後遺症


耳の下、ちょうど上あごと下あごの交わる所。
ここを中心に、左右から病根の上咽頭をめがけて、放射線を照射しました。

この放射線の通り道にあるものも一緒に障害となりました。
聴覚、唾液腺、歯および歯周です。

また、リンパ節の治療のためにも首回りと胸にも照射しました。
このために起きた障害は声がかれ、首筋が硬くなり、さらに頚椎にも及び左腕が上がらなくなりという症状も出ました。
遅発性後遺症です。


●聴覚障害

鼓膜に穴が・・

耳は、滲出性中耳炎のために一時的にふさがって聞こえなくなったことは、入院前、入院中、入院後もありました。しかし、それなりの処置で回復しました。

しかし退院から2年ほど経った平成10年(1998)の年末、今度は決定的でした。
その後の調べで鼓膜に大きな穴が開いていることがわかり、回復は望めないとのこと。遅発性の後遺症です。

大学病院の先生とも、いろいろもめましたが、結局手術をしてもあまり変わりがないということが分かりました。

もともと右耳が聞こえないのに加え、左耳も聞こえが悪くなり愕然としました。これからどうやって暮らしていけばいいのか…。
でも、それなりに何とかなるものですね。回りの人には迷惑を掛けているけど、いろいろ理解もしてもらっています。
左耳にはフルデジタルで耳穴式の補聴器が入りました。高かったです。


唾液腺障害

つばが出ない

唾液は、放射線照射3日目から出が悪くなりました。
とにかく口が渇いて、食べ物がうまくそしゃくできず、口の中でこなれてくれないので、汁ものを仕度して、その力を借りて物を飲み込んでやる感じで、胃に落としました。

放射線が終了したころは、それはそれは唾液が出なく、どこへ行くにも水を持参しながらでした。
もちろん口の渇きも比例し、夜寝ていても口が渇いて眠っていられず何度か起きては口を湿らせました。
退院してからも、ずっとそんなことが続きましたが、これは徐々に徐々に回復していきました。

3年ほどで、普通の人の半分くらいの唾液が出るようになりました。ごはんを食べるには今も相変わらず「汁」が必要です。
医者の話ですと、これ以上はどうも・・ということです。

しょうがないです。生きるために選んだ道です。でも、あのつらかったことを思うと、今は飴もなめられますし、ガムも噛めるようになりました。


●味覚障害

りんごが酸っぱくて

副作用では苦味をはじめ、いろんな味が変わったのですが、これは思ったよりも早く回復しました。
ただ、一つだけ残りました。「酸っぱみ」です。
きっと、口腔の粘膜が敏感なためかな・・と自分では思っています。
普通のリンゴ、サクランボ、ナシ、トマトも口に入れると酸っぱくて顔をしかめてしまいます。
これだけは、今もどうにもなりませんね。


●口 腔

奥歯が抜けた

口の中は、副作用は大変でしたが、徐々に回復しました。しかし、歯ぐきにも照射されており、特に上の奥歯は上咽頭への通り道でした。
退院から1年以上経ち、左上の奥歯が虫歯になりぐらついてきました。ある日何かのはずみでその奥歯が抜けてしまいました。
何日かはほおっておいたのですが、どうもスースーします。抜けた所に隙間ができて、鼻腔と口がつながってしまったんですね。
普通の人だと歯が抜けても、歯肉が再生して穴がふさがるのですが、自分の場合はふさがらないんですね。
ということで、全身麻酔で手術で穴をふさぐことにしました。1998年11月のことです。


全麻で手術2回

初めての全麻での手術。不安もありましたが、気がついたらもう終わっていました。順調に治療も進み抜糸も終えて、無事退院。
となったのですが、なんと歯肉がくっつかずまたまたスースーです。口腔外科の医師団も困ってしまったようです。

なんとかしようと、1999年2月、医師団は外来で部分麻酔で再手術を試みました。メスで切られる音、上あごの骨を削られる音など、もう冷や汗タラタラでした。が、これも失敗に終わりました。


2カ月後の4月、医師団はもう失敗は許されません。結局あげたの薄い肉ですが、これを3枚に下ろして1枚を骨肉にし、あとを左右から覆いかぶせるようにして穴をふさぐことになりました。2回目の全麻手術です。
ここでようやく、歯の抜けた処置が終了しました。
骨が大きく削られ、奥2本の歯を抜いたので、
結局部分入れ歯を入れることとなりました。


●頚椎障害

左腕が上がらない

1999年(退院2年後)の年も押し詰まったある日、朝起きてトイレに入りパンツを上げようと思ったら・・なんと、左腕がパンツの横まで行ってくれないのです。
どーなっちゃったの・・・(汗)
そこで右手で、左手をつかんでパンツに移動、何とかパンツを上げることができました。
何が起きたか、うまく事態を把握できないが、とにかく困った事態になったことは確かです。

大学病院へいったら、第3内科(神経内科)に回されました。
左の二の腕に針をさして電極を通したり、骨髄液を取ったり、いろいろ検査をしました。
結果、首の頚椎の4番目5番目に放射線の影響で障害が起きていました。そして、そこからは神経が左腕に延びているので、左腕が上がらなくなったことが分かりました。

治療はステロイドが効くということで、服用しました。最初は大容量のステロイドだったので、お腹が痛くなるなど大変でしたが、左腕はパンツをつかめるようになりました。
薬を段々減らしながら、一年ほど服用しました。左腕は日常の生活に支障がないくらいに回復しました。
でも、今も上がりにくくあまり力が入らないことは確かです。二の腕は痩せて筋肉のふくらみはありません。
ただやっぱり、ここまで回復してくれたことに感謝です。


●リンパ節炎

下あごにしこりが

2001年(退院後5年)の昨年、春ごろから下あごの頤(おとがい)にコロコロしたものがありましたが、特に気にもならなかったのでそのままにしていました。
ところが夏になると、急に大きくなりピンポン球くらいにもなったので、これはヤバイと思い大学病院の耳鼻科を受診しました。
A先生という話しやすく庶民的な人が担当してくれました。が、リンパ節への再発および転移を疑ってかかったほうがよい・・ということになりました。


リンパ節に再発?

7月のこれから暑くなろうという季節でしたが、心は奈落へと落ちていきました。
丸5年が経とうとして、そろそろ病気を忘れかけていたころ、まさか転移再発などには考えもおよびませんでした。

最初の「がん宣告」とはまた違う恐怖が襲ってきました。
自分の中では「再発=死」という方程式ができていたので、ある意味でまた覚悟をしました。
今まで苦しめられてきた「後遺症」にただ不満だけを感じていたのが、逆にもう少しあごに多く照射してたら、再発は起きなかったかもしれない・・などと考えたりするようになりました。
ねぷたまつりも近づき、最後になるかもしれないから、精一杯頑張って、この目に焼き付けておこう・・とも思いました。
そして、とにかく一日一日を大切なものにし、感謝の気持ちで暮らすことにしました。


ネットに励まされて

また一方では、やっぱりこの不安な気持ちのやり場に困りました。
そんな時なにげなく会社のパソコンでネット検索していて、管理人tomさんの「ピノコの部屋」を見つけました。たくさんの人から励ましや応援の言葉をいただき、ある意味で心が救われました。自分と同じ上咽頭がんで、さらに肺転移と闘っているtomさんに出会い、自分もこうしちゃいられない・・という気持ちになりました。入院手術の時は、たくさんの人から応援メッセージをいただき、本当に心強かったです。


3回目の全麻手術

その後、細胞を取って生体検査を2回やりましたが、悪いデータは出てこないが、目に見えて大きくなってるので、良いものとも言えない、というあいまいな答えが返ってきました。
そして、とにかくほっては置けないので取っしまおうということになり急きょ9月6日、耳鼻科に入院しました。
10日が手術の日で、全麻での3回目の手術。3回目ともなるとさすが慣れたもので、準備も気持ちも万端で臨みました。手術も結構あまり時間がかからないで終わりました。


良性の判定まで

あとは取った腫瘍の判定待ちとなりました。
一週間くらいで結果がでるということで、16日に複雑な気持ちで待っていたのですが、なんの音沙汰もなく、肩透かしをくらった感じでした。17日、18日も担当の先生が居なかったり、学会があったりと、返事を延ばされました。
おかしい・・。
もう我慢もしきれなくなり19日朝、研修医のH女医が来たので、「抜糸も終わったし、結果は出ないけどとにかく家に帰してくれ」と頼みました。
そしてその日の夕方、主治医のI先生が難しい顔をして病室へ入ってきました。が、後ろでなんとH女医がニコニコ笑ってるではないですか。I先生のポーズもそこまでで、あとは笑い顔になりました。
「悪性リンパ腫を疑がい、いろいろ病理で調べたが、悪いものはどこにも見当たらなかった」という説明。「結果が遅くなったのは、あまりにも珍しい物だったので、病理でも丹念に調べた」ということでした。


感謝

心からホッとしました。

この腫れ物体験のおかげで、それまでいやでしかたがなかった「がん」と「後遺症」を素直に受け入れることができるようになりました。
自分が今こうして、曲がりなりにも頑張っていられるのは、最初の「上咽頭がん」とそしてさまざまな「後遺症」のおかげだと、改めて実感できるようになりました。感謝です。