古代史に興味のある方! 古代史の探究を考えている方!
特に邪馬台国時代を中心に、歴史愛好家の集まりで、月に一回の集まりです。
入会ご希望の方は集まりの日に直接会場へおこし下さい。入会費はありません。
川崎市にお住まいの方、特に小田急線沿線にお住まいの方に便利な新百合ヶ丘の「やまゆり」が会場です。
■中国の文献からの考察
・臺(台)と壹(壱)の漢字について
・「邪馬台国」と「台与」の表記について、『魏志倭人伝』の紹興本も慶元本も「邪馬壹(壱)国」と「壹(壱)与」と記述している。このことから、正しくは「邪馬壱国」と「壱与」とするべきだとする説がある。
・ 『魏志倭人伝』は北宋の咸平(かんぺい)年間(1003年頃)に、初めて木版印刷された。この国子監本(別名北宋咸平刊本)の発行から、今日に至るまで、諸本の刊行期である。しかし現在残っているのは、南宋以後の南宋本で、紹興本と慶元(けいげん)本[いわゆる紹熙(しょうき)本] になる。
・裴注本の成立(479年)から約570年間の写本時期に「壹(壱)」となったと考えられるのではないか。そのため紹興本と慶元本の両方とも「壹(壱)」となっている。
・ 『後漢書』は「臺(台)」となっている。 『後漢書』は『魏志倭人伝』より後の432年頃に成立した。つまり、当時あった『魏志倭人伝』を参考にして作成されたと考えられる。その後の中国文献の『梁書』、『北史』、『隋書』、『翰苑』、『通典』、『太平御覧』は全て、「臺(台)」となっている。
・これらの中国文献は、直接古い『魏志倭人伝』を参考にしたか、『後漢書』などその後の文献を参考にしたかは不明だが、全て「臺(台)」としたことで中国の文献としては、「臺(台)」が正しいと考えられる。『魏志倭人伝』だけが誤って写本されたまま残ったと思う方が自然だと思われる。
・『魏志倭人伝』の終わりの方の文章に、「・・・因りて臺(台)に詣り、男女生口三十人・・・」などで、「臺(台)」を使っているところがある。
・このように他では「臺(台)」を使用しており、「邪馬壹(壱)国」・「壹(壱)与」のように「壹(壱)」と使い方を分けているので、単なる写し間違いではないと主張する仮説がある。しかし写本者は中国語が分かる者が行い、文の内容から、「臺(台)」を意味する文字は分かるので間違わなかったと考えるべきである。
・それに対し「邪馬壹(壱)国」と「壹(壱)与」は国名、人名の固有名詞であるため、写本時に「臺(台)」を「壹(壱)」に間違えたと考えられる。
・一部の仮説のように、もし、意図的に「壹(壱)」を使ったとしたら、その後に『後漢書』が何故、 「臺(台)」にしたのか説明がつかない。
・景初三年と二年について
・景初二年としているのは『魏志倭人伝』だけである。それに対し、景初三年としているのは『梁書』、『北史』、『翰苑』、『日本書紀』である。
・魏の明帝[曹叡(そうえい)]は238年(景初2年)正月に遼東の地で自立し燕王と称した公孫淵(こうそんえん)に対し、司馬懿(しばい)仲達に命じて、遼東を攻撃させた。その年の8月に公孫子は滅んだ。そして、魏の明帝が景初三年正月に亡くなる。
・このように、卑弥呼は公孫子が滅び、魏の明帝が亡くなった情報を得て、魏に使いを出し、6月に魏に至ったと解釈した方が素直に受け取れる。
・また、『日本書紀』も『魏志倭人伝』を引用したとして、景初三年としている。写本で間違える以前の『魏志倭人伝』を見たのではないか。景初三年としているのは『梁書』、『北史』、『翰苑』、『日本書紀』で、景初二年としているのは『魏志倭人伝』だけである。
これも臺(台)と壹(壱)の漢字の違いと同じように、写本時の写し間違いと考えた方がよさそうである。
・正始元年
『魏志倭人伝』では正始元年に「太守・・・を遺(つ)かわし、詔書印綬を奉じて倭国へ詣(いた)り」とある。しかし正始元年としているのは『魏志倭人伝』と、『日本書紀』だけで、『梁書』、『北史』は正始中(240~249年)、『翰苑』は正始4年はあるが、正始元年はない。このように年の記録は正確に記録されているわけではない。
・帯方郡から邪馬台国まで万二千里
『魏志倭人伝』では帯方郡から邪馬台国までの距離を「万二千里」と記述している。この一万二千里について、中国文献[『後漢書』(楽浪郡境界から)、『魏志倭人伝』、『梁書』、『北史』、『隋書』、『魏略』、『翰苑』]にも記されている。しかし『旧唐書』と『新唐書』では「京師から倭奴国まで」とか、 「京師から倭奴まで」とかなっているが、「万四千里」と記述している。「万二千里」は単に遠いところまでというように使う普通名詞ではなく、数詞として使っているように見える。
・その他
・「水行十日陸行一月なり」の記述について
『魏志倭人伝』では「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日陸行一月なり」とある。この記述が邪馬台国はどこかで、一番問題となる記述である。これに近い記述があるのは『梁書』、『北史』、『太平御覧』である。『魏志倭人伝』を参照したと考えられる中国文献に記述されている。結局、「水行十日陸行一月なり」記述は避けて通れない問題である。
・太伯の記述について
『魏志倭人伝』には記述されていないが、『晋書』に「自ら太伯(呉の始祖)の後裔だといい、・・・」のように太伯の記述がある。このように太白の記述があるのは『晋書』、『梁書』、『北史』、『魏略』、『翰苑』である。倭は呉の太白の子孫だと主張していたようだ。
中国文献の記述 | ||
表題 | 記述 | 記述書 |
臺(台) or 壹(壱) |
邪馬臺(台)国 | 後漢書、梁書、北史、隋書、翰苑、 通典、太平御覧 |
邪馬壹(壱)国 | 魏志倭人伝 | |
景初三 or 二年 |
景初三年 | 梁書、北史、翰苑、日本書紀 |
景初二年 | 魏志倭人伝 | |
正始元年 |
正始元年 | 魏志倭人伝、日本書紀、 翰苑(正始元年はない、 正始4年はある) |
正始中(240-249) | 梁書、北史 | |
帯方郡から邪馬台国 |
万二千里 | 後漢書(楽浪郡境界から)、 魏志倭人伝、梁書、北史、 隋書、魏略、翰苑 |
万四千里 | 旧唐書(京師-倭奴国)、 新唐書(京師-倭奴) |
|
水行十日、陸行一月 |
魏志倭人伝、梁書、北史、 太平御覧 |
|
太伯 |
晋書、梁書、北史、魏略、翰苑 |
■紀年銘鏡と文献
・『魏志倭人伝』と『日本書紀』
・『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼に比定している。その記述では参考文献として『魏志倭人伝』と晋の『起居注』をあげている。
・『日本書紀』は『魏志倭人伝』の引用として、神功皇后39年(景初三)で倭の女王が使者を遣わす記述があり、神功皇后40年(正始元年)で魏から倭国へ送った詔書や印綬の記述があり、神功皇后43年(正始四年)で倭王が使者を遣わす記述がある。そして、『日本書紀』 は『魏志倭人伝』に掲載している正始六年と正始八年を記述をしていない。
・『日本書紀』は晋の『起居注』の引用として、神功皇后66年(泰始2年)で、倭の女王の貢献の記述がある。これは『日本書紀』では泰初2年としており、漢字一字が違う。また、神功皇后66年の記述について、『魏志倭人伝』では台与が使者を送った記述としているが、年号の記載はない。
・紀年銘鏡
・紀年銘鏡は日本で青龍3年(235年)から赤烏(せきう)7年(244年)までの期間のものが出土しており、ほとんどは魏の年号である。しかし、呉の年号の「赤烏」もある。
・三角縁神獣鏡は景初3年( 239年)と正始元年( 240年)の2種類であり、卑弥呼が魏に使いを出した年と魏から返礼を受けた年と一致することから卑弥呼の鏡だとする説がある。しかし、紀年銘鏡が見つかっている235~244年の枠の中に入る年で、たまたま景初3年と正始元年になったのにすぎないとも考えられる。
・「赤烏」年号の平縁神獣鏡は舶来鏡と考えられるが、その他の紀年銘鏡である古墳時代の方格規矩鏡とか、画文帯神獣鏡とか、盤龍鏡とか、龍虎鏡などは国産鏡と考えられる。
・景初四年(盤龍鏡、龍虎鏡)のように、存在しない年号の鏡もある。まさに国産鏡であると思われる。
紀年銘鏡と文献の比較 | ||||
年号 | 西暦 | 紀年銘鏡の種類 | 魏志倭人伝 | 日本書紀 |
青龍三年 | 235 | 方格規矩四神鏡 (京都府峰山) |
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方格規矩四神鏡 (大阪府高槻市) |
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赤烏元年 | 238 | 平縁神獣鏡 | ||
景初二年 | 6月:倭の女王が使者を遣わす (景初3年と2年の説がある) |
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景初三年 | 239 | 三角縁神獣鏡 | 神功皇后39年6月:倭の女王が使者を遣わす | |
画文帯神獣鏡 | ||||
景初四年 | 240 | 盤龍鏡 | 詔書・印綬・鏡などを持たせ倭国へ行かせた | 神功皇后40年:詔書・印綬を持たせ倭国へ行かせた |
龍虎鏡 | ||||
正始元年 | 三角縁神獣鏡3面 (踏み返し鏡) |
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正始四年 | 243 | 倭王が使者を遣わす | 神功皇后43年:倭王が使者を遣わす | |
赤烏七年 | 244 | 平縁神獣鏡 | ||
正始六年 | 245 | 詔書を発して倭の使者に黄幢を賜い、郡に仮授せしむ | ||
正始八年 | 247 | 太守が倭の使者に詔書・黄幢を授けた | ||
泰始二年 | 266 | 年号不明:壱(台)与が使者を遣わす | 神功皇后66年:倭の女王が貢献した(起居注からで晋の武帝「泰初」としている) |
■邪馬台国は北九州が有力である根拠として、鏡の出土状況がある。
・福岡県における鏡の形式の変遷と墓の形式
前漢鏡から、古墳時代鏡までについて、どのような墳墓(甕棺墓、箱式石棺墓、前方後円墳)から出て来たものが多いかについてまとめた下記の表から、西晋時代鏡は箱式石棺と前方後円墳で半分づづとなる。これが庄内式と布留式土器の境目となると考えられ、そのひとつ前の時代が邪馬台国時代のものではないか。つまり後漢鏡系列[方格規矩鏡、小形仿製(ぼうせい)鏡、長宜子孫銘(ちょうぎしそんめい)内行花文鏡]
中国の社会科学院考古研究所楊氾氏は、つぎのように述べている。
「方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方で流行していました。ただ、様式的にはいくつかの変
化が現われます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、また獣首鏡の獣首文様も全く獣首らしくなくなりました。」
この蝙蝠鈕座内行花文鏡も圧倒的に北九州から多く出土する。
注:十種類の魏晋鏡 ・弥生時代から古墳時代における墓制は、時代とともに、大略、つぎのように変化してきているといえる
①蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)
②至位三公鏡(いしさんこうきょう)
③双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうもんきょう)
④方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)
⑤漢鏡6期の方格規矩鏡
⑥夔鳳鏡(きほうきょう)
⑦獣首鏡(じゅうしゅきょう)
⑧三角縁盤竜鏡を除く盤竜鏡(ばんりゅうきょう)
⑨飛禽鏡(ひきんきょう)
⑩円圏鳥文鏡(えんけんちょうもんきょう)
(1))甕棺墓葬
弥生時代前期から行なわれたが、西暦紀元元年ごろを中心に、西暦180年ごろまでの弥生時代中期に、北九州の中心部で盛行した。後漢から金印をもらった奴国の時代に対応する。二つの甕の口と口をあわせ、なかに屍体をいれて葬る合口(あわせぐち)甕棺が多い。甕棺墓葬は、弥生時代後期前半を境に、急速に消滅する。甕棺墓は共同墓で、顕著な封土をもたない。細形・中細形の銅剣・銅矛・銅戈は、甕棺から出土している例がかなりみられる。また、鏡では「清白」「日光」「照明」「日有喜」銘鏡などが出土する。これらが、甕棺墓葬の時代に対応している。甕棺墓葬は、弥生時代後期中ごろには、姿を消す。
(2)箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬
西暦180年前後を境に、北九州の中心部の墓制は、甕棺墓葬から、箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬・木棺墓葬へと、交替していく。
箱式石棺墓葬では、たいらな板石を長い箱形にくみあわせ、同じく板石でふたをした棺に葬る。石蓋土壙墓は、土の墓穴の上に、石のふたをしたもの。この箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬の時代が、大略、邪馬台国の時代にあたるとみられる。この時代の遺物として代表的なものとしては、「長宜子孫」銘内行花文鏡、小形仿製鏡第Ⅱ型、鉄剣、鉄刀があげられる。これらは、きわめてしばしば、箱式石棺から出土している。
そして、「長宜子孫」銘内行花文鏡と小形仿製鏡第Ⅱ型とは、甕棺からの出土例は、まれである。逆に、北九州中央部の、かつて甕棺が行なわれた地域において、細形の銅剣・銅矛・銅戈は箱式石棺からの出土例がない。「長官子孫」銘内行花文鏡、小形仿製鏡第Ⅱ型、鉄剣、鉄刀は、ほぽ同じ地域に分布し、北九州の中央部において、箱式石棺から出土し、また、同一遺跡からの出土例もしばしばみられるので、大きくは同一の政治的・文化的集団の遺物とみてよい。ただ「長宜子孫」銘内行花文鏡よりも小形仿製鏡第Ⅱ型のほうが、後の時代に出現したとみられる根拠がある。箱式石棺が、甕棺よりも後出的なものであることを示す好例としては、福岡県朝倉郡筑前町中牟田遺跡などの例があげられる。この遺跡では、弥生中期の須玖式甕棺墓の地上に、小盛土をして、箱式石棺を埋没していたという(原田大六著『日本国家の起源 上』三一書房刊)。
(3)竪穴式石室葬
四世紀を中心とする時代に行なわれた。古墳の内部に作られた。長方形の穴を掘り、その四壁に、扁平な割り口を小口づみにする。上部から棺をいれ、石材などで天井をおおう。これは、棺の形式ではなく、棺をいれる石室の形式である。竪穴式石室は、前方後円頂の内部に作られることが多く、また竪穴式石室のなかには、木棺がいれられることが多い。
箱式石棺は、板石を用いて作るのにたいし、竪穴式石室は、いっぱんに、割り石を積んで作る。竪穴式石室は棺の形式ではないので、竪穴式石室のなかに、箱式石棺がおさめられることもある。
この時代には、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡といわれる鏡が盛行する。三角縁神獣鏡は、おもにこの時代に新しくあらわれ付加される鏡である。四世紀を主とする時代の遺物と、つぎの五世紀以後の遺物の傾向の異なることは、考古学者の小林行雄氏が、つぎのように述べている。
「四世紀の大部分にわたって継続したものが、ほとんど五世紀には遺存せずに、消失していったという表現によってあらわすことができよう。すなわち、魏の三角縁神獣鏡の所持とか、大型の仿製鏡の製作とか、碧玉製腕飾類をはじめ、各種の特殊な碧玉製品の流行などがそれに属する。」(『古墳文化論考』平凡社、1976年刊)
(4)横穴式石室葬
五世紀ごろ、九州と近畿を中心に行なわれた。朝鮮半島の墓制の影響のもとに成立した。六世紀以降に、各地で埋葬施設の主流となった。遺骸を安置する玄室(げんしつ)と、これに通じる通路としての羨道(せんどう)とを、石材で構築する。玄室は、広く高い空間をもち、羨道は、棺、その他をはこびいれることができる幅と、歩行することできるていどの高さをもつ。
竪穴式石室では、墓穴を、墳丘の上面からうがつ。横穴式石室では、墳丘の側面からはいる。横穴式石室の玄室は、あるていどの広さをもつので、数回の追葬が可能である。
(1)の甕棺墓葬と、(2)の箱式石棺墓葬・石蓋土擴墓葬は、おもに、北九州に分布する。(3)の竪穴式石室葬と、(4)の横穴式石室葬とは、畿内を中心に分布する。
詳細は邪馬台国の会講演記録第304回参照。