丹那めぐり


2004年3月13日(土)

《丹那山トンネルの工事は熱海口から開始されることになった。
大正七年三月二十一日朝、熱海町の梅園近くにある抗口予定地の山肌の前で、
起工式がもよおされた。
丹那山トンネルは、日本最長の、しかも複線型の画期的なものであったが、国府津から熱海を
へて沼津にいたる熱海線の一部にすぎないことから、起工式は内輪でおこなわれた。》
− 吉村昭著 闇を裂く道 より −


この『闇を裂く道』を読み終えて、作中に登場する場所を訪ねてみたくなった。

熱海の駅前には、第一章に登場する小さな機関車が置かれている。
明治40年から大正12年まで、小田原−熱海間25キロを
2時間40分もかけて走っていた軽便鉄道の機関車だ。

 熱海駅前の機関車

駅前から来宮に向かって走り始める。
実はあまり下調べもなく来たので、トンネル口にどう行けばいいのか分からない。
作中にある梅園を目指す。
《「トンネルの熱海口は、ここから掘ります」 男の指した箇所は梅園の近くだった》
とりあえず、この一文だけが頼りである。

 熱海梅園

梅園のなかを歩いてみるが、さすがに梅の盛りは過ぎていて、花はわずかだ。
黒々とした枝ばかりが目立っている。
梅園前の道路を、線路が通っているほうに向かってみると間もなく、丹那神社があった。
小さな神社である。 真下がトンネルになっている。

祠の救命石は、この石がもたらした偶然で、崩壊事故による圧死を免れた
工夫達が祭ったものである。 このときの事故では16名が死亡、17名が
トンネル内に閉じ込められ、8日後に救出されたのだ。

 救命石

トンネル口の上には殉職者の慰霊碑があり、真下を通過する東海道線の列車を
見守っている。  名盤には67名の氏名が刻んである。

 丹那トンネル工事殉職者慰霊碑

トンネル口が見えるところまで下りてみる。
トンネル上部に刻まれた数字は、着工年の大正7年と開通年の昭和9年を
皇紀で表したものである。 

 丹那トンネル熱海口 (オンカーソルでズームします)

何本か出入りする列車を見た後、丹那神社を後にする。
県道20号に入り、次の目的地、丹那盆地へ向かう。

 県道20号

この道はなんとかインナーローで走れる勾配だ。
だが、熱海峠までは行かず、鷹ノ巣山トンネルを通ってみる。
このトンネルは1267.5mもある長いトンネル。 
静岡県下でも新日本坂トンネル(2205.0)、本坂トンネル(1379.7)
に次ぐナンバースリーのトンネルなのだ。

山の上の県道だから交通量は少ないだろうと思っていたら、意外と多い。
肝を冷やしながら走り抜ける。  毎度のことながらトンネル通過は寿命が縮む。

 県道11号 熱海函南線

トンネルを抜けると下りになって、快走できる。 谷越えの橋が多い道だ。
県道11号は新道と旧道があるのだが、トンネル越えの新道は盆地の外側を
巻くように通っている。  丹那断層への案内板にしたがって、県道135号へ右折する。
お盆の底に滑り降りるように進み、1.5キロほど行くと公園として整備されている。

昭和5年11月、丹那断層の活動により、北伊豆地震が発生した。
丹那トンネルは熱海と三島、両側から断層帯に対して直角に向かうように
掘り進められていたが、三島側からの本坑工事は、先にこの断層帯に行き当たり、
工事を一時中止していた。
この断層活動により、水抜きのため先に掘られた坑道に、2mの横ずれが生じたという。

 丹那断層(断層活動で池が二分された跡)

『丹那トンネル』は、冒頭にもあるように、『丹那山トンネル』として工事を開始したのだが、
実際には丹那山などという山は無い。
トンネル工事を計画するにあたって測量調査が行われたのだが、
そのときお世話になった丹那盆地の住民への感謝の意味で
丹那山トンネルとしたのだった。

当時のトンネルは、XX山トンネルと命名されることが慣習となっていたので、
そうまでして謝意を表現したかったのである。
しかし、救命石の一件にまつわる崩壊事故の後、事故の責任問題とともに疑問視されたが、
山の字を外すのみで決着し、丹那トンネルと改名されたのだ。

《かれは、水の豊かなことに呆れた。 (中略) 村には水の流れの音と匂いが満ちていた。》
水の豊かだった盆地は、しかし、トンネル工事によって渇水する。
盆地の真下を抜けるトンネルが、まさに、お盆の底に排水路を空けた格好となり、
水を奪ってしまったのだ。
温和だった村人は生活の根本である水を失い、殺気だっていくのだった。


丹那断層から今度は、お盆のふちに這い上がるようにして再び11号線に出る。
盆地の全景が望めるが、水が豊かだったという昔と、変わっていないようにも思える。

 丹那盆地

函南までは下り一方の快走ルート。  道も広いので気持ちいい。

今日のしめくくりは、函南側にあるという慰霊碑を見ることにある。
丹那トンネル工事は、熱海口が鉄道工業会社、三島口が鹿島組の請負によって進められた。
『闇を裂く道』のあとがきには、《普通電車で熱海に向かう途中、右手の沿線に立つ碑が視線を
かすめ過ぎた。》
とある。 熱海へ向かう、とは三島側からのことらしいので、当然函南駅付近と
いうことになる。
今は熱海口の上にある慰霊碑だけが有名になってしまっているが、貫通前の犠牲者を祭る
慰霊碑が両口にそれぞれあるのはごく自然なこと。

ところが函南駅前の案内図には載っていないし、それらしい道もないようだ。
仕方ないので駅員さんに聞いたのだが、どうも教えたくないような口ぶりである。
部外者は近づけないということなのだろうか。

まあ、そういうことなのだろうと、深追いせず諦めることにする。
函南側から丹那トンネルに入るときに気を付けて見てみよう。

しかし、トンネル工事が始められた頃、当時の鉄道省では、今の函南駅の設置など
考えてもいなかったという。
渇水問題による犠牲の見返りとして駅の設置を決定したのだから、駅そのものが
記念碑のようなものなのだ。

いつもはあっという間に通り抜けてしまう丹那トンネル。
これからはもっと感謝して利用させていただきます。

本日の走行距離:24km
本日出会ったサイクリスト:ゼロ

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