摂大乗論

                      


           
第一稿完   2005/ 12/ 26
第二稿更新 2009/04/14
序文      (2005年7月及び12月更新)

 「摂大乗論」は初期唯識の代表的論書であり、また全大乗仏教における代表的論書と
もされています。著者は無着であり、真宗第二祖の天親の兄にあたります。サンスクリット
本は見つかっていませんが、四種の漢訳(仏陀扇多訳、真諦訳、笈多共行矩等訳、玄奘
訳)と二種の「摂大乗論釈」(世親釈、無性釈)が残っています。またチベット語訳も残って
いますから、原典を推測するためのテキストは多いとも言えます。このページで本論書の
文を引用する場合は、玄奘訳と長尾雅人(京都大学名誉教授)の現代語訳を参考にし
て、私が意味が解り易いと思う文にしたものを使用します。

 初期唯識の代表的論師である無着は、禅定に入って兜卒天に昇って弥勒菩薩から唯識
の教えを授けられたとの伝説があり、世親もそのことを認めています。一見、哲学に見え
るきらいもある唯識派の本論書には仏国土や念仏についても記述があり、無着の弟で唯
識の多くの論釈を著した世親が「浄土論」を著して浄土真宗第二祖とされていることには、
無着の影響があるかも知れません。特に本論書に述べられている「浄土の十八円浄」と、
世親の「浄土論」で述べられている「浄土の二十九種荘厳」とは対応する点が多くあり、興
味深いものがあります。ところで無着が兜卒天に昇って弥勒菩薩から唯識の教えを授けら
れたとの伝説については、仏教学会の某有名学者が「馬鹿なことを言うものだ」という意味
の嘲笑の発言をしたことが知られていますが、真宗の安田理深先生はその発言について
「行者が内観に入ったら、それは兜卒天に昇るのだ」とコメントしています。仏教を知識とし
て、頭脳労働で理解出来ると思っている学者と、深い内観を行じることができる仏法者の
違いを如実に示しているエピソードだと感じます。

 なお真宗の聖教には、一目瞭然として唯識派の論書の文と直接的に対応する文は殆ど
無いので、真宗の教えとして引用する文は「法蔵菩薩はアラヤ識である」との教説で有名
な曽我量深先生と、やはり真宗と唯識の教えの共通性を説いた安田理深先生の著作か
らの文が殆どになります。特にアラヤ識について説く最初の「所知依分第二」においては
その傾向が顕著になります。ただし、このお二人の先生が唯識の教えについて述べたこ
とは本論書に基づくものではなく、後期唯識の代表的論書である「成唯識論」に基づいて
いますから、本ページはお二人の先生の教えと初期唯識との対応を探るという独自な意
味もあると考えます。


 本論書と浄土教とは仏教の歴史において緊張関係を持った時代がありました。本論書
や、本論書についての世親の「釈」の訳者のひとりである真諦は、これらの論・釈を典拠と
する摂論宗(別名 通論家)を中国において開きましたが、通論家はこれらの論・釈に説
かれている「念仏の別時意趣」に基づいて、念仏を劣った行であると批判したのです。こ
れに対する浄土教側からの反論が善導大師の有名な「六字釈」であり、「教行信証」にも
引用されています。ただし善導の反論の中で「摂大乗論が念仏の別時意趣を説いている」
と書かれていますが、本論書の中に別時意趣は明らかに念仏を軽しめる教相としては書
かれていません。書かれているのは世親の釈においてなのです。念仏を軽しめる釈を著し
た世親が「浄土論」を著して真宗第二祖とされているのですから事情はかなり複雑です。
何の証拠もありませんが、私はここに「世親の回心」があると見ています。曇鸞の「浄土論
註」に「世親が浄土を願生したのは八地已上の菩薩と畢竟じて等しくなるためである」とい
う意味の説が書かれ、「教行信証」にも引用されていますが、曇鸞も「世親は唯識瑜伽行
から浄土願生の念仏行に回心した」と考えていたのではないかとも思います。ただし世親
の回心があったとしても、それは実践行として自力の瑜伽行を捨てて他力の念仏行に帰し
たのであって、これは勿論、自己の主体の構造が転換される大回心ですが、唯識の基礎
教義としてのアラヤ識や三性の教説を捨てたわけではないでしょう。世親の「唯識三十頌」
は彼の最晩年に著わされたと伝えられています。ただし瑜伽行は説かれていません。唯識
のアラヤ識や三性の教説は浄土門の教えと対立するものではなく、むしろ浄土門の教えを
より明瞭に聞くことが出来るようになる教法であると私はいただいています。それ故に、近
代真宗の曽我量深先生や安田理深先生は唯識の教えを重要視されて、真宗の求道の一
環として唯識の教えを独自に追及したに違いありません。


[ 序文への追加 ]

 上の序文は2005年7月に書いたものですが、本ページを書き終えた同年12月の時点
で私が声を大にして述べたいことは、全大乗仏教における代表的論書と評されている本
論書の教説は、最後の彼果智分第十一で浄土教に帰入しているという事実です。菩薩の
本願力によって法身の常住が果として成就すると明言し、長く美しい偈文で法身への帰命
・南無を表明し、その中で「見仏」体験の「信楽」を述べ、最後に念仏と浄土の相を説いて
本論書は終わります。「摂大乗論」が浄土教へ帰入しているという私の見解は、到底仏教
界が承認するところではないでしょうし、真宗内部でも「自力聖道門」の論書とのレッテル
を貼られている本論書についての見解に興味を持つ方は少ないでしょう。しかし少しでも
浄土教と唯識派の教えの関係に関心がある方は、是非「8、彼果智分第十一(その1)」
「あとがき」だけでも読んでいただきたいと希望致します。


[ 第二稿について ]   (2008年 5月28日更新)

第二稿は、唯識派の教理上の中心であると思われるアラヤ識を説く「所知依分第二」と、
三性説を説く「所知相分第三」との2箇所において、論書からの引用を増やして解説・解釈
も拡充する。また「増上慧学分第九」も改訂する。


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   黒字は「論」からの引用、内容の要約
   青字は語句の意味等の説明、補足、解説
   茶色字は他力釈、浄土門の教えからの引用


1、所知依分第二  (2008年 7月 3日更新)

 この分(章のこと)のタイトルである「所知依」とは「知られるべきものの依りどころ」との
意味であり、その依りどころが「アラヤ識」である。唯識に特有の教えは「アラヤ識」と「三
性説」であるが、この分はアラヤ識を説く。そのアラヤ識を曽我量深先生は「法蔵菩薩は
アラヤ識である」と説いた。本分を見ていく上においては、曽我先生のアラヤ識について
の教えを多く引用して、一見すると哲学的理論が展開されているように思えるアラヤ識の
独特で緻密な教説に、宗教的深義が開示されていることを汲み取ることに重点を置く。


            
 「所知依分第二」目次 
(クリックでジャンプ)

   ●一切の法の依りどころ − アラヤ識 
   ●アラヤ識の異名(1) 一切種子識 
   ●アラヤ識の異名(2) アダナ識 
   ●アラヤ識の異名(3) 心 
   ●妄識としてのアラヤ識 − 汚染の意(マナス) 
   ●小乗仏教のアラヤの理解に対する反駁 
   ●アラヤ識の三相 − 自相、因相、果相 
   ●熏習と異熟 
   ●種子 
   ●アラヤ識と六識  
   ●身体と器世間 − 受生と無受生  
   ●清浄なる仏土  
   ●正聞熏習  
   ●アラヤ識に実体無し  


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●一切の法の依りどころ − アラヤ識 

「世尊は「阿毘達磨(アビダルマ)大乗経」の中で次のように説いた。無限の過去からの界
というべきものがあり、それが一切法の等しき依りどころとなっている。これに依って諸趣
(六道輪廻、迷いの生)があり、涅槃の証得がある、と。」


万法の依りどころとしてのアラヤ識があり、それがあるが故に迷いの生存があり、かつ悟
りの可能性もある、との唯識派共通の基本的教説がまず「阿毘達磨大乗経」を引用して
主張される。「界」の原語サンスクリットは「 dhatu 」で、法界の界も dhatu であるが、この
語には因、素因、本質、分化する以前の全体、身心のあり方全体、領域さらに鉱石・家柄
・種姓・本性という意味もあり、どの意味に解釈しても教説として重要な意味になってしま
う。仏性の性も dhatu であり、仏の種姓・仏の本性あるいは仏の素因というような意味に
なる。玄奘は「界」と訳しているので、この語を用いた。本ホームページの同じ「仏書他力
釈」で取り上げている「宝性論」もこの同じ経文を引用しており、そこでは界を「如来蔵」だ
としている。「宝性論」が説く如来蔵説と唯識派の教説とは、前者は楽天的、後者は暗い
との相反する印象を受け易いが、教説としては共通するものが多々ある。両者は強調点、
強調する視点がやや異なるのである。この点については「宝性論」のページにおいて論じ
ている。アラヤは「蔵する」との意味であり、「蔵識」とも訳される。

引用されている「阿毘達磨大乗経」は謎の経典である。唯識派が正依とする経典は「解深
密経」であるが、本論書において無着は「阿毘達磨大乗経」をそれ以上に重んじているよ
うであり、重要なる論説の箇所の多くにおいて、本経典から経文が引用されている。ところ
が、この経典は漢訳・サンスクリット・チベット語訳のいずれも見つかっていない。この経典
から経文を引用しているのは、本論書と無着の他の論書の2書、及び「宝性論」の計3書
だけである。当然ながら無着あるいは唯識派の偽造説なども出されているが、明らかなこ
とは全く分かっていない。

法蔵菩薩の原語はダルマ・アーカラ菩薩であり、アーカラにも鉱石とか蔵するという意味が
あるので、アラヤ識は原語の意味から言っても法蔵菩薩とかなり近似性があると言ってよ
い。曽我先生は次のように説いている。


「法蔵菩薩というのは即ち第八アラヤ識の内容であると同時に、アラヤ意識がつまり法蔵
菩薩の内容である。だからしてアラヤ識として法蔵菩薩を吾々は意識するものである。即
ち法蔵菩薩は自分を意識するのである。・・・・・アラヤというのは要するに自覚意識そのも
のでありまして、吾々一切の自覚の原理そのものの自覚意識である。だから一面から見
れば吾々一切衆生の感覚的現実の流転の因果の形式というものもここにある。また従っ
てこの流転の形式自体なる自覚の理想的還滅の因果形式というものもここにある。一面
から見ればこの流転生死を感ずる業の原理となり、同時にまたこの迷いをひるがえして
悟りに到る、悟りの自覚の原理、道程となる。・・・・・どういう進路道程というものを通って
迷ってきたのであるか、それはアラヤ識の恒転如暴流の絵巻物に感識せられてある。こ
の識そのものを静かに逆に内に辿って行って、そこに吾々の還滅の道程が昭々として影
現し来るのであります。・・・・・即ちアラヤは迷いの方法原理も悟りの方法原理も、あらゆ
る万法を総合する自覚の全体系を包む意識の蔵である。」
                        曽我量深「如来表現の範疇としての三心観」より

「とにかく吾と言うと、固定化してしまう。固定しない吾・固定しない純粋の吾というものが、
つまりアラヤ識である。・・・・・吾というものは、公のものでしょう。また、吾に与えられてい
る一切の法というものも、公のものでしょう。それを自分の間違った我でもって[ おれが ]
と言う時には、自分自身が、はや公の存在ではなくなっている。・・・・・公の世界の中に私
の世界をつくっていこうとしているわけであります。それがつまり、自分を苦しめるもので
あります。・・・・・だから、自然のままにして、それを受けて、受けて用いていればいいので
しょう。自然をさまたげて、自分の私有物化して、自分の私利私欲をみたそうとする時に、
一切の法は皆、自分から去ってしまう。・・・・・公明正大の立場をもってものを見て行くとこ
ろの識が、アラヤ識というものである。・・・・・たとえば煩悩のようなものに対しても、公明
正大な態度でものを照らしている識がある。それがつまり、根本アラヤ識というものであ
る。・・・・・アラヤ識を翻訳すれば蔵識と言うようですけれど、もう少しくわしく言えば[ 法蔵
識 ]である。つまり一切法の蔵であります。」           曽我量深「法蔵菩薩」より


玄奘が「界」と訳した dhatu を本論書はアラヤ識とし、この後を読み進めれば感じるとお
り、アラヤ識を汚染された根本識、汚染の源と見る仏教学者が多い。同じ語を「宝性論」
では如来蔵・仏性という清浄なるものとして説くのであるから、両論書に矛盾・相反がある
と見て、特に「宝性論」が諸趣(迷いの生)の依り所と説かれる界を仏性と説くことに批判
的な学者が多い。しかしながら、多くの矛盾性を孕んでいるのが大乗仏教の教説であり、
矛盾する点には疑問を投げかけて承認しないというのであれば、それは大乗を解し得な
いことになる。実は矛盾性を孕んでいる教説こそ大乗の教説の真髄部分であるとも言え
る。上記の曽我量深先生のように、アラヤ識が「一面から見ればこの流転生死を感ずる
業の原理となり、同時にまたこの迷いをひるがえして悟りに到る、悟りの自覚の原理、道
程となる。」ということを体証しなければ、本論書や「宝性論」をどれだけ精密に多読したと
ころで、その本意を了知することは出来ないであろう。本論書は言うまでもなく宗教書であ
り、理知的・論理的理解の対象となることを説くものではないのである。


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●アラヤ識の異名(1) 一切種子識 

「その中でまた説かれた。諸法を摂蔵し、一切種子識であるが故に、アラヤと名づける。
我は勝者にのみ開示する、と。この様に教証を引用する。」


本論書においてアラヤとの語は、この箇所で初めて「阿毘達磨大乗経」からの引用として
出される。玄奘が「摂蔵」と訳した語のサンスクリットが「アーラヤ」である可能性が高く、前
の箇所で述べたとおり「蔵する」との意味である。アラヤ識は何を蔵するかは、諸法を蔵す
ると説かれており、諸法は種子という形で蔵される。アラヤ識は一切法の種子を蔵する識
であるが故に、「一切種子識」との異名でも呼ばれる。種子( bija )は植物の種子から来た
語であり、植物の過去の生育の果であると同時に、将来の生育の因である。唯識派が用
いる種子との語も、あらゆる過去の業(行為)の果として形成されている現在の自己の基
底であり、自己自身であると同時に、未来の自己のあらゆる因となる。種子については本
論書において、この後で詳細に論じられていく。アラヤ識は過去からの果であると同時に、
未来への因である。「勝者」とは大乗の菩薩のことであろう。勝者以外にアラヤ識を説くと、
それを自我の実在説と聞き誤るが故に開示しないことが、後の箇所で説かれる。アラヤと
の語には、愛着するとの意味もあり、衆生が意識の深部において常に何かに愛着・執着し
ていることの意味が含まれている可能性もある。

本論書において初めてアラヤが「識」であることが述べられている。識であるから感覚・意
識というものの類なのである。ただし常識的に思われている感覚・意識の、さらに深いと
ころで機能する感覚・意識である。また識には主体者という意味も含まれている。対象・客
観ではない主体である。ただし唯識派においては、主体と対象とを別の体とする一般人の
常識的見解を虚妄分別と名づけて迷いであるとし、実相は識のみ、つまり主体のみである
ことを主張する。この識のみとの意味が「唯識」との語の義である。そこを曽我先生は先の
引用文の中で「自覚意識そのもの」「自覚の原理そのものの自覚意識」と説いている。


「また、何故にアラヤ識と名づけられるのか。一切の生ある汚染された諸法が、ここに於
いて摂蔵されて果性となるが故に。また、この識はそれに於いて摂取されて因性となるが
故に。それ故にアラヤ識と名づける。あるいは、衆生はこの識を摂蔵して自我と為すが故
に、説いてアラヤ識と名づける。」


アラヤ識の摂蔵する・蔵するとの意義が二つ説かれている。一つめは、前の箇所で説か
れたように、諸法が種子という形で過去の果として、また未来の因としてアラヤ識に蔵せ
られる義である。二つめは、衆生がこのアラヤ識を蔵しているとの義である。後期唯識派
の「成唯識論」においては「人々アラヤ識」と説かれ、衆生一人々々がアラヤ識を感覚・意
識の根底に具えていると説かれる。この場合は衆生が意識の下部において常に執着して
いるとの意味が強調されているのであろう。これは後の箇所で述べるが、本論書において
は世親以降にアラヤ識とは区別して説かれるようになるマナ識・第七識というものが、まだ
アラヤ識とは明確には区別されていないが故に、このような執着の意味合いが強調される
のであろう。「成唯識論」においては、後で説かれるアラヤ識の自相として、能蔵・所蔵・執
蔵という三種の義を立てるが、本論書のこの節の教説が発展したのであろう。


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●アラヤ識の異名(2) アダナ識 

「アラヤ識はアダナ識とも呼ばれる。・・・・・これについての教証は「解深密経」の中に「ア
ダナ識は甚だ深くまた微細で、一切の種子があるものとして波立つ川の流れ(瀑流)の如
くにある。それを私(釈尊)は愚者たちには説かない。彼等がそれを自我と思い込むことは
許されざるが故に。」と説かれている。何故にアダナ識と呼ばれるのか。それは物質から
成る全ての感覚器官を内側から把握統合(執持)するものであり、身体を全て掌握するこ
とへの基体(所依)だからである。なんとなれば生命が続いている限り、物質から成る五つ
の感覚器官が破壊しないのは、アダナ識によって執持されているからである。」


アダナ識(阿陀那識)は音訳であり、意訳では執持識、執受識等とされる。アダナとは取
る、受ける、自己のものとする、という意味やさらに執着するという意味がある。衆生にと
っては身体とは自己としての統一体であり、身体があるから自己が他と区別されるのであ
る。物質としての身体が自己のものとされることを「執受」するという。アラヤ識をアダナ識
とも呼ぶのは身体を自己のものとして執着する基体として見ているからと長尾先生は言
うが、真宗の安田先生は下に引用するようにそうは見ない。本論書には世親以降の唯識
派で説かれるマナ識(第七識)は明確には出てこない。世親以降で「我執の基体」とされ
るマナ識は、本論書ではアラヤ識に含まれているようである。しかし次の箇所で見るよう
に「意(汚染のマナス)」というものを立てている。意は世親以降のマナ識であると思ってよ
いであろう。。要するに、このあたりの本論書の説くところは明瞭ではなく、様々な解釈を
生む結果となっている。「解深密経」もアラヤ識とアダナ識を全く同一のものとしているの
か、アダナ識はアラヤ識の一部としているのかは、その記述からして判断し難い。そこで
「解深密経」がトータルとして七識を説くのか、八識を説くのかも学者によって解釈が異な
る。唯識派が釈尊がアラヤ識を説いたことの依拠とする経典は「解深密経」が多く、本論
書でも上でこの経典から引用しているが、本論書は実際には「阿毘達磨大乗経」からの引
用が一番多いことが唯識派の論書の中でも独特のものになっている。「川の流れの如く」
とは、アダナ識が過去からの熏習を種子として保持していることを説いているが、「瀑流」
と玄奘が訳しているのは、後世の解釈においては、保持されている種子の殆どが迷いの
業の果であり、また迷いの業の因となると見做されているからであろう。身体と執持識の
重要性を説いた安田先生と曽我先生の教えを見よう。


「瑜伽(唯識派の別名。瑜伽(ヨーガ)を修行したのでこう呼ばれる。)の教学では、流れと
してある経験の基礎に、経験がそれから生まれてそれに帰するというような意識の流れと
いうものを見出している。それをアラヤとかアダナという言葉で呼んでいる。いる。それは
意識(第六識)の根本である。流れは波に対しては根本となる。しかしまた意識の根本も
やはり意識である。・・・・・身体というものは分析する意識に与えられたものではない。む
しろ分析する意識の基礎にあるような意識の流れに与えられたものが身体である。身体
を成り立たせるような意識は、分別の意識よりももっと根本的な意識でなければならない。
・・・・・事実において身体の世界とか物質の世界というものを立てていくわけである。その
事実とは意識の流れである。これは立てたものではない。あらゆるものが立てられる場所
である。純粋事実の世界というものは意識の流れである。・・・・・身体は意識の流れにお
いて執受されたものだから、意識の内面的意義をもつ。・・・・・執受とは、統一されている
という意味で、身体とは内面的統一においてあるものである。・・・・・具体的な意識は、意
識する意識である。これは[ 誰か]の意識である。その誰かということを具体的に決めるの
が身である。身というものをもつ、つまり限定をもった意識において、はじめて誰かの意識
なのである。・・・・・身体には特に意識が自己自身とするという意味がある。意識が身体と
運命をともにする。こういうような意味が執受にはある。・・・・・身体は意識の共同運命体
である。何ものでもない、だから何ものにでもなり得る。それが共同運命体である。何もの
でもないがゆえに何かとなって何かと運命をともにする。・・・・・意識というものは主観では
ない。主観、客観を考えて存在を演繹したのではない。意識というものが直接に存在とし
てそこに開かれている。・・・・・主観を破り、同時に客観も破っている。それが事実の世界
というものである。意識があって、生きていることを意識するのではない。生きているという
ことが事実なのである。生きていることとして現象している意識なのである。主観とか客観
というのは[ 考える ]ということである。そして[ 考える意識 ]よりも[ 生きている意識 ]は根
元的である。執持する意識は身体を持って生きている。執持識というのは生きている意識
である。いろいろなことを考える意識はただ[ 意 ]という。・・・・・身を[ 自身 ]というなら、意
のほうは[ 自我 ]である。意は自身を自我と思うのである。自身を自我とすれば、自身で
ないものは他我になる。・・・・・善導が自己をあらわした言葉がある。「自身は現に是れ罪
悪生死の凡夫・・・・・(機の深信)」。ここに言われる自身は自分で考えるような自分ではな
い。考えた自己ではない。生きている自己、現にある自己はいかに考えてみても動かな
い、いかに否定しようと思っても否定することができない。・・・・・このような自身ということ
の構造を解明したものがアラヤであり、アダナなのである。」 
                                     安田理深「名言と自覚」より

「わが身を正しく[ わが身 ]と言えるのは、やはりこのアラヤ識です。アラヤ識というのは
公明正大の心をもって、この体ですね、わが身というものを見ているものですね。わが身
というのはアラヤ識の世界にあるのでしょう。だから、アラヤ識というもののわからぬもの
は、わが身というと、すぐ私有物のように考えている。わが身というのは、これ公明正大な
存在であります。」                           曽我量深「法蔵菩薩」より


アラヤ識のアダナ識・執持識としての義は、曽我・安田先生によって見事に明かされてい
ると言えよう。従って唯識派や真宗では、身体を心に対して汚いものと見下すことはない
のである。身体よりも心の方がレベルが上であるなどとは説かないのである。むしろ迷う
のは心である。身体は迷わない。身体を私有化する心が汚れているのである。


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●アラヤ識の異名(3) 心 

「アラヤ識はまた心とも呼ばれる。世尊が「心と意と識とあり」と説いた如くである。この中
で意には二種がある。第一には等無間縁の依り所の性となる。すなわち、直前に滅した識
が意との名で呼ばれて、次の識が生じる依り所となる。第二には染汚の意(マナス)であ
り、恒に四煩悩と共に相応している。1に我見、2に我慢、3に我愛、4に我痴(無明)であ
る。これは識が汚染される依所である。識は第一に由って生じ、第二に由って汚染されて
いる。識は対象を了別(区別・分別)するが故に汚染されている。」


ここで心・意・識との語が出された。前節までの一切種子識、アダナ識の名は大乗の唯識
派独自の名であるが、心・意・識との語は小乗・大乗の双方において用いられる語であり、
各々が何を意味するかはこの後の論説、及び本論書に先行する弥勒に帰せられている
論書、本論書の後の世親以降の論書・釈から推定すると、次のように見てよいであろう。

  心 : アラヤ識・世親以降の第八識
  意 : マナ識・世親以降の第七識
  識 : 前六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)

従ってアラヤ識の異名として出されているのは「心」であると思われるのであるが、本論書
のこの後しばらくは「意(汚染のマナス)」について論じられている。それがアラヤ識を説く
本品において説かれているのであるから、前から述べているとおり本論書においては、「ア
ラヤ識・心」と「マナ識・意」とは明確には区別されていないと言わざるを得ない。アラヤ識・
心の機能の一部として意が説かれていると見るべきであろう。それ故に本論書はトータル
として七識説を採っていると言える。唯識派の教説が明確に八識説となるのは世親以降で
ある。

この箇所では意の二種について説かれている。第一は大乗・小乗に共通する見解であり、
直前に滅した識は全て意と呼ばれる。直前の識がどうであったかが次の識のはたらきを
条件付ける縁(等無間縁)となるという見解である。それ故に最後の方で、識は第一に由
って生じると説かれている。第二が大乗唯識派が独自に説く意であり、意識されているか
否かに関わらず、常に自我の思いが相続していることを意と謂う。意は我見・我慢・我愛
・我痴の四種の煩悩と常に結び付いているとは、世親以降の唯識派においてはマナ識(
第七識)について全く同様に説かれることであり、意をアラヤ識とは区別していないようで
ある本論書においては、アラヤ識の意という部分的機能について四煩悩との相応が説か
れていると見るしかないであろう。意は四煩悩と相応していることから、「汚染の意」と呼ば
れている。識(前六識と見るべきであろう)は第二の意に由って汚染されていると説かれて
いる。識の汚染とは、識が対象を分別することであるとも説かれている。主体(識)と対象
とを分別すること、対象の間に諸々の分別を見ることを衆生の迷い・汚染であるとするこ
とは、大乗仏教に広く共通する教説である。この教説を本論書では「識の汚染」と呼び、
識の汚染の依る所は「汚染の意」(アラヤ識の一部)にあるとの主張が、唯識派に独自の
教説である。教理体系の整っていない仏教においても、衆生の迷い・煩悩を生じる本は我
執を立てることにあるとされている。唯識派においては、大乗のアビダルマ(法の分類)と
も謂うべき教理を立てて、我執という心作用を我見・我慢・我愛・我痴の四種に分類してい
るが、各々が如何なる心作用であるかは「成唯識論」に論じられている。


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●妄識としてのアラヤ識 − 汚染の意(マナス) 

「如何にして汚染の意が有ると知ることが出来るのであるか。もしこれが無ければ、

1)独自の無明(不共無明)が存在しなくなるとの過失に陥る。
2)五識との類似性も存在しないとの過失に陥る。五識には眼根などが同時に依り所とし
  て存在するからである。
3)語源解釈が意味を為さない過失に陥る。
4)無想定と滅尽定との区別が無くなるとの過失に陥る。無想定は汚染の意が顕われて
  いるが、滅尽定はそうではないとの差別が無くなる。
5)無想果においても我執・我慢の汚染が無いとの過失の陥る。
6)一切時に、善・不善・無記の心中に我執が現行していることは事実である。もしそうで
  なければ、ただ不善心とのみ相応して我・我所の煩悩が現行して、善・無記の心とは
  相応しないことになる。

これらの故に、もし同時の現行を立てて、相応する現行に非ざれば、過失の有ることは無
い。」


この節では汚染の意が前六識とは別に存在することを、六種に説明している。後に「六理
証」と呼ばれ、「成唯識論」もマナ識の説明について受け継いでいる。

1)は、無明とは一般にはあらゆる煩悩の根本であり、それらの煩悩と相応して、結び付い
て諸識において見出される(相応無明)。これ以外に、他の煩悩とは相応しないで独立して
見出される無明(独自の無明・不共無明)があると唯識派は主張し、本論書では次の節で
説かれるとおり、「真実の智に常に障害を為す」無明である。本論書は不共無明は汚染の
マナスにあるとし、意が無ければ不共無明は存在しないとの過失に陥ると簡潔に説いて、
意が前六識とは別に有ることの証の筆頭に置いている。ただし、その意味するところは説
明が簡潔であるが故に推測することが難解であり、「成唯識論」やその他の釈においても
解釈されているが、それらも難しい。長尾雅人博士は次のように推論している。「不共無明
がどこに有るかが問題であるが、前五識はまずその場所ではあり得ない。前五識は感覚
的なものであり思惟・分別が雑わらず、修行上でそれが無知か否かは問題とはならない。
見道の悟りは前五識においてあるのではないからである。そうすると不共無明は意識・第
六識に有るということが考えられるが、そうはいかない。意識は清浄なると汚染なるとに分
けられるが、もし不共無明が清浄な善の意識に有るとすると、意識は汚染となり、清浄な
意識はあり得ないことになる。もし汚染の意識に有るとすると、それは諸煩悩に相応して
有るのであり、独自の無明ではない。・・・・・もし意識が不共無明により汚染されていると
すれば、この汚染は煩悩と相応する汚染とは異なって究極的・根本的なものであるから、
そのよう意識からは仏道を志して修行するということが生じることがあり得ない。それ故に
不共無明が有る場所は前六識以外に求められ、アラヤ識において汚染の意というものが
考えられなければならない。」(以上、主旨を要約) 私は不共無明が前六識に有ると考え
るわけではないが、長尾博士が述べる仏道を志して修行するということが、第六意識から
生じるということは賛同しかねる。意識が生じる菩提心は自力のものであろう。真の菩提
心は意識より深い、アラヤ識から生じるのであろう。曽我先生が説かれる自覚の原理とし
ての法蔵菩薩・アラヤ識が菩提心を生じる。

2)は、眼識などの前五識は眼根などの五根が依所となっているように、意識にもそれに
類似した意根が「同時存在的な依所(倶有依)」として有ることが考えられる。それは同時
存在的であるから、前節で述べられた直前に滅した意ではあり得ず、汚染の意ということ
になる。

3)は、前節で述べられたマナスの語源解釈の意味が失われるということである。汚染の
意は常に我を思惟しているのであり、もし意根を直前に滅した意とするならば、現在に我
を思惟しているということはあり得ないのである。

4)は、無想定と滅尽定という二つの定について説いている。滅尽定の方が高いレベルの
定である。二つの定は共に前六識が起こらないが、無想定は汚染の意が起こり、滅尽定
は汚染の意が起こらない。もし汚染の意が無いのであれば、二つの定の区別は無いこと
になる。

5)は、無想果とは無想定により到る前五識のはたらきが停止した境地であり、外道の修
行者はこれを悟りの境地と誤認する。しかし仏教は無想果を悟りとは承認せずに排撃す
る。無想果においても我執が認められるからである。もし汚染の意が無いならば、仏教側
のこの排撃は謂われ無きものとなる。

6)は、第六意識が善・悪・無記(善悪のどちらでもない)のいかなる状態であっても、常に
我執が起きていることを言っている。汚染の意は、単に道徳的・社会通念上の善悪と同じ
次元にあるのではなく、より根本的・同時存在的の我執の根源であり、第六意識が善であ
る時にも起きていることを説いている。

以上が汚染の意が前六識とは別に有ることの証であるが、証とは言っても物的証拠を挙
げることでも、論理的証明を行なっていることでもない。唯識派の瑜伽行者は、いかなる
時にも、たとえ無想果という高い境地へ到ることが出来ても、常に起こる我執を自覚し、そ
れが仏道の障害となっていることを痛感させられていたのである。仏道の実践上の大問
題である我執に苦悩し、それが前六識が生じるものとは到底認められず、前六識よりも
深いところにアラヤ識における汚染のマナス(後の唯識派においては第七マナ識)という
ものを立てざるを得なかったのである。


「・・・・・
此れ(汚染の意)が無ければ、一切処に有る我執はまさに有るべからず。
真実の義を悟ろうとする智に常に障害を為し、一切時に同時に起こるもの、それが不共無
明と謂われる。」


仏道上の根本的な大障害となる我執を、他の諸々の煩悩とは相応しない独自の無明であ
ると自覚し、その不共無明を生じる識としてアラヤ識における汚染の意を立てていることが
分かる。


「この意(マナス)は汚染の故に有覆無記であり、四煩悩の常に共に相応する。・・・・・意は
一切時に微細に附随している。


汚染の意は「有覆無記」であることが説かれている。後の唯識派においては、第七マナ識
が同様に有覆無記であることが説かれる。これに対して本分の最後において、アラヤ識は
「無覆無記」であることが説かれ、この説は後の唯識派においても同様である。この教説
が本論書における不明瞭な点であり、アラヤ識とは別に立てられているようではない、ア
ラヤ識の部分的機能として説かれているように見える汚染の意が、有覆か無覆かという
点ではアラヤ識とは異なる有覆なるものとして説かれているのである。有覆・無覆とは、仏
道上の、真実を悟る上での障害となるか、ならないかということである。一方、善・不善・無
記とは前節において出てきたが、道徳上の善・悪・どちらでもないことである。汚染の意が
常に相応する我執の四煩悩は、第六意識における煩悩のような現実的・現象的な煩悩と
は異なり、殆ど全ての衆生が具える自我意識であるが故に、道徳上の善・悪を言えばどち
らでもなく無記であるとされる。我執の四煩悩は第六意識における煩悩より深い根底にお
いてはたらく。しかし仏道上においては決定的な大障害であるが故に有覆とされる。従って
仏道においては、この有覆の意を滅することが不可欠であり、一般的・道徳的な面での廃
悪修善を行じても仏道を成じることにはならないのである。この点は意図的な廃悪修善を
仏道の行ではないとする真宗に通じるものがあろう。仏道の障害となっているものは、道
徳上の善悪よりもっと深い処に根ざしていることを見抜いているのである。根本的な我執
に基づいて第六意識・前五識において廃悪修善を計らったところで、我執を滅しなければ
ならない仏道からは遠ざかるばかりである。ところで、この箇所の説により、汚染の意との
語で頻出する「汚染」の意味するところは、本論書においては有覆無記であることと同義
であることが分かる。汚染とは決して道徳上の悪のことを謂っているのではない。

これに対して本分の最後で説かれるように、アラヤ識は「無覆無記」とされる。仏道上の障
害ではないのである。本分の初めに、アラヤ識を依り所として諸趣(輪廻・迷い)があり、涅
槃の証得もあると説かれていたとおり、アラヤ識を依り所として諸趣があるが故に有覆で
あるようにも思えるのであるが、同じアラヤ識を依り所として涅槃の証得もあるが故に、有
覆とすることは出来ず無覆であるとされる。しかしながら、無覆とはされてもアラヤ識は矛
盾的なはたらきであることを解するべきであろう。先に引用した曽我先生が「即ちアラヤは
迷いの方法原理も悟りの方法原理も、あらゆる万法を総合する自覚の全体系を包む意識
の蔵である。」「公明正大なる立場の識」と説いていることが、アラヤ識が無覆であるとされ
る義を突いていると思う。無覆とされるところに、大きな原理的な絶対矛盾を孕んでいるの
である。矛盾を孕む教説を嫌って故意に合理的説明へと曲解しようとする学者の解釈は、
大乗仏教を学ぶ上での妨げとなる。


「第三の心の体は、アラヤ識とは別には無い。それ故にアラヤ識が心の体である。これが
種子を有するに由りて、意も識も起こる(転じる)。」


「第三の」というのは、先に出された「心・意・識」の中で前節までにおいて説かれた意(マ
ナス)と識(前五識)に対して、三番目の「心」はアラヤ識であることを説くものである。ただ
し、これら三つはお互いに無関係なものではなく、心・アラヤ識が種子を有するに由って意
も識も起こると説かれている。起こることを玄奘は「転」との語で訳しているが、これは本論
書の後で、世親が識の「転変( parinama )」という語を用いたことに依っていると推測され
るが、転変は世親が初めて用いた語であって本論書では用いられておらず、また後で説
かれる「転識得智」の「転」と混同する恐れもあるので、本ページでは用いない。この箇所
では種子は心・アラヤ識が有すること、従って意や前五識が有することはないことが明言
されている。またアラヤ識が有する種子が因となって意も識も起こる(発生する)ことが説
かれている。「一切種子識」の箇所においては、種子は未来の因ともなり、また過去の果
でもあることを述べたが、この箇所では種子が未来の意と識との因である面のみが説か
れている。そうすると汚染の意がアラヤ識とは明確に分けられて立てられてはおらず、ア
ラヤ識の部分的機能のようにも説かれているという点が、やはり本論書における不明瞭
な説のように感じる。世親以降のように、意をアラヤ識とは別に第七マナ識として立ててし
まった方が、教説としては整理されたものとなろう。ただし本論書においては汚染の意を
詳しく説いていることに由り、汚染の意を部分的機能として含ませているように見えるアラ
ヤ識が「妄識」であると説かれているような雰囲気が強調されていると言えよう。後の唯識
派においてアラヤ識が妄識であるとの見解が漂っているように感じるのは、本論書の「ア
ダナ識」の箇所において説かれていた、アダナ識が一切の種子を保持しているが故に「川
の流れ」と譬えられていること、その種子の殆どは迷いの業の果と因であると見做されて
いるように見える点だけになる。それ故に玄奘は「川の流れ」を「瀑流」と訳したのであろう
が、実際にはインド唯識派の論書においてアラヤ識を妄なるものとして断定している書は
多くはない。むしろアラヤ識を依り所として輪廻もあるが涅槃の証得もあり得るのであり、
単に妄識と決め付けられないものである。アラヤ識は無覆無記であると断定されている。
つまり仏道上の障害ではなく、また道徳上の悪でもない。アラヤ識が妄識であるという見
解が常識化してしまったのは、中国においてである。実際には曽我先生が説くように、ア
ラヤ識は「公明正大な立場の識」「自覚の原理」というところが、インド唯識派の本意では
ないであろうか。これに対して汚染の意(後の第七マナ識)は明確に「汚染」の識であると
説かれている。


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●小乗仏教のアラヤの理解に対する反駁 

この後、本論書はアラヤ識を大乗仏教が説くだけではなく、「増一阿含経」などの小乗経
典においてもアラヤ識・根本識・心などの語で説かれている経文を多く引用して紹介して
いる。アラヤ識が大乗の唯識派の創作物ではなく、仏説であることを示すためであろう。
その部分の最後において、そうは言っても小乗仏教の者はアラヤ識の教説を誤解してい
るとして、反駁する。


「世尊は、衆生はアラヤを愛し、等その他広く説きたまうた。それを五取蘊のことを説いて
アラヤと名づけたとか、貪欲と倶なる楽受をアラヤと名づけたとか、薩迦耶見をアラヤと名
づけたと解する者がいる。これらの諸師は蔵識の教証おいて愚なるが故に、このような理
解に執している。このようにアラヤの名を立てることは、声聞乗に随っており、名を立てる
道理にも相応していない者である。もし愚ならざる者は、(世尊は)この蔵識にアラヤの名
を立てたと解するのであり、それが勝っている。」


[ 語句の説明 ]
  五取蘊 : 衆生の身心を構成する要素である五蘊(色・受・想・行・識)に執着すること
  楽受 :楽を受ける感覚
  薩迦耶見 :個体は実在するとの観念


「云何がそれが勝っているのか。もし五取蘊をアラヤと名づけるのであれば、悪趣の苦の
処に生まれた者にとっては最も厭うべきものであり、愛楽を起こさないはずである。それを
執着することは道理に合わない。そのような者は常に速やかに捨離しようと求めるが故
に。もし貪欲と倶なる楽受ををアラヤと名づけるのであれば、第四禅以上に到る者には無
いことになる。彼(かしこ)に到る者は常に楽受を厭うので、それを執着することはまた理
に合わない。もし薩迦耶見をアラヤと名づけるのであれば、それは正法に於いて無我を
信解する者は厭うものである。それを執着することはまた理に合わない。

アラヤ識は内なる自我の性として受け取られている。悪趣の苦の処に生まれて、苦蘊を
離れようと求めても、蔵識に於いては我愛に随い、縛られて、それを離れることを求めな
い。第四禅以上に生まれて貪欲と倶なる楽を厭っても、しかも蔵識に於いては我愛に随い
、縛られている。正法に於いて無我を信解する者は、我見を厭っても、しかも蔵識に於い
ては我愛に随い、縛られている。これらの故に、アラヤ識を立ててアラヤの名とすれば、
最勝なるを成就する。」


小乗仏教がアラヤ識を誤解していることとしては、五取蘊・楽受・薩迦耶見をアラヤと名づ
けるとの小乗側の三つの見解を挙げて反駁している。その反駁の根拠としているところは、
「一切種子識」の箇所において説かれた、衆生はアラヤ識を蔵して自我と為して執着して
いるとか、この箇所の最初に説かれている世尊は「衆生はアラヤを愛している」と説いた
という、アラヤ識は自我執着のはたらきであるというのが仏説であるということである。一
のアラヤ五取蘊説に対しては、悪趣の苦悩の境界に生まれた者は、五蘊を厭って愛着し
ない筈であると反駁している。二のアラヤ楽受説に対しては、第四禅以上の境地に到った
者は楽受を厭って執着することは無いと反駁している。三のアラヤ薩迦耶見説に対しては
、仏教の正法である無我を信解する者は、薩迦耶見を厭って執着することは無いと反駁
している。世尊は一切衆生はアラヤを自我として執着・愛着していると説いたのに、小乗
側の三つの誤解では、アラヤとしている五蘊・楽受・薩迦耶見を厭って執着していない衆
生が存することを挙げて反駁としている。

この箇所において本論書は、アラヤ識は一切衆生が内なる自我の性(本性・実体)と誤認
して執着しているものであり、地獄に生まれて劇苦を受けている者も、第四禅以上という
高い境地へ到った者も、正法の信解を得て我見を厭っている者でさえ捨てることが出来ず
に我愛に縛られているはたらきであると説いている。無我の信解を得て我執の四煩悩の
第一である我見を厭っている者でさえ、第三の我愛には縛られていると説いている。世尊
がそのように説いたからという文証が、その主張の根拠の全てであるように見えるが、実
際には唯識派の行者が仏道を実践・修行して、どうしてもぶつかってしまうしぶとく根深い
我執を痛感して、このような教説を主張しているに違いないのである。自我の実体として
誤認・執着させるアラヤ識を立てることは、単なる教理を創ったというのではなく、仏道実
践上の大障害として見出された我執の実態・構造を見極め、最終的にはそれを乗り超え
る道を見出すために立てたと見るべきであろう。ここに我執を衆生において根深く深刻な
る障害の事実として見抜いている、真宗と唯識派との共通点がある。他の仏教は我執を
仏道上の障害であるとしながらも、それを軽く見て深刻なる事実としては痛感していない。
衆生本来仏なり、衆生と仏とには何らの差別も無い、などと楽観的観念論を説くのであ
る。

ここで「蔵識に於いて我愛に随い、縛られている」と三回も説かれていることの、もう少し詳
しい意味、つまり蔵識・アラヤ識と汚染のマナスとの関係はどのように見られているのであ
ろうか。本論書においては、また後の唯識派においても、正確にはアラヤ識そのものには
執着するはたらきは無いのである。それ故にアラヤ識は無覆無記とされている。ただしア
ラヤ識には執着を生じる因が種子として蔵されている。この因なる種子に由り汚染の意も
識も起こることは、前の「●妄識としてのアラヤ識」の箇所の最後において説かれていた。
アラヤ識・蔵識は無覆であるとされるが、蔵されている種子に由り有覆の汚染の意が生じ
るのであれば、また本論書は意をアラヤ識とは別に立てていないようであり、意はアラヤ
識の部分的機能であるかのように説いているのであるから、汚染の意が我執の四煩悩に
相応しているのであれば、アラヤ識に於いて我愛に随縛されていると言えることになる。こ
れは後の唯識派においてアラヤ識とは別に第七マナ識が立てられ、マナ識が我執の四煩
悩と常に相応して、マナ識がアラヤ識を自我として誤認していると説かれるようになっても
、マナ識が起こる因としての種子はアラヤ識に蔵されているのであるから、アラヤ識に於
いて因として(実は果としても)我愛に随縛されていると言えるのである。これはアラヤ識は
無覆でありながら、有覆・汚染の意またはマナ識の因を蔵しているという、大きな矛盾を含
む教説である。前に述べたとおり、アラヤ識とは無覆とされながらも矛盾を孕むはたらき
なのである。本論書の冒頭において、それを依り所として輪廻も涅槃の証得もあると説か
れていたことからして、アラヤ識は矛盾を含むことを決定的本質とするはたらきとして説か
れていることを解さなければならない。この矛盾を学者がとやかく無理な合理的解釈を主
張するのに対して、曽我先生がアラヤ識を、「煩悩というようなものに対しても、公明正大
な態度でものを照らしている識」と説いているところが、汚染の因を含みながらも無覆とさ
れる矛盾を孕むアラヤ識を説く唯識派の本意を突いていると言えよう。


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●アラヤ識の三相 − 自相、因相、果相 

「その(アラヤ識の)相は、どのように立てるべきであろうか。その相を要約して立てると三
種類ある。一つには自相を立て、二つには因相を立て、三つには果相を立てる。この中の
アラヤ識の自相とは、一切の汚染された法の熏習により、一切の汚染法が生じる因とな
る。相応する種子をよく摂して保持しているからである。この中のアラヤ識の因相とは、こ
のような一切の種子であるアラヤ識が、一切の時において汚染された法が生じるために
現前に因となる。この中のアラヤ識の果相とは、このような汚染された法の無始以来の熏
習に依り、アラヤ識は相続して生じる。」


世界内の一切の汚染された法が生じることにおいて、アラヤ識は生じる因となり(因相)、
生じたことの果を受けて相続し(果相)、これらの因と果の両者がアラヤ識として一つであ
る(自相)と考えられている。別の言い方をすれば、種子によって一切の汚染法が生じる
ことがアラヤ識の因相という機能であり、一切の汚染法が熏習することがアラヤ識の果相
という機能である。因相はアラヤ識の「一切種子識」という面であり、果相は後で説かれる
「異熟」という面である。「熏習」との語については、次の箇所において詳説される。このよ
うに一切の汚染法の因ともなり果ともなることがアラヤ識の自相であると考えられている。
そうするとアラヤ識と一切の汚染法とは、一方を因とすれば他方は果となり、一方を果と
すれば他方は因となり、どちらを相手の因としても果としても考えてよいことになる。この
点も後で説かれる。つまりアラヤ識と一切の汚染法の間では因果関係が一方向に定まっ
てはいないのである。この点が後世の「成唯識論」では「互為因果」との教義として明確に
説かれることになる。

「アラヤ識の三相」と真宗の教えということでは、曽我量深先生の有名な著作「如来表現
の範疇としての三心観」がある。この著作で曽我先生は異安心として大谷大学を一時期
追われ、その後に復帰した。「熏習」「異熟」との語の意味が分かってから読んだ方がよ
いのではあるが(分からない方は、本ページの本分の後の箇所を読んでから見ていただ
きたい。)、アラヤ識の三相が説かれているこの箇所において、以下、長くはなるが抄出
する。ここに唯識の教義の文献学的研究、論理的考察のみに終始して泡末的議論に走
る学者には決して分からない、宗教体験としての「自覚意識」「時間」というものが、曽我
先生の内観・自証として見事に表現されている。念仏・信心体験の開顕である。


 1)「アラヤ識の三相」と「大無量寿経の三心」との対応

「アラヤの自相というものは具体的のものでありまして、具体的経験それ自体、即ち経験
体でありまして、そのアラヤ自体の具体的経験の内容たる意味、即ち義相が二つある。
その二つの内容的意味の一つが果相といわれ、一つが因相といわれるのである。即ち
アラヤの具体的経験のニ箇の意味を果相因相という二つをもって現したので、その体と
意味とを合わせて三相というのであります。こういうように一体二相、一体二義、これを合
わせて三相というのであります。・・・・・そこで自覚というのは具体的の全一の作用であり
ますが、やはり体を全うして働くところの働きであります。その具体的経験という等流因果
の相続の一面の有限の極端、極限の内容が果相である。自覚の有限相対の一面的意義
を現すのが果相であります。それに対して絶対無限の一極限に現わるる意味が、それが
因相である。或いは果相はアラヤ識の立体的自覚作用の内在的意味であり、分析的内
容である。それに対して因相はアラヤ識の自覚作用の超絶的意味、即ち直に総合的自覚
主観それ自身の反省である。つまり果相というものはアラヤ識の事実的相分になるが、因
相は永遠にアラヤ識の相分にならぬものであります。

 語注)相分:認識する主観(見分という)に対して、認識される対象のこと。主観に対する
         客体。唯識では識が見分と相分に二分することによって対象認識が成立す
         ると説く。しかし相分も見分と同じく識に他ならず、識とは別に対象が実在す
        ると思い込んで執着することが迷いであり、その迷いを翻して万法唯識を体
        得することを目指す。

その因相の中において種子というものもまた果相になる時は純粋な種子ではなくて、それ
が有漏の種子というものになって来た時に初めて果相の中に這い入って、それが一つの
有漏の内容というものになるけれども、純粋無漏のアラヤ識の相分にならない。・・・・・そ
こでアラヤ識即ち絶対的自覚意識、即ち諸の自覚意識自体なる根本自覚の現実相が即
ち果相であり、因相はその理想である。また果相はその内容であり、因相はその形式で
ある。まだ色々の言葉をもって色々に現すことが出来ようと思うのでありますが、とにかく
要するに、絶対無限の自覚の中においてこそ初めてこの現実有限と無限の理想というも
のを具体的に包含している、それが即ち本当の円満的具体的経験であり、具体的経験と
しての自覚意識というものである。こういう具合に現して行くのがアラヤ識の三相と名づけ
るものである。

先ずアラヤ識は法蔵菩薩である。随って「法蔵菩薩は純真なる宗教的体験である」という
ことをはっきり皆様の頭に置いて戴いて、つまり法蔵菩薩が至心信楽欲生の三心の誓を
発したもうた、即ち至心信楽欲生というものは法蔵菩薩の発起したまえる所の三心であ
る。こうしておいてこの三心というものをアラヤの三相の上に求めて見ると、信楽というも
のはアラヤ、即ち究境体験、即ち宗教的体験の自相である。・・・・・そこで果相は何だ、こ
れは至心である。それから因相は欲生である。

      自相 − 信楽       (具体的経験それ自体)
      果相 − 至心       (現実相、内容、有限、相分になる)
      因相 − 欲生       (理想、  形式、無限、相分にならない)

こういう具合な配当は、ただ仮りに配当するのでも、相似しているとか類似しているとか説
明の便宜上とかいうのではなく、私に動かない所の内的必然の根拠がある。それを話して
行くのであります。これは何故かと云ってみますというと、この至心が宗教体験の果相であ
り、欲生はそれの因相である。そうして信楽は体験としての根本意識自体たる法蔵菩薩の
自体相、法蔵菩薩の自我相、自覚相であり、それが経験全体である。そうして所謂至心
信楽欲生の三心といえども、信楽という自相の中に、至心の果相、欲生の因相が総合せ
られている。即ち因と果との二相が信楽の自相の道程の中に総合せられて、所謂信楽の
自覚進展の両極端に現れる所の二面の内容的意義が至心と欲生である。こういう具合に
考えられると思うのであります。三心即一の信楽ということは、こういう点から始めて明瞭
に説明することができると思うのであります。


 2)果相 − 至心

「一切ノ群生海、無始ヨリ已来乃至今日今時ニ至ルマデ、穢悪汚染ニシテ清浄ノ心無シ、
虚仮諂偽ニシテ真実ノ心無シ。」これが即ち至心は宗教的体験の果相という所以である。
・・・・・ここに謂う所の「群生海」は所謂衆生海であり、感覚意識と称すべきものである。・・
・・・我々は内には六根なる有機体を全体的に感覚し、外には六境なる無機体を全体的に
感覚する。・・・・・それは内外無数に各々別々の形象を取りて内なる煩悩妄念に応じて化
現している。この一切群生海は、感覚意識が何等の統一なくムクムクと所謂六根六境六
識の群賊悪獣を生ずる。・・・・・即ちここに二河白道の譬の中の群賊悪獣が群生海の名
を以って流れ来った。・・・・・これは何であるかといえば、仏教には異熟と云い、全体を総
合して異熟の意識という。異熟ということは何であるか。異熟というのはつまり果が因と異
にして熟する。結果が原因と異なって生ずる。・・・・・是れが吾々の業の世界・・・・・抽象的
に見ゆる部分的感覚も、それが感覚たり得る所以は、それが実は全体的だからである。
その全体的感覚を「唯識論」では異熟識と名づけるのである。・・・・・然らば総体的感覚た
る異熟識の主観は何であるか。それは業の全体である。所謂総報業である。全体業であ
る。この総報業こそ異熟意識である。・・・・・私は先に異熟の因果は因果別体であると云
うたが・・・・・今や異熟が真に異熟意識に到達した時、即ち異熟がその極限に達した時、
異熟識は異熟を超越して清浄真実の智光を開いて一切衆生を摂取し、衆生の苦悩の象
徴たりし山河大地、諸有機体をして転じて各自に満足歓喜の象徴とならしめる。かくして一
切の事象の上に内面的円満完全の個性を成就せしむるものが、此の至心の意義であり
ます。

此のアラヤ識が異熟識即ち異熟の原理の体であって、異熟を異熟せしめ、また異熟を意
識する所の意識、即ち感覚の主観、感覚の原理である。こういうぐあいにして宗教的全自
覚の一面、自覚の内在的有限的意義として見出しましたのが、つまり異熟識というもので
あります。だからして吾々は業の果を通して業の因というものを見出す。其の業の因が即
ち此の異熟識でありまして、業果に対して業果を感ずる所の主観、即ち業の因が此の異
熟識というべきものである、というぐあいに説いているのがアラヤの果相であります。つま
り一つの自覚内容としての自覚の道程の中に其の素材として異熟を見出して来て、それ
を全体総合の自覚作用の異熟識として遂にアラヤ識の自覚全体を見出して来たのであり
ます。・・・・・而して此の異熟を異熟する所の識を一層深く内観して、ここに今まで因と果と
別体と見えたる無自覚なる業の因果を一貫総合する久遠の自覚意識に証入し、此のアラ
ヤの大きな自覚を通して、翻って其の自覚の果相として、アラヤの大きな自覚の現実相と
して、自覚の道程の一つの現実相として、今更のように尊厳なる業というもの、自己の全
体的責任と云うものを、浄玻璃の鏡の前に立った如く明らかに見出し来たのであります。

一体、法蔵菩薩はどこに見出すか。此の一切群生海の中に、群生海を通して、そうして
群生海を超えて、そこに法蔵菩薩を見出す。群生海を通さずしては群生海を超えることは
出来ない。群生海を超えるということは、そこに如来があり、如来因位の行がある。だから
してそこに全体的なる純粋なる回向という論理があると思うのであります。・・・・・即ち此の
法蔵菩薩は、吾々の本当の現実、異熟の現実の自覚を通して、其の自覚の極端の底に
現れ、そこに感じる所の清浄なる大精神、本当に現実に苦しめられ、吾々を本当に見つ
め、自己のあらゆる現実を認めて、自己の全体を投げ出し、其の自己全体を投げ出し、
其の自己全体を投げ出す時に、其の自己全体を引き受けるものが法蔵菩薩である。・・・
・・此の至心は宗教的体験の果相である。・・・・・至心という所謂吾々の本当の純粋なる大
自覚、如来の覚体自体の一つの具象的なる果相である。


 3)「アラヤの三相」と「三心」 − 宗教原理の表現の道程、時間

アラヤ識の三相というも体が三つあるのでなくして一体二義である。即ちアラヤの自相の
中に果相と因相との二つを成就綜合せられて、果相といい因相というのは、一見すれば
右と左という風に、果相は有限なる義相であり、因相はこれ無限なる義相である。此の二
つは全く矛盾しているようであるけれども、それはアラヤの全体的自覚意識の二つの極限
としてここに綜合せられて、ただ一体の上の二つの意義としてあるものである。それと同じ
ように、本願の至心信楽欲生の三心というものも、其の体たるものは第二信楽、即ち信
心、信心なる疑蓋無雑の純一なる一心であって、至心といい、欲生というものは、ただ其
の信心の上の二つの意味である。乃ち宗教の先験原理なる本願の回向の三心は、ちょう
ど全意識の綜合原理なるアラヤの三相と同一なるものである。

これを過去現在未来という三世という時間の範疇なるものについて此の三相を考えてみる
ということになると、此のアラヤの自相即ち自覚相、自覚体というものは常恒に平等に相
続流転する意識の現在である。・・・・・真に存在する事実は現在だけであり、過去と云い、
未来と云うものは唯一存在の現在が現在たらんが為に内に影現する意味に外ならないと
信ずるのである。誠に現在は過去から流れ来たって、未来に向かって流れ去るのではな
く、現在は現在から流れ来て、更に一層大なる現在に向かって進む所の純粋流転の自覚
的道程である。それの従来する過去もなく、それの趣向する未来もない。それは法爾自然
に内に満足して無限に自己を展開証入し、一切を自己の内に求めて止まない。自覚的ア
ラヤ識は実は因に非ず、また果に非ず。而も現在の事行の上に因果の意識が成立する。
随って、その現在の反省に於いて過去の義相があり、未来の義相がある。中に就いて異
熟果相はそれの過去の相であり種子因相はそれの未来の相である。随って此の因果の
二相はアラヤの現在の無限の持続内観的事行の上の二つの意義であって、現在に対す
る実在ではない。・・・・・アラヤの自相は宗教的原理の自覚の相続する現在である。現在
は何か、現在というのは即ち刹那々々の現在である。・・・・・現在は常に一刹那の現行で
ある。・・・・・事実現在として躍動して来るものはただ刹那の現在のほかない。・・・・・本当
の事行の刹那というものは、之は方向をもった一つの点である。ある方向をもっている力
の力点である。・・・・・識の識たる所は過去にもないし未来にもない。ただ現在のみにあ
る。ただ現在一刹那にのみあるという所に識の識たる所がある。そこに識の特色がある
と思うのであります。所謂識の識たる所は自証にあるのである。自証自覚の力用の外に
何の別体もない。識の識たる所は自覚的実在である。

此の唯識の主張というものを本当に知って、本当に此の唯識の厳正なる自証的主張を知
って、そうして批評しているものは昔より一人も無い。未だ嘗って聞いたことは無い。また
此の唯識の学者の中に於いても、自覚の事実として此の唯識を立てなければならぬとい
うことに真実目を向けて、そうして此の唯識観というものを徹底した所の人はこれ亦甚だ
稀であるといわなければならぬ。・・・・・唯識は道の問題でありますからして、ただ自覚自
証の真剣な内観を回らして、そうして万法唯識という、ただ一つの問題を揚げて静かに内
に歩いて行く。万法唯識という問題は自覚を離れないということ。自覚を離れないというこ
とは唯識の立場の外何物も無い。唯識の問題を揚げているということは、それは常に燈火
を灯して歩くということであります。寸時も自覚の光明を離れない。そこに万法唯識の真理
があるのであります。

此の識それ自身の自覚というものを徹底して、そうして此の現在刹那ということを徹底的
にうちたてる所の其の原理がアラヤ識である。それをアラヤ識の現行と名づけるのであり
ます。・・・・・ところが唯識には、此の現行という言葉に対して、現行の現行たる所の原理
を現す所の言葉がありまして、それを種子と名づける。此の種子というのはつまり現行の
因でありまして、所謂現行するものは即ち現行それ自体である。其の現行それ自体という
ものが種子であります。・・・・・現行識の名が已に云うが如く、アラヤ識の根本的自証に立
って、翻って諸の感覚識たる六識を見返した時の名であるに対して、種子識の名はその
立場を感覚意識に置いて内にアラヤ識に向かって反省したる時の名である。六識に於け
る各自の自証は、それは恐らくは内なるアラヤの根本自証の影現である。随ってそれ等
の無限の反省はアラヤ識に向かってせられるのである。・・・・・かくてアラヤの根本自証意
識は一面に現行識であると共に、他面には同時に種子識である。即ち此のアラヤ識に於
いて、現行の果と種子の因とは総合せられて、これは一つでありまして、因即果、果即因
でありまして因果一体のものである。・・・・・之を即ち互為因果と名づけるのであります。

唯識ということは自覚である。自覚だから即ち現在である。現在に於いてのみ自覚という
ものがある。意識というものはただ現在に於いてのみある。・・・・・過去というものも未来と
いうものも畢竟ずるに現在一刹那の事実に綜合せられている。先に申しますように、過去
の果相というものは有限なる痛ましき所の現実である。また未来の因相はこれ無限絶対
の理想である。併し此の二つというものはただ現在の自覚意識の両極端を現しているも
のである。・・・・・其の自覚というものは無限に進むのである。其の刹那が無限に進み永
劫に歩むべき力である。其の無限に進み永劫に歩むということは刹那現行の力の方向で
あって、吾々が時間と考えているような、考えられた時間では無いのであります。・・・・・時
間はただ現在のみである。真実に現在一刹那の識そのものを自覚する時の識は無限に
内に流れ、無限に内面化して流れこんで来る。考えられたる所の時間というものは外へ
外へと流れて行く。そんなものは時間でも何でも無い。寧ろ空間的なる虚妄分別の内容
である。つまり自覚というものと全く方向を異にして外へ向かって行く。・・・・・現行というこ
とは、自覚の外からつまり自覚内に現入するので無くて、内から内に現行するのでありま
す。・・・・・識が識自らを無限に自覚して行く所の、其の道程、それは識が無限に現行す
る所の道程は、刹那現在と云う時間の形式の中に入りて始めて此の唯一の限定に依って
事実となり、而して是の唯一の限定に依ってのみその法性を反顕するのである。・・・・・其
の自覚のつき進む所の無限の自覚、識の歩み進んで行く所の前途には因相というものが
ある。また自覚のつき進んで行く所の後ろにはここに果相というものがある。自相は常に
果相を後ろに因相を前にして、そこに自相というものの歩みがある。・・・・・自相の歩む所
には大虚空の如く何物も無く、全く無碍の一道を歩む。けれどもただ純一なる自相の歩み
には前には無限の未来を包み、また後ろには限り無い所の果相というものの足跡をのこ
して行く。或いはまた無限の果相を超越して、そうして無限の因相というものを求めて行
く。予めそういうものを描いて進んで行くので無い。けれども進んで行く所に因相果相の二
つがそこに現れて来るのである。」   曽我量深(如来表現の範疇としての三心観)より


ここまで見ても、近代に入ってから唯識さらには大乗仏教を代表する論書のひとつとされ
る本論書は論旨の上で疑問を生じる重要箇所がいくつかあることが分かる。ただし本論
書は論理的整合性を持つ世界観・人間観の主張を目的とする哲学書ではなく、言語で記
述すれば矛盾があることが当然である宗教書であることを忘れてはならず、むしろ論理的
矛盾を孕む箇所に宗教としての重要性があるかも知れないのである。真宗の曽我先生に
おいては、この矛盾をそのまま立てて教えていられる。


「根本的無明、即ち根本的我執は我々の生と同時に忽然として念起せるものである。此
れは此れ真生命の後影である。法蔵菩薩は常にこの重影をひいて限りなく進み行く。黒面
の影法師は真生命の菩薩を執蔵すべく限りなく真生命を追って行く。大菩薩は決して此れ
に執蔵せられない。彼は無碍の一道である。彼は安んじてこの黒影を摂取し、これを同情
し、同化して進んで行く。彼は永劫に不断に進み行く。善悪浄穢の現行の幻を念々に平等
に一切を摂取し遍照して捨てない。・・・・・まことに我執我見の黒影を摂蔵して、悉く此れを
同化して進み行き給う大菩薩の声を自覚したいと願います。彼は常に未来の世界から、
我の前に立って、しかも現在の妄我を呼び、現在の我の上に微かに自己を表現しておら
れる。妄我と真我の境界線に立って我は彼に直接する。彼は単なる理想ではない。彼は
超人格的汎神的存在でない。彼は我の肉体を親しく執受して、摂して自体と安危を共同
す。彼は我の総報の果体である。彼は我の一切の行為の最後の責任者である。・・・・・彼
自ら煩悩を起こさないが、しかし一切煩悩の動力となる。彼には排他はない。彼は個々に
就いて責任なくして全責任を負う。」             曽我量深「未来の世界より」より

「真実の人格は仏凡一体にして、また機法一体でなければならぬ。法蔵菩薩は仏心を全
うせる凡夫である、凡心を全うせる如来である。・・・・・我は永く彼ではない。ただし彼は我
である。」                               曽我量深「原始の如来」より


曽我先生の「法蔵菩薩・アラヤ識説」に対しては、唯識派が説くアラヤ識は妄識であるか
ら真実である法蔵菩薩と見做すのはおかしいとの、有名な仏教学者による批判が為され
たが、上に見るとおり曽我先生は法蔵菩薩に妄の面も見ている。この点は曽我先生が
「大乗起信論」の真妄和合識としてのアリヤ識を、唯識派のアラヤ識と強調するところ、
観る角度は異なっても基本的に同じであるとしていることからも明らかである。


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●熏習と異熟 

「次に、何を熏習と名づけるのであるか。諸法と同時に生じ、また滅することに由り、それ
(諸法)を生じる因としてあることを謂う。胡麻の実に花が(香を)熏じ付ける如くである。胡
麻の実と花とは同時に生じ、滅するのであり、胡麻の実は花の香を生じる因として生じる。
・・・・・アラヤ識の熏習の道理も、この様であると知るべきである。」


熏習( vasana )は「習気(じっけ)」とも訳され、一般には香を焚いて衣服に香を「熏染」さ
せるというような場合に用いられる語である。香を取り去っても衣服が同じ香気を発散し
ているように、熏習は同じものを新たに生じる種子に他ならない。上記の教説においては
、胡麻の実に喩えられているのが熏習である。従って熏習とは諸法が生じると同時に、ア
ラヤ識に種子を置くことである。上記の教説では、熏習の二つの点が説かれている。熏習
は諸法と同時に生滅することと、同じ法を未来に生じる因となることである。法が滅すると
同時に熏習つまり種子を置くことも滅する。しかし置かれた種子はアラヤ識に相続・蔵され
るのである。


「アラヤ識の中の汚染の諸法の種子は、アラヤ識と別なものとしてあるのか、別ではない
ものとしてあるのか。種子は別の実体が有ってこの(アラヤ識の)中にあるのではなく、ま
た別ではないのでもない。しかしながらアラヤ識はこのように生じ、それ(汚染の諸法)を
生じる機能の差別があるので、一切種子識と名づける。」


上記においては、前に説かれた熏習とは種子に他ならないとの意味に関連して、アラヤ識
が中に蔵する種子と別なのか、別ではないのかが問題とされている。しかも汚染の諸法の
種子(有漏の種子)についてであって、無漏の種子についてではなく問いが出されていると
ころに、機微が潜んでいるようである。

この箇所については世親の釈において詳細に、しかし難解に釈されている。熏習に由りア
ラヤ識に置かれて相続されている種子は、「●アラヤ識の三相」において説かれたとおり、
果でもあり、同時に因でもある。果が何故に因となるかということには、一種の秘密があり
、そこには果から因への転換があると世親は見ているようである。世親はアラヤ識につい
て「異熟」ということを強調する。異熟との語は本論書においては三つ後で出ているが、二
つ後に引用する本論書の教説について、世親は先んじてそれを異熟と呼んで釈している。
アラヤ識おいては過去の業の結果が異熟というはたらきに由り統合されており、過去の業
の善悪とは異なってアラヤ識は無覆無記であるとされ、新たな善悪の業が生じてくる。過
去の業と、新たに生じる業の善悪とは、同じ場合もあるが異なる場合もあるとされる。この
ようなアラヤ識のはたらきを異熟と呼ぶ。つまり過去の業は種子として相続されているの
であるが、多数の種子の間にはたらく力関係の大小のような因縁があるとされているよう
であり、過去の業の善悪はアラヤ識において一旦は打ち切られ、異熟という改変・統合の
作用を受けて、新たな善悪の業が生じるとされる。ここにおいて、過去からの果・未来への
因としての種子とアラヤ識とは、同一であるか別であるかが問題となってくるのであり、同
一としても別としても種々のおかしな事になってしまうことを、世親はいくつかを挙げてい
る。例えば、同一とすると無始より相続されて種々雑多に無数に有るとされる種子ごとに
応じて、アラヤ識も種子の数と同じく無数・雑多にあることになる。もしアラヤ識は種子とは
別であり唯一であるとすると、アラヤ識は不変なるものとなり、不変なるものは未来への因
となることは出来ない。因となることは、刹那々々に変化するものでなければならないから
である。このように種子の雑多性とアラヤ識の統一性や、業の善悪とアラヤ識の無記など
がおかしな事になってしまうので、アラヤ識と種子とは、本論書の上記部分が説くように、
別ではなく、また別ではないのでもないと、矛盾を孕んで謂うより他は無いのである。精緻
な理論が構築されているように見え、それ故に現代の学者の関心を惹く唯識派の教説も、
大乗仏教という純粋宗教であることを忘れてはならない。理論的整合性を以ってしては説
いていない秘密の義が含まれており、それが宗教性・超越性であり、言葉を用いて説けば
矛盾をあらわにする。アラヤ識の教説においては、この異熟識の教えに特に矛盾性・宗教
性が顕著に表われているのである。


「次に、アラヤ識と汚染の諸法とは同時にして更互に因となるとは、どのようなことと解す
るべきなのか。譬えば、燈火における焔と芯とが、(焔が)生じることと(芯が)焼けることと
が同時にして更互に因となるが如くである。また、蘆の束が相互に依りかかって同時に倒
れないが如くである。この(アラヤ識と汚染の諸法)中の更互に因となる道理も然りである
と見るべきである。アラヤ識が汚染の諸法の因となるが如く、また汚染の諸法もアラヤ識
の因となる。このようにのみ、因縁を立てる。他の因縁はあり得ないからである。」


上記においては、アラヤ識と現象的な世界(汚染の諸法)との関係が、「●アラヤ識の三
相」の箇所において述べたとおり、どちらが因で相手が果であると決まっていることではな
く、一方を因とすれば他方が果となるという、後世の「成唯識論」において「互為因果」の
教義とされる内容が説かれている。この関係は本論書の語を用いて「更互因果」とも呼ば
れる。本論書においては、両者が同時に更互に因となることが直接的には説明されずに、
二つの譬えが挙げられているだけである。よほど適切な譬えであるとされているのであろ
う。これはアラヤ識が因相と果相との二種の相を具えているとの教説と同じことを謂ってい
る。アラヤ識の因相を見れば汚染の諸法は果であり、果相を見れば汚染の諸法は因であ
る。因として見ればアラヤ識は一切種子識であり、果として見れば異熟である。

上記の最後に、この更互に因となるということだけが因縁であり、この他に因縁は無いと
いう唯識派の独自にして重要なる教説が主張される。大乗仏教は共通して因縁・縁起の
道理を説くが、それは唯識派においてはアラヤ識と汚染の諸法との同時更互因果として
のみ、かなり具体的に主張されているのである。因果との語が用いられているが、小乗
仏教が説く固定的・一方向的な因果関係は否定されており、因と果との時間的前後関係
も否定されている。この縁起は、唯識派に先立つ中観派が空・無我・無自性・無所得など
の多くの同義語を挙げて説くことに対して、唯識派はアラヤ識と汚染の諸法との関係とし
て具体的道理として説くのである。それ故に後世においては、唯識派が説く縁起説をアラ
ヤ識縁起とも呼ぶ。

真宗においても同時因果ということは実質的に説かれている。法蔵菩薩は因位であり、阿
弥陀仏は果上であると説かれるが、法蔵菩薩は願が成就して阿弥陀仏と成られたからも
う居ないと思っている門徒も多いかも知れないが、そのようなことは無い。現在に本願力
がはたらいていると説かれる。本願は法蔵菩薩の心である。しかも阿弥陀仏の本願という
言い方も為されるのであり、これは因位の法蔵と果上の阿弥陀とが同時であることを示し
ている。先に引用した曽我量深先生の教えにおいても、法蔵菩薩は過去の人であって現
在しないということとは全く反対のことが強調されている。しかしながら、更互因果というこ
とはあまり説かれない。更互因果を説くのであれば、因位の阿弥陀仏と果上の法蔵菩薩
という言い方も為される筈であるが、そのようなことは絶対に説かれない。実は単なる因
果関係だけを言うのであれば、更互因果と言ってもよいと思う。阿弥陀仏の根源は法蔵
菩薩であるが、法蔵菩薩の根源は阿弥陀仏である。仏が一切衆生救済のために因位の
菩薩と成って願を発し、修行されたのである。法蔵菩薩と阿弥陀仏とは更互に根源であり
、この関係は永遠の現在同時である。成仏と因位に下ることは現在同時である。しかし何
故に更互因果とは言われないのであろうか。それは因と果との間に時間的前後関係や、
どちらが根源であるかの一方向的関係を立てるからではなく、因と果との間に位の異なり
、分限・分際の異なりを明確に見ているからである。この位・分限・分際を混乱しないのが
真宗である。ここを混乱しているのが、衆生は仏なりなどと豪語する聖道門である。


「熏習は異なり、雑多なることはないのに、如何にして異なりが有り、雑多なる諸法の因と
なるのか。譬えば、絞り染めを行なうために絞られた布の如くである。絞った時には異なり
が有り雑多なる色は現われないが、これを染色の器に入れた後には、異なりが有り雑多
なる色が、一つではない文様として現われる。アラヤ識もこの様であり、異なり、雑多なる
熏習を受けても、熏習の時には未だ異なり、雑多なるものは有らずと雖も、果の生じる染
器に現前した後には、異なり。雑多なる無量の諸法が顕現するのである。」


二つ前の引用部分において、多くの諸法の果として一つのアラヤ識があり、一つのアラヤ
識が因となって多くの諸法が生じるという、アラヤ識における転換の問題が、絞り染色の
喩を以って説かれている。絞り染色における転換は、布が染色器の中に入れられて起こ
るのであるが、アラヤ識が染色器に譬えられている。アラヤ識の中で種子が相続されると
共に何らかの転換を受け、それが因となって多くの諸法が生じる。アラヤ識に熏習した諸
法と、アラヤ識より生じた諸法の善悪は同じであるとは限らず、アラヤ識において転換・
統合を受けている。それ故に、アラヤ識そのものは善悪に関して無記であるとされる。

一つ前の引用部分で説かれたことは同時因果であり、この引用文で説かれていることは
それとは異なり、明らかに異時の諸法の間の因果関係である。これを世親は異熟因果と
して釈している。


「もし略説すれば、アラヤ識は異熟識・一切種子識であり、一切種子を有することを自性
とし、三界の一切の自体と趣とを摂める。」


本論書において異熟識との語が、何の説明も為されずに出されている。実は前の引用文
が、世親が釈したとおり異熟因果を成立せしめるアラヤ識のはたらきを説いていたのであ
り、アラヤ識のこの面を異熟識と謂う。「●アラヤ識の三相」の箇所において述べたとおり、
アラヤ識の二種の相の中の因相を一切種子識と謂い、果相を異熟識と謂うのである。異
熟( vipaka )とは過去の業が成熟して果となっており、しかも過去の業の善悪と果のそれ
とは異なっているという意味である。つまりアラヤ識は熏習された種子を単に相続してい
るだけではなく、業の善悪の性質を転換して統合するはたらきを為す識として説かれてい
る。始めの方で出てきた蔵識との語は、アラヤ識が無始より熏習され続けている種子の
一切を蔵する・相続するはたらきを示しているが、異時にアラヤ識が因となって業を生じる
際には、熏習した業がそのまま新たに生じるのではなく、アラヤ識における転換・統合の
作用を受けて業を生じるのである。前述したとおり、果が因になるという際に転換という一
種の秘密があると見られているようであり、それが異熟との名で呼ばれている。蔵識と言
うとイメージされる単なる倉庫のような、過去に入れたものが未来にそのまま出てくるとい
うようなはたらきがアラヤ識ではない。異熟というはたらきに不思議がある。このようにア
ラヤ識は諸法の因相と果相という両面を具えているが故に、諸法つまり三界のあらゆる
在り方を内摂しているのである。上記の最後の三界の「自体」とは何を意味するのかは難
しい。現代の学者は個体生存の持続とか身体的存在であると解釈するようであるが、推
測されるサンスクリットの原語( atmabhava )には「アートマン」の語が含まれているようで
あり、アートマンの本性・本体といような意味になるであろう。それ故に学者は個人・個物
の「個」としての在り方と考えるようである。しかしながら、私はこの場合のアートマンは個
々の個ではなく、個々を含みながらも個々の根源としての無我なる全体我意識を謂ってい
るのではないかと感じている。「●アラヤ識の三相」の箇所において引用した曽我量深先
生の「如来表現の範疇としての三心観」の中の「2)果相 − 至心」の一部を再引用する。


「・・・・・異熟識の主観は何であるか。それは業の全体である。所謂総報業である。全体
業である。この総報業こそ異熟意識である。・・・・・私は先に異熟の因果は因果別体であ
ると云うたが・・・・・今や異熟が真に異熟意識に到達した時、即ち異熟がその極限に達し
た時、異熟識は異熟を超越して清浄真実の智光を開いて一切衆生を摂取し、衆生の苦
悩の象徴たりし山河大地、諸有機体をして転じて各自に満足歓喜の象徴とならしめる。か
くして一切の事象の上に内面的円満完全の個性を成就せしむるものが、此の至心の意
義であります。

此のアラヤ識が異熟識即ち異熟の原理の体であって、異熟を異熟せしめ、また異熟を意
識する所の意識、即ち感覚の主観、感覚の原理である。こういうぐあいにして宗教的全自
覚の一面、自覚の内在的有限的意義として見出しましたのが、つまり異熟識というもので
あります。だからして吾々は業の果を通して業の因というものを見出す。其の業の因が即
ち此の異熟識でありまして、業果に対して業果を感ずる所の主観、即ち業の因が此の異
熟識というべきものである、というぐあいに説いているのがアラヤの果相であります。つま
り一つの自覚内容としての自覚の道程の中に其の素材として異熟を見出して来て、それ
を全体総合の自覚作用の異熟識として遂にアラヤ識の自覚全体を見出して来たのであり
ます。・・・・・而して此の異熟を異熟する所の識を一層深く内観して、ここに今まで因と果と
別体と見えたる無自覚なる業の因果を一貫総合する久遠の自覚意識に証入し、此のアラ
ヤの大きな自覚を通して、翻って其の自覚の果相として、アラヤの大きな自覚の現実相と
して、自覚の道程の一つの現実相として、今更のように尊厳なる業というもの、自己の全
体的責任と云うものを、浄玻璃の鏡の前に立った如く明らかに見出し来たのであります。

一体、法蔵菩薩はどこに見出すか。此の一切群生海の中に、群生海を通して、そうして
群生海を超えて、そこに法蔵菩薩を見出す。群生海を通さずしては群生海を超えることは
出来ない。群生海を超えるということは、そこに如来があり、如来因位の行がある。だから
してそこに全体的なる純粋なる回向という論理があると思うのであります。・・・・・即ち此の
法蔵菩薩は、吾々の本当の現実、異熟の現実の自覚を通して、其の自覚の極端の底に
現れ、そこに感じる所の清浄なる大精神、本当に現実に苦しめられ、吾々を本当に見つ
め、自己のあらゆる現実を認めて、自己の全体を投げ出し、其の自己全体を投げ出し、
其の自己全体を投げ出す時に、其の自己全体を引き受けるものが法蔵菩薩である。・・・
・・此の至心は宗教的体験の果相である。・・・・・至心という所謂吾々の本当の純粋なる大
自覚、如来の覚体自体の一つの具象的なる果相である。」 
                        曽我量深(如来表現の範疇としての三心観)より


本論書がアラヤ識の果相である異熟識が、三界の一切の自体を摂めると説く場合、その
自体とは個体的存在というような表層的なものだけを指しているのではなく、曽我先生が
「一切の事象の上に内面的円満完全の個性を成就せしむるもの」「因と果と別体と見えた
る無自覚なる業の因果を一貫総合する久遠の自覚意識」「自覚の道程の一つの現実相」
としての「総報業」「異熟意識」であると思う。前述したとおり、私は自体とは個々の根源・
総体としての無我なる我意識・自覚意識を謂っているのではないかと感じている。この自
体を摂める体が、アラヤ識の異熟識としての面であることを説いているのであろうと思う。
アラヤ識が三界の一切の趣を摂めると説かれている「趣」とは、六趣・六道・二十五有等
の語で説かれているものである。謂わば衆生の境遇である。上記の曽我先生の教えの中
では「自覚の道程の一つの現実相」という個人的・具体的境遇の一つの相でありながら、
個の相を超えて「総報業」「全体業」「異熟意識」として自覚されるものである。従って三界
の趣とは、三界の自体と同じである。個が三界・六趣を輪廻・流転するのではなく、三界・
六趣を流転するものが個であり、総報業・異熟意識を自覚せしめられれば、個を超えて自
体と趣の総体とは同体である。結局、本論書は三界の一切がアラヤ識に摂められている
ことを説いていると言えよう。衆生が感受出来る三界・現実の相は、表層・衆生の第六意
識に現われているものであり、実にはそれら一切が深層のアラヤ識に摂取されているの
である。アラヤ識こそが三界・現実の根源・基盤にして因・果一如なる純粋自覚意識であ
り、純粋自覚の体であり、純粋自覚が自覚する原理であることを本論書は説いていると
思う。一人の衆生の表面的意識にとどまらない全体意識、つまり主体全体の構造・機能・
作用を厳密に説いているように見えるアラヤ識の教説において、前述したとおり特に異熟
識というものが超越性を顕著に示している。この点を曽我先生も鋭く見抜いて、「今や異熟
が真に異熟意識に到達した時、即ち異熟がその極限に達した時、異熟識は異熟を超越し
て清浄真実の智光を開いて一切衆生を摂取し、衆生の苦悩の象徴たりし山河大地、諸有
機体をして転じて各自に満足歓喜の象徴とならしめる。かくして一切の事象の上に内面的
円満完全の個性を成就せしむるものが、此の至心の意義であります。」というように、もは
や唯識の語と真宗の語とが渾然一体となって、先生が内観の実践的求道において見出し
た真の大乗の深義が示されている。唯識派がアラヤ識の異熟識としての面に、いかにして
超越性を見出したのか、あるいは逆に超越性を見出したが故に異熟識を説いたのかも知
れないが、いずれにせよいかにして超越性を見出したのかは審らかではない。ただし真宗
においては曽我先生が説くように、「自己全体を投げ出し、其の自己全体を投げ出す時に、
其の自己全体を引き受けるものが法蔵菩薩である。」「此の至心は宗教的体験の果相で
ある。」「至心という所謂吾々の本当の純粋なる大自覚、如来の覚体自体の一つの具象的
なる果相である。」との宗教的体験・大自覚の果相たる、一切衆生の自己全体・業全体を
引き受けてしかも業を転換・統合する、それ自身は無覆無記なる純粋なる大自覚・主体の
根本たる法蔵菩薩を見出さしめられる他に、超越性を体験する道は無い。


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●種子 

「外と内、不明了と二に於ける、唯だ世俗なる、勝義なる。

諸々の種子には六種有ると知るべきである。
 刹那滅すること、同時存在すること、常に相続して継起することを知るべきである。
 決定しており、多くの縁を待ち、唯だ自ら果を引くのである。 」


この箇所は前の「熏習」と合わせてもよいのであるが、前の箇所が長くなるので、ここから
一応は分ける。おおよそ種子と熏習とは明確には分けることの出来ないものである。アラ
ヤ識と種子とは別ではなく、別でないのでもないと説かれていたとおりである。上記の部分
には「種子は」との主語は無いが、種子には六種有ると説かれていることから、種子につ
いて説かれ始めたことが分かる。この後はしばらく種子について(勿論、熏習についても)
説かれる。上記の部分は偈頌の形で説かれており、種子の総説と、後世において「種子
の六義」と名づけられた説が述べられているが、あまりにも簡潔な内容のために難解であ
る。いくつかの釈を参考として解していく。

先ず初めは種子についての総説というべき偈であり、「外と内」とは外なる種子つまり植物
の種子と、三界の内・根源なるアラヤ識における種子であるとする釈が多い。「不明了と二
に於ける」とは種子の善悪についてであるとの釈が多い。つまり外なる種子・植物の種子
は善悪について不明了であり、内なる種子・アラヤ識における種子には善・悪あるいは清
浄・汚染の二つがある。この内なる種子の善悪について、どちらでも無い無記があるとす
る釈と、無記なる種子は認めない釈とがある。世親の釈は後者を説く。現代の学者は、ア
ラヤ識そのものが無記であると明言されているのであるから、種子に善悪の二種しかない
とする世親の釈は不合理であると主張するが、既にアラヤ識と種子とは別でも別でないの
でもないとの矛盾性が説かれているのであるから、この箇所で合理性を根拠として世親の
釈を排除するのはおかしいと感じる。凡そ矛盾性を排する合理主義の立場においては、
本論書に限らず大乗仏教を了知することは出来ない。先の「●アラヤ識の三相」の箇所で
引用した曽我量深先生の教えにおいては、「彼(法蔵菩薩つまりアラヤ識)は自ら煩悩を
起こさないが、しかし一切煩悩の動力となる。彼には排他はない。彼は個々に就いて責任
なくして全責任を負う。」(「未来の世界より)とか、「法蔵菩薩は仏心を全うせる凡夫であ
る、凡心を全うせる如来である。」(「原始の如来」より)と説かれていたとおり、アラヤ識は
個々の(種子)の善悪に就いて責任なくして全責任を負うという矛盾性を、本論書や世親
は見出していたのであろう。大体、「識」という語は主体・自己を意味している。学者のよう
にアラヤ識や種子を主体・自己とは関係の無い単なる物として考えていては、唯識の教え
を解することは出来ない。次の「世俗なる、勝義なる」とは、植物の種子は世俗なるもので
あり、アラヤ識における種子は勝義であるとする釈が多い。

次に「種子の六義」と呼ばれる教説が述べられる。(1)「刹那滅する」とは刹那生滅するとの
意味である。刹那とは仏教が説く一瞬とも謂うべき最小の時間単位であり、種子はアラヤ
識において一刹那ごとに生滅する。(2)「同時存在する」とは、業の果として置かれる種子
と、業を生じる因としての種子とは、同時に、つまり同じ刹那において共存するということで
ある。種子は刹那的・同時的でありながらも、(3)「常に相続して継起する」ものである。刹
那滅であるから、生じて一刹那だけ存在して滅するのであるが、同じ種子が次の刹那にお
いて生じる・起きるのであり、このような形でアラヤ識において刹那生滅を繰り返しながら
無始より相続され継がれていく。一切種子を蔵して相続していくアラヤ識の蔵識としてのは
たらきは、実は種子が滅せずに相続されていくのではなく、無限の刹那生滅を繰り返して
為されていくのである。さらに業が果としての種子を置いた、その同じ刹那・同時に、置か
れた種子が因となって同じ業を生じるのではない。置かれた種子が業を生じるのは異時、
別の刹那においてであるとの、異熟の面も意味されていると思われる。(4)「決定している」
とは解釈が難しいが、一度置かれた種子の善・悪、汚染・清浄は変わることが無く、決定し
たまま相続されることを意味していると思われる。(5)「多くの縁を待つ」とは、置かれた一
切の種子が刹那生滅を繰り返しながらも相続・継起しているのであれば、それらの種子を
因とする業が何時でも随時に生じるのかと言うと、そうではなく、種子が因となって業を生じ
るためには多くの縁を待つ、つまり縁が熟する必要があるとの意味であろう。先に果として
置かれた種子が因となって新たな業を生じるというところに、しかもそれが異時であり、善
悪も異なるという変換・統合のはたらきがあることが異熟として説かれていることを見た。
ただし置かれた種子の善悪は変わることが無く決定している。変換・統合のはたらきは種
子にあるのではなく、異熟識としてのアラヤ識にあるのである。善悪の変換とは種子の善
悪が変換されるのではなく、種子を置いた業と、種子から生じる業との間に善悪の変換が
見られるのであり、変換のはたらきはアラヤ識にある。ただし変換のはたらきはアラヤ識
が勝手に為すのではなく、多くの縁に依り、それらが統合されて為されるのである。ここに
おいて、アラヤ識とは任意・勝手な変換・統合を行ない得る神のような絶対者ではなく、大
乗仏教が共通して説く縁起の道理であることが分かる。所謂、アラヤ識縁起であり、それ
が「識」と名づけられるところに、単なる道理・法則ではなく、曽我量深先生が説くように自
覚が自覚する原理であり、それは自己・主体的なものであり、先に引用したとおり「吾々の
本当の現実、異熟の現実の自覚を通して、其の自覚の極端の底に現れ、そこに感じる所
の清浄なる大精神、本当に現実に苦しめられ、吾々を本当に見つめ、自己のあらゆる現
実を認めて、自己の全体を投げ出し、其の自己全体を投げ出し、其の自己全体を投げ出
す時に、其の自己全体を引き受けるものが法蔵菩薩である。」(曽我量深「如来表現の範
疇としての三心観」より)というものなのである。


「堅であり、無記であり、熏じらるる可きところであり、熏じるものと相応している。

熏じらるるところにして、此れ以外には無い。これが熏習の相である。
六識には相応しない。三つの差別があることと相違するからである。
二念は同時存在しない。(同時存在するものに)類するとすれば、過失となる。 」


この部分も偈頌であり、甚だ難解である。初めの一行の教説は、後世に「熏習(種子では
ない)の四義」と名づけられた。「成唯識論」においては「所熏の四義」として同じ教えが説
かれ、さらに別に「能熏の四義」を説く。「熏じらるるところ」と訳した部分は玄奘訳では「所
熏」となっており、熏じらるるもの、つまり種子との意にも取れるが、この部分は全体を見
ても種子のことではなく、アラヤ識が説かれていると思われる、「成唯識論」においても「所
熏処」となっている。(1)「堅」とは、熏習は風や流水のような流動的なものではなく、堅く安
定したものに為されることを意味するのであろう、この堅とは硬度が高いというような意味
ではないであろう。硬いと言うと不変なものというイメージに繋がるが、アラヤ識は刹那生
滅して刹那ごとに変化して止まない。しかしながら種子を相続・継起するとのはたらきを為
すが故に、滅した次の刹那に生ぜずに無くなってしまうということがなく、そういう意味では
熏習が為され得る堅なるものである。(2)「無記」とは、アラヤ識は無記であるとの基本教
説のままである。熏習される種子には善悪があるが、熏習するという作用そのものや、熏
じられるところのアラヤ識は無記である。(3)「熏じらるる可きところ」とは、熏との語がそも
そも衣服に香を熏じ付けることから由来しており、堅とは言っても石や金属のように香を
熏じ付けることが出来ないものではなく、布・繊維のようなものであるとの意味であろう。
アラヤ識はそのようなものであることを謂っていると思われる。(1)の「堅」との語との厳密
な異同は言語解釈上は分からない。(4)「熏じるものと相応している」とは、熏習との作用や
熏習を受けるアラヤ識が、熏習するもの、つまり業と相応していることを意味しているので
あろう。当然のことである。

次の三行は、このような熏習を受けるところはアラヤ識のみであり、これ以外には無いこ
と、六識(眼識から第六意識。本論書では第七マナ識は明確には出されていない。)は熏
習を受けるところとして相応しないことを説いている。その理由が、三つの差別があること
と相違するから、ということである。この意味を諸釈が釈しており、難解であるが要点だけ
を簡潔に述べれば、熏習とは時と場所とを同じくする二つのものの間に成立する作用で
あるが、一に例えば眼識が耳識に種子を置くというようなことは、場所が同じではないの
であり得ない。二に小乗仏教の「経量部」という部派は、前刹那の六識が後刹那の六識
に種子を置くと主張するが、二つの刹那にまたがる熏習は同時ではないのであり得ない。
三に六識は識として同種であるから相互に熏習するとの説に対して、一と似ているが眼
識と耳識とが相互に相手に種子を置くというようなことはあり得ない。諸釈の概要はこの
ような説を展開している。


「内なる種子は外なる種子とは同様ではない二説を顕わす。

外なる種子は或いは熏習の無い場合もあるが、内なる種子はそうではないと知るべきで
ある。聞く等の熏習が無ければ、果を生じることは道理に合わないからである。
業の果が消滅したり、業の無くして果を得るとの過失となり、道理と相違する。

外なる種子は内なる種子を縁とするのであり、彼(アラヤ識)の熏習に依っている。  」


この部分は外なる種子・植物の種子と、内なる種子・アラヤ識に置かれている種子との相
違点を述べている。外なる種子は熏習の無い場合もある。つまり地に蒔かれても芽を生
じない場合もある。それに対して内なる種子は、熏習されれば必ず果としての業を生じる。
勿論、熏習された種子が直ちに同じ業を果として生じるとは限らない。アラヤ識が異熟の
はたらきを為すからである。それ故に「聞く等の熏習が無ければ、果を生じることは道理
に合わない」と説かれる。この部分から、業(因としての業)と果(果としての業)とは、次第
に仏道上の因業と、仏果を得ることについて説かれ始めているということが感じられる。
「聞く」等の因業に由りアラヤ識に仏道の種子が熏習されなければ、仏果を得ることは道
理に合わないということが、ここにおいて主張されていることはほぼ間違いが無い。本論
書が説く仏道の修道(仏果を得るための因行)は、唯識派が共通して説く「聞・思・修」であ
り、その初めが「聞」である。本論書は特に「聞」を重要視して説いており、本分のこの後
において「聞熏習」「正聞熏習」ということが説かれる。この部分において出された「聞く」と
は、後で説かれる「聞」の先がけであろう。業の果が消滅することは無いとは、聞く等の修
道は必ず果を生じて虚しくはないことを説いているのであろう。業の無くして果を得ること
は無いとは、修道すること無くして仏果を得ることはないことを説いていると思われる。最
後の外なる種子は内なる種子を縁とし、熏習に依っているとの教説は、植物もアラヤ識
のはたらきを有しており、熏習・相続されている無数の種子の縁に由って植物の種が生じ
ると考えられているのであろう。


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●アラヤ識と六識 

ここまではアラヤ識と、アラヤ識の一部と見られているようである汚染のマナスについて詳
しく説かれてきたが、六識(眼識から第六意識)については、それが種子が熏習されるとこ
ろではないということ以外は、あまり説かれなかった。この箇所においては、六識及び六識
とアラヤ識との関係について説かれる。


「次に、これ(アラヤ識)以外の現行識は、普く一切の身体と諸もろの趣とを受用するもの
であると知るべきである。「中辺分別論」の偈に説かれているとおりである。

一には縁識と名づけ、二には受用者と名づける。
これ(二の受用者)において、感受するもの・想念するもの・行ずるものという心作用があ
る。」


本論書において初めて、先立つ唯識派の論書の教説を引用している。ここでは弥勒「中
辺分別論」の偈の一部が引用されている。アラヤ識以外の六識を玄奘は「転識」と訳して
いるが、ここでは現行識との語を用いた。「転」も「現行」も、六識が業を為すことであるが
、「転」との語を用いると世親が初めて用いて、それ以降の唯識派において最重要なる教
説の一つとなる「識の転変」との語との混乱を避けるためである。六識が業を為す現行が
、アラヤ識に種子を熏習する。その種子が異熟の作用を受けながらも、因となって六識に
新たな現行が生じるのである。これを「成唯識論」においては、「現行熏種子、種子生現
行」と簡潔に教義化している。六識は現刹那に業を行じる識であり、現行識(玄奘訳では
転識)と名づけられ、身体と趣(六趣)とを受用する識である。上記の部分では、全七識を
アラヤ識と六識との二種に大別している。「一には縁識」とはアラヤ識のことを縁識とも名
づけることを謂っており、アラヤ識が縁起を説くものであることを意味する。前述したアラヤ
識縁起である。「二には受用者」とは、現行識・六識は受用者であることを謂っている。前
半においては、六識は身体と諸趣とを受用すると説かれ、後半においては六識は受・想・
行の心作用(心所)が依拠する識(正確に言えば、心所が依拠する処は識ではなく根であ
る。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根である。)であることが説かれている。これら三つの心作用
は、五蘊(色・受・想・行・識)の中の受(感受すること)・想(想念すること)・行(起動させる
もの、形成力。この中にさらに意思・思索等の多くの心作用がある。)である。我々衆生が
自分の身体と趣(境界)とを感じているということは、衆生のアラヤ識ではなく、六識・現行
識が受・想・行の心作用を生じていることであると説かれているのである。ここに唯識派の
教説の独自性がある。人間は現代においても、自分(自己意識・自己の心。これは本論書
においては汚染のマナス、世親以降の唯識派においては第七マナ識とされるものであ
る。)の先ず外側に自分の身体が存在し、さらに外側に境界・環境という世界が存在して
おり、それを六根(感覚器官)が感受することを通して、自己の心が認識していると思って
いる。そのようにして外界の実在を捉えていると思い込んで疑わない。しかし唯識派は、身
体と境界とは六識・現行識が生じる受・想・行の心作用であると説く。心の外部に、自分と
は別に実在する世界を捉えているのではなく、自身も境界も自らの六識が心作用として生
じたもの、思い描いたもの、思いの中だけの世界であると説くのである。全世界は全七識
(世親以降は全八識)の作用により思い描かれたものであるとされる。六識が業を為すと
は、六識が身体と境界とを受用することであり、それは六識が受・想・行の心作用を生じる
ことに他ならない。六識が業を為すことがアラヤ識に種子を熏習し、その種子が因となって
新たな六識の業が現行するとは、六識が心作用を生じることとアラヤ識との関係を謂って
いるのであり、ここに外界の実在なるものは入っていない。自己と自己以外の一切法・諸
法は、唯識派の教えにおいては全七識におけるはたらきである。この中で骨子となってい
ることは、アラヤ識と六識・現行識が生じる心作用との相互作用である。


「これらの二種の識は、更互(相互)に因となる。「阿毘達磨大乗経」に次のように説くが如
くである。

諸法は識に於いて蔵せられ、識は法に於いて亦た同様である。
更互に果となり、また常に因となる。  」


上記の部分では「更互因果(相互因果)」が説かれている。更互因果は既に「●熏習と異
熟」の箇所において説かれていたが、そこでは汚染の諸法とアラヤ識との更互因果の関係
が説かれていた。上記の部分では、引用されている「阿毘達磨大乗経」の経文では諸法と
識(ここではアラヤ識を指す)との関係が、更互に果となり因となると説かれており、既説と
異なりや追加は無いように見えるが、引用の前の本論書の教説においては、更互因果は
二種の識つまりアラヤ識と六識との関係として説かれている。これは前の部分において、
諸法(普く一切の身体と諸もろの趣)とは六識・現行識が生じる心作用に他ならないことが
説かれたので、当然ながら諸法とアラヤ識との更互因果の関係を、六識とアラヤ識との更
互因果の関係として明示したのである。六識が業を為す現行が、つまり六識が心作用を
生じることが因となり、その果としてアラヤ識に種子が熏習され(アラヤ識の果相)、アラヤ
識に置かれている種子が因となり、その果として新たに六識に業が現行する、つまり新た
な心作用が生じる(アラヤ識の因相)ことが、アラヤ識と六識との更互因果の関係である。
諸法つまり六識が業・心作用を生じることの根拠はアラヤ識に蔵され摂められていると言
えるのであり、また逆にアラヤ識の根拠は諸法・六識の現行に蔵され摂められていると言
ことも出来る。

唯識派が説く更互因果は、仏教が共通して説く因果の道理として、大乗が説く因果は小乗
が説く因果とは異なるものであることを明示している。小乗が説く因果は、苦集諦の「十二
支」を代表とするように、二つの法の間に一方向的な因果関係が成立していることを主張
するものである。Aが因となりBの果が生じることが成立していても、逆にBが因となりAの
果が生じることは一般には成立しない。これに対して大乗が説く因果は究極的な道理では
なく、因果の奥に究極的な道理として縁起を見る。そもそもが諸法という法を分別すること
を否定的に超越して法の一如を了知し、反って諸法の平等なるままの区別を了知する。
一如と諸法の区別ということは矛盾することであるが、その矛盾のままが真実の相であり
、一如の立場において区別された諸法を見れば、そこには縁起の道理がはたらいている。
また縁起を見ることが、一如を了知することに他ならない。縁起においては、二つの法の
間に、どちらが因で他方が果であるとの、一方向的・固定的関係は無い。どちらも因であ
るとも果であるとも言える。つまりは因と果とには究極的な区別はなく、本来は因果一如で
あることを説くのが大乗である。ただし唯識派においては、六識は表層的な識・表面に顕
われている業であり、アラヤ識は根源的な識・潜在している種子という教相が強く出てい
る。それは六識は衆生において普通に自覚・意識出来る識であるのに対して、アラヤ識は
普通は自覚・意識出来ないからである。殆どの人間はアラヤ識を自覚出来ない。アラヤ識
を自覚するには、内観を行じなければならない。この内観の行を、唯識派では「瑜伽(ヨー
ガ)行」と名づける。唯識派における実践面・修道面の教えとして説かれる。唯識派におけ
る教理的な教えも、瑜伽行の実践から得られたものであり、実践よりも先に理論を立てた
ということはないであろう。


「・・・・・もしこのように定立されたアラヤ識が無いならば、汚染することと清浄化することは
あり得ないこととなる。つまり、煩悩の汚染・業の汚染・生の汚染も成立せず、世間の清浄
も出世間の清浄も成立しないが故に。」


全世界が衆生の外部の実在ではなく、六識が生じる業・心作用であり、それは六識とアラ
ヤ識との更互因果として成立しているのであるから、もしアラヤ識が無いとすれば六識も
あり得ないことになり、六識が心作用として生じる業も汚染・清浄を問わずあり得ないこと
になることを、上記の部分は説いている。これは逆も謂えることであり、もし六識が無いと
すればアラヤ識もあり得ないこととなる。後者をわざわざ説かないのは、自明なることと
したのか、あるいはアラヤ識が根底的なものとするとの意の表われであろう。一見すると
論理的に教えを説いているようにも感じるが、この教えには常識的論理は無い。一般人
からすれば非常識が説かれている。これはやはり、唯識派の教理は瑜伽行の実践から
得られたものであるからであろう。瑜伽行がある段階まで進めば、アラヤ識と六識との更
互因果として、世界・自己とその根底が成就していることを了知するのである。了知する
と言っても、それは宗教的体験・宗教的自覚の成就である。本論書の教説も、次第に宗
教性が強まってくる。

ここまででアラヤ識と六識・現行識の計7種の「識」が説かれてきたわけであるが、六識の
の中の意識とアラヤ識とは広い意味での意識である。アラヤ識に含まれるように説かれて
いる汚染のマナスも広い意味での意識である。汚染のマナスは世親以降はアラヤ識とは
別に第七マナ識として立てられ、アラヤ識が第八識とされるのであるが、この場合は第六
意識・第七マナ識・第八アラヤ識の三つが広い意味での意識である。第六意識は現代人
でも普通に自分の意識として考えているものであり、言語を用いて考え、種々の分別を為
す意識である。また広い意味での意識の中においては、表層の意識であり、普通の意味
での自己という意識である。気絶した場合などは、この第六意識のはたらきが停止するわ
けである。汚染のマナス・後の第七マナ識は我執という意識である。自我を立てていこうと
し、自我自身に固執する意識である。アラヤ識はここまでで述べてきたとおり、自覚意識・
根本自覚・わが身であり、普通には意識出来ないが、普通の意味での意識である第六意
識やさらには前五識(眼識から身識)の拠り処である。広い意味での意識においては、深
層の意識・根底の意識・根本意識である。深層の意識と言ったが、現代の心理学が考え
ているような深層心理ではない。これらアラヤ識・マナス・意識を漢語に意訳しようとすると
、全てを意識と訳すしかない。そうすると区別がつかなくなるが故に、常識的に意識として
考えられている第六意識だけを意識と意訳し、アラヤ識とマナスとは音訳したのである。唯
識派の教説を見る際に、このアラヤ識とマナスは広い意味での意識であるということを外
して見ていると、意識とは第六意識だけであって、アラヤ識とかマナスは得体の知れない
ものであるとして見ていると、全く訳が分からないであろう。


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●身体と器世間 − 受生と無受生 

「此の識に共相あり、不共相あり。無受生の種子の相、有受生の種子の相あり。共相とは
器世間の種子を謂い、不共相とは各別の内処の種子を謂う。共相は即ち是れ無受生の
種子、不共相は即ち是れ有受生の種子なり。」


共相とは各衆生に共通しているあり方、不共相とは各衆生で別々のあり方のこと。ただし
安田理深先生は共相を各衆生に共通している一つのものとは見ず、各衆生で重なり合っ
ていると見る。これは後期唯識の「成唯識論」が説くところを採用している。器世間とは環
境、国土のことであり、内処とは内の六処つまり眼、耳、鼻、舌、身、意の機能のこと、つ
まりひとりの衆生の身体の機能のことである。内処は本論書では有情世間とも呼んでお
り、また仏教一般では衆生世間とも呼ぶ。受生とは生存を受けること、身体の機能を受け
ることであり、前に述べたアダナ識が身体を自己のものとして執受することである。これら
をまとめれば下のようになる。

   身体(衆生世間)  −  受生(執受)     −  不共相(各衆生で個別)
   国土(器世間)    ー  無受生(非執受)  −  共相(各衆生で重なり合っている)


「それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆえに知るべし。
しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生及び器、また異にして一ならざることを
得ず。すなわち義をして分かつに異ならず。」 親鸞「証巻  ー曇鸞[ 論註 ]より引用」より


衆生と国土との関係は真宗においては不一不異とされている。衆生と国土とは異なるもの
であると感じるのは容易であろうし、実際に多くの人はそのように考えている。だが衆生と
国土とが不異であると感じるのは容易ならざることであろうが、一如の世界を感得できれ
ば不異である。この点を唯識の教義では、アラヤ識(アダナ識)の中に相は異なるとはい
え身体の種子と器世間の種子の双方が置かれ、お互いが縁起し合って衆生と国土が生
じると説くのであろう。衆生と国土とが不異であると感得は次の曽我先生の文によく表わ
されている。


「有情と国土とは一つである。そうであります。われわれは民族とかなんとかいって、人間
だけが血が続いていると思うが、仏法では依報正報といい、国土をもって依報という。有
情を正報といい、山河大地をもって依報という。依報正報は一つである。われわれ一人
一人が正報とともに依報を感ずる。仏法では国土を産むといわず、国土を感ずるという。
われわれは自分が生まれるときに、自己とともに山河大地全体を感ずる。業の世界では
各人各人関係していて、自分だけ孤立するということはない。あらゆる有情、有情のみな
らず世界全体がたがいに感応している。宿業の世界は感応道交の世界である。・・・・・宿
業に眼を開けば十方世界はたがいに胸を開き、山河大地もみな胸を開いて同じ仲間で
ある。」                                曽我量深「歎異抄聴記」より


いっぽう衆生と国土は不一であるとの面にも重要な意味があり、それは衆生とは何なの
か、つまり衆生の本性を感得することであり、安田先生は次のように述べる。


「執受とは、与えられたものをかえって自己自身として限定している。与えられたものと運
命をともにする。こういう意味が執受という言葉にある。それが身体のもっている響きであ
る。・・・・・身体というのは何から区別して特に身体というのかというと、これは器という言
葉から区別する。器というのは入れ物という意味である。身体の入れ物という意味だか
ら、環境ということになる。身体があれば必ず環境がある。・・・・・我々は身体をもつととも
に環境をもって生まれたのである。・・・・・器は各人に共通している。私の環境はあなたの
環境と重なり合う。むしろ重なり合う部分が環境である。実際をいえば重なり合っているだ
けであって、一つではない。一つのごときものである。・・・・・身体は環境を受用することに
よって身体自身を維持する、それが生きるという構造なのである。・・・・・身は共通できな
い部分である。・・・・・迷うということはその身において成り立つ。さとるということもその身
において成り立つのである。・・・・・身とは思いを破った現実という意味だが、そこに[ な
る ]のではなく、[ 帰る ]という意味がある。善導に[ 罪悪生死の凡夫 ]という言葉がある
が、その凡夫ということが、身をもって生きているということである。・・・・・思いを破って身
に帰すという。しかも同時にその身においてその根元を実現する。そこに根元が身と運命
を共同している。人間の根元が人間と運命を共にしている。人間を超えて人間を見る。こ
ういうところに身というものの非常に重要な意味がある。無生が生となることによって、生
を無生に帰すという意味において、生がむしろその根元の無生を自覚する。身というもの
を通して身の根元を自覚した場合に、身の根元である無生をはじめて[ 願 ]という言葉で
いい得るのである。願とは、誰かの意志ではない。誰かの身において生きているもので
ある。その何ものでもないものの意志、それを願という。」  安田理深「名言と自覚」より


前にも出てきた安田先生の「何ものでもないもの」は「無相の法身」であろう。


「法身は無相なり。無相のゆえによく相ならざることなし。」
                           親鸞「証巻 ー 曇鸞[ 論註 ]より引用」より



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●清浄なる仏土 

「対治が生じる時、滅せられるものは対治されるべきところの不共相なるものだけであ
る。他人の分別によって保持せられている共相なるものには、見の清浄があるのみであ
る。・・・・・外界の相は滅せられることがないといえども、浄なる者の見は浄である。また仏
の見は清浄であることに由って、仏土は清浄である。


後に述べる正聞熏習による対治は、不共相なるもの、つまり衆生の身体を対治して清浄
にするだけである。衆生の分別によって見られている共相なるもの、つまり国土は、国土
そのものが対治せられて清浄になるのではなく、衆生が国土を見る見解が清浄になるの
である。仏の見解は清浄であるから、仏土は清浄なのである、との意。国土に本来は浄
不浄はなく、それを見る衆生の見解に浄不浄があると説く。本論書によれば、清浄なる仏
土つまり浄土という国土は、穢土とは別なる国土としてあるのではなく、衆生の身体が対
治されて見解が清浄になれば、穢土なる国土が滅するのではなく、そのまま浄土になる。



「器は用なり。謂わくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆえに、
名づけて器とす。浄食に不浄の器を用うれば、器不浄なるをもってのゆえに、食また不浄
なり。不浄の食に浄器を用うれば、食不浄なるがゆえに、器また不浄なるがごとし。かな
らず二ともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもって一の清浄の名、必ず二
種を摂す。問うて曰わく、衆生清浄と言えるは、すなわちこれ仏と菩薩となり。かのもろも
ろの人天、この清浄の数に入ることを得んや、いなや。答えて曰わく、清浄と名づくること
を得るは、実の清浄にあらず。・・・・・かのもろもろの人天も、またかくのごとし。みな大乗
正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄
と名づくることを得るなりと。」

                         親鸞聖人「証巻  −曇鸞[ 論註 ]より引用」より


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●正聞熏習 

「世尊は説いた。「他の言音及び内なる各別の如意作理とにより、此れを因と為すに由っ
て正見は生じることを得る」と。此の他の言音と如意作理とは耳識に熏じると為すのか、
意識に熏じると為すのか、二つながらに熏じると為すのか。・・・・・如意作理を思惟する
時、耳識ははたらいていない。意識は種々の散動に隔てられて、如意作理に相応して生
じた意識とその熏習とは久しく滅して過去のものとなり、定まった体が有ること無し。・・・・・
この故に出世の清浄はもし一切種子の異熟の果を離れれば、また成じることを得ず。」


はじめに引用されている経文はいくつかの原始仏教経典に見られるものである。「他の音
言」とは仏の教えを聞くこと。「如意作理」とは聞いた教えを根本思惟すること。唯識ではこ
れらの「聞」と「思」を繰り返して体得すること「修」の「聞思修」を悟りへの修行とする。しか
し如意作理を思惟しても耳識ははたらかず、意識は様々な散動の思いが起きて思惟を定
めて保つことができないので、もし「一切種子の異熟の果(アラヤ識のこと)」が無ければ
正見・出世の清浄つまり出世間(迷いの世間を超越した)智慧を生じることは無いと主張
する。要するに、アラヤ識は主に迷い・悪業を生じる妄識であるとの面が強調されるが、し
かしまた異熟としてのアラヤ識があるが故に悟りも可能であるとする。本論書から最初に
引用した文にも「アラヤ識に依って迷いがあり、涅槃の証得もある」とあるが、ここでは悟
りの依りどころとしてのアラヤ識が強調されており、唯識派が説くアラヤ識は決して妄識
の面だけを持つものではないのである。


  *「正聞熏習」とは「聞法・念仏によって発起されるところの真実信」 推奨

「しかしながら、一切種子の異熟果としての識は汚染の因であるのに、どうしてそれを対治
する浄心の種子でありえようか。また出世心は昔より未だかって経験したことが無い故に、
その熏習はまさに無いはずである。その熏習が無ければ出世心が何の種子から生じる
のか。まさに答えるべきである。それは最清浄法界より等流するところの正聞熏習を種子
として生じるのである。」


本論書における最も重要な箇所であるとしても過言ではないであろう。まず反問を出し、
答えるべきであるとの文面からしても、著者の無着が強調してやまなかったことがうかが
われる。かって経験したことが無いが故に種子が無いはずの迷いの世間を超えた清浄
心、正見、智慧(出世間智)は、最清浄法界より等流するところの正聞熏習を種子として
生じると主張する。

「法界( dharmadhatu )」は真如、法性、空性などの語と同義とされる。差別の現象界では
なく、また現象界を離れていない一切の根源の一如の世界。それが「最清浄なる」と形容
されるのは声聞、縁覚の二乗(つまり小乗)の悟りの世界ではなく、大乗の菩薩を生み出
す自利・利他円満の界の意味であろうか。「等流( nisyanda )」は仏陀の説法・教法が法
界から「流れ出てくる」ものであり、ひいては教法も本質的に法界そのもののはたらきと一
つであることを主張する語である。「正聞」の聞は、「聞法」の聞であり、単に耳で聞いたり
意識で考えることだけにとどまらず、アラヤ識で聞くこと。つまりは全身をもって意識の深
層に染みわたるまで聞くこととでも言おうか。本論書のこの文は、悟りへの道の種子(因)
は正聞熏習しかないことを主張するものである。

唯識の論書の文と真宗の聖教の文で直接的に対応するものは殆ど無いことを「はじめに」
で述べたが、唯一の対応を感じとれる文が次の「教行信証」に引用されている元照の言葉
である。


「わが弥陀は名をもてものを接したまふ。ここをもて耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、
識心に乱入す。ながく仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き無上菩提を獲証す。」
                   親鸞聖人「行巻 − 元照[ 弥陀経義疏 ]より引用」より


故に本論書が説く正聞は真宗においては、耳に聞き口に誦するところの弥陀の名であ
る。ただし徒らに聞き、誦するだけではアラヤ識に熏習されない。根本思惟(聞思)しなけ
ればならない。そこで親鸞聖人は念仏行を「本願憶念」であると明言されたのである。勿
論、念仏が本願憶念であるためには教法を聞く(聞法)ことも不可欠である。真宗におい
ては、これら教法と名号を聞く「教行」二法(真実教、真実行)が正聞に相当する。従って
また、正聞熏習とは聞法・念仏によって発起されるところの「信」(真実信)であり、出世心
とは無上菩提の獲証(真実証)である。


近代の真宗の曽我、安田先生が唯識を重要視することに対し、親鸞聖人の「愚禿抄」に
おける教相判択では唯識の法相宗は実教ではなく権教とされている。これは偏えに法相
宗が大乗仏教の根本たる「一切衆生悉有仏性」を否定して「五姓各別」を主張することに
依るものと考える。何故ならば唯識が説く「万法唯識」は、親鸞聖人が実教と判択した華
厳の「三界唯心」と言葉は異なっても同じことだからである。凡そ唯識の論師、宗祖たちと
念仏との関係は複雑である。インドの世親、中国法相宗の大成者である慈恩大師など、
唯識の教義としては五姓各別を説き、世親は「浄土論」を、慈恩大師は「西方要決」を著
して一切衆生が念仏で救済されると勧める。彼等においては証拠となる著作は無いが、
ここに龍樹における難行・易行の判択と同じものがあったと想像せざるを得ない。


「この聞熏習の種子はアラヤ識の自性であるのか、自性ではないのか。もしこれがアラヤ
識の自性だとすると、どうして妄識であるアラヤ識を対治する種子であろうか。もしこれが
アラヤ識の自性ではないとすると、この熏習の種子の依りどころは何なのか。仏の菩提を
証得するまで、この熏習の種子はある依りどころの転じる処に随在し、異熟識中に寄生し
て和合して倶に転じる。水と乳との如くである。然れどもアラヤ識ではない。これはアラヤ
識の対治の性であるが故に。」


本論書の最初に引用した文にあるように、アラヤが諸法を摂蔵し一切の種子を蔵する識
であるならば、聞熏習の種子もアラヤ識に蔵せられるはずだから、聞熏習の種子を蔵す
ることはアラヤ識の自性であるのか、そうではないのかとの問題を説いている。妄識であ
るアラヤ識を対治する聞熏習の種子は、アラヤ識の異名とされる異熟識中に寄生して和
合するが、アラヤ識に蔵せられるのではない、との意味に解する学者が多い。そこで本論
書は他の唯識派一般のようにアラヤ識と異熟識を全く同じものとはせず、異熟識はアラヤ
識を含むものであって、異熟識中にはアラヤ識とは別に聞熏習の種子を蔵する処が随在
していて、それとアラヤ識は水と乳のように混ざってはいても同じではないとしているとの
解釈もある。本論書のこの文を、論理的に矛盾の無い説明が成り立つように解釈しようと
するのが学者の態度である。しかしこの文には大乗仏教の重大な2つのポイントが説かれ
ていると考える。一つは玄奘がちゃんと訳しているとおりの「聞熏習の種子はある依りどこ
ろの転じる処に随在する」の「転じる」である。転じるは宗教のダイナミズムであって、アラ
ヤ識や「転じる処」は実体ある存在物ではない。実体的思考しかできないからアラヤ識と
聞熏習の種子を蔵するところが同じか違うかを問題とせざるを得ない。これは「転じる」、
真宗の言葉でいえば「回心」の体験を経ずに学究しても全く空論を積み上げるにすぎな
い。聞熏習の種子は「転じる」というダイナミズムにおいて顕れるのである。二つ目は「水
と乳の如く」という矛盾同一の表現である。これを学者は「混合はしているが化合していな
い」との近代化学のように解するのであろう。煩悩と菩提、生死と涅槃といった絶対に矛盾
しているもの同士が、また同一であるということが、つまり矛盾同一の成立の体験が大乗
仏教である。本論書が説くところは、妄識たるアラヤ識と聞熏習の種子との矛盾同一であ
り、その同一は「転じる」とのダイナミズムによって成就するのである。安田先生は次のよ
うに説いている。


「[ 転ずる ]というのは失わないことである。識(妄識としてのアラヤ識)を捨ててしまうので
はなく、識を回転する。つまり、識が識に目覚めるのである。・・・・・識がなくなって外から
智というものを入れてくるのではない。識をまったく失わずして智慧になる。」 
                                安田理深「我欲す故に我あり」より


後期唯識派によって「転識得智」と明言される宗教的真実のダイナミズムは、大乗仏教一
般の言葉でいえば「転迷開悟」であり、真宗の言葉でいえば「転悪成徳」である。妄想分別
の識が転じられるところに菩提・涅槃が成就される。妄想分別の煩悩が起こらないように
完全に滅してしまったら、もはや菩提は生じない。ここが煩悩の断滅を目指す小乗仏教と、
煩悩が転じられる大乗仏教の異なる点であるといただいている。ただし我々凡夫は自ら識
を転じる能力を持っているのであろうか。衆生はその能力を持っていないというのが、真宗
の門徒であれば誰でも聞いているところであり、この点は唯識の本論書も同じである。いく
ら自力の修行を積んでも上に引用したとおり、「如意作理に相応して生じた意識とその熏
習とは久しく滅して過去のものとなり、定まった体が有ること無し」が著者の無着の「機の
深信」であるとも言える。菩提への道は「最清浄法界より等流するところの正聞熏習」に依
るしかない。謂わば他力に乗じるしかないのである。

大乗仏教の歴史はこの正聞熏習が具体的には何なのかを追求し、証し、伝える歴史であ
ると言っても過言ではない。ここに最も具体的に明確に示された教法が「大無量寿経」であ
ると自証させていただく道が真宗である。


「此の正聞熏習の種子は下中上品のいずれであっても、まさに法身の種子であると知る
べきである。・・・・・すでによく諸煩悩の纏いを対治し、すでによく諸悪趣を対治し、すでに
行なった一切の悪業を無力にする対治をなす。よく一切の諸仏・菩薩に逢うことに随順す
る。世間にあるといえども、初修行の菩薩の得るところでさえ法身に摂せられるのである
とまさに知るべきである。」


この文は、法身の種子である正聞熏習の種子には四種の対治があることを述べたものと
して解釈されている。

  1)煩悩の汚染の対治  2)生存の汚染の対治  3)業の汚染の対治療
  4)諸仏・菩薩に逢う

世親の釈は特に素晴らしく、4)があるが故に始めの三種の対治が可能となるとしている。
「世間にあるといえども・・・・・法身に摂せられる」が念仏衆生摂取不捨、機法一体の現生
正定聚である。一切の悪業にも障りなしなのである。


「而して名号当面の意義は云うまでもなく一念帰命の立処に立撮即行する住立空中の
阿弥陀仏を心見して立即得生の現生正定聚に住するに在る。」   
                                    曽我量深「真宗の面目」より

「念仏は見仏である。」                      曽我量深「歎異抄聴記」より


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●アラヤ識に実体無し 

「このアラヤ識は幻術、陽炎、夢、翳(えい、眼病の一種で無いものが見える)に喩える。
もしそうでなければ、実ならざる偏計所執性の種子に由って顛倒の縁相が成じることはな
くなる。」


アラヤ識は実体が無い。四つの喩えは実体が無いものの比喩として多くの経論で用いら
れる。偏計所執性は実体無きものを実体有るものと捉える迷いのあり方のことで、次の分
で論じられる三性のうちの一つである。唯識では偏計所執性と呼ぶ迷いのあり方も、その
種子から生じるとするが、その種子も従ってアラヤ識も実体有るものではないのである。
アラヤ識や種子などの唯識の教義に登場する法でさえ、それを実体有るものと考えてい
る限りは迷い・顛倒の中にあり、それから抜け出すことはできない。上の文はこの点につ
いての注意喚起であろう。つまり唯識はアラヤ識や種子などの実体的存在を主張する哲
学ではない。このアラヤ識は実体が無いということの意味は、次の安田理深先生の教え
がよい示唆となるであろう。


「唯識では、諸法は識であるという場合、識というものがあるのではない。そういうことは観
念論である。場所の概念として意識をいうのである。「意識の野、フィールド」という言葉も
ある。意識というものを考えるのではない。あらゆるものの「於いてある」場所を意識という。
論理的にいえば意識的一般者である。」                安田理深(名言と自覚)


ここで安田先生が説いている場所ということも、どこかに実体としてある空間的場所を意味
しているのではないことを注意しなければならない。西田幾多郎が晩年に用いた「於いてあ
るもの」「場所」という概念に先生が触発されて、同じ語を用いて説いている。例えば一人の
衆生は、住居・国・世界・社会・制度・人間関係・自然環境・歴史等々の無数の何らかに於
いてあるのであり、謂わば関係に於いてある、関係のみとしてあるということ。それこそ仏教
が説く、縁起・因縁生ということを言っている。この一切法が於いてある場所、つまり一切法
が縁起していることの原理・道理というようなものを、単に抽象的に考えられた法則・定理と
いう無味乾燥な理としてではなく、「意識的一般者」として、曽我先生が説く「根本自覚」「絶
対的自覚意識」という根本の主体として実践的に見出して、一切は唯だ識であると説くのが
唯識の教えであると押さえている。


以上で「所知依分第二」を終わるが、分の初めにおいて述べたとおり曽我量深先生と安田
理深先生の教えを多く引用したことに由り、「法蔵菩薩はアラヤ識である」との曽我先生の
教えをはじめとする、真宗教相と唯識派の教説との重なりがかなり見えて来たと感じるので
ある。


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2、所知相分第三  (2009年 4月14日更新 )改訂終了

「この分において説かれている三性説については、私の従来の解釈が大きく変わりました。
三性の一つである依他起性は、遍計所執性を必ず生じるようになっているか、円成実性
が成じているかのいずれかであり、どちらでもない単なる依他起性というものは説かれて
いないという見解に傾いています。仏教学界において常識となっている、三性説とは三種
の性を並べて説くものであり、特にその中心は依他起性であって、依他起性が遍計所執
性に転換したり、依他起性が円成実性に転換することが説かれているという解釈には疑
問を懐くようになりました。この点から、本分を大幅に改訂しています。(第二稿)」




この分のタイトルである「所知相」とは、知られるべきものの相(性質、あり方)という意味
である。前の分では「所知依(知られるべきものの依りどころ)」であるアラヤ識・異熟識が
論じられたので、この分ではアラヤ識を依りどころとしている知られるべきものの相が論じ
られる。この知られるべきものの相に三種あると説くのが、「三相」とも「三性」とも呼ばれ
る唯識の基本的教説である。前分において説かれたアラヤ識と三性との関係は、本分に
おいて説かれ、次第に明らかになっていく。三性説とアラヤ識説とは、各々独立した教説
ではない。


            
 「所知相分第三」目次 (クリックでジャンプ)

   ●三性 − 依他起性・遍計所執性・円成実性 
   ●唯識の喩え 及び 根拠となる経文 
   ●唯識性の確立
   ●三性詳細 
   ●三性を密意として説く諸大乗教 



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●三性 − 依他起性・遍計所執性・円成実性 

1)三性の名を挙げる 

「すでに所知依を説いた。次に知られるべきものの相はどのようであると観るべきであろう
か。それは略して三種ある。一に依他起性、二に遍計所執性、三に円成実性である。」


このページでは「相」は使わず「性」に統一する。三性の三つの名は訳により少しずつ異な
るが、下に玄奘訳(新訳)と真諦訳(旧訳)の対応を示す。本ページでは玄奘訳を用いる。 

      [ 玄奘訳 ]   [ 真諦訳 ]

      依他起性    依他性
      遍計所執性   分別性
      円成実性    真実性

三種の「性」「相」とは何かということは難しい。むしろ三性の教説を学んでいって次第に
分かることであるが、初めにここでは少々不正確かも知れないが、現代の仏教学界にお
ける常識的・主流の解釈を先ず述べる。「性」とは世界の存在のあり方であるとする解釈
と、あるいはむしろ世界の現われ方であるとする解釈との、二種の見解が主流となってい
る。世界が存在するとは、衆生と世界とが存在するということであり、その存在のあり方・
存在形態には三種類があることを説くものが三性説であるというのが、一つめの解釈であ
る。二つめの解釈における世界が現われるとは、衆生において世界が現われることであ
る。その現われ方に三種あると説くものが三性説であるというというのが、二つめの解釈
である。三種の実存を説くものが三性説であるという解釈もある。実存との語に、特に衆
生の現実存在(ダー・ザイン)・衆生の主体的在り方という意味を込めて、その在り方に三
種あると説くものが三性説であるという解釈である。一つめの解釈も、衆生と世界との存
在とは言っても、唯識派の三性説そのものが衆生とは関係の無い世界を論じているわけ
ではないので、衆生における衆生と世界との存在形態が三種あることを説くものと解釈さ
れる。いずれにしても衆生ということが中心であり、衆生を抜きにした世界の存在形態や
現われ方に三種類があることを説くものが三性説であるという解釈は無い。これは間違い
ではないであろう。現代人の常識は、衆生つまり人間が居なくなっても世界・自然界・宇宙
は、そのようなことに関係無く存在し続けると思っているであろう。しかしながら唯識派の教
説においては衆生、と言うよりも自己が無ければ世界も無いのである、と私は解している。
ただし自己とは言っても常識的に考えられている自分(それは第六意識である)ではなく、
もっと根本的・根源的な自己、アラヤ識・異熟識というような自己である。二つめの解釈に
おける世界の現われ方が論じられているという見解は、大乗仏教がそもそも実体・自性を
有する存在を否定するものであるので、存在との語を用いると唯識派が実体・自性を有す
る世界の在り方を論じているとの誤解が生じることを避けるために、世界の現われ方とい
うように解釈していると思われる。現代の仏教学界においては、このように少しずつ異なる
解釈が主張されているのであるが、「三性」「三相」とは言っても、世界のあり方・現われ方
は実には一つであることを三性説は説いているという解釈が主流となっている。世界のあ
り方が三種類あるのでもなく、世界の現われ方が三種類あるのでもない。世界は全一であ
り、世界の現われ方も唯一である。ただし世界が衆生において存在する場合・現われる場
合に、三種のあり方・現われ方があるという。三種の別は、衆生の心の状態の違い・迷っ
ているか覚めているかの違いに由り生じる。全一なる世界そのものは何ら変わることは無
いが、衆生の心の状態の違いに由って、衆生において三種のあり方・現われ方を示すとい
うのが三性説であると、少々大雑把ではあるが現代の仏教学界においては、このような解
釈が主流であると、先ずは簡単にそう思っていてよいであろう。

三性の中の依他起性とは、縁起としての性・縁起という性であり、大乗仏教における共通
した第一原理である縁起・因縁生のことである。その縁起の道理を、唯識派においては特
に依他起性との語で呼んで三性の中の一つとして説くことの意義は、真理・道理である縁
起と、衆生における迷いと覚りとは無関係なものではなく、正に関係していることを明確に
説くためである。真理・道理は、衆生の迷い・覚りと関係付けて説かれることに由ってのみ
明確になる。依他起性は大乗の第一原理である縁起であるが故に、三性の中においては
中心の位置を占める衆生における世界のあり方・現われ方の道理として説かれていると
いうことが、現代の仏教学界の主流の解釈となっている。この依他起性に対して、遍計所
執性は迷いの衆生における世界のあり方・現われ方である。遍計所執性としての世界が
あり・現れることは、実は依他起性に由ること、縁起の道理に由ることなのであるが、遍計
所執性としてあり・現われる世界は唯識派においては明確に「無い」と断言される。ここの
ところの遍計所執性と依他起性との関係は、理解することが少々難しく誤解が生じ易いと
ころである。また円成実性も依他起性を離れることなくあり・現われてくる世界であるが、円
成実性は依他起性が遍計所執性を完全に離れたもの、謂わば純粋なる依他起性である
との解釈が主流である。これに対して、円成実性は純粋なる依他起性だけであるとは言え
ないとの解釈もある。

現代の仏教学界においては、唯識派に限らず仏教全般について、当然ながら宗教性ある
いは宗教的超越性というものを認めない。科学的手法を重んじる現代の学問においては
やむを得ないことであるが、凡そ仏教というものは、あるいは仏教の特定の学派・宗派は
何を説いているのかという問題を明らかにすることを目的としている学問にも関わらず、仏
教が超越性・超越的なものを説くことを認めないというのは、おかしなことである。仏教が
説く超越性を、学者である自分は認めない・肯定しない・信用しないと言うのは分かる。し
かし仏教が超越性を説くことを認めないというならば、仏教の教えを明らかにしようという
目的は果たされない。仏教が説く超越性を認めず、その超越性なるものを人間の理性や
心理の面から、あるいは社会制度や経済構造の面から説明しようとする学問であるなら
ば、そのような学問があり得ることは分かる。しかしながら、現代の仏教学とは古文献学
である。サンスクリットやチベット語で記述された、あるいは複数の漢訳の仏典の文献を詳
細・綿密に比較研究して、仏教あるいは特定の宗派・学派が本来は何を説いていたのか
を明らかにしようとする学問である。その学問の対象とする文献は宗教書なのであるから、
超越性が説かれていることは当然である。その超越性が説かれていることを認めず、仏
教を人間の常識や理性で納得出来ることだけを説く人生指南の教えのように前提して教
えを解釈していては、文献学としても成り立たない。研究対象とした文献に超越的な事柄、
論理的には矛盾している命題が記述されているならば、それをそのまま提示するのが文
献学というものであろう。何が記述されているかを明らかにすることが文献学の範囲であ
り、説かれている教えの真偽を判じることは文献学を逸脱している。ここに現代の仏教学
が文献学でありながら、人間の常識・理性を以って納得出来ることだけを拾い上げて、あ
るいは常識・理性が納得出来るように解釈して、それが本来の教えであると主張する奇妙
な学問となっている実態がある。現代の仏教学は、文献学的手法を採りながらも、仏教が
説くところを自分が納得出来る範囲で解釈する解釈学になっている。この分において、何
故にわざわざこのようなことを述べるのかというと、前分において説かれたアラヤ識や種
子の教説は現代の仏教学者の理性・常識では全く知ることが出来ないことであるが故に、
文献に何が説かれているのかを把握して提示するにとどまる傾向が強い。ところが本分
に説かれる三性説になると、学者が自分の理性・常識で理解出来ることであると感じるせ
いであろうか、教説の解釈ばかりが為される傾向が強まっているのである。それ故に本分
に説かれている宗教的超越性の意義は外してしまって、本分を骨抜きにして、これが三性
の教えであると提示することが多い。唯識派という大乗仏教に惹かれる者からすれば、学
者が教説の本質を外して解説するが故に、学者の影響を受けると誤解にとどまり易いの
が本分の三性説なのである。この点を注意喚起するために、このようなことを長々と述べ
た。

三性説を合理的な理論であると思って理解しようとして、円成実性を依他起性から演繹出
来るように解釈する現代の仏教学者が多いが、三性説を合理的に解釈しようとすると唯識
派が説こうとしている本旨を解することは出来ない。依他起性において遍計所執性を完全
に払拭すれば、依他起性そのものが円成実性に他ならないと解釈する学者が多いが、遍
計所執性を払拭することも、円成実性が成就することも、衆生が依他起性にとどまってい
るだけで為されることではない。そこには円成実性あるいは無分別智という超越性が顕現
してくるという宗教体験が説かれていることを、見て取らなければならない。大体が衆生が
依他起性を外れることなどはあり得ないのである。大乗仏教において、衆生であろうと他
の法であろうと縁起を外れることなどは無い。衆生が縁起を了解出来ないということは大
いにあるが、縁起を外れることは無い。三性説というものが、依他起性が遍計所執性に転
換したり、依他起性が円成実性に転換したりと、依他起性が中心となって衆生における世
界の存在形態や現われ方が転換することを説くものであるとの学者の解釈が多いが、依
他起性は無始より依他起性のままであり、他の性に転換することなどは無い。

凡そ大乗仏教は、形而上学や近代科学のように人間としての生き方に直接的に関係して
くるか、関係してこないかということよりも、先ずは客観的な事実・原理を捉えて理解するこ
とを目的とし、人間の生き方に関係してくるか否か、人間・社会に上手く利用・応用出来る
か否かは、第二の問題であって技術者の課題であり、形而上学者・科学者の課題ではな
いとする立場とは、全く異なる、全く正反対の立場から教えを説く。人間の生き方に関わる
事実をこそ説くものが仏教である。仏教から見れば、人間の生き方に直接には関係してこ
ない客観的な事実・原理などというものは存在しない。近代科学が捉えたと思っている客
観的事実・原理とは、客観的でもなんでもなく、人間が観念として立てたものである。人間
の頭脳の中だけに、思いとしてだけ有るものである。謂わば、夢に譬えられるものである。
客観的実在であるどころか、正に人間の主観の産物である。科学が捉えたと思っている
事実・原理と言われるものが、多くの人において妥当であるように見えるのは、多くの人間
の主観が同じような、似た思いを生じるようなメカニズムを有しているからであると説かれ
る。このような点は、本分を読み進むことに由り次第に明らかになってくる。


2)依他起性とは 

「此の中で依他起性とは何か。それはアラヤ識を種子とし、虚妄分別に摂せられている諸
識である。それは何であるか。  (以下11種が挙げられる。番号はふられていない。)

1)身と
2)身者(身の所有者)と
3)受者(経験者)との識
4)所受(受者に経験される対象として)の識
5)能受(受者が経験する主体として)の識
6)世(時間)の識
7)数の識
8)処(国土)の識
9)言説の識
10)自他を差別する識
11)善趣と悪趣に死生する識

である。この中で、1)から9)の識の如きは名言熏習の種子に由る。10)の識の如きは我
見熏習の種子に由る。11)の識の如きは有支熏習の種子に由る。

これらの諸識に由って、一切の界と趣との雑染に摂せられている依他起性という性質をも
った全ての虚妄分別が顕現する。このような諸識は皆是れ虚妄分別に摂せられ、唯識を
本性としている。是れが所有無く真実に非ざる義(対象)の顕現の依るところである。是の
如きを名づけて依他起性という。 」


この部分では、三性の中で先ず依他起性が説かれている。依他起性とは、

 1)アラヤ識を拠り処として種子より生じ
 2)虚妄分別に摂せられており
 3)諸識である

との3点が先ず明確に説かれている。この後で依他起性についての種々の教説が出され
るが、本論書における依他起性とは何かということは、これら3点を外れて解釈してはな
らないことを肝に銘じておく必要がある。本論書における三性説についての学者の解釈で
さえ、この3点を外れてしまっているものが結構ある。この3点は、依他起性とは何かとい
うことの最も基本になる教説である。

アラヤ識を拠り処として種子より生じるものとは、前分において説かれた眼識から身識の
前五識と第六意識、つまり六識・現行識においての諸々の現行に他ならない。従って依他
起性とは、現行識における諸々の現行なのである。この諸々の現行を「諸識」と呼んでい
る。依他起性とは諸識である。種子より諸識において現行が生じるという言い方は、注意
しなければならない。諸識というものが先ずあって、そういうもの・場において種子より現行
が生じるというのではない。種子より諸識が生起する。諸識が生起するということが、現行
が生じることである。諸識が生起したが現行は生じないということは無い。つまり諸識と現
行とは別ではない。この箇所においては前分で説かれたアラヤ識・種子と、三性の中の依
他起性との関係が、まずは説かれている。アラヤ識の教説と三性説とは、それぞれ独立
した教説ではなく、お互いに関係し合っているのである。諸識の識を、前五識・第六意識・
アラヤ識の識とは厳密に区別して、現代語の「表象」つまり主観が描き出した対象である
とする学者の解釈もある。表象する・対象を描き出す作用そのものが、ここでの諸識であ
るとする解釈もある。しかしながら、諸識を主観が描き出した対象であるとすると、それは
この箇所において「所有無く真実に非ざる義(対象)の顕現」と説かれており、これは次の
箇所に説かれるとおり遍計所執性なのである。また表象する・対象を描き出す作用そのも
のを諸識であるとする解釈は、その根拠を「識」の語のサンスクリットの区別に置いている
ことが多い、アラヤ識・第六意識等の識の原語は、唯識派のサンスクリット・テキストが残
存している他の論書・釈においては共通して [ vijnana ] であるが、この箇所の諸識の識
の原語を [ vijnapti ] であると見做し、両者は異なるものを指すと解するのである。このよ
うに解釈する学者は、「唯識」との語の原語は [ vijnapti - matra ] であるがことが殆どで
あるが故に、唯識とは「唯だ表象作用のみ」との主張であると解する。唯識との語は「唯識
無境」との語をさらに略したものであり、それ故に「唯だ表象作用のみであり、境(対象)は
無い」との主張であることになる。ただ作用のみであって実体を有する存在は無いという見
方は、大乗仏教の空・無我の教説に適っており、妥当であるようにも思える。だが唯識派
の教説の、「唯だ識(し)るのみであり、知られるものは無い」という重要なる結論からする
と、「識るのみ」と「表象作用のみ」との主張は、似ているようで異なる。後者は単に作用・
現象のみがあるとの主張である。実体を否定する大乗の空・無我の教説に適っているよ
うにも見えるが、世界を唯物的現象として理解する現代人の世界観と同じように、唯識派
の教説を捉えている。現代人の世界観・現代科学の世界観は大乗の空・無我とは逆であ
る。物質的現象、あるいは現象の要素としての物質、さらには諸物質の元となる基本粒子
を実体を有するものとして考えることを前提としている。これに対して唯識派の根本主張で
ある唯識の識とは、表象という作用と無関係ではないが、あくまでも識るもの・意識・自己
・主体というものが問題として掲げられているのである。この意識・自己・主体あるいは自
覚・根本自覚という問題から、唯識派の教説は一歩も離れていない。逆に、これらを離れ
て唯識派の教説を解釈しようとすれば、唯識派の教説の中には一歩も踏み込んでいない
。唯識派に限らず大乗仏教は自己・主体というものを課題としている。衆生が普通に、常
識的に考えている自己・主体とは、本来は考えているようには無い迷いであることに気付
かしめ、本来の自己・主体を回復することが大乗仏教の課題である。その自己・主体とい
うことを、唯識派はさらに識るもの・意識として明らかにしている。一切法・諸法は意識を離
れていないという意識存在論を主張するのが唯識派である。「唯識(無境)」との語も、この
唯識派の根本主張を謂っているものに他ならない。一切は意識であり、意識を離れた・意
識を超えた境・対象は無いということである。唯識派の主張に賛同的・否定的どちらの立
場を取るかは人に依って異なるであろうが、唯識ということを意識・自己・主体の問題とは
見ずに、単なる物質的現象や心理作用として解釈している限りは、賛同・反対のどちらの
立場を取ろうと無意味である。サンスクリットの解説に戻るが、[ vijnana ] は主に「知るこ
と」「認識すること」という知の作用を示す名詞として使われることが多い。[ vijnapti ] は
「知る」という動詞の使役相「知らしめる」から由来した語で、知る作用よりも主に知られて
いる内容を指すことが多い。しかしながら唯識派においては、これら二つの語を厳密に区
別して用いている様子は見られない。それ故に、漢訳においてはどちらも「識」と訳される
のであると思われる。少ない例ではあるが、「唯識」との語を世親は [ vijnapti - matra ]
ではなく、[ vijnana - matra ] を用いる場合もある。つまりは「識」との語の原語を厳密に
研究することに由り、唯識派の教説が解るということは無いと思った方がよいであろう。依
他起性の教説に戻って、依他起性とは種子より生じる諸識である。この依他起性が、さら
に「虚妄分別に摂せられている」と説かれている点が重大である。虚妄分別は遍計の同義
語であるが故に、遍計所執性というものが容易に覗われる。前述したとおり、11種の識が
挙げられた後で「所有無く真実に非ざる義(対象)の顕現」と説かれているのは、次の部分
で説かれる遍計所執性である。遍計所執性は依他起性に依ることが説かれている。この
ことは後の箇所においても繰り返し説かれている。つまり依他起性無しに遍計所執性はあ
り得ないことが三性説の重要な点である。依他起性の側から説けば、依他起性は虚妄分
別・遍計に摂せられている・覆われているのである。依他起性は遍計に摂せられ・覆われ
ており、遍計所執性は依他起性に依るのであるから、依他起性と遍計所執性とは全く別
のものではない。三性の中で依他起性と遍計所執性とは別のものとして並べて立てられ
ているとし、依他起性が遍計所執性に転換するとか、逆に遍計所執性が修道に由り依他
起性に転換することが唯識派において説かれていると解釈することはおかしいのである。

この部分に挙げられている11種の識が3種にまとめられ、それぞれが3種の熏習の種子
に由って生じることが説かれている。この3種にまとめられていることについては、この部
分で述べると長くなるので、三つ後の部分において述べる。本論書では識として全7識(汚
染のマナスをアラヤ識とは別に立てても全8識)が説かれており、それがここでは11種が
挙げられているのはどうしてかという疑問も生じるであろう。これは後の箇所において、識
とは識る主体であるだけではなく、識られるものも識であることが説かれるのであるが、そ
の識られるもの・境としての識をいくつかに分類して挙げており、識る識と合わせて全11
種が説かれている。これら11種の識については、三つ後の部分で解説が為されている。
衆生が捉えている現象界としての世界は虚妄であり、それは衆生の心つまり識が描きだ
している(虚妄分別している・遍計する)ものであるとの、唯識派の基本教義が述べられて
いる。衆生は、自分及び環境から成ると思っている現象界とは諸識、特に意識にのぼる
六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)が六根(五感の器官と脳)を通して外部に実在
する事物を認識したものだと思っている。簡単に言えば外部世界が自分が認識したとおり
に実在していると当然のごとく思っていて疑うことが無い。しかし唯識派は、また大乗仏教
はそれに否を突きつける。一切の界(十八界)と六趣は、実在していると思っている虚妄分
別に雑染されている。界と趣とはアラヤ識に相続されている種子が生じた依他起性という
あり方の諸識が顕現(現行)したものである。世界の本性は唯アラヤ識である(これが唯識
の意味である)。諸識の根本・基盤がアラヤ識であるとしており、アラヤ識の種子から諸識
が現行する。ここで諸識の現行を「諸識の顕現」と述べていることは、一般に個人の主観
であると思われている第六意識にとって、諸識の現行(色・声・香・味・触・法として描かれ
る)として描出される界と趣とは、あくまでも対象(義)と誤認されて認識されることを表わし
ている。意識は、意識自身と眼識から身識においての現行としての描出を、主観とは独立
した主観の外部に実在する対象として誤認する性質を有している。このような性質に覆わ
れてる意識が、目覚めていない主観・夢を見ている主観である。ただし意識がこのように
誤認することも、アラヤ識の種子から現行する。諸識の現行が、意識にとっては外部に実
在する対象が顕われたと誤認される面を強調して謂う場合に、「識の顕現」との語が用い
られる。勿論、外部の対象は実在しないが故に、識の顕現は「虚妄分別の顕現」であり、
「所有無く真実に非ざる義(対象)の顕現」である。この顕現の依るところが、唯識という本
性である。この「所有無く真実に非ざる義」の存在形態は、後で「無い」と断言されるのであ
り、これが遍計所執性である。義の性は遍計所執性であるが、義を顕現すること・諸識が
境を描出することの性は依他起性であり、種子より生じる。ここのところの依他起性と遍計
所執性とを混乱すると、三性説を大きく誤解する。依他起性の識が遍計所執性の義・境を
顕現・描出していることが説かれているのであり、依他起性が依他起性ではなくなって遍計
所執性に転換するなどという現代の学者の解釈するところは説かれていない。依他起性
とは文字どおり「他に依って起こる性」であり、大乗仏教が共通して説く「縁起」の唯識派に
おける用語と考えてよい。縁性と訳されることもある。つまり衆生が実体有るものとして捉
える現象界の種々の事物は、そのものとして存在しているのではなく、アラヤ識の種子か
ら生じているものであるとの意味である。それ故に仏教の縁起観を分類する際には、唯識
派の縁起観はアラヤ識縁起とも呼ばれる。

夢を見ている意識に現われる世界(界と趣)、つまり前六識(眼識から意識)における種子
より生じる現行は、全て「顕現( avabhasa )」として現われる。主観とは区別された対象と
して誤認されるのである。意識(第六意識)が為している、この主観と対象とを区別する想
いが「分別」である。意識は対象からは独立した主観なるものが実在し、また主観からは
独立した対象が実在しているとの思い・誤認に執われている。つまり意識は分別する思い
に覆われて、主観・対象の分別が本来は無い一如なる、世界の真実の在り方を了知しな
いのである。実在していると想っている分別された主観と対象とは、誤認・妄想であるとい
うのが、つまりは「唯識」ということでもある。意識がこのような妄想を描く現行は、アラヤ識
における妄想を描く現行を生じる種子より起こる。それではアラヤ識に誤認・妄想する原
因があるのかと言えばその通りでもあるが、しかしアラヤ識に意識において妄想を現行す
る種子を無数に熏習したのは、意識が無始より誤認・妄想する業を為し続けていることに
由る。つまり意識とアラヤ識とは、どちらが因で他方が果であると決めることは出来ず、更
互に因となり果となって、そのままでは妄想・誤認を抜け出すことは出来ずに、意識は永
遠に誤謬・夢を見る状態に沈み続けるのである。この点が依他起性は「虚妄分別に摂せ
られている諸識である。」と説かれているのである。


3)遍計所執性とは 

「此の中で遍計所執性とは何か。それは義(対象)が無くして唯だ識のみ有ることにおい
て、(界と趣とが)義に似て顕現することである。 」


上記の部分においては、三性の中の2番目の遍計所執性が説かれている。前述したとお
り、遍計所執性は依他起性とは無関係にあるのではない。依他起性が妄想する・夢を見
ている主観において、遍計所執性として現われるのである。妄想とは、非実在の対象とし
て描出している世界を、実在であるとしか思えないことである。譬えて言えば、夢を見るこ
とは意識において虚妄分別することに相当し、夢を見ることそのもの、意識が虚妄分別す
ることそのものは依他起性であって事実である。しかしながら夢の内容、つまり虚妄分別
されて表象された対象は、非実在である。この非実在であるにもかかわらず、実在と想わ
れている対象としての世界の現われ方が、遍計所執性である。実在であると想われてい
るに過ぎず、非実在である世界の現われ方が遍計所執性である。それ故に上記の部分
においては、「義(対象)に似て顕現することである」と説かれている。前の部分では「義の
顕現」ということが説かれているが、実は義は実在しないが故に、この部分で「義に似て顕
現する」と言い換えられている。正確に言えば、実在しない義が顕現すると説くことは誤解
を招くからであろう。義・対象に「似て」(あたかも対象のように)顕現すると説かれる。「似
義」の語は、実在しない遍計所執性である義・境・対象を意味する語として、このあと多用
される。遍計所執性の似義が現われている衆生の主観は、夢を見ている、迷っている主
観である。遍計所執性との玄奘の訳語そのものが、迷って固執しているという意味を表わ
している。旧訳である真諦訳では「分別性」と訳されているが、これは分別する性との意味
ではない。分別を現行する意識は依他起性であり、事実である。真諦訳の分別性との語
は、分別されたもの・分別された対象の性という意味であり、その性は非実在である。妄
想である。遍計所執性は非実在の妄想世界の現われ方であるが、そうかと言って事実と
何らの関わりも無い現われ方ではなく、上記の部分において「唯だ識のみ有ることにおい
て」義に似て顕現する、と説かれている。唯だ識のみ有るとは唯識ということであり、事実
である。義は実在しない遍計所執性であるが、義を描出するものは識であり依他起性で
ある。後の箇所においては、遍計所執性は依他起性に拠っているとの説かれ方も為され
る。もし依他起性つまり識が無ければ、遍計所執性を説くことも無意味となる。それ故に
依他起性が無くなったり、遍計所執性に転換するということはあり得ないのである。ここで
唯だ識のみ有ると説かれているが、こういう表現が中観派は空教であり唯識派は実教で
あるとの誤解を生む。唯識派と中観派の教説は相反するものであるとの、誤った解釈が
敷衍している。しかし「有る」と言っても、識は実体・自性が有るのではない。依他起性との
名のとおり、縁起に由り生じるのである。中観派の教説と対立するものではない。唯識派
においては「有」との語が頻出するのであるが、これは中観派が説く空・無我ということが
、何も無いとの断見・ニヒリズムを主張するものであると誤解されて非難を受けることを配
慮して、「有」と言うのであると思われる。「有」と言っても縁生である。大乗仏教の原理であ
る縁起に由り生じるのであるから、事実である。しかし有と言うと、今度は実体・自性の有
を主張していると誤解されるのである。


4)円成実性とは 

「此の中で円成実性とは何か。それは彼の依他起性において、義(対象)に似て顕現する
現われ方が、永久に有ること無き性である。」


上記の部分においては、三性の中の最後の円成実性が説かれている。前述したとおり、
円成実性も依他起性とは無関係な性ではない。円成実性とは、依他起性の事実・識にお
いて、対象が実在であると妄想・誤認することが永久に無い性である。実在であると妄想
・誤認される遍計所執性が永久に現われないあり方である。つまりは、対象に似た顕現が
常に生じないのである。対象とは、主観・自己の外部に主観から独立して実在すると妄想
されるものである。それ故に、対象としての妄想が生じないということは、対象から独立し
て実在する主観という妄想も生じないということである。主観と対象とは、常に同時に妄想
される。どちらか一方だけが妄想されるということはあり得ない。この自他・主観と対象と
いう分別(虚妄分別)されたものが永久に無い性が円成実性である。円成実性とは、無分
別・一如なる世界である。円成実性とは旧訳では真実性と訳されるとおり、一如の世界の
本来のあり方が本来のままであること、真実のあり方である。依他起性つまり縁起を離れ
て、別に円成実性という真実があるということではない。円成実性は、世親「唯識三十頌」
においては、依他起性が遍計所執性から常に「離れている」ことであると説かれており、本
論書の上記の部分の教説と同じである。上記でも「依他起性において」と説かれているこ
とが重要である。円成実性と依他起性とは、唯識派一般においてはこのように不離なるも
の、別ではないものとして説かれ、本論書も同様に説くのである。ただし依他起性はその
まま円成実性そのものであるとか、依他起性が無くなって円成実性に転換するというよう
な、現代の学者が解釈するようなことが説かれているのではない。

後の「●三性を密意として説く諸大乗教」の箇所においては、円成実性は依他起性では
ないとの円成実性の超越性を示唆する教えが説かれることを留意しておいて欲しい。唯識
派一般が説く、特に本論書が説く円成実性を探っていくと、そこには超越性が示されてい
るのである。これは唯識派は哲学体系を造ったのではなく、大乗仏教としての実践的宗教
であるが故に、仏教徒から見れば当然のことである。超越性というものが無く、全てが理
論を以って説明される思想体系であれば、それは宗教ではない。円成実性の教説に示さ
れる超越性については、この後にその都度触れていく。


5)依他起性の識の根幹の5種 

「此の中、身と身者(身の所有者)と受者(経験者)との識は、応さに知るべし、即ち是れ眼
根等の六つの内界である。所受(受者に経験される対象として)の識は即ち是れ色等の六
つの外界である。能受(受者が経験する主体として)の識は即ち是れ眼識等の六つの識
界である。その他の諸識は、応さに知るべし、これらの識の区別付けである。 」


三つ前の部分で説かれたとおり、本論書は依他起性の11種の細分を挙げて、さらにそれ
らを3種にまとめ、各々が3種の熏習の種子に由り生じると説く。これら依他起性の11種
の中では、上記に挙げられている初めの5種が根幹である。その他の諸識は「これらの識
の区別付けである」と説かれている。

 1)身(眼などの五根、5種の感覚器官)
 2)身者(身体の所有者であるとの思い・汚染のマナス)
 3)受者(意根、意識・思考する器官)
 4)所受(色などの六界・六境・六塵)
 5)能受(眼識などの六識)

1)から5)で、六根・六境・六識の所謂十八界となる。身から能受を五根から六識に配当し
ていることは、世親の釈において説かれている。十八界は仏教において共通して世界全
体・一切諸法として説かれているものである。ただし唯識派においては、十八界に2)の身
者として汚染のマナスが加えられている。また十八界の中の身・身者・受者を六つの内界
であると説き、所受・六界を外界として内・外を区別している。能受・六識については何も
説かれていないが、内界である六根と外界である六境とに拠って成立するのが六識であ
り、内・外の区別は無い。ところで六つの内界と言っても、身者・汚染のマナスが含められ
ているのであるから、内界は七つになる筈であるにもかかわらず、六つであると説かれて
いる。1)から5)を十八界であるとする世親の釈も、汚染のマナスを含んでいるのであるか
ら十九になる筈である。しかし汚染のマナスは、挙げられてはいても数えられていない。十
八界・六つの内界に汚染のマナスを数えないことは、汚染のマナスの特殊性を表わしてい
る。本論書においては前分において説かれているとおり、汚染のマナスをマナ識という一
つの識としては立てず、アラヤ識に含めて説いているようである。そのアラヤ識も上記の
5種や、さらには11種の識にも含まれていないが、それはアラヤ識が11種の識の拠り処
だからであろう。識を11種に細分していることは、アラヤ識を拠り処としているアラヤ識以
外の識の分類のようである。それではアラヤ識に含まれているようである汚染のマナスは
何故に11種の中に挙げられているのかと言うと、汚染のマナスもアラヤ識を拠り処として
現行し、現行すればアラヤ識に種子を熏習するという、アラヤ識とは別の識としての作用
を為す面があるからであろう。それ故に、11種の識の中に挙げられながらも、十八界・六
つの内界としては挙げられても数えられないという特殊な扱いが為されている。アラヤ識
は十八界という世界全体・一切諸法の根源であるが故に、11種の識の中には入れずに
別格とされている。だが汚染のマナスは特殊である。一切諸法の一つであるようでもあり、
またそうでもなく、諸法の根源ではない。汚染のマナスは我執である。仏教において我執
は超越・克服されるべきものであり、全く特殊である。

三つ前の部分では、11種挙げられた識が如何なる熏習の種子に由り生じるのかという区
別に応じて、3種に分けられている。1種めは意識が実在する対象であると誤認している
色から法までの六界・時間・数・場所の概念等であり、これらは「名言熏習」の種子に由り
生じると説かれる。名言とは字のとおり名前・言葉であるが、人間は何らかの事物に名前
を付けた瞬間に、一如の世界に在りながら、その事物が他からは独立している自性を有
する実体であるとの虚妄分別を生じて執らわれるのである。言語思考とは、他の生物は持
たない人間だけが有している勝れた能力であり、この言語思考能力を有していることが、
人間が地球上の万霊の長である所以であると多くの人間は自負している。人間の中にお
いても、言語思考能力の優劣が人間のレベルの優劣を決めるとの価値観を懐いている人
も多いであろう。しかし大乗仏教は、この言語思考することが虚妄分別を生じることであ
り、一如・真実の世界を了知することを覆っている迷いであるとし、これを超えようとする。
言語思考は、先ず物事に名前を付けて分別・実体化し、それら事物の間の関係を言語を
以って明らかにしようとする。このような言語思考という勝れた能力に依り、真実の世界を
捉えて理解していくのが人間の優秀性であると信じて疑わないが、大乗仏教からすれば、
それは虚妄分別を生じて世界なるものを描出して、誤謬に沈んでいるだけである。物事は
何でも心の持ち様、思い様であると考えている人は、この言語思考が虚妄分別であるとい
うことに少々気付いている人である。マイナス思考は絶望的な暗い世界を描出し、プラス
思考は希望に輝く明るい世界を描出する。考えを変えて世界が変わったとの体験を持つ
人は多いが、それは自らが虚妄分別を生じて世界が顕現する、その虚妄分別の内容が
変わっただけであると気付く人は殆どいない。従来は世界の有り方を間違って・誤解して
捉えていたが、やっと世界の本当の有り方を捉えることが出来て良かったと思い込んで
いるだけである。自らが描出した妄想の世界に流転して一喜一憂しているだけである。
大乗仏教は考え方を変えて明るい幸福な世界に生きることを目指す処世訓ではない。言
語思考・虚妄分別することが破られて、真実の円成実性が現われることを目指す道であ
る。円成実性が現われれば、そこにはプラス・マイナス、明・暗、幸・不幸の虚妄分別され
たものは本来から無い。全一・唯一なる真実の世界が現われるだけである。注意しなけ
ればならないことは、この言語思考する、つまり虚妄分別する現行は、アラヤ識の種子よ
り第六意識に生じることである。前五識(眼識から身識)には、虚妄分別するという現行は
生じない。眼・耳や身は言語思考しない。例えば眼を開けば、そこに種々の物から構成さ
れる現前の世界の光景が対象として映ずる。しかし眼識が種々の物という虚妄分別を生
じているのではなく、対象としての世界という虚妄分別を顕現しているのでもない。眼識は
現行して色界を描出するが、それだけであれば妄想でも迷い・誤謬でもない。色界は色界
としては依他起性であると、本論書においても明言されている。しかし多くの衆生において
依他起性である色界は、意識が生じる虚妄分別に摂められているのである。色界はある
がままには意識に現われない。種々の物とか、主観・自己とは別に実在する対象世界とし
て意識に顕現するのである。意識が生じる虚妄分別・言語思考を通さずに、つまり眼識が
生じる色界が意識が生じる虚妄分別に摂められずに意識されるということは、多くの衆生
においては至難である。眼識に限らず、依他起性である諸識は意識が生じる虚妄分別に
摂められているということが、三つ前の部分において「(依他起性の)諸識は皆是れ虚妄
分別に摂せられ」と説かれていることである。意識において現行する虚妄分別・言語思考
する業は、アラヤ識にその種子を熏習する。その熏習を名言熏習と呼ぶ。名言熏習され
た種子より、新たな虚妄分別・言語思考する業が意識に現行する。

2種目は自・他(主観・対象)を分別する誤謬としての認識・思いであり、11種挙げられて
いる依他起性の中の10)である。これは「我見熏習」の種子に由り生じると説かれている
。我見は前分において説かれたとおり四つの我執の煩悩の筆頭であり、汚染のマナス
(意)に相応している。また汚染のマナスはアラヤ識の種子より生じることも説かれていた
。それでは、自・他を分別する誤謬としての思いは、汚染のマナスにおいて現行するのか
とも思われるが、この点は不明瞭ではあるが、分別する思いと説かれている限りは、意識
において現行するのであろう。汚染のマナスが関わっていることは確かであろうが、我見
が我見として意識されるのは、汚染のマナスにおいてではなく、第六意識における現行と
して意識されると見做した方が妥当であるように思う。3種目は種々の趣・界に生死してい
るという認識・思いであり、これも依他起性の中の11)であり、「有支熏習」の種子に由り
生じると説かれている。有支とは存在の支分であり、天・人から餓鬼・地獄という衆生が生
死流転する境界(つまり趣・界。大きく分ければ六趣・六道と呼ばれる6種や、三界と呼ば
れる3種があるが、細かく分ければ二十九有と呼ばれる29種となる。)のことである。この
衆生が自己は境界の中において生死流転していると思わざるを得ない認識・思いが、や
はり意識における現行・顕現であり、実には識の外部に境界として実在している世界では
なく、意識が描出する妄想である。意識が自己は良い境界にいるのか、悪い境界にいる
のかと解釈・思っているに過ぎないのである。三種の熏習の種子に由り生じる依他起性の
いずれもが、意識が生じる虚妄分別に摂められ・遍計所執性に摂せられて対象として実
在しているかのように顕現するということが、この箇所において説かれている三性説の基
本である。

遍計所執性に摂せられていることが迷いであり、迷いが破られるのは依他起性の識にお
いて円成実性・無分別智が現前するときだけである。依他起性の識は、遍計所執性に摂
せられていても円成実性が現前していても依他起性のままであり、他の性に転換すること
は無い。ここで円成実性・無分別智とは、先述したとおり超越的なものであり、仏・如来・仏
智・仏心である。それ故に「現前する」との語が用いられる。衆生とは依他起性の識であり、
円成実性が現前していなければ必ず遍計所執性の似義を顕現する。つまり非実在の対象
を描出する。七転識・現行識が、その拠り処であるアラヤ識に無始より名言熏習・我見熏
習・有支熏習の種子を累積し続けているからである。この無数の迷いの種子が頓に破ら
れるには、現行識において善行を修行して少々の善の種子を熏習するということでは追い
つかない。善行を修行しても、無始よりの莫大な熏習を背景として、それより遥かに多くの
強大な悪業・迷いの業を現行して、悪の種子を多く熏習していくからである。アラヤ識に熏
習されている悪・迷いの種子は刹那ごとに累積されて増大していく。この依他起性の識で
ある衆生において、遍計所執性に摂せられること、似義顕現を生じることが絶たれること
は、依他起性の範疇のみにおいて為される現行識上の修行に依り可能であることなどを
唯識派は説かない。遍計所執性・迷いに摂せられていることは、あくまでも円成実性とい
う超越性の現前に由ってのみ破られることが説かれている。ただし円成実性の現前は依
他起性において成じるのであり、円成実性が成じても依他起性の識である衆生が依他起
性でなくなることはない。依他起性の衆生は衆生のままである。依他起性の衆生が、自ら
の業により累積し続けている三種の熏習の種子から生じる遍計所執性・迷いに摂せられ
・沈んでいる有り様が、依他起性の衆生における円成実性という超越性の現前に由り破ら
れるという、超越性・他力に由る衆生救済が説かれていることが、唯識派の三性説の眼目
であると思う。この点は、本論書を読み進めていけばより明らかになることである。



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●唯識の喩え 及び 根拠となる経文 

1)似義顕現を夢に喩える 及び 真智 

「此の諸識は皆な唯だ識が有るのみ、すべて義無きが故に。これを何をもって喩えと為し
て顕示するのか。夢等を喩えと為して顕示することをまさに知るべきである。夢の中では
すべての義(対象)は無く、唯だ識のみ有るが如し(つまり対象が実在するように顕現する
こと)。種々の色声香味触、家、土地、山や林が義に似て影現するといえども、この中に
すべて義の有ることは無い。此の喩えに由って、一切の時処に唯だ識のみが有ると了知
するべきである。
・・・・・
夢から覚めれば、夢の中では皆な唯だ識のみが有ったと覚るけれども、覚めている時に
は何故このこと(唯識ということ)が解からないのか。真智に覚めた時はこのことが解か
る。夢の中では解からない如く、未だ真智の覚りを得ない時はこのことは解からない。」


唯識であることが解からないことを、夢を見ていることに喩えている。夢から覚めればすべ
ては夢であった、つまり実在ではなかったと解かるが、夢の中ではわからないように、真智
に覚めれば一切唯識であることを覚るが、真智を得なければ覚れない。つまり唯識である
ことを覚るには真実の智慧を獲得しなければならないと説く。この真実の智慧とは、「般若
経典」や龍樹の中観教学が説く「般若」と基本的には同じである。般若を獲得すれば空を
体解すると説かれることを、唯識派においては真実の智慧(無分別智)を獲得すれば唯識
を覚ると説く。これを祖聖は、信心を獲得すれば現生正定聚に住すると説かれる。信心は
「信心の智慧」と説かれるとおりである。玄奘が用いた「義」との語は、主観に対する対象
を意味する。同じことを「境」との語を以って漢訳されることもある。唯識との語は、ここま
でに何度か説かれたとおり、唯だ識のみという唯識派の基本教説を表わす語であるが、
唯だ識のみということは、そのままが対象つまり義・境は妄想に過ぎずに実在しないとい
う教説となり、これを「唯識無境」との語を以って呼ぶ。空とか無境との主張は、ニヒリズム
として誤解される危険を孕んでいる。実際に般若教学・中観教学の「空」の主張は、いつ
の時代においてもニヒリズムとしての誤解を受けている。そのためであろうか、唯識派は
「唯識」ということを強調した。唯だ識のみが有る、識の有ということが繰り返し説かれる。
それ故に、大乗仏教において「空教」とは対立して唯識派は「実教」であるとの誤った解釈
も流布している。しかしながら唯識派は実有を主張するのではない。この点は前分の最後
において、アラヤ識に実体は無いということが説かれていたことを忘れてはならない。中観
派と唯識派の教説は相い対立すると見做す解釈は、両派を全く誤解しているのである。

この部分の夢の喩えに出されている真智というものは、超越性・他力である。夢を見てい
る衆生が夢の中で修行して、夢の中で真智を得て夢から覚めるということは有り得ない。
真智という他力が、衆生において夢を破って夢から覚ますのである。



2)唯識の諸経に依る文証 

「未だ真智の覚を得ない者は、唯識の中に在りながらそれを如何にして比知するのか。教
と理に由って比知するべきである。教えとしては、世尊が十地経で「是の如き三界は皆な
唯だ心のみ有り」と説いた如くである。また世尊は解深密経でもまた是の如く説いた。「・・
・・・我は識の縁じる所を唯だ識の現わす所と説いたが故なり。・・・・・」・・・・ただ自心を見
るのみである。此の道理に由って、菩薩は其の一切の識中において、まさに皆な唯だ識
のみ有りて境界有ること無しと比知すべきである。」


未だ真智を得ず夢から覚めていない求道者は、自らが実在する所縁(対象)であると思い
込んでいる諸法は非実在の似義顕現であること、つまり唯識無境であることを了知出来
ない。しかしながら本論書は、そのような求道者であっても大乗の教説と理を学んで唯識
であることを比知するべきであると説く。つまり唯識という事実を未だ体証していなくても、
知識として学ぶべきことを説く。仏教の中には禅宗のように、求道者に教えずに「先ず坐
れ」と行だけを課するものもあるが、唯識派においてはそのようなことは無い。行を実践し
ながらも教えを正しく学ぶことが不可欠であるとされる。禅宗などは、教えは行を実践して
悟りを開くことの妨げとなるとして、さらに真理そのもの・真理を悟ることも言葉を離れたも
のであるとして「不立文字」「言語道断」「教外別伝」の道を立てていく。確かに真理も悟り
も離言ではあるが、言葉の教え無しに離言の真実へと至ることが可能なのであろうか?
 禅者は悟りを開いたとされる者同士が対面しても、敢えて常識に反する言動を為し合っ
てどちらの悟りが上であるか智慧比べする。そのような人間を造る道が大乗仏教であろ
うか? インド大乗仏教の主流は、真実を言葉で説くことが出来るなどとは主張しないが、
言葉で表わされた教えを学ぶこと無しにやみくもに修行に没頭させることは行なわない。
教えが身についていないと、体証したのではないかという時に、その真偽を判じることが
出来ない。そうすると、我は悟った・仏に成ったと思い上がる野狐禅が蔓延る。祖聖の「教
行信証」が真・仮を決判することが眼目の一つとされており、また種々の懇切な教学が説
かれていることは、離言の真実へと至るためには言葉で表わされた真実教が必須である
との、インド大乗仏教の主流の伝統が流れているからに他ならない。その伝統は龍樹・
世親というインド大乗の二大論師を経て流れている。


上記の部分においては、唯識無境ということを経典に依って文証している。「十地経」(「華
厳経十地品」も同じ)と「解深密経」から経文を引いている。「三界唯心」は、大乗仏教が概
説される際に引用されることが多い有名な経文であり、唯識派においては世親も「唯識二
十論頌」に引用している。「十地経」がいかなる意味でこのように説くかは、別に吟味され
なければならないが、本論書は経文の中の「心」を、迷いの種子が熏習されているアラヤ
識と見做しているのであろう。衆生は自分の外部に三界・世界が広がっていて、それらを
自分が対象として認識していると思っているが、三界・世界は心・アラヤ識が描出している
似義顕現の非実在であり、三界の実相は「唯心」「唯識」であることを説く経文として引用し
ている。

「解深密経」は唯識派が正依とする経典であるが故に、唯識派の教説そのものが説かれ
ている。「縁じる」とは対象として認識することである。衆生における認識とは、識(心)が自
ら顕現した似義を見ているだけであって、唯だ識のみが有って境界・義(対象)は無いこと
を、経の中の釈尊の教えによって知るべきであると説いている。唯識派においては「心が
心そのものを見る」ということを説く。認識する主観と、認識される対象との分別は、第六
意識において現行する虚妄分別であり、それを実在として誤謬して固執することは仏道上
の過失である。大乗仏教においては経典も中観派もそして唯識派も、認識する自己・主観
と認識される対象との二元分別を否定する。無分別を主張する。それでは認識するとはい
かなることであるのかということを、詳細に説いたのが唯識派である。中観派においては
「不見(自己と対象との分別を見ない)」「無所得(対象として得られるものは実体が無い。
対象を得ようとする自己も実体が無い。)」という宗教的直覚が繰り返し説かれるが、それ
では認識とは何かという教説は不明瞭である。唯識派は二元分別を否定するが、認識す
ることそのものを否定することは為さない。対象無しに唯だ認識するとはいかなることかが
、「唯だ自心を見るのみ」、心が心そのものを見ることである。この自心を見ることは、時
代が下がって「自証( svasamvid )、自らを知る」との語が用いられるようになった。自心を
見るに至ることを目指すことは、大乗仏教において共通する実践的目標であり、真宗とて
例外ではない。祖聖は次の元照の釈文を引用されている。


「(観経義疏)元照律師の云わく、あるいはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなわち
自力を運ぶがゆえに、大小の諸経に談ず。あるいは他方に往きて法を聞き道を悟るは、
須らく他力を憑むべきがゆえに、往生浄土を説く。彼・此異なりといえども、方便にあらざ
ることなし、自心を悟らしめんとなり、と。已上」                  (行巻)より


大乗仏教は自力聖道門であろうと他力浄土門であろうと、自心を悟る(見る)ことが実践的
課題であり、往生浄土と言っても、そのことの他には無いというのが、釈文の主旨である。
ただし祖聖におかれては、自力聖道門はもはや時機に応じていないとして承認されていな
い。「竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。し
かるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の
道路を弁うることなし。」(化身土巻)と説かれている。引用された元照の釈文は、大乗仏
教としての一般論であり、時機に応じた現実においては他力浄土門しか自心を見る道は
無い。この心が心を見る、自らが自らを見ると言っても、「心を」「自らを」というのは心・自
らを対象として見ることではない。ここに注意しなければならない。自己という主観が自己
を対象として見るのであれば、自己が二元分別されているのであり、自己という意識が生
じている虚妄分別の現行である。普通に人間が自己を評価する、自己を反省するという
ことであり、仏道に入っていない誰でもが常に為していることである。大乗仏教の教相から
見れば、評価されている自己・反省されている自己・対象として見られている自己とは、意
識において対象に似て顕現する妄想であり、実在ではない。人間の自己評価・自己反省と
は、実在しない自己という妄想を自らが描いて、自らを弄んでいるだけである。このような
自己を対象として見ることは、自証することではない。心が心を見るとは、「心を」という対
象が無くして、唯だ見るのみである。このことを近代真宗教学は「自覚」するとの語を以っ
て説く。心が唯だ自覚するのみ、自己が唯だ自覚するのみである。この自覚を、祖聖は
「一心」との天親菩薩の語を用いて表白されている。一心。そこには対象を見る自己と、
見られる対象との分別は無い。一心は法界に遍満したまう如来である。唯だ識(し)るのみ
を、天親は唯識実性との語を以って名づけ、それは「牟尼(仏)」であると説いている。


3)諸識を転じる 

「もし諸識もまた体が識ならば、何故に乃(すなわ)ち色性に似て顕現し、等しく住して相続
して生じるのか。(色性の認識は)顛倒等の諸もろの雑染の法のために、依り処となるが
故なり。もし、そうでなければ、対象が存在しない中に於いて、対象が有るとの顛倒を起こ
すことは、まさに有ること無かるべし。もし、これが無ければ、煩悩と所知との二障の雑染
は、まさに有ること無かるべし。もし、これが無ければ、諸もろの清浄の法も、またまさに
有ること無かるべし。この故に、諸識はまさに、このように転じるべきである。」


もし諸識・六識の本性(体)が唯識無境ということであるならば、何故に眼識・耳識から意
識においては、物質的性質の物(色性:色声香味触法)が対象(境)に似て顕現するの
か? 例えば眼識においては色が、耳識においては声が、色・声として等しく住して相続
して生じるのか? との問いを初めに発している。この問いの意味は、「何故に」と訳され
た語の原語が、理由・根拠や仕組みを問う語ではなく、何のためにという目的論的な問い
を意味する語であるので、如何なる目的で、唯識無境や義に似て顕現するということを説
くのであるか? それにもかかわらず、諸識において物質的性質の物は色は色、声は声
として住して相続して生じるではないか? ということを問うていると思われる。衆生が自己
と世界とにおいて、物質的な物を諸もろに分別して認識していることは現実状況であると
しか思えないが、この現況は如何なる意味があるのか? という問題を問うている。これに
答えて、唯識瑜伽行者は物質的な物を先ず識が認識を思い描いたものと捉え、その認識
の思い描きが汚染の基盤・原因であると考える「べき」なのであり、それを目的としている
こと、つまりはそれを目的として唯識の教説、唯識無境や似義顕現を説くとしている。そし
て、もしそうでなければ、主観と対象との分別が本来から無い一如なる事実としての世界
の中に於いて、主観(識、特に意識)が対象が有るとの顛倒(事実とは逆さまの、誤った妄
想)を生じる・現行することは無く、顛倒を生じることが無ければ煩悩・所知の二障の雑染
も無く、二障の雑染が無ければ諸もろの清浄の法も無い、と説く。

物質的な物を認識することは識が思い描いた妄想であり、その妄想を実在であると誤謬
・固執することが汚染の基盤・原因であると考える「べき」であると説かれることは、この部
分に来るまでに繰り返し説かれた唯識無境・似義顕現という教えが、唯識派が説く最終的
な結論ではなく、修行者をして修行に励ましめるための途中段階の教え、謂わば方便で
あることを示している。未だ真実に到っていない修行者は、そのように考えるべきであり、
そのように考えることに由り修行に励むことが出来るのである。唯識派は先ず唯識無境
を説くが、最終的には境(対象)が無ければ識も無いと説く。また、先ず似義顕現を説くが
、最終的には顕現も生じなくなると結論する。本論書のこの部分まででは、最終結論はま
だ説かれていない。それでは唯識無境や似義顕現の教えは虚偽であるという意味で方便
であるのかと言うと、そうではない。ここまででも説かれたとおり、例えば似義顕現という誤
認が衆生において生じることは、そのような誤認を生じる種子がその衆生のアラヤ識に相
続されているからである。衆生において誤認を現行する種子が相続されている限りは、
「種子生現行、現行熏種子」との唯識の道理は、種子と現行(アラヤ識と六識・現行識)と
が更互に因となり果となって永劫に誤認に沈み続け、その限りでは衆生においてはどうし
ようも無いのである。唯識無境や似義顕現ということは、途中段階の教えではあるが、途
中段階の衆生・修行者においては、虚偽ではなく事実である。それ故に、そのように考え
るべきであり、さらに修行に励むべきなのである。最終的な識も無い、顕現も生じないとい
う境界には、行に由ってのみ到ることが出来る可能性があるのであり、識も無い、顕現も
生じないとの最終境地を表現する言葉を、百万回唱えたところで到ることは出来ない。行
を修して体解・了知・自証するしか道は無い。それ故に、そのように考えるべきであり、修
行するべきなのである。実際には、修行に由って最終境地へ到るという言い方は、あまり
正確ではない。アラヤ識と現行識との更互因果の永劫の連鎖は、そのような道理を具え
てしまっている衆生においては、どうしようも無いのである。そこにおいて、衆生を突破す
る、衆生を超越する力がはたらき、超越的体験というものが無ければ、更互因果の連鎖
という衆生の在り方を超えた最終境地を垣間見ることさえ出来ない。ただし、教理・教義
を学び、理解して百万回復唱したところで、それだけでは超越的体験を得る端緒にもなら
ない。超越的体験を得る端緒は、行に由ってのみ触れることがあり得る。唯識派も大乗
仏教という宗教であり、小乗仏教のように人間の範囲・領域内だけで解決する哲学・倫理
学に留まっているのではない。また人間の力だけで人間の領域を突破・超越出来るとの、
楽観的自信に安座する中国において成立した、大乗を名乗る諸宗の観念の道でもない。

上記の部分では語は出されていなが、この教説においてはアラヤ識が重要なる位置を占
めていることは間違いが無い。顛倒等の雑染の法の依り処となるものは、物質的性質の
物を実在しない対象として誤認することであると説かれている。つまり依り処は似義顕現
を生じる意識であると説かれているようであるが、意識が似義顕現を生じるのは、その奥
にアラヤ識に相続されている種子がある。種子が意識において似義顕現を現行するから
である。さらに、もし意識の誤認が無ければ煩悩・所知の二障の雑染も無いと説かれるこ
とは、意識の範疇だけでも説明出来るが、意識の誤認が無ければ諸もろの清浄法も無い
という結論は、もはや意識の範囲だけで説くことが出来ることではない。ここで、言葉の意
味について触れておく。煩悩・所知の二障とは、修行者が仏道を進む上で障害となるもの
を二種に大別したものである。煩悩障は情惑とも呼ばれ、貪欲・瞋恚等の情意的な障害
である。所知障は見惑とも呼ばれ、真実を未だ知らない、見たことがないという智慧を得
ていないという障害である。どちらが仏道上の深刻なる障害であるかというと、所知障・見
惑である。それでは仏道修行は、先ず自身の内の煩悩障を排除して、その後に所知障を
排して智慧を得るのかというと、多くの人は、大乗仏教徒でも大半はそうであると勝手に思
っているが、そうではない。この点については、「十地経」系の教えも、唯識派の教えも、
そして真宗教相も同様である。真の大乗仏教は、煩悩を滅することに先ず関わることは為
さない。「煩悩即菩提」「不断煩悩得涅槃」が大乗の立場である。唯識派の修道論の教説
は、一応は「十地経」(「華厳経十地品」)が説く菩薩の十地(十段階)の修行階梯の経説に
準拠している。無分別智を発して、無分別・一如平等なる真実世界を認得すれば、十地の
第一段階の初地に入ると説かれる。これを「見道位」を成じるとも呼び、所知障・見惑は無
始より以来初めて破られ、二度と所知障に永く覆われることは無く、不退転に住する。これ
を龍樹は「初地・歓喜地に入る」とも「必定に入る」「阿毘抜致に至る」とも呼ぶ。真宗にお
ける、「信心の智慧」を賜って「即得往生」して「不退転に住す」、「現生正定聚に住す」る
とに相当する。真の大乗仏教は情意面における貪瞋煩悩を滅することよりも、真実を知ら
ない所知障を破ることを目指す。所知障が破られれば、そこが見道位・初地・不退転・正
定聚であり、そこに証大涅槃の真因を獲得する。本当に真因を獲得すれば、仏道はそれ
でよいのである。真因を獲得するだけでは足りないのであって、さらに進んで果の大涅槃
に至り終わらなければならない、つまり成仏を完成しなければならない、そこまで至らなけ
れば真因を獲得した意味が無いと主張する人は、真因の獲得の何たるかを知らない人
である。不退転・正定聚に未だ到っていない人である。証大涅槃・成仏の真因を獲得して
住すれば、果へ至ることは自然・無作為・法爾であることを了知する。証大涅槃の真因に
住して、さらに作為的な修道・修行を以って仏果へと上り詰めて行くということは、本来か
らして無い。真因から果の証大涅槃へとは、自然法爾なる道のみが通じていて、畢竟じて
因果一如・因果同時である。因から果への作為的・意図的な道は本来から敷かれていな
い。ただし因果一如・同時であるとは言っても、因と果との位の異なりは歴然としてあり、
ここを混乱してはならない。真因に住しているからと言って、もはや果へ至った、大涅槃を
証した、成仏したと妄想してはならないのである。それ故に大乗の経・論においては、初
地に住した以降の修道も説かれているのである。その修道の教説は、作為的・意図的な
修道を説いているようにも見える仏典もあるが、実はそうではないのであって、無作為・自
然に修道せしめられることが説かれていることを見て取らねばならない。大乗仏典におい
て、修行者の作意・意図を以って最後の仏果を完成することが説かれているものは無い。
証大涅槃・成仏という仏果は、永遠なる方向性として説かれる。それ故に大乗仏教におい
ては、仏果へ至るまでに三大阿僧祇劫を経ると説かれる。三大阿僧祇劫とは、気の遠くな
るほど長大な時間であるが、有限な時間であることを説いているのではない。長大なる有
限と無限とでは、本質が全く異なる。有限をいかに引き延ばしたところで無限へと至ること
は無い。三大阿僧祇劫とは、有限なる表現を以って無限を説いている。大体が一劫と説
かれても、衆生においては無限である。祖聖が説かれた「定聚の数に入る」ことに対する
「真証の証に近づく」ことも、蓮如上人が説かれた「現益(住正定聚)」に対する「当益」とい
うことも、永遠の方向性としての功徳が現在において成就されていることである。方向性
としての功徳が方向性を失って完成し終わったら、もはや功徳でも何でもなくなって、一切
は終わる。仏法も終わる。如来も衆生も無くなる。数年後・数十年後に、あるいは死後に
証大涅槃・成仏が完成し終わると想像・期待・欣求することは、仏法を甘く見ている。仏法
を侮っている。衆生としての自己をも甘く見ている。祖聖は「臨終一念の夕べに、大般涅
槃を超証す。」(信巻)と説かれているではないか? と言う人もいるであろうが、単に「証
す」ではなく、「超証す」と説かれているところに深い意義がある。証するのは現生正定聚
である。真宗の真実証は、あくまでも現生正定聚である。大般涅槃は超証せしめられる。
どこまでも現在一念の正定聚を証さなければならない。また「臨終」と言っても祖聖におけ
る義は、「本願を信受するは、前念命終なり。即ち定聚の数に入る。」(愚禿鈔)の義から
一歩も外へは出ないのである。つまりは、どこまでも現在一念の臨終である。平成臨終・
念々臨終・念々往生である。

話を元に戻して、顛倒等の諸もろの雑染の法、及び煩悩・所知の二障の雑染は、その根
拠を似義顕現を生じる意識としていることが上記の部分で説かれているのであるが、ここ
までの教説に由れば、意識の根底にさらに種子を相続するアラヤ識がはたらいている。
そして「もし、これが無ければ、諸もろの清浄の法も、まさに有ること無かるべし。この故に
、諸識はまさに、このように転じるべきである。」と結論されているが、この結論はもはや意
識だけを見ていては成り立たない、アラヤ識を持ち出してこなければ解せない教説であろ
う。本論書においては、第六意識は分別するという虚妄を生じる主体であり、アラヤ識に
遡ることなく、意識だけを拠り処として、あるいは意識が生じる似義顕現だけを拠り処とし
て「諸もろの清浄の法が有る」ということは有り得ない。意識における現行は全て、アラヤ
識における種子より生じることからしても、これは当然であろう。前分の冒頭においても、
アラヤ識に依って諸趣があり、また涅槃の証得があるということが説かれていたとおり、諸
趣つまり顛倒・二障等の迷い・雑染も、涅槃の証得つまり清浄の法も、最終的な拠り処は
アラヤ識にある。ただし衆生が自覚・意識為し得る面においては、意識における似義顕現
という現行が、当面の問題となっている。最終的な根拠をアラヤ識として、当面の問題を意
識として、これらの識を拠り処として顛倒・二障等の雑染・迷い・妄想が生じることは、ここ
までの教説において説かれてきたが、諸もろの清浄法つまり涅槃の証得へ至ること、ある
いは涅槃の証得へ至る道が、これらの識を拠り処としているとは、どういうことであろうか。
ここにおいて「この故に、諸識はまさに、このように転じるべきである。」と説かれている中
の、「転じる」との語が鍵になっている。転じるということが無ければ、意識もアラヤ識も迷
い・妄想の拠り処となっているままであり、清浄法の拠り処となることは無い。この重要な
る鍵となっている転じるとの語は、いかなる意味で用いられているのであろうか。前品の
「●アラヤ識と六識」の箇所において述べたように、唯識派において「転」との語は、ほぼ
3種の意味を持つ。一つは「現行」の同義語としてである。この意味での転との語は、本論
書の漢訳において玄奘も用いており、転識は現行識・六識・諸識と同義であり、転じるとは
現行する・諸識において業を為すことと同義である。ただし本ページにおいては他の意味
での転との語との混乱を避けるために、現行を転との語でも呼ぶことは行なわないことは
前品で述べたとおりである。上記の部分においては、意識が似義顕現を生じることは現行
であるが故に、現行するとの意味で転じると言っている可能性はある。しかしながら、清浄
法ということが説かれているのであるから、単に現行するという意味ではないと思われる。
意識における現行は、似義顕現・妄想・虚妄分別・迷い・六趣を生じることだからである。
転の語の二つは、世親が用いた「識の転変」との意味である。しかし既に述べたとおり、
世親の唯識の論書に先立つ本論書において、この意味で転との語が用いられている形跡
は他には見られない。この部分だけで転変の意味で用いられていることは考えにくい。三
つは、後分において出てくる「転識得智」の転の意味である。これは「智」との清浄法・涅槃
の証得と密接なる語と関連している語であるが故に、この部分の転じるとは、まさにこの
意味であると私は思う。識が転じられて智を得るのである。虚妄分別を生じる意識や、そ
の根拠となっている種子を相続しているアラヤ識を、滅して無くしてしまえば智慧が得られ
るとは唯識派は説かない。そうかと言って意識において似義顕現した境・義(対象:それは
実在しない)を実在であると固執しているままでも、智慧を得ることは出来ずに永劫に迷い
・輪廻に沈み続ける。それでは、どうすれば良いのかということについて、唯識派は識が転
じられるべきであると主張する。識が転じられるとは、似義顕現した対象が実在であると
思い込む固執が破られること、固執が解かれることである。似義顕現は刹那ごとに生じて
しまうが、それが実在であると固執する思いが破られ、解かれることである。その固執す
る思いが破られずに相続している限りは、智慧を得ることは出来ないが、固執する思い
が破られることが一刹那でもあれば、その刹那において智慧が生じると唯識派は説く。こ
れが識が転じられることである、滅識得智を説くのではなく、転識得智を説く。識を滅して
無くしてしまったら、固執する思いも生じなくしてしまったら、識が転じられることは無くなっ
て固執する思いが破られることも無くなり、智慧を得る手がかりは失われて、智慧を得る
ことは不可能になってしまうということが、この転識得智の教説である。それ故に、清浄法
の拠り処も意識が似義顕現を生じることにあると上記の部分において説かれるのであり、
さらに根本的な拠り処は、似義顕現を現行するアラヤ識に相続される種子にある。この種
子は謂わば迷いの種子とも呼ばれるべきものである。意識において似義顕現する対象を
実在であると固執する思いが破られると、その現行が「種子生現行、現行熏種子」の道理
に由り、アラヤ識に新たな種子を熏習する。その新たな種子とは、謂わば覚りへの種子
とも呼ばれるべきものであり、アラヤ識において相続されてきた迷いの種子と拮抗するは
たらきを為す。その覚りへの種子は熏習が増えれば増える程、意識において固執する思
いが破られる現行が生じることが増え、アラヤ識への覚りへの種子の熏習も益々増え、
意識とその根拠であるアラヤ識ともども、覚り・涅槃の証得へと向かうプロセスが成就さ
れる。このように、固執する思いが破られることが無いと、迷いの種子が益々増えるとい
う状況になって、意識・アラヤ識ともども迷いに深く沈んでいき、一度たりとも固執する思い
が破られると、覚りへの種子が益々増えるという状況が成立して、意識・アラヤ識ともども
涅槃の証得へと向かうのである。このような唯識派の教説は、どのようなことを意味してい
るのかと考えると、我々衆生が普通に自己であると思っている意識において完結して、迷
いに沈んでいくことや、覚りへと向かっていくことが成立しているのではなく、意識の根底・
内奥にはたらくアラヤ識という自覚原理そのもの・根源的自覚というべき根本識と、表面
にあらわれている意識という小自己とが、更互に因となり果となってともどもに、迷い又は
覚りへと向かうことが成立するということである。この意識とアラヤ識との中で、根源的な
識はアラヤ識である。それ故に前分の冒頭において、アラヤ識に依って諸趣があり、涅
槃の証得があると説かれたのであり、意識に依ってとは説かれなかったのである。確かに
「種子生現行、現行熏種子」「更互因果」との原理として見れば、アラヤ識と意識とは平等
であるように見える。だが、それは一切を自己とする根本的自覚・大自覚であるアラヤ識
から見れば平等であり、また事実として平等ではあるが、虚妄分別を生じる小自己たる意
識から見れば平等であるとは到底言うことは出来ないのではあるまいか? 先に衆生を
突破する・超えるということを述べたが、この衆生とは意識を主とする六識・現行識である。
この衆生を突破する・超えるとは、根本的大自覚・自覚原理そのものであるアラヤ識が、
衆生の意識に顕われることではないかと思われるのである。


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●唯識性の確立 

1)識の見と相 

「いかにして、このような諸識を安立して唯識の性を成じるのか。略して三つの相に由る。
一には唯だ識のみなることに由る。義(対象)の有ること無きが故なり。二には二性に由
る。認識には、相(対象として顕われること)と見(見ること、主観)とが有るが故なり。三に
は種々たることが同時に起こることに由る。種々なる姿を以って起こるが故なり。・・・・・
眼識ならば、色等を以って相と為し、眼識における認識を以って見と為す。・・・・・意識なら
ば、一切の眼から法(五根 [ 眼・耳・鼻・舌・身 ] ・六境 [ 色・声・香・味・触 ・法 ]・五識
[ 眼識から身識 ] )を以って相と為し、意識における認識を以って見と為す。この意識は分
別するもの(つまり見るもの)であり、一切の似義顕現する認識(における対象・相)に由り
生起せしめられるが故なり。ここに頌がある。

 唯心に悟入するに由りて、彼(唯心)をも亦た能(よ)く伏離す  」


前の箇所まででは、実在しない対象・義・境が識において似義顕現することが繰り返し説
かれた。対象は実在しないが故に妄想であるとされ、夢に喩えられてきたが、妄想である
としても、それは一体何ものなのか? との疑問を懐いた人もいるであろう。識において似
義顕現が現行する、識が似義顕現を生じるとの言い方が為されてきたが、識と似義顕現
する似義とはいかなる関係にあるのか? この点について、この部分において唯識性の
三つの相が説かれる中の二において、似義顕現する実在しない対象は識に他ならないこ
とが説かれる。識が似義顕現を生じるのであるが、生じられた実在しない対象も識である。
認識作用とは主観が対象を認識することであるが、これは識が識自身を認識しているの
である。先の箇所において、心が心を見るということが説かれていたとおり、唯識派の教
説において認識するという作用は、識が主観となって識自身を対象として認識しているの
であり、識が主観となって識以外のものを対象として認識するということは無いのである。
ただし殆どの衆生は、認識とは主観が主観とは異なる実在する物事を対象として認識す
ることであると誤謬して、自己と対象という分別された事物から構成される世界が実在す
るとの誤認を離れることが出来ずに固執している。これに対して唯識派は識の他に、識の
外になんらの実在をも承認しないのである。これが、この部分において説かれている三つ
の「唯識性」ということの一つである。生じられた実在しない対象も識であるということは、
識には二つのはたらきがあるということが説かれていることになる。それが「二性」と呼ば
れており、識が認識する主体としてはたらくことを「見」と呼び、識が対象に似て顕われる
はたらきを「相」と呼ぶ。世親以降は両者に「分」との語を付けて、識の「見分」と「相分」と
の語を以って呼び、識は見分と相分とに二分する、と教義化される。唯識派の教説におい
ては認識作用とは、識が見分と相分とに二分し、見分が相分を対象であると誤認するこ
とにおいて成立するのであり、実には認識とは識の内部においてのみ為されること、自己
認識であって、識の外部世界、識の他なるものは何も無い。上記の部分では、識の見と
相とが六根・六境・六識の十八界から配当されて厳密に説かれている。眼識であれば色
・形を相とし、眼識における認識を見とする。意識であれば五根・六境・五識を相とし、意識
における認識を見とする。これらの中で意識については、上記の部分の末尾においてさら
に特別に説かれており、意識は分別するものであり、また一切の似義顕現する相に由っ
て生起せしめられると説かれている。意識は虚妄分別を生じるものであり、それ故に迷い
の主体であることは、この箇所まででも繰り返し説かれてきたが、この部分では最後が重
要であり、意識の見つまり意識における認識は、一切の似義顕現する相に由って生じる
と説かれている。意識における似義顕現とは、意識における現行であり意識が生じるので
あるが、逆に意識における認識つまり意識の見は、似義顕現する相に由って生じることが
説かれている。これは何を意味しているかと言うと、意識が似義顕現を生じても、それが
相としてはたらかなければ、つまり実在しない対象として対象に似て誤認されることが無け
れば、意識における認識つまり意識の見も生じないことが説かれている。つまり意識が二
分して意識の見と意識の相とが生じることは同時であり、見と相とは平等であり、どちらか
一方だけが生じて他方が生じないということは無いのである。ここで注意しなければならな
いことは、意識においては見が相に由って生じると説かれているが、見よりも相の方が根
源的であるということではない。相は見に由って生じるのであり、見・相の同時生起と平等
が説かれているのである。それ故に、もし識が相となるはたらき、つまり対象に似て顕現
することが無くなれば、見つまり意識における認識する主体も無くなるのである。「●唯識
の喩え 及び 根拠となる経文」
の箇所において、本論書はその箇所までは唯識無境
や似義顕現ということが説かれてきたが、それは最終的な教説ではなく、修道が進めば似
義顕現は生ぜず、境(対象)が顕われることも無くなることが説かれることを予め述べた
が、その教説はこの部分から説かれ始めている。この部分では似義顕現・対象が生じな
くなるとはまだ明言されていないが。最後に引用されている出典不明の頌が、そのことを
説いている。「唯心に悟入する」とは、唯識無境ということを認得することである。ところが
認識される対象が生じなくなり、対象は非実在であったことを了知すると、認識する主体
である識も無になる。つまり唯心・唯識ということも無くなるのである。

上記の部分において説かれている唯識性の三つの相の二について詳しく述べたが、あと
一と三がある。一は、ここまでに繰り返し説かれてきた唯識無境ということである。唯識性
との語は、言葉どおり先ずはこの唯だ識のみであり対象は実在しないとの教説を意味す
る。三の「種々たることが同時に起こることに由る」とは、いくつかの釈が為されている。
識において見と相とが同時に起こるとの意味であるとか、意識が他の五識と同時に起こる
ことを指すとの釈があるが、いずれも本論書の他の箇所において説かれていることであり
間違いではないが、種々なる「姿」を以って起こる、と説かれていることからすれば、識が
相としてはたらいて種々なる姿の対象に似て起こることが、識が見としてはたらくことと同
時に起こることが説かれているように思う。それは、この部分における中心的教説が二で
あろうことからしても、頷かれるのである。そもそもが見と相とが同時(同じ一刹那)に起こ
るのでなければ、認識(それは自己認識である。対象認識としては誤認である。)は成立し
ない。ところで識に見と相との二種があることが説かれていると解するべきではないであろ
う。真宗の安田先生は次のように説いているが、これは識の見と相とについて説いている
と私は解している。安田先生が「主観」「意識するということ」との語を以って述べているこ
とが見であり、「客観」「意識されるもの」との語を以って述べていることが相であると思わ
れる。


「識を主観だと思うことは大きな誤解である。識といえば主観のことであると考えるのは意
識を自覚しない証拠である。主観といえば一つの言葉である。言葉には体験からいろいろ
な意味が与えられてくるが、それは主観という概念であって事実ではない。事実は、主観
の意識という事実であり、主観というものがあるのではない。客観も客観の意識である。
意識から考えれば客観は意識を超えた対象ではなく、意識の内容である。意識は意識の
内容を対象とする。主観も客観も意識以外にはない。意識を超えたものを意識するという
のは、論証の必要もないほど無意味な言葉であろう。意識を超えたものをどうして意識で
きるだろうか。そういう無意味な議論を戯論という。
 言葉によって意識を支配する場合、つまり意識が言葉の奴隷になる場合、言葉が意識
を実体化する。意識が実体化されたかぎりにおいて意識は言葉の奴隷となる。意識が奴
隷になるのは他が奴隷にしたわけではなく、自分の考えを固定化した瞬間に自分の考え
は考えられたものに支配されることになる。意識は自分によって自分から奴隷になる。こ
れが戯論分別(註: 唯識派の語では「名言分別」)である。
 意識の内容は、意識するということと意識されるものである。意識を超えるものが意識さ
れるのではない。意識するものも意識だが、意識されるものも意識である。」
                               安田理深「我欲すゆえに我あり」より


ここでは識の見と相についてのみ説かれているだけではなく、ここまで見てきた唯識派の
名言分別等の教説の本旨を突いていると言えよう。安田先生はこのように唯識派の教説
を解説して、真宗における何を説こうとしているのかというと、上記の引用のやや後に次の
ように説いている。


「自己というのは主観の中に閉じこもっていない。主観は閉じこめられた意識である。それ
を破った意識は自己を忘れる意識である。それは全世界が自己であるような自己的存在
である。といっても、意識が意識でないものになるのではなく、内に意識が深化されていく
のである。そして内に深化されれば外に拡大していくのである。内面に意識が深化される
ほうを願といい、外に拡大していくほうは世界という。願が深まれば深まるほど世界は広く
なってくる。」                       安田理深「我欲すゆえに我あり」より


安田先生のこれらの教えに出ている意識との語は、第六意識を意味しているとは限らな
い。「主観」「意識が言葉の奴隷になる」「主観は閉じこめられた意識」等と説かれる意識は
第六意識を意味しているであろう。だが前述したように、アラヤ識も本論書ではそこに含め
られているようである汚染のマナスも、第六意識と合わせて広い意味の意識である。広い
意味の意識の中で、名言分別を為して言葉の奴隷になる意識・言葉により実体化された
意識・主観として閉じこめられた意識が第六意識である。これに対して「主観の意識という
事実」「客観の意識」「主観も客観も意識以外にはない」と説かれる意識、「意識の内容は、
意識するということと意識されるものである」と説かれる中の初めの意識、「全世界が自己
であるような自己的存在」としての意識は、広い意味の意識であり、第六意識・主観も含ん
でいるが、むしろアラヤ識に重要性が置かれている。第六意識は主観の中に閉じこもって
おり、常に言語思考を現行している普通の人間が常識的に自己意識であると思っている
ものであり、主観と客観とを分別して客観は自己意識の外にあると思い込んでいる。だが
安田先生は、客観は意識を超えた対象ではなく意識であると説く。主観・見も意識であり、
客観・相も意識であり、主観が客観・対象を認識することは自己認識であるとする唯識派
の教説を分かり易く説いている。ここで言われている意識は広い意味の意識である。これ
はアラヤ識まで含めた広い意味の意識を自覚していない常識人にとっては、疑わざるを
得ない教えである。自己意識の外に客観・対象として有ると思っている世界が、眼の前の
机・庭の木などから銀河系よりも遥かに広い大宇宙までの全てが、意識であり意識の内
容であるとされる。それが信じられないというのは、意識が主観に閉じこめられて第六意識
だけしか自覚出来ないからである。しかし安田先生は、意識を超えたものを意識するとい
うのは論証の必要もないほど無意味であると、広い意味の意識を自覚していない人でも肯
定せざるを得ないような理を示す。主観の意識が眼の前の物品を意識するならば、物品
も意識・意識の内容であり、物品が意識・意識の内容ではなく意識を超えたものであるな
らば、主観の意識が物品を意識出来るわけが無いと説く。この理が納得がいかないとい
う人は、鈍感であると言わざるを得ない。このような理を示して、主観も客観も意識以外に
は無いということを説くのであるが、この理を納得して主観も客観も意識であるという考え
を懐いてもあまり意義は無い。主観が実際に破られて、全世界が自己であるような自己的
存在としての広い意識を自覚することが必要である。そのためには意識を外に拡大してい
くのではない。それは無理なことである。外に拡大していこうとする意識は第六意識であり、
所詮主観に閉じこめられていて拡大することは有り得ない。意識を内に深化させていく。そ
うすれば外にも拡大していく。広い意識の表層である第六意識は、外に拡大していけば自
己にとっては他であると分別した外の世界を自己の所有物と考え、支配しようとするように
なるしかない。外に拡大すると言っても意味が異なる。第六意識はあくまでも閉じこめられ
た主観の意識でしかない。意識を内に深化させていくと、そのためには第六意識が破られ
なければならないのであるが、根底的な意識・基盤としての意識を自覚する。アラヤ識であ
る。アラヤ識には衆生の身体のみならず国土(器世間)の種子も熏習されている。アラヤ
識という広い意識においては、自己の身体も世界も意識の内容であり、けっして意識を離
れた意識の外に有るものではない。内面に意識が深化されていくところに願が見出される
。願は閉じこめられた主観の意識に見出されるものではない。衆生の身体も国土も自己
とする深く広い意識において見出される。前分で述べたとおり、曽我量深先生は「アラヤ識
は法蔵菩薩である」と説き続けた。法蔵菩薩とは願である。法蔵菩薩・願は安田先生が説
くように、内に深化された意識において見出されるのである。


(一意識説について)

本論書においてはこの後、「一意識説」について説かれる。一意識説とは、眼識からアラ
ヤ識までの七識が別々のものではなく、本来は唯一の意識であるという主張である。本論
書が一意識を主張しているのか、紹介しているだけであるのかということについては、現
代の仏教学者の意見は分かれている。ただし私が玄奘訳を読む限りにおいては、本論書
は一意識説を主張していることは間違いないと思う。この一意識を第六意識であると解釈
する学者もいるが、私は広い意味での意識であり、どちらかと言えばアラヤ識であると見
做してよいように思う。ところが法相宗が正依としている「成唯識論」においては、一意識
説は邪見として排されている。同じ唯識派の中においても、一意識説の賛否については分
かれている。本ページにおいては一意識説を見ていくことは省略する。


2)アラヤ識の見と相 

「もしくはここに、アラヤ識における認識を立てて、対象としての識と為すことがある。ここ
においては、他の全ての識は相識であり、意識における認識と、その依止する所(意根の
こと)は見識であることを知るべきである。この場合、相識は見識が生じる縁となる相であ
るが故に、似義顕現するときに、見識が生じる拠り処としてのはたらきを為す。このように
して、諸識を安立して唯識性を成じると為すのである。  」


前の部分においては、眼識と意識についての見と相とが説かれた。眼識以外の五識につ
いては眼識に準じて分かるのである。つまり耳識から身識においては、耳識における認識
から身識における認識が各々の見であり、声から触が各々の相である。この部分におい
ては、アラヤ識における見と相というものが考えられることもあると説かれている。アラヤ
識における認識というものを立ててアラヤ識における見と為し、その見に対して対象として
似義顕現するアラヤ識を、アラヤ識における相と為すのである。ただし、ここにおいて「為
すことがある」(考えられることもある)との消極的な説かれ方が為されているのは、アラヤ
識が見と相とに二分することは意識下の不明瞭・微細なる事柄だからである。また諸識・
六識における見と相とは、全てがアラヤ識に相続されている種子から生じる現行に他なら
ないが故に、アラヤ識における見と相というものを考えてみても、意識され得る面において
は六識の立場に於いて説くことが有効だからである。ここではアラヤ識における見とは意
識と意根であり、それ以外の五識はアラヤ識における相であると知るべきであると説かれ
ている。アラヤ識とは六識にとっての基盤たる根本識であるが故に、意識下の微細なる事
柄であるとは言っても、アラヤ識における見つまり認識する主体は意識として現行し、アラ
ヤ識における相つまり対象に似て顕現するはたらきは五識として現行すると説かれている
ことの意味は大きい。つまり六識における認識するはたらきは全てが見なのであるが、認
識する主体というものは、アラヤ識における見が現行する第六意識がそのはたらきの主
たるものであるということが実質的に説かれている。それに対して眼識から身識の五識は
、色から触を認識する見としてはたらくのではあるが、アラヤ識における相が現行するとい
うことからすれば、認識する主体としてのはたらきの主役は意識に譲るのである。つまり
衆生における認識する主体・自己というものは、アラヤ識における微細なる見を根拠とす
る第六意識が大部分を占めており、それ以外の五識はアラヤ識における微細なる相を根
拠としており、対象に似て顕現するはたらきの大部分を占めていることが説かれている。
そうすると五識における見、つまり色から触を認識するはたらきとは言っても、それらは認
識する主体・自己である意識からすれば対象に似て顕現するものなのである。つまりは衆
生が迷うのも覚るのも、その衆生の主体は感覚的認識の主体と言うべき五識の見より
は、分別思考的認識の主体と言うべき意識の見と、その根拠であるアラヤ識の見である
ことが説かれていると言えよう。眼識の見が見る・認識する相・対象は衆生において事実
である。しかし、その事実をあるがままに見て認識するか、見ていることに様々な分別・解
釈・憶測等の思考を加えて貪欲・瞋恚の対象として固執しているかは、意識の見に依って
大きく変わり、その根拠はアラヤ識の見にある。衆生が迷うも覚るも、意識の見とアラヤ
識の見とに責任がある。五識には基本的には責任は無いと言えよう。

この部分の最後においても、前の部分におけると同様に、相が似義顕現することに縁じら
れて(依って)見が生じることが説かれている。前の部分においては六識について、特に意
識について説かれていたが、この部分ではアラヤ識をも含めて説かれている。相に依って
見が生じること、相が見の拠り処となっていることが繰り返し説かれたが、それは次の部
分においては、智を得れば似義顕現が生じないことが説かれる伏線となっている。


3)無境・無義であることを明らかにする四法 

「諸もろの対象は明らかに顕現しているにもかかわらず、有るには非らずとは、如何に知
るべきであるか。世尊が言(のたま)いたまえるが如くである。もし諸もろの菩薩が四法を
成就すれば、一切は唯識にして全ての対象は有ることは無いと悟入する。一には相い違
(たが)う識の相を知ることが成就する。餓鬼・畜生・人天は、同じ事に於いて、彼の認識
する所に差別が有ることを見るが故に、と言うが如きである。・・・・・已に無分別智を得た
る者は、無分別智の現前する時には、一切の諸もろの対象は全て顕現しないのである。
・・・・・(これら)に由りて、、諸もろの対象は無いとの道理が証される。 」


衆生は現に対象が有ることを明らかに見ているにもかかわらず、対象が有るということは
無いとの、唯識無境・似義顕現の教えが事実であることを、いかにして知るのかということ
が説かれている。釈尊が説いたように、菩薩は四つの法を成就すれば唯識無境に悟入す
ると先ず説かれ、四法(最後の四番目の法にはさらに三種がある)が順に説明されるが、
本論書の本意は最後の六番目に説かれる無分別智を得ることにあると思われる。上記
では四法の全ての教説を引用してはいない。四法の一は最も有名な喩教であり、この部
分では詳細は説かれていないが、同一の河の流れが、餓鬼においては飲むことが出来な
い膿の流れとして認識され、畜生である魚においては住所として認識され、人間において
は飲み水の流れとして認識され、天は虚空であると認識するという喩である。餓鬼にとっ
ては膿の流れが対象として実在するとしか思えず、人間にとっては飲むことが出来る水の
流れが対象として実在するとしか思えないが、各々の識が対象に似た異なるものとして生
じた認識に過ぎず、実在ではないことの喩である。教説を引用してはいないが、四法の二
としては過去や未来の事柄を思ったり・夢の中で影像を見たりするように、実在しないもの
を対象として見ることがあることが説かれている。三としては、衆生が対象として見たとお
りに外界が実在するのであれば、全ての衆生は何も修道すること無しに初めから真実を
得て解脱していると説かれる。これでは仏道の意義が無くなるということである。

四法の最後が重要である。無分別智を得た菩薩において、無分別智が現前している時に
は一切の対象は顕現しないと説かれている。四法の教説において、これほど明確に「対象
は顕現しない」と断言されているのは、この最後の無分別智の現前だけである。無分別智
とは、主体と対象との分別を為さない無差別・平等・一如を了知する智慧であり、「般若経
典」・中観派が説く般若・空智と同じである。中観派においては、般若を獲得すれば不見・
無所得・不可得(いずれも対象を認識しないこと)の境界へと至り、因縁・無自性・空無我
を了知すると説かれるが、唯識派が説く無分別智を獲得することも同様である。ただし中
観派よりも後の時代に台頭してきた唯識派においては、当然ながら教学がより厳密になっ
ており、智慧についても本来一体である智慧そのものを、法界・真如界の無差別・平等を
見る無分別智と、世間の差別された諸法をあるがままに見る後得分別智とに分けて説く。
そうは言っても中観派は後得分別智を全く説かないのではなく、方便智・弁才智等の語を
以って説く。両派はインド大乗仏教として同一のことを説くのであり、中観派は空教で唯識
派は実教であるとの、古来より両派を対立するものとしてきた見解は誤りであると言わざ
るを得ない。むしろ方便智・弁才智との語の方が、無分別・平等の法界に達した菩薩が、
何故に法界に留まらずに差別の世間へと出て行くのかということの意義が、明瞭に含まれ
ている。衆生利益・利他のためには、言語を以って法を説くことが不可欠であり、無差別・
平等の言語表現を超えた境界に留まっているままでは不可能だからである。言語表現と
は本質的に分別を為すものであり、真実を覆って迷いに沈むことそのものである。このこ
とは次の「●三性詳細」の箇所において説かれる。ただし覚めていない衆生に教えを説
いて行を実践せしめるためには、言語を超えた真実界を言語を以って説く他に方便は無
い。しかも、その真実の方便力を具えているのは虚偽なる言語ではなく、特別なる真実の
言語でなければならない。このような真実の言語を了知して用いることが出来る智慧が、
後得分別智・方便智である。だが前述したとおり、無分別・分別の二智は本来より一体で
あって別々の智慧ではないことがインド大乗の説くところである。説くために敢えて分ける
のであり、どちらか一方だけの智慧を獲得したということはあり得ない。ただし本論書の後
の分においては、修行者が初めて無分別智を獲得した直後には言語を失って何も語れな
い短い時間があるが、すぐに無分別・平等の境界を言語を以って説けるようになることが
説かれている。初めて無分別智を得た時は、無始より広劫にも体験したことが無い驚愕
の境界に置かれるからであろう。このように二智は一体不離であるが、これが中国で成立
した大乗を名乗る諸宗の多くは別々の智慧として説き、実践においても段階を追って獲得
しようとする。例えば禅宗においては、先ず「無(ムー!)」と成る苦行を長年続けてようや
く無分別・平等なる境界を見たら、次はそれを捨てる修行に苦しむ。前の段階だけで修行
を終えて悟り澄ます禅者は、「一枚悟り」として貶められる。しかしながら、インド大乗仏教
の教学からすれば、このように二智を別々のものとして無分別智・般若だけを得たという
ことはあり得ないことであり、インド大乗を継承していない異質なものを感じる。無分別智
を得ても、さらに苦しい意図的な修行を継続しなければ後得分別智を得ることが出来ない
というのであれば、それはインド大乗が説く無分別智をも初めから得ていないと言わざる
を得ない。インド大乗とは異なる宗教を中国において創作して、大乗仏教を名乗ったので
ある。そのことは例えば禅宗において自認していることであり、インド大乗を如来禅と呼ん
で貶め、自らを祖師禅と称して上であると主張する。

インド大乗が説く智慧について、真宗においてはどのように説かれているのかを、祖聖の
「教行信証」と正依の「大経」において見よう。


「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。・・・・・円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成
す正智」                                (教行信証 − 総序)より

「第二十五願 : 設(たと)い我、仏を得んに、国の中の菩薩、一切智を演説すること能わ
ずんば、正覚を取らじ。」

「第二十九願 : 設い我、仏を得んに、国の中の菩薩、もし経法を受読し、諷誦持説して、
弁才智慧を得ずんば、正覚を取らじ。」           以上(大経 − 四十八願)より


両書ともに中観教学の用語を用いて説かれているが、祖聖は光明を「慧日」、名号を「正
智」であると説かれている。智慧は一体のものであって分けることは出来ないが、これを
説くために敢えて分けた場合、「慧」は般若・空智・無分別智であり、衆生の無明の闇を破
って言語を超えた平等・一如の境界を了知せしめるものである。「智」は方便智・弁才智・
後得分別智であり、言語を以って差別の世間・衆生の境界において転悪成徳の衆生利益
・利他のはたらきを為すものである。光明と名号とは別々のものではなく一体であるが、光
明は眼に見ることも言語を以って知ることも出来ない法界のはたらきを象徴するものであ
り、形・相は無く、所謂物理的な光のことではない。これに対して名号は特定の具体的な
他とは差別された形・相を持ち、衆生が知り称えることが出来るものである。衆生が知り
称えることに由り、転悪成徳の絶大なる力がはたらく。二智一体なる智慧を、これほど簡
潔・明確に説かれた教えは他に無いのではないか。また「大経」においては、「第二十五
願」に説かれている「一切智」が般若・無分別智である。浄土に生まれた菩薩は一切智を
演説することが出来ることが説かれているのであるから、言語を超えた一切智を得て、そ
れを演説する方便智をも得ていることが説かれている。このことを重ねて、「第二十九願」
では浄土に生まれた菩薩は、経法を持説する弁才智を得ていることが説かれている。「大
経」はインド大乗の経典であるから、当然ながら二智の同時獲得を説くのであるが、祖聖
の教相はそのことを正しく継承している。先ず光明の慧・無分別智を得て、それからさらに
厳しい修行を積んで名号の智・後得分別智を得るなどとの、二智の段階的獲得の教えは
説かれない。特に名号が正しき智・後得分別智であると説かれていることが重要である。
名号は慧・無分別智ではないと説かれているのではない。名号が後得分別智・方便智であ
るということは、空智・無分別智は具わっているということである。「南無阿弥陀仏」は二智
一体の円満なるはたらきであり、欠けるところは無い。衆生をして一念に無分別・平等の
境界に生まれしめ、同時に衆生の思い計らい無く自然に利他のはたらきを為さしめる。特
に利他のはたらきにおいては衆生の思い計らいが無く、無為・無作・無功用に為さしめら
れるということが、大乗においては重要である。利他・衆生利益しようとの衆生の思いは、
他の宗教においては愛・慈悲とされて高く評価され、それを実践することが宗教の最終目
標であるとされるが、それは後得分別智・方便智に由る行為ではなく、結局は衆生の我執
・我慢より生じる思い・行為である。それ故に他からの評価・感謝・報酬を求めたり、宗教
者同士の間で功績を競ったり、人を救ったと自慢するのである。無宗教者よりも始末にお
えない、善人ぶった芬々たる我執臭さを放つ。

無分別智が現前する時には一切の対象は顕現しない、と説かれるが、この無分別智とは
もはや衆生の心・衆生が発する知恵ではない。無分別智を発する時とは説かれずに、現
前する時にと説かれていることが、そのことを示している。無分別智も、それと一体なる後
得分別智も、仏智・仏心であり、如来そのものである。また無分別智が現前する時には対
象は顕現しないが、何回も述べているとおり、対象が無ければそれを認識する識・主体も
無いと説くのが唯識派である。しかしながら対象も識も無いとは、何も無いとの断見・ニヒ
リズムではない。無分別智・後得分別智のはたらきが有る。ただしそれは、迷いの衆生が
考えるところの有るということではない。有・無の無ではない。それゆえに大乗仏教におい
ては非有・非無・非有亦無・非非有亦非無と説かれるのである。この部分においては唯識
無境・似義顕現という教えが事実であることを知るための四法ということが説かれたが、
無分別智の現前以外は、教えが事実であることを知識としてある程度推測せしめる、納得
せしめるための説明にとどまるものである。引用はしていないが、四法の中には唯識無境
ということをかなり納得出来る禅定体験も説かれているが、対象が全く顕現しないとの証
を得るに至る体験ではない。つまり衆生の知的思考や自力の修行を以ってしては、唯識無
境を事実として証することは不可能なのである。仏智である無分別智においては、本より
対象は全く顕現しない。対象を認識する主体・我も本来からして無い。しかし何も無いとい
うことではない。仏智は衆生の有無の見解を超えている。


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●三性詳細 

ここから依他起性・遍計所執性・円成実性についての詳細な教説が長く説かれるが、主な
部分を見ていく。先ず三性の各々が如何にして成じるかということが順番に説かれるが、
依他起性と遍計所執性については本分の最初の箇所である「●三性」において説かれた
、三性の各々は何かという教説とあまり変わりがない。ただし遍計所執性については、「無
量の主観としての意識の遍計は、顛倒(分別)が生じる相であるが故に、遍計所執と名づ
ける。」
と説かれており、遍計することそのものは遍計所執性ではなく依他起性の識であ
ることがここまで説かれてきたが、遍計する識とはいっても特に意識(第六意識)であるこ
とが説かれ始めている。


1)円成実性とはいかに 

「もし円成実性は遍計所執性が永久に有ることが無い性であるならば、いかにして円成実
性が成じ、何の因縁の故に円成実性と名づけるのか。無変異なる性に由るが故に、円成
実性と名づける。また清浄なる対象の性に由るが故に、一切の善法における最勝なる性
であるが故に、最勝であるという意義に由って円成実性と名づける。  」


この部分では先ず、円成実性は無変異なる性に由るからそう名づけると説かれている。
玄奘が無変異(変化しないこと)と訳した語を、真諦は「如」と訳しており、また世親は「欺く
ことがない」と、つまり虚偽ではない真実として釈している。大乗仏教においては真に無変
異なる性とは、結局は真如の性・法性に至るのであるから、ここは円成実性とは如性・法
性に由ることが説かれていると解するべきであろう。次に清浄なる対象ということが説かれ
ているが、これを世親は次の「●三性を密意として説く諸大乗経」の箇所において説か
れる「四種清浄」の中の一つであると釈しており、これは大乗の教法のことである。詳しく
はその箇所において見るが、四種の中の三番目の「道の清浄」つまり清浄なる大乗の仏
道が挙げられることに続いて、道の清浄を生じる「境の清浄」として挙げられているもので
ある。教法は清浄を生じる縁となるものであるから遍計所執性ではなく、最浄なる法界よ
り等流する性であるが故に依他起性ではないと説かれている。それゆえに世親の釈に従
えば、円成実性が清浄なる対象の性に由るとは、清浄を生じる縁となり法界等流する性
である教法に由ることを意味することになる。最後に、円成実性は最勝なる性であると説
かれている。

この部分の教説を見ても、円成実性とは如性・法性・法界等流する性に由る最勝なる性で
あることが説かれており、衆生の境界のことではなく超越的なものであることが分かる。た
だし円成実性は衆生とは無関係にあるのではなく、「●三性」の箇所において説かれて
いるとおり、依他起性において、つまり識・衆生の主体において成じられるものである。依
他起性が円成実性に転換することなどは説かれていない。


2)遍計所執性の吟味 

「遍計所執するものと、遍計所執されるものとがあって、遍計所執の自性が成じる。ここに
おいて遍計所執するものとは何か。遍計所執されるものとは何か。遍計所執の自性とは
何か。意識は遍計所執するものである。分別を為すが故である。この意識は自らの名言
熏習を種子と為して生じ、一切の識の名言熏習を種子と為して生じる。それ故に意識は、
無量の分別を生じ、遍く一切に於いて分別して計らうが故に遍計と名づける。また、依他
起の自性は遍計所執されるものである。これに由って依他起の自性が遍計所執されるも
のを成じれば、それが遍計所執の自性である。・・・・・また遍計はいかにして分別して計ら
うのか。・・・・・名(概念)を対象として、依他起の自性の中に於いて相(形や性質)を見て
取ることに由り執着し、思考を廻らして言語を発し、見聞等の四種の言語作用に由り言語
思考を為して、対象を実在するとする。これらに由り遍計するものはよく分別して計らうの
である。  」


この部分では遍計所執性について詳細に説かれ、その殆どが明らかにされている。遍計
所執するとは、別の語で言えば分別認識することである。それ故に遍計所執するもの・遍
計所執されるものとは、分別認識するもの・分別認識されるものである。この部分におけ
る重要なる教説の一つが、「依他起性は遍計所執されるものである。これに由って依他起
性が遍計所執されるものを成じれば、それが遍計所執性である。」と説かれている。遍計
所執・分別認識されるものは、依他起性つまり識であることが明らかに説かれてる。さらに
依他起性の識が遍計所執されるもの(これも依他起性の識)を成じれば、それが遍計所執
性であると説かれている。これは「●三性」の箇所において、遍計所執性とは「義(対象)
が無くして唯だ識のみ有ることにおいて、義に似て顕現することである」と説かれていたこ
との意味を、より明確に説くものである。遍計所執性の正体は何かというと、依他起性の
識であることが明示されている。識以外には何ものも無い。それ故に唯識と謂う。遍計所
執性は、依他起性の識が対象として識の外に有ると思い描いた妄想であり、識の外に有
るものとしては「無い」と断言される。しかしながら、何も無いのかと言うとそうではなく、そ
の正体は依他起性の識である。先に識の見と相ということが説かれたが、対象として誤認
されるものが識の相である。相は見により識の外に有る対象として遍計・分別認識される
が、識の外に有るものとしては遍計所執性であり無い。しかし相は依他起性の識としては
有る。ここが誤解されることが多いところである。相は識である。それ故に見が相を対象
として識るということの事実は、繰り返し述べているとおり、識が識自身を識る・自己認識
・自証・心が心を見ることである。遍計所執性には円成実性のような超越性は無い。遍計
所執性は依他起性が有るが故に成じる。ここを「遍計所執するもの(依他起性の識の見)
と、遍計所執されるもの(依他起性の識の相)とがあって、遍計所執性が成じる。」と説い
ている。成じるとは言っても遍計所執性なるものが実在するのではなく、識・主体の外に有
ると思い描かれた妄想が成じるのである。「●唯識性の確立」において述べたとおり、分
別認識とは識が見と相との二つとしてはたらき、見が相を対象であると誤認することにお
いて成立するのであり、実には認識とは識の内部においてのみ為されること、自己認識で
あって識の外部世界、識の他なるものは何も無い。

次に、遍計所執するものとは、七識の中の第六意識であることが明言されている。このこ
とは、ここまで繰り返し述べてしまって来たことであるが、それを述べないと唯識の教えを
理解出来ないからであり、このことが本論書において明言されるのはこの部分である。遍
計所執・虚妄分別は意識において生じる。勿論、その根拠はアラヤ識にあるのであるが、
アラヤ識における分別は微細であるが故に、遍計所執・虚妄分別する主体は意識である
ことが明言される。つまり衆生が迷うのは、衆生の意識が迷っているのであり、他に迷う
もの・迷いの主体は無い。眼識から身識までは迷っていない。この部分で遍計所執性がよ
り詳細に説かれたことを以って、唯識の教えを誤解しないように確認する必要がある。認
識する主体である識は依他起性であるが、認識される対象は識が虚妄分別して生じた非
実在の遍計所執性であると説かれるが、この理解だけでは誤解が生じる。「●唯識性の
確立」
の箇所において、対象認識・分別認識は、識が見(主体)と相(対象)とに二分して
成立すること、識の自己認識であることが説かれたとおり、対象として顕われたものは識
とは異なる、識の外に有るものとしては非実在であり妄想に過ぎないが、相であって識に
他ならないということでは見と別のものではない依他起性なのである。対象は迷いの意識
においてのみ顕われているのである。この部分の詳説を理解すれば、衆生の迷っている
意識というものだけが、依他起性でありながらも、いかに依他起性という事実から「浮いて
いる」ものであるかということが分かるであろう。迷うのも意識であり、また覚るのも意識で
ある。ただし本論書の冒頭に説かれているとおり、意識が迷うのも覚るのも、その拠り処
はアラヤ識である。本論書においては拠り処がアラヤ識であることが初めに説かれ、その
主体は意識であることが、長い教説を経てようやくこの部分に至って明言される。

迷っている意識が遍計所執・虚妄分別を生じて、依他起性でありながらも、遍計所執性と
いう非実在を成じることの大きな要因は、この部分の最後に説かれているとおり、意識が
思考を廻らすこと、言語作用を為すことにある。「名言熏習」との語が出されているとおり、
意識が言語思考を廻らすことが迷い・遍計所執・虚妄分別することに他ならないのである
。言語思考を為すことが衆生の迷いの本質であることは、中観派も「戯論より分別を生
ず」(龍樹「中論」より)と同様に説くところである。戯論(プラパンチャ)とは不毛な形而上学
的思索であると解釈する学者もいるが、そうではなく言語思考一般である。高尚なテーマ
を熟考することのみならず、日常生活において卑近・仔細なことを常に無数にあれやこれ
やと思い煩うことも戯論であり、この言語を以って思うこと、考えること全てが衆生の迷い
そのもの、迷いの実態であることをインド大乗仏教は共通して指摘する。「無量寿経」とて
同様である。


「屏営愁苦して、念いを累(かさ)ね慮りを積みて、心のために走(は)せ使われて、安き時
あることなし。」                                     (大経)より


と説かれている。屏営愁苦するから念いを累ね慮りを積むのではなく、念いを累ね慮りを
積むことが止まないが故に、心のために走せ使われて屏営愁苦するのである。人間が他
の生物よりも勝れて霊長たるゆえんは、言語思考する能力を獲得したからであると考える
のは西洋文明の驕りである。人間は神に次いで偉い霊長だから、他の生物・被造物を人
間のために利用し尽くしてよい、人間でも神を信じない野蛮人のことはどう扱っても構わな
いとの、エゴを正当化する思想をかざして世界・地球に君臨しようとする。インド大乗仏教
は初めから、人間が優秀であることの根拠のように思える言語思考を迷いの本質である
と見抜いて、それを超える道を見出した。言語思考を全て捨てて他の生物と同じに成るの
ではない。そのようなことは人間においては不可能である。言語を本質として迷う人間は、
特別な言語である仏の言葉・法そのものの言葉を以って迷いから覚ましめられることを見
出したのである。言語思考することが人間の本質であるが故に、人間は言語に由って迷
い、言葉に由って救われるのである。この部分では、遍計所執する意識は名言熏習を種
子として生じることが説かれている。意識が遍計所執・虚妄分別する現行が言語思考す
ることに他ならず、それがアラヤ識に名言熏習という種子を熏習する。その種子より意識
において遍計所執・言語思考が現行として生じるのである。謂わば、言語思考の現行と種
子とが円環的に、更互に因となり果となって続いていく。言語思考するという迷いは広劫に
相続し、衆生は迷いに沈み続ける。それでは人間が言葉に由って救われるとはどういうこ
とであるのか。それが前分において説かれた「正聞熏習」である。これは本分においても
「1)円成実性とはいかに」の箇所で述べたとおり、次の「●三性を密意として説く諸大
乗経」
の箇所に説かれる「四種清浄」の中の「境の清浄」としての教法である。大乗の教
法は最浄なる法界より等流する性であるが故に依他起性ではなく、遍計所執性でもない
超越的な言葉である。アラヤ識に名言熏習する普通の言葉とは全く異なる言葉であり、特
別な言葉である。


3)三性の不一不異 

「これら三性という在り方は、(お互いに)異なるのか、異ならないのか。異なるのではなく、
異ならないのでもないと言うべきである。依他起性は、ある立場では依他起性を成じる。
またある立場では遍計所執性を成じ、ある立場では円成実性を成じる。

依他起性は、いかなる立場で依他起性を成じるのか。熏習された種子という他に依って
起こるが故である。この性(依他起性)は、いかなる立場では遍計所執性を成じるのか。
これ(依他起性)は遍計所執する因であり、また遍計所執するものに遍計所執されるもの
だからである。この性は、いかなる立場では円成実性を成じるのか。遍計所執されるもの
は、そのようには実在しないとの立場においてである。  」


三性は、お互いに異なるのか同じなのかとの問いを発して、異なるのでもなく異ならないの
でもないと答えている。この箇所で「依他起性は、ある立場では依他起性を成じる。・・・遍
計所執性を成じ、・・・円成実性を成じる。」と説かれていることを根拠として、現代の仏教
学者は唯識派の三性説は依他起性が遍計所執性に転換したり、円成実性に転換するこ
とを説くものであると解釈することが多い。しかしながら三性説は、依他起性が依他起性
ではなくなって、遍計所執性や円成実性に成ることを説くものではないことは、ここまで見
てきた教説からしても明らかである。依他起性の識が遍計所執性を生じるのであり、また
依他起性において円成実性が成じるのであり、依他起性が無くなることはない。この箇所
で用いられている「成じる」との語を転換するという意味に解釈すると、「依他起性は、ある
立場では依他起性を成じる」との教説の意味が分からなくなる。依他起性には2種あり、
依他起性の中の依他起性、根本的な依他起性という不可説なるものが説かれているなど
と、深遠そうに見える解釈を主張する学者もいるが、本論書のこの後にそのような依他起
性は説かれない。また普通の依他起性も円成実性も、本論書においてはそれらについて
種々に説かれているが、それはこれら二性が可説なるが故に説いているのではなく、本来
は不可説なるものを、修行者を導くために敢えて説いているのである。

この箇所において「ある立場では」と訳した語のサンスクリットは( paryayena )であると推
測され、「異門(異なる法門)」と漢訳されることが多い。これに対して現代の学者は「換言
すれば」「ある意味では」「ある観点では」との意味に解釈しているが、「ある立場では」も含
めて不明瞭な訳である。つまりは一語を以ってしては説明しにくいことであり、ここまででも
種々に説かれた三性の各々の異なりを指す語である。例えば依他起性については、依他
起性は、他の二性(遍計所執性と円成実性)とは異なる「何か」「如何に成じるか」という点
では依他起性を成じる、という意味になるであろう。

先ず、依他起性は遍計所執性・円成実性とは異なる何か・如何に成じるかという点では、
特に「熏習された種子という他に依って起こるが故」に、依他起性を成じると説かれている
。依他起性とは識であり、アラヤ識に蔵されている種子より現行として生じて、生じればア
ラヤ識に種子を熏習し、その種子より新たな依他起性の識が生じる。つまり依他起性の
識は種子を仲介として依他起性の識を成じるのである。このことが依他起性は依他起性
を成じると説かれている。普通の依他起性の他に深い依他起性があることなどは、本論書
の何処にも触れられていない。次に、依他起性は依他起性・円成実性とは異なる何か・如
何に成じるかという点では、特に「これ(依他起性)は遍計所執する因であり、また遍計所
執するものに遍計所執されるものだからである」が故に、遍計所執性を成じると説かれて
いる。先に説かれていたとおり、遍計所執するものは依他起性の識の見であり、遍計所執
されるものも依他起性の識の相である。それ故に依他起性の識が無ければ遍計所執性
は成じない。その意味では依他起性と遍計所執性とは異なるのではない。しかしながら、
依他起性は依他起性として「有る」(縁起するものとして有る。実体は無い。)ものであるの
に対して、遍計所執性とは依他起性の識が識の外部に有ると誤認した妄想であり、「無い」
ものである。その意味では依他起性と遍計所執性とは異ならないのでもない。最後に、依
他起性は依他起性・遍計所執性とは異なる何か・如何に成じるかという点では、特に「この
性(依他起性)は、遍計所執されるものは、そのようには実在しないとの立場において」、
円成実性を成じると説かれている。これは「●三性」の箇所において説かれていた、「円
成実性とは何か。それは依他起性において、義(対象)に似て顕現する現われ方が、永久
に有ること無き性である」との教えと全く同じことが説かれている。似義顕現することが遍
計所執性である。遍計所執性は依他起性の識が生じるのであるが、またそれが衆生の殆
どの場合であるのだが、依他起性の識が遍計所執性を生じなくなることがある。遍計所執
されるものは実は依他起性の識であって、識の外に義・対象として実在すると思っていた
ことは妄想であり、妄想されるものはそのようには実在しないという事実を了知せしめられ
ることがある。ここに円成実性が成じる。この箇所の文は、依他起性が円成実性を成じる
ように述べられているが、分り易い表現は「●三性」の箇所の、依他起性において円成実
性が成じるとの述べ方であろう。ただし依他起性が無ければ、そこにおいて円成実性が成
じることも無いが故に、依他起性が円成実性を成じるとも言える。その意味では依他起性
と円成実性とは異なるのではない。しかしながら、依他起性は円成実性が成じなければ遍
計所執性を生じるのであるから、その意味では依他起性と円成実性とは異ならないのでも
ない。以上のように三性の不一不異が説かれている。

衆生の依他起性の識は遍計所執性に摂せられていて、常に似義顕現を生じる。ところが
それが生じなくなることがあると述べたが、それはいかなる場合なのか。依他起性におい
て円成実性が成じる場合である。依他起性が遍計所執性を生じなくなる場合と、依他起性
において円成実性が成じる場合とは同じである。両者が異なるということは無い。それ故
に依他起性が他の性に転換して無くなってしまうということは無い。依他起性の識は縁起
するものとして常にあり、遍計所執性を生じているか(それが殆どである)、円成実性が成
じているかの二つの中のどちらかである。遍計所執性が生じなくなって円成実性が成じる
ことの主導権は円成実性にある。円成実性が主導しなければ、依他起性が遍計所執性を
生じることは永遠に止まない。止めるために、遍計所執性はもちろん依他起性もどうする
ことも出来ない。永遠に虚妄分別・似義顕現の迷いの暗闇に沈み続けるだけである。主
導権は円成実性という超越的な性のみにある。


4)依他起性・円成実性は無にあらず 

「何故に、(遍計所執性は)顕現している如くには実在しないというのに、依他起性は一切
実在しないことにはならないのか。もし、これ(依他起性)が無であれば、円成実性もまた
実在しない。もし、これ(円成実性)が無であれば、一切皆無である。

もし依他起性と円成実性が有ること無ければ、染と浄とが有ること無いとの過失となる。現
に雑染と清浄とはあるべし。この故に一切皆無であるべからず。これについて偈頌がある。

  もし依他起性無ければ  円成実性もまた無からん
  染と浄も常に  有ること無かるべし                    」


ここでは一切皆無という断見を主張する外道に対する反論が説かれている。反論と言っ
ても論理を以って相手の主張を破綻させるのではなく、断見・ニヒリズムとは異なる大乗
仏教の立場を示している。実は大乗仏教は断見・ニヒリズムであると誤解されて、小乗仏
教・外道・常識的世間から批判されることが多かったのである。その誤解を解くためにも、
このような問答が置かれたのであろう。無性の「摂論釈」においては、一切は皆空であり
汚染も清浄も無ければ、それこそが円成実性であると主張して唯識派を批判する外道に
対する反論としてこの問答を扱って釈している。無性は、汚染を離れて清浄となるという意
味の円成実性はそうではないと主張している。繰り返し述べているとおり、汚染されている
物とか清浄なる物が有るのではなく、汚染とは夢を見ている意識であり、清浄とは覚めて
いる意識である。唯識派は意識・自己という主体的・実存的課題を実践的に説くのであり、
夢を見ていることも覚めていることも有るとか無いとか、客観的存在論を説くものではな
い。唯識派が説く意味での汚染・清浄を無いとすれば、宗教的実践が成立せず、意識が
夢から覚めるという主体的課題も成就されないのである。大乗仏教は、存在論という非主
体的・観念的・知的興味から造られる思想と噛み合うものではない。ただし依他起性とは、
何回も述べたとおり縁起・因縁生であり、唯識派がこれは無ではないと説くからと言って、
諸法の実体・自性の有を説くものではないことは忘れてはならない。


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●三性を密意として説く諸大乗教 

本論書においては引用が少ないものの、唯識派が正依とする経典は「解深密経」である。
この経題は、深い密意を解く経という意味である。密意とは、教主釈尊があからさまには
多くは説かなかったが、釈尊の本意であるということである。インドに唯識派が登場して
アラヤ識や三性を説いたが、それらの教説は大乗・小乗を問わず既存の仏教諸部・諸派
にとっては初めて聞くものであったであろう。当然ながら唯識の教説は釈尊が説いたもの
ではなく、唯識派が捏造したものであるとの批判が為された。それに対して唯識派は、自
分たちが主張する教説は釈尊が説きおかれたものであるが、それは多くの人から誤解を
受けることが解かっていたので、少ない機会に密意として説かれたと主張して「解深密経」
を宣揚するのである。また釈尊は唯識の教えを直接的に説く機会は少なかったが、その
教意は言葉・表現を変えて頻繁に説かれたと主張した。この箇所では言葉・表現を変えて
唯識の教意が説かれたとする諸大乗教のいくつかが挙げられる。


1)三性をいかに知るか 及び 円成実性の四種清浄 

「世尊は大乗の中において広大な教えを説きたまう。その教中において、遍計所執性はい
かに説かれたと知るべきであるか。所有無しと説きたまうと知るべきである。依他起性は
いかに知るべきであるか。譬えば幻・焔・夢・像・光影・響・水中月・変化の如しと説きたま
うと知るべきである。円成実性はいかに知るべきであるか。四種清浄法を宣説したまうな
り。

何らをか四種清浄法と為すのであるか。一には自性清浄である。謂わく、真如・空・実際・
無相・勝義・法界である。二には離垢清浄である。謂わく、これ(自性清浄)が一切の障垢
を離れることである。三には、これ(離垢清浄)を得る道の清浄である。謂わく、一切の菩
提分法・波羅蜜多等である。四には、これ(道の清浄)を生じる境の清浄である。謂わく、
諸もろの大乗の妙正なる法教である。この法教に由り清浄を縁ずる(法教を縁として清浄
を生じる)が故に、遍計所執性ではない。最浄法界より等流するが故に、依他起性ではな
い。これら四法は、一切の清浄法を総摂して尽くしている。  」


諸々の大乗経典においては「無所有」「無所得」「不可得」等の語が出されているが、本論
書はこれらの語を以って唯識派が説く遍計所執性が世尊に由って説かれていると主張す
る。確かに無所有等の語が意味するところは、世界も自己も何も無いとのニヒリズム、あ
る意味での空見ではなく、衆生が自己・主体とは分別して対象として認識して実在であると
思い込んでいるものは無いとの教えである。対象として捉えることが出来る実在は何も無
い、逆に対象として捉えたものは実在ではなく妄想であるとの教えである。それ故に、これ
らの語を以って遍計所執性が説かれていると言うことは出来よう。次に一切は幻・夢・水中
月(水面に映っている月)等の如しと譬えられている教えが大乗経典に頻出するが、これ
らは依他起性が説かれていると主張する。これらの譬えは、一切法が実体・自性の無い因
縁生であることを説くものであり、それ故に依他起性が説かれているとは言えよう。三つめ
の円成実性は四種清浄として説かれていると主張する。四種清浄は断片的には諸経典に
説かれているが、このように整理されて説かれているものとしては「宝生論」の教説が近
い。「宝生論」は「一切衆生は如来蔵(如来を生じる母胎)である」と説く論書であり、唯識派
内の真諦(パルマルータ)や彼に近い、あるいは唯識派に近い論師が著わしたものである
と見られているが、本論書が円成実性と同じ教えとして四種清浄を詳説していることは、唯
識派と「宝生論」とが近い立場にあることを示していると言えよう。


  *「最浄法界より等流する法教」とは「還相回向」 推奨

四種清浄の中では、四つめの「境の清浄」である「諸もろの大乗の妙正なる法教」につい
ての教説が注目すべきである。法教は「最浄法界より等流する」が故に、依他起性ではな
く円成実性であると説かれている。ここで思い起こすべき教説は、前の「●三性詳細」
部分において説かれた「依他起性は、熏習された種子という他に依って起こる立場で依他
起性を成じる。」と説かれたことである。依他起性ではなく円成実性である法教は、熏習さ
れた種子という他に依って起こるものではないということが説かれていることになる。さらに
「最浄法界より等流する」との教説から思い起こされるのは、前分の「●正聞熏習」の箇
所において説かれた


「しかしながら、一切種子の異熟果としての識は汚染の因であるのに、どうしてそれを対治
する浄心の種子でありえようか。また出世心は昔より未だかって経験したことが無い故に、
その熏習はまさに無いはずである。その熏習が無ければ出世心が何の種子から生じる
のか。まさに答えるべきである。それは最清浄法界より等流するところの正聞熏習を種子
として生じるのである。」                       (所知依分第二)より再掲


との教説である。前分とこの部分において説かれている二つの教説を見れば、最清浄法
界より等流する「正聞熏習」と「法教」とは同じであると見るべきであろう。唯識派において
は一切唯識と説かれるのであり、その一切唯識ということにおいて根本識であるアラヤ識
と現行識である六識との間に、「種子生現行、現行熏種子」との更互因果が刹那ごとに行
なわれているということが、公理のごとく説かれる。ところが唯一の例外が提示されている
のであり、それが法教・正聞熏習である。法教については円成実性ではあるが依他起性
ではない、つまり熏習された種子という他に依って起こるものではないと説かれているが故
に、法教・正聞熏習は六識特に意識における現行ではないと見るべきであろう。六識にお
ける全ての現行は、アラヤ識に熏習された種子より生じるからである。ところが法教・正聞
熏習は種子を熏習する。正聞熏習との語が示すとおりであり、前分において説かれたとお
り出世心(超世間の智慧)を生じる種子・浄心の種子を熏習する。あるいは正聞熏習が、
もはや出世間智を生じる種子であるという意味の説かれ方もなされている。この浄心の種
子は、未だかって経験したことが無い、つまり六識において現行が生じたことが無いにも
関わらずに熏習される。六識における現行つまり衆生の経験に依らずにアラヤ識に浄心
の種子・出世間智を生じる種子を熏習するもの、それが依他起性ではない円成実性とし
ての、最清浄法界より等流する法教・正聞熏習である。これは唯識派の公理である更互
因果を超えている。「種子生現行、現行熏種子」との公理から一歩も外れることが無いの
が衆生というものであろう。それに対して法教・正聞熏習は更互因果を超えて、衆生の六
識において現行が生じること無しに浄心の種子をアラヤ識に熏習する。この超越的な法教
・正聞熏習は、仏の領域と言うべきである。実際に前分の「●正聞熏習」の箇所において
説かれた教えを、さらにもう一つ再掲する。


「此の正聞熏習の種子は下中上品のいずれであっても、まさに法身の種子であると知る
べきである。・・・・・すでによく諸煩悩の纏いを対治し、すでによく諸悪趣を対治し、すでに
行なった一切の悪業を無力にする対治をなす。よく一切の諸仏・菩薩に逢うことに随順す
る。世間にあるといえども、初修行の菩薩の得るところでさえ法身に摂せられるのである
とまさに知るべきである。」                     (所知依分第二)より再掲


正聞熏習の種子・浄心の種子は「まさに法身の種子である」と明言されている。そして浄心
の種子・法身の種子が有する三種の対治である煩悩の汚染の対治・生存の汚染の対治・
業の汚染の対治というはたらきは、やはり浄心の種子・法身の種子が有する「諸仏・菩薩
に逢う」という四番目のはたらきに由り成就されると世親が釈したことは、「●正聞熏習」の
箇所で紹介したとおりである。「最清浄法界より等流する法教・正聞熏習」とは、衆生の領
域である更互因果の公理を超越した仏の領域であり、衆生の領域を超越しながらも衆生
の領域に入り来たりて、衆生に甚大なる作用を為すのである。ここで、本論書が最清浄法
界より等流すると説く法教・正聞熏習とは何であろうか。法教とは玄奘が訳した語である
が、字を逆にして教法という語にした方が仏教においてよく用いられる。要するに仏法・仏
道の教えである。正聞熏習については前分において、「他の言音及び内なる各別の如意
作理とにより、此れを因と為すに由って正見は生じることを得る。(正見と正聞とは同じ)」
と説かれていた。さらに、正聞熏習は耳識や意識に熏じられるのではなく、異熟識(アラヤ
識)中に寄生して和合しているが異熟識ではないことも説かれていた。かなり解かりにくい
教説である。要するに最清浄法界より等流する法教・正聞熏習とは、本論書における隠密
の義であり、繰り返し説かれる識や三性の教説とは異なった教説が、識や三性の教説の
語が用いられながら僅かな箇所において短く説かれるだけなのである。しかも最清浄法界
より等流する法教・正聞熏習ということは本論書における独自の教説であり、唯識派の他
の論・釈においても類を見ないものである。論師無着の独自なる卓見である。前分で説か
れるアラヤ識も、本分で説かれる三性も、唯識派において共通して説かれる教義・教理の
ようなものである。だが最清浄法界より等流する法教・正聞熏習の教説は、本論書が古今
独歩である。本論書はこの部分において、最浄法界より等流する法教・正聞熏習を依他起
性ではない超越性を具える円成実性として密義のように説くのである。ただし無着の独自
の教説であるとは言えない、唯識派に共通する教説としても、無始より意識において似義
顕現を現行し続けて、似義顕現を生じる種子がアラヤ識に無数に熏習され常に増加し続
けているということが実態である衆生においては、似義顕現が永久に生じない円成実性と
は、衆生の領域を超えたものであることが示されていることは言うまでもない。さらに、一
切の対象が顕現しなくなる無分別智の現前という教説においても、無分別智という超越性
・仏の領域が示されている。このように見ると、唯識派が説く三性説の中の円成実性には
、実は本来から衆生を超える超越性というものが示されているのである。この円成実性の
超越性を、無着はこの部分において独自に強調して説いたと見做すべきであろう。ただし
超越性を具える円成実性も、あくまでも「依他起性に於いて」ということが繰り返し説かれ
ている。これは、この部分の教説においても頷かれることである。「種子生現行、現行熏種
子」の公理から一歩も外へ出ない衆生において、超越性を具える法教・正聞熏習は衆生
の六識における現行に由らずに、アラヤ識に浄心の種子・法身の種子・出世間智を生じ
る種子を超越的に正聞熏習する。だが、それだけでは(それだけということはあり得ない
のであるが)意識下の出来事であり、衆生において何らの転換も現われない。正聞熏習
は、熏習された種子という他に依って起こる依他起性に「於いて」、種子生現行という更互
因果のメカニズムに由って、出世間智・無分別智として現行することを以って衆生におい
て自覚されるのである。この自覚の成就を以って、衆生において迷った意識の転換、夢を
見ている意識の大転換が為される。遍計所執する衆生の迷った意識は、自ら夢から覚め
ることは出来ない。依他起性に由ってだけでも覚めることは出来ない。依他起性に於いて、
依他起性を離れずに円成実性という超越性がはたらくことに由ってのみ覚めるのである。
ここにインド大乗仏教としての他力の救済の教相が示されていると言えよう。

この無着独自の、最浄法界より等流する法教が超越性を具えるとの教説に、私は親鸞聖
人の「還相回向」の教えとの共通性を感じる。祖聖は「証巻」の末尾において、還相回向に
ついて次のように説かれている。


「大菩薩、法身の中において、常に三昧にましまして、種種の身、種種の神通、種種の説
法を現ずることを示すこと、みな本願力より起これるをもってなり。」
                               (証巻 − 曇鸞「論註」より引用)より


正聞熏習・浄心の種子が有すると説かれる「諸仏・菩薩に逢う」という四番目のはたらき
は還相回向の「種種の身を現ずることを示すこと」、「煩悩の汚染の対治・生存の汚染の
対治・業の汚染の対治」という三種のはたらきは「種種の神通を現ずることを示すこと」、
そして「教法」とは「種種の説法を現ずることを示すこと」に対応していると感じるのである。
いずれも「みな本願力より起これるをもってなり。」であり、衆生を超越せる仏の領域が衆
生の領域に入り来たって正聞熏習・浄心の種子の熏習が成就されるのである。ここで本論
書においては、出世間智を生じる浄心の種子は法界等流の正聞熏習・教法に由って為さ
れることのみが説かれており、浄心の種子が六識における現行つまり衆生の業・経験に
由っても熏習され得ることは全く説かれていない。つまり本論書は出世間智を得るという
大乗の菩薩の第一目標の成就・達成が、衆生の修行に由り為されるということを説いてい
ないと言える。衆生の修行は、衆生の六識において生じる現行・業・経験である。修行とい
う現行は何らかの種子をアラヤ識に熏習することは間違い無いが、出世間智を生じる浄心
の種子・法身の種子が熏じられることは一言も説かれていないのである。つまり本論書が
説く仏道は全くもって他力である。そうすると、前分の「●正聞熏習」の箇所において説か
れた唯識派の実践修行法である「聞思修」も、自力の修行が説かれたのではないことが明
瞭になる。「聞」は「他の言音」つまり仏の教えを聞くこと、「思」は「如意作理」つまり聞いた
教えを根本思惟すること、「修」は聞・思を繰り返すことであったが、この修行において耳識
及び意識は出世間智を生じる上ではたらかないことが説かれていたことも、聞・思・修が自
力の修行、つまり衆生の業・経験ではないことを示しているといえよう。

円成実性ということも、先ずは依他起性において似義顕現が永久に無い性であるとか、遍
計所執されるものが実在ではないとの立場において成じる性であるとの説明が為され、衆
生が認識上の誤謬を修行に由って除去すれば遍計所執性が払拭されて、円成実性が顕
われることが説かれてきたようにも思える。ところが「●三性詳細」の箇所において依他起
性は種子より生じるものであると説かれ、それ故に依他起性ではない円成実性としての四
種清浄は種子より生じるものではないことが暗黙に示されていることからしても、本論書は
円成実性を単に依他起性の顕われ方の一つであるという現代の仏教学者が解釈すること
が説かれているのではなく、円成実性に超越性を見て取っていることは間違い無い。四種
清浄の中の特に「境の清浄」とされる最浄法界より等流する法教は、真宗において還相回
向と名づけられる衆生に対する超越的な如来のはたらきに酷似する説かれ方が為されて
いると感じるのである。この最浄法界より等流する法教という教説から連想されるのは、真
宗の曽我量深先生の次のような教えである。


「我等の還相の教相は此の一如から流れ来たりて、往相の一行を選択し、この一行は直
に一如の世界に流れ去る。」

「我々の往相は常に還相に依りて裏付けられる。還相は教である。一如法界等流の言教
である。」                             曽我量深(大自然の胸に)より


これらの曽我先生の還相回向についての教えと、本論書が「出世心(出世間智)は最清浄
法界より等流するところの正聞(法教)熏習を種子として生じるのである。」と説くところは、
同じことを説いているように感じるのである。しかも曽我先生の教えの方が、出世間智とは
往相の一行(智慧の念仏。ひいては信心の智慧)であることを明示し、具体的に説かれて
いる。本論書のここまでにおいては、念仏ということを示唆する教えは説かれていないので
あるが、次の分の「●無分別なる名」の箇所において、一切の義の無分別なる名に住す
れば無分別智が生起することを得て、これに由って菩薩が円成実性に悟入するということ
が説かれることの「無分別なる名に住する」が念仏を示唆しているのであろうし、本論書は
終わりの分へと向けて次第に念仏を説くことに重きが置かれてくるのである。


●三性を密意として説く諸大乗教(続き) 

2)生死即涅槃 の三性に拠る説明 

「世尊はいかなる密意に依りて、「梵問経」の中において、如来は生死を得ず、涅槃を得
ずと説きたまうたのか。依他起性においては、ある立場では遍計所執性を成じ、ある立場
では円成実性を成じることに依り、生死と涅槃とは無差別なりとの密意があられたからで
ある。何故ならば、依他起性は遍計所執の分に由っては生死を成じ、円成実の分に由っ
ては涅槃を成じるからである。 」


この部分では、「梵問経」に限らず諸大乗経典において説かれている生死即涅槃・煩悩即
菩提という大乗の大きな基本教説の一つが、三性説に依り明らかにされることが主張され
ている。「如来は生死を得ず、涅槃を得ず」も「生死と涅槃とは無差別なり」も、共に生死即
涅槃の教説である。この「即」との語は「般若経典」・中観派の教学において頻出する語で
あるが、同じ・イコールという単純な意味の語ではない。生死はあくまでも生死であって涅
槃ではなく、涅槃は生死ではない。両者を始めから同じであると主張するのであれば、大
乗仏教は宗教としての意義を失う。また大乗仏教の歴史においては、両者を同じであると
する誤解が常に生じるのである。生死と涅槃とは異なるもの、正反対の矛盾するもの同士
であるが、それをまた生死と涅槃とは等しいと説くのである。謂わば、絶対矛盾を説いてい
る。「即」とは矛盾同一を意味する語である。中観派はこれを説くために空・即一・不二・不
一不異等の語を用いるのであるが、その教説は直感的・直覚的なものである。それに対し
て唯識派は、繰り返し説かれた三性説を以って生死即涅槃を説く。

繰り返し見て来たとおり、依他起性の識は殆どの場合は遍計所執性を成じ、そうでない場
合は依他起性の識において円成実性を成じる。依他起性の識は円成実性が成じない限
りは遍計所執・虚妄分別・似義顕現を生じ、外界に対象としての世界が実在すると妄想し
ている。


3)二分依他 

「「阿毘達磨大乗経」の中に、世尊は、法に三種有り、一に雑染分、二に清浄分、三に彼
の二分なり、と説きたまえり。何の密意によりて、かくの如き説をなしたまうのか。依他起性
の中において、遍計所執性は雑染分である。円成実性は清浄分である。即ち依他起性は、
これらに二分される。この密意によりて、かくの如き説をなしたまう。」


この部分においては、所謂「二分依他」が説かれている。依他起性が雑染分である遍計所
執性と、清浄分である円成実性とに二分されるといっても、一つの依他起性というものが二
つの部分に分離される、二つの部分から依他起性が構成されるということを述べているの
ではないことは、ここまでの教説から明らかであろう。依他起性が「ある立場においては」
遍計所執性に転換し、別の立場では円成実性に転換するという現代の学者の解釈も、こ
こまで繰り返し述べたとおり採用出来ない。二分というと、依他起性の識の見と相との教
説が思い浮かぶが、識の見と相との各々を雑染分と清浄分の二つに当てはめることもお
かしい。見が清浄分で相が雑染分であるとも、その逆であると言うことも出来ない。この部
分で説かれている依他起性の二分とは、依他起性の識は虚妄分別に摂せられて遍計所
執性を生じているか、依他起性において円成実性が成じられて似義顕現が生じないかの
、二つのうちの必ずいずれかであることを説いていると見るべきであろう。このことを「二分
される」と述べている。二分ということであり、三分とは説かれていない。つまり遍計所執性
を生じるのでもなく、円成実性が成じられてもいない単なる依他起性というものは、本論書
においては説かれてはいないのである。依他起性は重要なる性であるが、単なる依他起
性という性を考えるならば、それは観念論・思弁でしかあり得ず、現実にそのような依他起
性は無い。これは「●三性」の箇所における依他起性の定義・説明を再び読んでも明らか
なことであり、遍計所執性や円成実性との関連無しに依他起性が説かれていることは無い
のである。この部分の語を用いれば、依他起性の識は雑染分を生じているか、清浄分が
成じられているかの、二つのうちのいずれかである。大乗仏教においては、依他起性の識
つまり衆生の自己・主体は、迷っているか覚めているかのどちらかであり、どちらでもない
自己などは無い。


4)金土蔵の喩え 及び 無分別智の火と円成実性の顕現 

「この義(二分依他)の中において、何の喩えを以って顕わすのか。金土蔵を喩えとして顕
示する。譬えば世間の金土蔵の中に、三つの法が可得であるが如くである。一に地界、二
に土、三に金である。地界の中に於いて、土は実有に非ずしてしかも現に可得である。金
は是れ実有にしてしかも可得ではない。火に焼錬される時に、土相は現われず、金相は顕
現する。また、この地界において、土として顕現する時は虚妄の顕現であり、金として顕現
する時は真実の顕現である。是の故に、地界は是れ二分である。

識もまたかくの如くである。無分別智の火により未だ焼かれざる時は、この識の中に於い
て、あらゆる虚妄なる遍計所執性は顕現するが、あらゆる真実なる円成実性は顕現しな
い。この識が、もし無分別智の火により焼かれたる時は、この識の中に於いて、あらゆる
真実なる円成実性は顕現し、あらゆる虚妄なる遍計所執性は顕現しない。この故に、虚妄
分別である識の依他起性には、これら二分が有る。  」


この部分で説かれている金土蔵の喩えは、唯識派が三性説を喩える際に用いる有名なも
のである。この喩えを以ってすれば、三性説をよく理解出来るというものではないようであ
る。それ故に現代の学者も、この喩えについて様々な解釈を主張している。一の地界は依
他起性、二の土は遍計所執性、三の金は円成実性を喩えていることは確かである。ところ
が金土蔵は何を喩えているのか? 三性以外の第四の性を喩えているのではない。第四
の性などは唯識派において説かれない。金土蔵は依他起性を喩えているという解釈と、金
土蔵の外見は土であるから遍計所執性を喩えているという解釈との二つに分かれている。
私は金土蔵は依他起性の喩えであると思う。従って、この喩えに出されている地界と金土
蔵の二つが、依他起性の喩えであると見る。世親の「釈」においては、地界とは「堅硬なる
こと」であると定義され、土の本質を指すが眼に見える土ではないと釈される。さらに金土
蔵について、金の種子が地界の中にあることが「蔵」の意味であると釈されている。地界・
依他起性において、土・遍計所執性は似義顕現した非実在であるが、有るように見える。
これを「現に可得である」と説いている。「可得」とは、義・対象として実在していて捉えるこ
とが出来るということであるが、ここでは土は実際には可得ではないが、衆生においては
可得であると見える・思えてしまうという意味である。世親釈においては地界・依他起性は
土の本質であるが、眼に見える土ではないとされる。これは眼に見える土が、似義顕現し
た非実在の遍計所執性であることも説いているといえよう。土・遍計所執性が非実在であ
るにもかかわらず眼に見えるのは、眼識が描出しているからである。描出された非実在の
土・遍計所執性の本質は地界・依他起性であると釈されている。これは先に「●三性詳
細」
の箇所において、遍計所執されるものは依他起性の識であると説かれていたことが、
そのままに土と地界とに喩えられて釈されている。さらに金土蔵・地界は金の種子を蔵し
ていることが「蔵」の意味であると釈されている。種子はアラヤ識に蔵されるのであるから
、金土蔵・地界はやはり依他起性の識を喩えている。金は円成実性を喩えているから、非
実在ではなく実有であるが、衆生にとってはあくまでも超越的であり、対象として捉えること
は原理的にあり得ない。ここのところを、金は「実有にしてしかも可得ではない」と説いてい
る。世親が金の種子と釈している種子は、衆生の六転識における現行がアラヤ識に熏習
する普通の種子ではないであろう。次に述べる正聞熏習の種子であり、最清浄法界より
等流するものである。衆生を超越していながら、衆生にもたらされる種子である。

依他起性の識において真実なる円成実性が顕現するか、遍計所執性を生じて虚妄の顕
現・似義顕現が為されるかは、識が無分別智により焼かれるか否かに由って決定される
ことが説かれている。無分別智とは出世間智(出世心)のことであるから、既に説かれた
ように、最清浄法界より等流する法教・正聞熏習がアラヤ識にある種子を置き、その種子
から生じる智慧である。法教・正聞熏習は前述したとおり衆生の領域ではない、仏の領域
の事柄であるから、識が無分別智により焼かれて円成実性が顕現することは、衆生の業
・経験である修行に由り成就されることではなく、仏の領域に由り成就されることが説かれ
ていることになる。つまり識・衆生に於ける真実なる円成実性の顕現は、仏力・他力に由り
成就されることが説かれている。前述したとおり本論書は自力ではなく他力を基本的立場
としている。この後の諸分における修道・実践に関する教えには、量としては自力の修行
項目が多く説かれるのであるが、最終的には仏に帰依するとの他力の道に帰しているの
である。これは本論書に限らず、インド大乗仏教に共通する根幹である。インド大乗仏教
の経・論の中から自力の修道を説く教文だけを取り出して、インド大乗の主流は自力修行
道であるなどとの結論を出すことは早急過ぎる。経・論ごとに、全体として何を根本的に明
らかにしようとしているのかを虚心に尋ね窮めていけば、仏力・他力に由る救済に帰してい
ることが解るであろう。


5)三性に拠る無二の説明 

「世尊は、ある場合には一切法は常住なりと説き、ある場合には一切法は無常なりと説き、
ある場合には一切法は常住に非らず無常に非らずと説きたまう。何の密意に依りてかくの
如き説をなしたまうのか。謂わく、依他起性は円成実性の分に由りては常住なり。遍計所
執性の分に由りては無常なり。これらの二分に由りては常住に非らず無常に非らず。この
密意に依りてかくの如き説をなしたまう。常住と無常と無二の如く、

苦と楽と無二
浄と不浄と無二
空と不空と無二
我と無我と無二
寂静と不寂静と無二
有自性と無自性と無二
生と不生と無二
滅と不滅と無二
本来寂静と本来寂静に非らざると無二
自性涅槃と自性涅槃に非らざると無二
生死と涅槃と無二

もまた然りなり。かくの如き一切の諸仏の密意の語言を、三性に依ってまさに決了するべ
きこと、常住と無常(と無二)の如くなすべきである。  」


大乗経典においては、一切は無常であると説かれているかと思えば、他の箇所では一切
は常住であると説かれ、さらに別の箇所では一切は常住に非らず無常に非らずと説かれ
るように、矛盾を孕む教えが数多く説かれて学ぶ者を混乱させる。この部分では、このよ
うな矛盾性を孕む大乗の教説を常住・無常から生死・涅槃までの12種を挙げて、それら
を円成実性・遍計所執性と依他起性の二分という三性に当てて説いている。三性説に当
てれば、それらの大乗の教説が孕む矛盾性が解消されるのではない。唯識派が主張す
る三性説は、このように大乗における諸々の矛盾同一を説く教説を一般化して説明出来
るという、特筆するべき普遍性を具えていると言えよう。ただし、このように明解に整理され
た教えを眼にすると、我々は形式的な教理として解してしまう危険がある。ここに挙げられ
た12種の大乗の教えは、いずれも哲学的命題や知的関心より生じる学問や思索のテー
マではなく、一人の衆生として生を受けた者が自らが苦から解脱して衆生済度を行じると
いう、人間の実存の根本問題に関わる課題として大乗仏教が見出した主体的真理である。



本分はまだまだ続くのであるが、この先は三性は説かれなくなる。中国において摂論宗か
らの真宗批判の根拠とされた「念仏の別時意趣」は、この先に説かれている。その他、仏
徳の数十項目や、菩薩が成就するべき法の数十項目などが長く説かれているが、現時点
においては本論書の本分の他力釈はここまでで一端終わる。この先は機会があれば触れ
て見たい。


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摂大乗論 − 1ページ    終わり



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序、序文                                 (2005年 7月及び12月)
1、所知依分第二                            (2008年 7月 3日更新)
    *「正聞熏習」とは「聞法・念仏によって発起されるところの真実信」       推奨
2、所知相分第三                            (2009年 4月14日更新)
    *「最浄法界より等流する法教」とは「還相回向」                推奨


          ( 以下 、 2ページ )(リンク) 


3、入所知相分第四                          (2005年 8月18日更新)
4、彼入因果分第五                          (2005年 8月20日更新)
5、彼修差別分第六                          (2005年 8月23日更新)
6、増上慧学分第九                          (2005年 9月 1日更新)
7、果断分第十                             (2005年 9月 6日更新)
8、彼果智分第十一(その1 仏の三身、四智、法身讃嘆) (2005年12月26日更新)推奨
9、あとがき                                (2005年12月26日更新)推奨
10、彼果智分第十一(その2 念仏、浄土)          (    未     定    )                    

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