病 記


はじまり
あれは自分が37歳の平成8年(1996)、もう夏も終わろうとしているころでした。
夜、床に入ると左耳がふさがる感じがするんです。
右耳は生まれつき聞こえが悪いので、左耳で日常の会話をしているんです。
その左耳がだんだん、日中もふさがったり詰まったりするようになりました。
水の中に入ったときとか、高い山に登ったときとかになる、あんな感じです。

秋の初め、耳鼻科医院で診察を受けました。
しん出性中耳炎ということで、鼓膜の奥に水がたまっているそうです。
鼻から耳に空気を通すとよくなるんです。
でもまた、すぐにふさがってしまいます。
そして、24時間詰まりがとれなくなりました。



大学病院へ
だんだんひどくなるので、耳鼻科医院の先生はファイバースコープで、診てくれました。
そして鼻と耳がつながっている孔のところに、何かできものがあることが分かりました。
「良いものか悪いものか分からないので、大学病院で生体の検査をしてください」
と紹介状を書いてくれました。

9月の最後の日、大学病院の耳鼻科を受診しました。
ファイバースコープをのどの奥まで入れられてつらかったです。
のどや首まわりを触り、固いものがあると言います。
「たばこもずいぶん吸ってるねー」とも。
そして隣の医師とこそこそ話をしているように見えるんです。
急に怖くなりました。
そして、その日の午後にできものの生体を採取、日にちを改めてCTなどの検査をしました。
【心境】悪いものかも知れない―。
自分のこの恐怖をどこにもっていったらいいのか思い悩みました。
「人は生まれた時から死に向かって生きる」という池波正太郎の言葉を思い出しました。
この世に生まれた誰もが、この世で果たす役割や使命があり、人生修行を続けるのだといいます。
修行が終わると、次世に行くことになります。
人生は次世へのステップ、死ぬことをもがいてみても始まりません。
お天道様は平等に人生を与え、死を与えているはずです。
なってしまったものはしょうがありません、素直に受け入れるしかないです。
最悪の場合もしっかりと自分で受け止めよう!
そんなことを思って、一所懸命自分を元気づけました。


告知
10月上旬、検査の結果と教授診ということで、出かけました。
教授の周りには医師や学生が山なりになっていました。
教授はカルテをペラペラとめくると「入院してもらいます」の一言でした。
「やっぱり…」と頭に一瞬、衝撃が走りました。
でもみっともない自分を見せたくないと、必死に平静を保ちました。
そのあと、担当の医師から告知されました。
「検査の結果、悪いできものであることが分かりました」
「放射線がよく効くので、放射線科に入院してもらいます」「残念ですが」とi言うんです。

【心境】言葉では表せない、複雑な心境でした。
なんなんだあの医者は―と怒りの持って行き場がなかったですね。
奈落の底へどんどん落ち込んで行きそうでした。
でも、みじめったらしい自分を見せたくなかったなー。
「どんな想定でも、しっかり受け止めようって決めたではないか」
「なるようにしか、ならないんだ」
と強制的に自分の気持ちに切りをつけました。

一時間ほどしてから放射線科の外来へ行った時は、結構落ち着いていました。
優しそうな男性のドクターでした。
「病名は上咽頭がんです、放射線で治します」ときっぱりと断言してくれました。
(このドクターは、イエスキリストの聖母と同じありがたい名前のMさんだと、あとで知りました)
家に帰って、妻に自分で報告することのほうがつらかったですね。


入院
10月15日大学病院に入院、「まな板のコイ」になりました。
病室からは五重塔や鎮守の森などが見え、そろそろ色づき始めていました。
主治医は3人が1チームになっていて、イエスの聖母と同名のM医師をキャップに、細身できりっとした女医のF医師、どこを見てるのか、まだ学生気分が抜けていないような研修医のB医師。
そのB医師から病状と治療の説明を受けました。
yoshi 「結局どういう状態なんですか」
B医師「ええ、まあ」
yoshi 「ステージとかあるんでしょう」
B医師「ええ、まあ」
yoshi 「1,2,3,4,どれかを言ってください」
B医師「3です」
yoshi 「えっ?そんなに!」
途中から腕が震えてどうしようもなかったですね。
【以下病状の説明】
病   名 上咽頭がん(扁平上皮)、リンパ上皮にも
       疑いあり
       鼻腔にも拡がっておりステージは3くらい
入院期間 2カ月半(予定)
治療方法 顔の左右から病気を挟んでコバルト照射
       はじめは大きい範囲で、その後は小さく
       肩から首にかけてのリンパ節にも照射
副 作 用 皮膚の炎症、のどが焼ける、味がなくなる
       口の中がただれるなど
結局1月10日まで88日間入院、治療のない土曜、日曜は外泊しました。


放射線
「天高く、未知のわが身に挑まんと」
照射が始まる朝に作った句です。秋も佳境に入り、病室から見える鎮守の森もすっかり色づいていました。

まず、放射線を顔の両ほっぺから上咽頭に照射するので、お面をつくりました。
照射野はマジックでマーカーされますが、頭部はお面を作ってそれにマーカーします。
従って、首から下(鎖骨など)は赤と青で胸までマーカーされました。
1クール目はコバルトを上咽頭と鎖骨部分に広範囲に照射、2クール目はだんだん範囲を縮小しながら上咽頭に、首周りには電子線を照射しました。
基本的には月曜日から金曜日まで、1.1グレイを午前1回、午後1回です。
最終的には、上咽頭は3段階に分けて74グレイ、鎖骨が40グレイ、頚部が34グレイの照射でした。
コバルト室と電子線のライナック室が別部屋でしたので、2クール目はそれぞれの部屋で照射を受けました。
あの、照射台に乗っかってお面を付けて照射の「ジーーーー」という音が、たまりませんでした。
でも、これが「恵みの光」になるんだと、頭の中ではがんを放射線がやっつける場面をイメージして、照射を受けました。



本当に病気?
入院初期のころは、身体にはこれといって変化がなく、普通の人でした。
食欲もあるし、体力だってありました。
「本当に病気なの?」「入院してるってことはきっと病気なんだろう」二人の自分が会話をしています。
朝、目が覚めて一瞬「なぜ自分はここにいるんだろう」、不安が不安に重なります。
とにかく「自信を吸い込んで、不安を吐き出そう」「パワーを吸い込んで、病気を吐き出そう」
と、イメージングと合わせて深呼吸を何度も何度も繰り返しました。

しばらくするとまた「何で入院してるんだろう」「がんなんだって」と会話が始まります
「エーー、こんなに元気なのに」「信じられない」と人ごとのように思い。
でも、病院のパジャマを着てベッドに横になると
「入院してるのは、自分なんだ」「がんなんだ」と現実が迫ってきます。
そこでまた怖さを振り払うように
「でも、大丈夫、気力で治してみせるぞー」と決意を新たにするんです。
毎日がそんな思いの繰り返しでした。


聴こえたよー!
身体は大丈夫なんですが、左耳はふさがり、詰まりっぱなしで聴こえも悪く、会話もまともにできませんでした。
中耳にかなりの水がたまっているみたいなんです。
そこで、耳鼻科で鼓膜に管(ハトメ状)を通しもらうことになりました。

その日、耳鼻科に行くと3人ほどの医師がいました。
その中の研修医のような人が処置をしてくれましたが、なかなかうまくいかないんです。
麻酔はしたのですが、まず鼓膜を切開するのに一苦労。人よりも耳穴が曲がっているんだそうです。
なによりも、管がなかなか納まってくれず、これには先輩医師がおもわず手を貸してくれました。
痛いとかいう表現は、ここでは置いておきまして、とにかく管が無事通りました。
イソジンの消毒液とともに、かなりの液体が耳から出てきたみたいです。
しばらくすると、その辺で紙をめくる音、パタパタと歩くスリッパの音などが聴こえてきました。
最初は機械音のような感じでしたが、徐々に普通の(自分にとって)聴こえになりました。
耳がスーーーっとしたら、心もスーーーっとしました。
顔が自然に笑っていました。


副作用
照射3日目で、もう症状が出てきました。口がネバネバして、ご飯が思うように食べられなくなりました。一週間目位で段々のどの痛みも出てきて、病人らしくなってきました。

とにかく口とのどが壊れていきました。
のどは針を刺したようなチクチクから激痛に変わり、ものを飲み込むのも一苦労で、声もガラガラとなりだんだん出なくなりました。

口は渇ききり、口内炎がひどくなり、ほっぺ、歯ぐき、舌が腫れてズキズキ、ヂカヂカ、ジンジンと痛みました。口の中が半分位になった感じです。
熱ももっているので、炎症と疼痛を少しでも楽にしようと、首周辺を常に冷やしました。馬にでもするような、でっかいコンドーム状のゴムに氷を詰めてガーゼを巻き、それを首に巻きつけるんです。一日中痛みがあるので、放せないんです。夜中でも氷が解けると、氷を詰めに起きました。

首の皮膚もだんだん赤黒くなり、最後のほうではケロイド状にただれました。せきと熱にも苦労させられました。
治るための苦しみというか、病と闘っていることを実感しました。


食 事
痛みとともに、食事も取りづらくなりました。
お腹は空いてるけど、ものを食べたくないんです。
照射のあとは、体力もかなり奪われ、はきけやむかつきも襲ってきます。

でも、とにかく食べなければ奪われていく体力を持続できません。食べようと思うんですが、食欲がなく、食事が中々お腹に落ちていってくれないんです。また味も変わり、ご飯がおいしくなく、リンゴジュースでもにがく、おかずになってくれるものを探すのに一苦労でした。ただ、牛乳だけは牛乳の味でしたね。

そのうち、痛くて口にものを入れることもままならなくなりました。そこで、食事の30分前にボルタレンの坐薬を挿し、痛みが少し楽になったときをねらって、ものを食べ、そのあとまた痛み止めのロキソニン錠を飲む、という日々を繰り返しました。
今思うと、ボルタレン&ロキソニンという痛み止めの最強タッグだったんですが、当時は、こんな効かない薬でよくも…と思ったものです。

つらくて、照射を休む人や食事を取れなくなり点滴で栄養を取る人もずいぶんいるといいます。
でも、治りたい治したいの一心で頑張りました、というか食べることに全神経を傾けた感じです。
そばを一本づつ必死になって吸っている自分を見て、ある女医さんは泪を流して「頑張れ」と励ましてくれました。
量は多く取れなかったけど、最後まで口から食事を取りました。


外 泊
土日は治療がなかったので、ほとんど外泊で家に帰らせてもらいました。
おかげで、つらい放射線治療もなんとか乗り切れたのではないかと思います。
やっぱり病院から外に出るということが気分転換にはいいですね。
子供の野球部の「球納め」にも参加しました。また学習発表会も見ることができました。
病院と違い、食事もなんとかなりました。子供の時からいつも、病気になると食べていた味噌と卵のおかゆが、やっぱり一番食べやすく、一番の「ごちそう」でしたね。
試しにビールも飲んでみましたが、味がなくおいしくなかったです。首にはシルクのマフラーを巻き、買い物にも出かけました。
そして夜、自分の床に寝れるのが、なによりでした。


退院
照射がすべて終了したのは、ちょうど御用納めの12月27日でした。やることを年内に全て終えたこともあって、退院は、年が明けた平成9年1月10日でした。

正月の外泊後は、MRIや耳鼻科での検診行いました。
入院中は、絶対治すと信じて治療に取り組みましたが、やはり心のどこかでは「もしかすると・・・」があったことも確かです。
検査を終え、M医師は「根治と見てよいでしょう」「あとは運を天にまかせるのみです」と笑っておっしゃってくれました。泪を流してくれた女医さんも「good」と喜んでくれました。本当につらかったけど、この先生方の力強い言葉はそれまでのつらさを忘れさせてくれました。

入院中は、いろんな方との出会いもあり、永久の別れもありました(この辺は後ほど別項でUPできればと思ってます)。また、看護婦さんにはその時々で感情をぶつけたこともままありましたが、心の面でも随分助けてもらいました。

退院の前の晩の日記です。
 
いよいよ退院、今日は最後の夜だ。全てに感謝したい。病院、先生、看護婦、家族、会社の仲間、友達、特に88日間支えてくれたこのベッド。ほんとうにありがとう。
 とにかく「自分の死」というのが身近に感じた。まだ20年、30年は普通に生きると思っていたが、今から2、3年、5年と目の前に迫った「死」を感じさせられた。
 日々大切に暮らし、充実した時を過ごそう。やりたいことを実行しよう。悔いのないように、人生をやろう。

退院の日、病室から見える五重塔や鎮守の森は真っ白な雪景色に覆われていました。