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07.6.16



25年の歳月と親父       



【その時】

あれから25年が経った。
あれとは結婚した時、そして親父が死んだ時。

自分が結婚式を挙げたのは6月6日。
それから10日後の6月16日に親父は逝った。
新婚旅行から帰ってきて3日後だった。

その時親父は48歳。
自分は23歳だった。

当時は25年後など想像できるはずもなく、ずっとずっと先のまた先のような感じでいた。
しかし今自分はその48歳になった。
そして長男は23歳。

昭和57年(1982年)6月16日。
斜向かいの同年代の親父のケヤグが亡くなり、通夜の日だった。
自分が代わりに通夜に参列していると、妹が迎えに来た。
すぐに病院に来てくれと。




【陸に上がった船乗り】

親父は30代半ばに、血圧が高いこともあり捕鯨船を降りた。
降りてからはリンゴやコメを作りながら、土方をしていた。
何事も器用な性質で力自慢もあり、土方の親方からは重宝がられていた。

しかし海で育った男にとって、陸は住みにくい場所だったようだ。
海で飲んだ酒をそのまま陸でも引きずり、次第に酒の量も増えていった。肝臓をはじめあちこちにガタがきて、入退院を繰り返した。それでも酒は止められなかった。

23歳から見た48歳の親父は、とにかく老けて見えた。ジジイという感じだった。それだけ体が病んでいたのだろう。

そのころ親父は家で養生し、畑などを耕していた。
結婚式にもしっかり出席、15日も畑にいるのを近所の人が声を掛けている。
しかしその夜中、かなり辛かったのかすごいうなり声を上げていた。

いつもは医者に行きたくないという親父だが、16日は朝早々におふくろの車に乗り、連れて行ってくれと頼んだという。

家族の誰もがその夜に死ぬとは思っても見なかった。
ただ斜向いのケヤグが亡くなった病院には行かないと言ったという。




【親父逝く】

通夜を抜けて駆けつけると、病室には親父とおふくろがいた。
親父は目が血走っている感じで、何事かいろいろ言っていたが今になっては思い出せない。しかしその時も泊まりになりそうなので毛布の準備やらで、妹といったん家に帰った。

病院から自宅までは10分ほど。
家に着いたら本家の父さんがいて、すぐにまた病院へ行けとのこと。自分たちが病院を出たあと容態が悪化したようでおふくろが本家に電話をしたのだ。

病室に駆け込んだらおふくろは泣きじゃくっていた。
けど親父はまだ息をしていた。意識はほとんどなかったようだ。
そして心臓が止まった。
目の前の光景がまともに信じられるはずもなかった。

当時高校生の弟が見つからず、あちこちを探した。彼が病院に駆けつけた時はもう手遅れだった。その弟の顔をみたとたん、びんたを2発ほどくらわしていた。

親父の死因は呼吸器不全ということになった。
まぁ最期は呼吸が止まるわけだから。
医師もホントのところ、こんなにガタガタといくとは思っていなかったようだ。




【その年齢となり】

想像もできなかったその時の親父の年齢に今なった。
不思議な感慨がある。

親父はよく自分に「50歳になったらオメは25歳だ」と言っていた。
自分に長男が生まれ、自分もよく長男に同じことを言った。どちらも25歳で親になったのだ。親父が生きていれば長男とは50歳違いの爺さんと孫になっていた。

親父が死んだ年を特に意識するようになったのは、自分ががんを発症してからだ。
11年前にがんを告げられた時「親父ほども生きられないのか」と正直情けなくなった。

そして親父の年が目標になった。
何としても親父よりは生きてみせたいと。

それからだろうか。親父の年をなぞるようになったのは。
親父と同年になったその時々に「なるほどそういうことか」と納得したり、「こういうときは親父ならこうしたろう」と思い描くことも。

子供を育てる上では、特にその時の親父の対応を思った。
まったく同じ間隔で親子の年が離れてるので容易に想像しやすく、対処もしやすかった。

家内が入院した時も「あの親父でもおふくろが居ない時、自分のために弁当を作ってくれたものなぁ」と思いながら子供たちの弁当を詰めた。

いろんな親父の声もよみがえった。
若いころ自分が酒を飲んでゲロを吐いてるのを見て「男はこうやって酒が飲めるようになるんだ」と言っていた。
子供に同じことを言っている自分がいる。

良きにつけ悪しきにつけ、48歳までは親父という見本と基準があった。
しかしこれからはその見本はない。
未知の世界に入っていく気分だ。

それにしても親父の年を迎え、正直ホッとした。
改めて親父に礼を言おう。
死してなお、よくぞ自分を育ててくてたと。



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