東京お遍路
不思議なものでもう二年が経ちました。母親の病気は治り、僕の方はというとまあまあといったところです。
僕の育ったところは到底都会とは呼べない場所でありましてそんなところで育った僕は東京という恐ろしいまでにシステマイズされた都会に圧倒されている次第です。女性もなんだか洗練されていて僕は恥ずかしいような気分さえしてしまいます。
ところが最近ようやくお付き合いをさせていただけるかもしれない、そんな予感をさせる女性に出会ってしまいました。相手がどういうふうに僕のことを思っているのかは少しもわからないのですが、とても好感が持てる女性だということは確かです。
そして今日は何回か目のデートと云っていいのでしょうか、二人で食事に行くことになっており、待ち合わせ場所に向かう途中なのです。
そんな電車の中でふと思うことはもし彼女が僕に対して男性として好感を持ってくれているのならはやく僕の気持ちを伝えたいということと本当に彼女が好きなのか、都会での一人暮らしが寂しく人恋しくなっているだけなのではないかということです。
そんなことを考えているうちに待ち合わせをしている駅に着きました。彼女はどうやらまだ来ていないようです。
こういうとき非常に困るのは一体何も考えずにどうやって待ち時間を潰せばいいのか、とか彼女がやってきたときどういう顔をしてどう受け入れればいいのかということです。
もちろん普通にしておけばいいのです。しかしこの普通というのが厄介で百人の人間がいたら百通りの普通があるのも事実です。そういうときには僕自身の普通を素直に表現すればいいのですが万が一にも僕が都会っ子の彼女とはあまりにもかけ離れた普通を演じてしまったとき、もう僕はいたたまれなくなって彼女を殴ってでもその場を離れてしまいたくなるのではないかということです。
しかしそんな考えとは裏腹に彼女はすんなりと僕を受け入れてくれました。そのことのほうが僕にとっては普通ではないことのように思われました。
彼女は到着しました。しかし何かが違うように感ぜられました。まるで彼女そっくりのマネキンが僕の方に近づいてくるではありませんか。いえ歩いているのですから決してマネキンなどではなく人間なわけなのですが彼女に対する感情がまったく沸き上がらないどころか少々落胆しているような気持ちでさえいるのです。ですからそのような気持ちにさせる女性が彼女なわけがないとでも思いたがるように僕の中の誰かが云うのですが、それは紛れもなく僕の心なのでしょう。それ以外のものだとしたら一体何なのでしょうか。僕は考えないようにしました。
「やあ」
そんな当たり障りのない挨拶を交わしたところで僕はやっと彼女だと確信を持てましたし、もしかすると彼女も同じような気持ちだったのかもしれません。ほっとしたような表情を見せ、こんにちは、と微笑む彼女の顔はやはり好感が持てるなと思いました。しかしさっきの感情はなんだったのだろうか、そんなことを考えながらも彼女と歩きながら時折ちらちらと彼女の横顔を見ていると、やっぱり僕は変だなと一人苦笑してしまいました。
どうしたの、と彼女は訊いてきました。僕は慌てて、ん、なんでもないよ、と言いましたが変に思われたんではないかと気が気ではありませんでした。
そして5分程度歩いたところでしょうか、公園が見えたので僕達は少し休もうか、と言いベンチに腰掛け他愛もない会話を交わしました。それは今日はいい天気ですね、とか疲れたね、とかこれからどうしようか、とか本当に普通の会話でした。一言で言うとたいしておもしろくもない会話だったのかもしれません。しかし僕にとって彼女と話せるということ自体が楽しいことだったので、そんなことはどうでもよくそれよりもさっきのことの方が気になって仕方がなく思わず僕って変ですか、などと訊いてしまいました。
すると彼女は少し間を置いてくすっと笑い、ちょっとね、と言いました。
僕は少し乾いたような笑いを返しましたが彼女の言う「ちょっと」というのはどの程度なのか気になりました。しかしそんなことは訊くことは出来ない質問だなということは普通とは何かという質問のように気にはなるのですが訊いてはいけない質問ランキングなどというものがあるとしたら上位クラスに入るだろう質問だということです。
僕たちはまた歩き始めました。食事の時間までまだ少し時間があったのですが歩きながら会話をする以外に何か楽しいことはないかと思いました。僕は特にゲームセンターで遊ぶことやら都会にあるいろいろな娯楽施設を使って楽しむということをあまり知らないものですから、そういうところに行くとかえって楽しめないのではないかという危惧感がありました。もしかしたら彼女はそういったところで時間を潰したいと考えているかもしれませんが、そういうことを訊くのは無粋な気がしたし、もし訊いたところで別にいいよ、と返されるだろうなと思いました。それよりは僕がもっと楽しい話をし、僕自身を彼女のエンタテイメントとして彼女が過ごしてくれればいいなと思いました。しかしそうやって意識すればするほどますます何を話していいかわからなくなってきました。結局たいして話をすることもなく予約をしていたレストランに着いてしまいました。
何を隠そうこのようなレストランで女性と食事することは初めてです。テーブルマナーのテの字も知らないような自分が本当にこのようなところで食事して恥をかかないだろうかと思うと少し汗が噴きだしてきました。しかし来てしまったことは事実です。おもいきって食事を楽しむ以外に僕の取り得る手段はないように思いました。
「じゃ、行こうか。」
そう言って彼女の手を握り(このとき初めて僕は彼女の手を握りました)店へと入っていきました。
中はというと落ち着いた雰囲気の茶色の内装に大きなシャンデリア、真っ白できれいに並んでいるテーブル。僕らは奥から二番目のテーブルに案内され少し僕のような粗野な男には気後れしてしまいそうな小奇麗なギャルソンが椅子を引き、座らせてくれました。ああ、僕はこのギャルソンのような男だったら彼女に愛される資格があるのかもしれないな、と思いました。
そうこうしてるうちに食事です。まず食前酒を頼むことになりましたが、生まれてこの方ワインなどというものを飲むのは初めてでした。メニューにはフランス語とカタカナで書かれた少々高い意味不明なお酒の名前が並んでいます。ソムリエが本日のお勧めのワインです、などと勧めてくれたのですが僕には全くわかりませんでしたのでメニューを見ながら少々黙ってしまっていると彼女がお勧めのワインでいいんじゃない、と言うので結局それにしました。
僕はもうすでにしどろもどろになりつつもそれを頼み、料理の注文へと入りました。料理の方はコースを頼めばよかったので簡単でした。僕はメニューの中から二番目に高いコースを選び、ソムリエを待ちました。
するとソムリエは料理は何をご注文されましたか、と訊くのでこのコースを頼みました、と言うとそれは大変このワインと相性がいいですよ、と言ってくれたので僕は少しだけ気分が楽になりました。
しかしソムリエが持ってきたワインは僕の口には合いませんでした。彼女はというとおいしいね、と言うので僕もうなずくしかありませんでした。彼女が本当はおいしくないね、とソムリエが行ってしまった後こっそり言ってくれたら僕はどんなにかよかっただろうか、と思いました。
僕の気持ちとは反比例するようにどんどん出てくる料理。料理はとてもおいしいものでした。こんなにおいしいものを食べられて、しかも彼女と一緒だなんて本当によかった。人生で何度かあるかないかの幸せじゃないかと思いました。
料理が出てきて数秒はこの料理は何々が材料でこんな味付けがしてあるね、とか会話するのですが、ふいに飲んでしまうワインが僕の気分と会話を気まずくさせます。こんなワインがなぜこんなにも高いのか、そして彼女の口には合うのか、僕には不思議でなりませんでした。
やはりワインは高級な飲み物過ぎるのでしょうか、無理をして飲んでいるうちに気分が悪くなってきました。
彼女は少し赤らんだ顔をしながらおいしそうに出てきた料理やらワインを飲んでいます。僕はというとあまりの気分の悪さにトイレへと立ちました。
失礼、そう言って立ち上がった瞬間僕は倒れてしまったみたいなのです。みたいなのです、というのはそこで記憶が無くなってしまったからです。
気がつくと真っ白い蛍光灯が目に入り眩しかったのを覚えています。辺りを見回してみましたが彼女の姿はありませんでした。
おかしいな、そう思っていると医者らしき男が部屋に入ってきて「**さん。わかりますか。」と僕に呼びかけました。
**さん?、誰だそれは。僕は**ではない。全然わからない。彼女がいないことや**と男が僕を呼ぶことや何もかもがわからない。
そこでこちらから質問してみた。「**というのは僕の名前ですか」と言うと男は静かに頷くと共に怪訝そうな顔をした。そして看護師の人を呼び耳元で何かを囁いた。
「**さん、あなたはどうやら記憶喪失のようです。」そう医者らしき男は言った。何を言うのだろうか、僕はすべて覚えている。彼女と出会ったときのことから彼女と食事をしていて・・・、その一部始終を話し終えると同時に僕は気づいた。彼女以外の記憶が何一つないのだ。
自分の父親、母親、兄弟、そして僕自身が今社会的にどういう身分で仕事をしているのか学生なのか全くわからないのだ。
僕は過呼吸になり再び意識を失った。
僕は海に浮いていました。息が苦しくなって目が覚めるとそこは一面の海です。なんとか泳ぐことは出来るので顔を海面に上げてみるけれども何も見当たらない。
どうしようもない無限に僕はため息をつき、ここは自由じゃない。どこに行くことも出来ない、と悟りました。しかし僕には何かしらの確信がありました。
そこである方向に向かって一所懸命泳いでいくことに決めました。すると、しばらく泳ぐとそこは遠浅の海で砂に足をつけることができました。
僕は足の指で砂を掴んでは手のひらまで持っていき、それがごく一般的な海のさらさらした砂だと確かめました。もう少ししたら陸に着けるのではないか、という希望が僕の頭の中に浮かんできました。
しかし進めど進めど陸地は見えてきません。僕は哀しくなって泣きながら同じ味の海に溺れていきました。溺れて僕はまた意識を失いました。
*
目を覚ますと彼女が上から僕の顔を覗き込み、大丈夫?と尋ねました。
僕は・・・だ・・い・・・じょう・・ぶ?
僕が起き上がるとそこには彼女のバラバラ死体が転がっていました。
不思議なものでもう二年が経ちました。母親の病気は治り、僕の方はというとまあまあといったところです。
母は元気です。