 わたくしの勘違いだったかな?
でもシートの色が違っていて、変だなと思ったような?
1985年8月撮影 赤色が見えます
Re:更新後記(2019.8.4)
53さん、こんばんは。
> 他に滝沢車で運転席のすぐ後ろの座席2列ぐらいのシートが2人掛けだったBUがあった
確か、元国際興業のBU06とBU04(1973年式)が、その配置だったような記憶があります。
前の2列だけが前向きで、残りがロングシート。青色のモケットでした。
あと、元西武バスのBU04は、中ドアから前が1人掛けの前向きで、後ろがロングシート。やはり青色のモケットだったと記憶しています。
元日立電鉄のBU10は、ロングシートでしたよね。
当時、毎日のように乗車していたのに、車内の写真は撮っていません。今になると、心残りです。
Re:更新後記(2019.8.4)
管理人様こんにちは
詳しいご説明ありがとうございました。
昨日掲示板に投稿した後、昔の自分の撮った写真を見返してみると前2列2人掛け車内写真ありました。
自分で話題振っといて、実は自分で撮っているとは・・すいません
バスの外観の写真は、なんとなく何を撮ったのか覚えているのですけど車内の写真は覚えてなかったですね。
盛岡駅から矢巾営業所に向かう途中で撮影 1984年8月
Re:更新後記(2019.8.4)
自分が中学生の頃、何気に夏の帰省で撮った写真を学校に持っていき、当時神奈中マニアの友達2人に見せたら大変驚いていました。
「これってドアが後ろに開き、雨どい赤いし窓の配置がどうのこうの 神奈中に似てるなー 」
などブツブツ言いながら、まさしく とんでも鑑定団を始めました。
友達も神奈中中古が岩手で活躍しているなんて知らなかったと思います。当時のわたくしには何を言ってるのか何がすごいのかさっぱり分かなかったです。
1981年8月
Re:更新後記(2019.8.4)
まさに、この車内が元国際興業ですね。BU06だと思います。
1973年式のBU04も同じ座席でした。
1974年式からは前向き座席になりました。
一番前だけが前向きという座席配置は少なくないのですが、2脚だけ前向きというのは特徴的でした。
神奈川中央交通のBU10Dは、後編で触れますので、期待しないでお待ちください。
Re:更新後記(2019.8.4)
飽くまでも昔に聞いた話ですが、国際興業が北海道いすゞ自動車の大株主である関係で、国際興業の車輌は地元販社ではなく北海道いすゞから納入されている、と聞いた事が有ります。
恐らくはその関係で、北海道いすゞが仲立ちをして国際興業グループの岩手県交通・十和田観光電鉄に北海道中央バスの中古車が入ったのでしょう。
Re:更新後記(2019.8.4)
梨野舞納さん、こんばんは。
北海道いすゞが国際興業グループであるのは、梨野舞納さんのおっしゃる通りです。
今回、ちょっと複雑な事情として、岩手県交通は1986年まで国際興業グループではなかったという点があります。
記事中では端折ってしまいましたが、県南バスの社長の持ち株の売却先が北海道いすゞだというのは、飽くまでも想像です。
1978年頃に元県南バス社長が手放した株式が70%であったとの報道と、1986年に岩手県交通が国際興業グループになった時点での北海道いすゞの持ち株比率が70%であったとの報道から、そう推察しています。
ではなぜ、県南バス社長が北海道いすゞに株式を売却した時点で国際興業グループにならなかったのか。
それは、経営者に対する不信から、1977年に国際興業は岩手県交通の経営から手を引いており、1年かそこらで手の平を返すわけにはいかなかったでしょうし、経営に参画するメリットもなかったのだと想像します。
そういう関係だったので、北海道いすゞを通じて資本関係はあったにもかかわらず、車両の譲渡などをするような間柄ではなかったのだ、という想像です。
Re:更新後記(2019.8.4)
納涼特別企画に便乗しまして・・・
お盆休み中、市内某所で「花巻電鉄西鉛線廃線50周年記念写真展」なるイベントが行われていて、行ってみました。
展示されていた資料の中に花巻市博物館編集の市制50周年記念誌『花巻のあゆみ』というものがあり、眺めていたら、花巻バスの路線図がありました。停留所名から1968年前後のものと思われます。
(その場にコピー機が無くて写真を撮ったのですが、元の路線図自体が若干不鮮明なものでした)
その1:花巻バス路線図
石鳥谷から志和を経由して志和稲荷神社への路線があったようですね。
また、花巻温泉−八日市−石鳥谷の路線が無いのですが、この後に開設されたものなのか、あるいは電鉄バスの運行だったのか、分かりません。
Re:更新後記(2019.8.4)
その2:市内線
2路線あったようで、路線図と1968年の空中写真を照らし合わせて今の地図に載せてみました。
(オレンジ:中央線、青:環状線)
環状線の「農業高校前」は旧花巻農業高校です(高校の跡地が花巻市文化会館・花巻市図書館)。
環状線の藤沢町バス停〜双葉町バス停間の経路が不明なのですが、藤沢町から電鉄西花巻駅・花巻バスセンターを経由して双葉町へ向かっていたのではと推定しています。
以前、台温泉への路線があったのでは?と書きましたが、花巻温泉どころか松園町への路線も無かったのですね。
電鉄バスについて何か資料はないかと思って行ってみたのですが、残念ながらバスのほうは資料無しでした。
電鉄の写真展で花巻バスの情報を得るのも妙な話ではあります。
Re:更新後記(2019.8.4)
とまりますさん、こんばんは。
1968年前後のものというのは、どの辺で分かるんですか?
気になるのは、本社前バス停はあるけど、花巻バスセンターがない点ですね。
市内線は、バスセンターは関係なく走っていたんでしょうか。
あと、環状線は、元の路線図と、とまりますさんの描画とでは、本社前付近の経路が違いますよね。藤沢町から双葉町までほぼまっすぐ進んでいますが、そういう道はあったんでしょうか。
Re:更新後記(2019.8.4)
>1968年前後のものというのは、どの辺で分かるんですか?
花巻農業高校は70年代前半に現在の場所へ移転したのでそれ以前、加えて、環状線の「幸橋(さいわいばし)」から「専売公社前」間が実際に踏切を挟んで一直線の道路で結ばれていたところ、69年に踏切の南側に跨線橋ができたので跨線橋ができる前のものと判断しました。
もっとも、よくよく全体の路線図を見ると電鉄の西鉛線が描かれているので、西鉛線廃止以前のものと気付きました。
あるいはそれ以前の路線図なのかもしれませんが・・・
>藤沢町から双葉町までほぼまっすぐ進んでいますが
今も昔も道路は一直線なのですが、環状線の藤沢町バス停がどこなのかで引っかかっています。
現在の太田線・栃内線と同じ場所ならばまさに路線図通りなのですが、そうなると農業高校前から藤沢町間が
どういうルートを辿っていたのかが疑問です−大型バスが通れる道路が見つからない。
農業高校前−中根子−石神−藤沢町という遠回りルートだと、中根子−石神−藤沢町間で電鉄西鉛線と競合していたことになります。
あるいは、現在の湯口線若葉町バス停が当時の藤沢町バス停だったのかもしれませんが(若葉町は1960年代後半に発足した行政区だったと思います)、これだと電鉄の西花巻駅から南に下って鍛冶町を経由して(画像の白線部分)双葉町に向かっていけばほぼまっすぐに進めます。
(16年前までの天下田団地線材木町−鍛冶町間はこのルートをたどっていました)
路線図で「本社前」を経由していない点で、UPした画像(1968年9月撮影の空中写真)の白線部分を経由していたのが正しいように思われるのですが、何ともわかりません。
「本社前」バス停の件ですが、この頃は桜木町に営業所がある時代だったのかもしれません。
空中写真の中央下に営業所らしき施設が見えます。
Re:更新後記(2019.8.4)
こんにちは。
53様の車内の写真、素晴らしいですね、よく撮っておいていただけたものだと思います。管理人様がこの写真から元国際興業のBU06だと推定されておられますが、どの部分がBU06であるポイントなのでしょうか。私も国際興業の初期BU04はまだロングシートがあったように記憶しているのですが、どんな配置だったか覚えていないんですよね。BU06よりもロングシート部分が減ってたような、そうでもないような・・。
それにしても、今のジャングルジム状態のバスに比べてすっきりしていていいですねぇ〜
Re:更新後記(2019.8.4)
獣さん、こんばんは。
車内写真がBU06であると考えたポイントとしては、右端の窓柱の位置です。右側面の6つ目の窓の後ろの窓柱が、車内を下に辿ると後輪のタイヤハウスの前側に位置します。
BU04ですと、窓幅が広いので、6つ目の窓柱は、タイヤハウスの中央に位置します。
上の方でも書いたように、BU06(1972年)と初年度のBU04(1973年)は、この同じ座席配置だったと記憶しています。
最前部の2列が前向き2人掛けというのは、ちょっと変わった配置です。
次年度のBU04(1974年)からは、すべて前向き座席になりました。
この当時のバス車内につかみ棒が少ないのは、物理的に付けられなかっただけでなく、まだ車内事故防止が今ほど問題視されていなかったのだと思います。そもそも、高齢化も今ほど進んでいませんでしたので、立ち客も、吊皮を掴んでいれば大丈夫ということだったのかも知れません。
Re:更新後記(2019.8.4)
管理人様、お返事ありがとうございます。
なるほど、確かに貴サイトの元国際興業BU06とBU04の窓位置を確認してみると、そのようですね。こんなところから判別されるなんて驚きです。
私としては、前方行き先表示器の覗き窓が正方形で、国際興業のBU04は確か少し横長だったように思うのでそこかなぁと思ったのですが、全てのBU04がそうだとは言い切れないので自信がありませんでした。
座っている人がいなければ、床が前方までつながっているかどうかで簡単に判断できたのですけどねぇ。あと、国際興業では昭和58年あたりに料金箱が新型に入れ替えられたのですが、その際に料金箱をガードする金属棒が設置されて、新しめの車両とそうでない車両で、ちょっと形状が違っていたのを覚えています。あれは何だったのでしょう・・
つかみ棒が増え始めたのは、国際興業ではCJMからでしょうか。座席配置もガラリと変わり、当時は新鮮に感じたものです。
梅雨も明けたと思ったら、日本列島を猛暑が襲いかかっているので、今年も期間限定の納涼特別企画をお送りします。
題名のネタ元はテレビ東京の人気番組ですが、よく考えると、テレビ東京の系列局がない地方では、ゴールデンタイムには放映されず、土休日の日中とかにやっていたりします。
私の居住地も、ご多分に漏れずその口で、半年くらい前のを平気な顔をして放映しています。
この番組には、女性のアシスタントがいるのですが、なぜか画面にちゃんと映らないようにしているのが気になります。
この番組に限らず、最近のバラエティ番組はみんなそうです。商品を運んできたりする役目を担っている、綺麗な女性がいるのですが、チラッと写ればいいほうです。わざわざ綺麗な女性を使って、またコンパニオンのような制服を着せているのは、テレビで見せるためではないのか・・・と思うのですが、商品化することにクレームが来るんでしょう。
通行人のモザイク処理とか、分別のありすぎるコメンテーターのセリフとか、言語狩りとか、最近のテレビはどんどんとつまらなくなってきています。
最後に、ここで添付した写真の説明です。
“その頃”に、岩手県交通が国際興業から譲受したBU04の車内でみつけた広告です。埼玉県の広告だったので、当時は譲受前から付いていたものだと思い込んでいたのですが、今になると、自信がありません。
奥にぶら下がっている広告は岩手県のものなので、普通は気づくだろうと。埼玉県の紹介所が岩手県に広告を出すこともあるだろうと。