酔恋
(すいれん)



 その晩、飛薙は珍しく酒を呑んだ。
 何か大層な理由があった訳では無い。目立った任務も仕事も無く、用事も無く、育った里の中でのんびりとしていたそんな一休みの日、たまたま通りがかった家の庭先で宴会が催されており、気の良いその家の主人が飛薙にも声を掛けてくれたのだ。

 飛薙は酒に滅法弱い。呑んで酒を楽しむ事よりも、他愛も無い話をツマミに皆で騒ぐ方が好きで性に合っていると思っている。
 実際、葛木屋敷で折に触れ催される宴では、御頭付きの側役でありながら誰よりも早く撃沈し、宴が終わった後に誰かに叩き起こされる事が多い。下手に呑まない方が身の為であると心底理解はしている。

 それでも、その日はついつい勧められるままに呑んでしまったのだ。


「うちの娘が明日嫁ぐんだよ。どうだい飛薙さん、当代の御頭様にはそりゃあ負けるが、でもうちの娘も捨てたもんじゃないだろう?」

 すっかり出来上がって上機嫌の主が皆に酒を注いで周っている。赤い顔はだらしなく笑み崩れたままで、それを皆にからかわれても何も気にならない風だ。娘の縁談が本当に嬉しいのだろう。いつもは厳しい忍で在る筈のその目も、今日だけは優しい父親の目をしている。
 遠くに行ってしまうのは寂しくないかと問うと、何と嫁ぎ先は隣の里なのだそうだ。少し足を伸ばせば難なく会える所への嫁入りとなれば、それは嬉しさしか無いのだろう。初孫が今から楽しみでと相好を崩す主に、招かれた宴客も飛び入りの酔客も皆、掛け値無しの祝いの言葉を述べていた。

 注がれた祝い酒を舐めながら、飛薙はちらりと部屋の奥を見る。
 そこではその家の奥方と嫁に行く娘とが給仕と片付けとで忙しく立ち回っており、その更に奥には、衣桁に恭しく掛けられた花嫁衣裳が薄闇の中にぼんやりと浮かんで見えた。

 この忍里では珍しい、純白の内掛け。まるで堅気の衆のようだろうと言って主は笑む。
 娘想いのこの主の立っての希望で、老舗の呉服問屋を営む小春の実家――小春は先代側役の妻である――で誂えた上等なものらしい。
 女物の着物の良し悪しなど飛薙には分からないが、その純白を纏った花嫁はさぞ美しく見えるのだろうと想像できた。

「嫁入りかあ……」
「飛薙さんは予定は無いのか? 嫁っつうか、婿入りっつうか。あんた、里の若衆の中じゃ一番の出世頭じゃないか。拾われの親無しから成り上がって側役へ就任だなんて滅多にないよ、案外と婿入り先が引く手数多じゃないのかい」
 元が捨て子で皆に使われる立場だった飛薙は、大人になっても変わらなかった気安さも相俟って皆から気軽に声を掛けられる。
 そういうのがお前の財産なんだから大事にしろよと真顔で告げた幼馴染の顔を思い出しながら、飛薙は苦笑して頬を掻いた。
「そんな話は全然無いし、俺、まだそんな立場じゃ無いし」
「謙遜すんなよ! 何なら良い話紹介してやろうか? あの方の後ろ姿ばっか追ってるのも、いい加減不毛だ……って」
「ちょっとお父ちゃん! お客さんに絡むのいい加減にやめてよね!!」
 
と、そこに真後ろから甲高い声がした。
「何だ、騒々しい。男同士の話に口挟むんじゃないよ」
「あっ、しかも飛薙さんじゃない! やだー! あたし明日一番に菊様にご挨拶に行こうと思ってたのに! 変なこと言ってないでしょうねええ!」
 明日嫁ぐ本人、この家の娘である。
 菊は今でこそ美しいと褒められ言い寄られもしているが、子供の頃、主に上忍間で轟かせた喧嘩敵無し武勇伝が祟りに祟って、里内では男よりも女に人気があった。この家の娘も、下手な男よりも男前と称される菊に黄色い声を上げる一人だったらしい。
「ね、飛薙さん、あたし菊様に是非ご挨拶したいの。明日はまだ葛木のお屋敷にいらっしゃるのよね? 着付けが終わったらすぐ伺うし、大体お昼前くらい? ご迷惑にはならないようにするから、ね、お願い!!」
 側役なら渡りをつける事くらい朝飯前だろうと、娘が目を輝かせて詰め寄った。期待に満ち満ちたその表情に、飛薙もつられて笑う。
「分かった、御頭に伝えとく」
「ありがとー! じゃああたし片付けがあるから行くけど、飛薙さんはゆっくりしてってね!」
 そして、パタパタと去って行った。
「何だありゃ、調子の良い奴だなあ。明日っから女房になるっていう自覚は無いのかね」
 父親が苦笑する。だが言った言葉とは裏腹に、その表情には父親としての優しさしか無い。
 構わない、きっと御頭も喜びます――そう答えて、飛薙は杯を煽った。



 頭の中で、先程の花嫁衣裳がふわふわと浮いていた。
 ふわふわしているのは正直足取りの方なのだが、今の飛薙にそんな深い考察は出来ない。酔いが回り始めたので、寝こけてしまっても何だからと早々に座を辞し、涼しい風の吹く宵闇のあぜ道を一人歩いている。
 一ヶ谷の里の人間で、夜道を歩く時に灯りを持つのは一部の女子供くらいである。大概の者が夜目が利くため、宴から抜けた時も家人から渡されたのは御頭宛の祝い菓子と飛薙の土産用の酒が二本のみで、灯りなどは渡されなかった。
 山里の暗闇の中をそれでも道に沿って正確に、しかし酒精に浮かされておぼつかない足取りで、飛薙は家路を辿る。

 歩きながら目を閉じる。
 その瞼の裏には、あの花嫁衣裳を纏って満面の笑みを浮かべた、彼の主が映っている。

(――飛薙)
(どうだ、似合うか)

 そんな声まで聴こえてくるような情景を鮮明に思い浮かべ、飛薙は微笑んだ。
「似合うよ」
 穏やかに、笑う。
「……菊だったら、何を着ても、似合う」

 しかし分かっている。
 彼の主が花嫁衣装を纏う時――それは、自分ではない他の男の元へ嫁ぐ時だ。

 いつか菊が自分の嫁になってくれるのだと、漠然とではあったが幼い頃はそう思っていた。実際菊もそう考えていたのだろう。そんな泣き虫の嫁にはなってやらないぞと怒られた事が、子供の頃は何度もあった。身分差や色んなしがらみの何もかもが、どこか遠い世界の話だった。自分は未来永劫、菊と共に在るのだと思っていた。
 それが当たり前だった。

 だがお互いに大人になり、お互いの立場が確立した今なら解る。それは、夢でしかなかったと。

「似合うぞ」
 立ち止まり、天を仰ぎ、目を閉じて呟く。
 涼しい夜風が酔いを徐々に醒ましていくのが嫌だった。今、自分は間違いなく夢を見ている。ふわふわとした夢うつつの状態で飛薙は、他の誰でもない自分に微笑む『花嫁』の姿を見ている。――その夢から醒めたくなかった。
 暫しその場に立ち尽くし、幼い頃から何度も呼んだ名前をそっと口にする。
「――……菊」
 その声に、応えは無い。






「と言う訳で、明日、えーと明日、花嫁さんが挨拶に来ますんで、よろしくです」
「何で」
「昼前くらいに挨拶したい、最後にって、はい、挨拶に」
「お前酔ってるだろう」
「酔ってないです」
「お前が酔ってないって言う時はもう棺桶に片足突っ込んでる時だ。酔ってる証拠だ! どこで呑んできたのか知らないが、全くこのド阿呆め」

 結局、幸せな夢から醒めたくなくて道すがらに土産の酒にも手を付けた飛薙は、夢を通り越して泥酔一歩前まで到達してしまったらしい。
 そろそろ寝るかと寝室に下がった菊が見たモノは、菊の部屋の前で土下座しながら泣いている飛薙だった。

「俺酔ってないです。分かって下さい」
「ああそうだな、分かりたくないけどいい加減付き合い長いから分かるぞ。お前は今、とてもひどい酔っ払いだ」
「俺はまだいけます、大丈夫です、昼で挨拶です、嫁です」
「明日だな。昼頃に挨拶に来るんだな。よく分かったから黙っとけ」
 部屋に入れてやって話を聞き始めて暫く経つが、酒に弱い癖に宴会の雰囲気が好きなこの男はしたたかに酔っていて、水を飲ませてみたものの、酔いは醒める気配も無い。
 飛薙が着衣の胸元にいつも仕込んでいる武器暗器の類は、何かあると危ないので先程全部抜き出して脇の文机に並べておいた。そして今菊は、フラフラと危うい揺れ方をしながら正座してクダをまく飛薙がどっち向きに倒れ込んでも良いように、座布団を周囲に円形に配置している。
 後は吐く時用に桶でも置いといてやろうかと、でかい子供の世話を焼きながら座布団を手に菊は大きく溜息をついた。
「頭目にここまで世話をかける側役はお前だけだぞ」
「御頭は俺の忠義を疑うんですか」
「何でそうなる? 疑ってないけど酔っ払いの相手はしたくない」
「酔ってないです」
「そうか、じゃあもうそれでいいよ」
「あ、すみません酔ってます」
「意味が分からんわ!!」

 二三発殴ってやったら目を覚ますかと菊が本気で考えたその時、俯いた飛薙がポツリと呟いた。
「俺やっぱり酔ってる。これ夢だ。俺、まだ夢見てる」
 目の前に配置された座布団を丁寧に重ねて横に積み、そこへ枕代わりに顔を埋めて寝転んで、飛薙は更に続けて呟く。

「菊が俺の嫁さんに見えるもん」


 甲斐甲斐しく酔っ払いの世話を焼く姿は、確かに女房のようだろう。
 だが、唐突に言われたそれに菊は座布団を持ったまま固まり、そして飛薙も沈黙した。

 ――長いような短いような、深い沈黙が、過ぎる。


「ひ、ひさ」
「うぉおぉお俺今何か言っちゃったあああぁあ?!!!」

 まともに飛薙の顔を見られなくなった菊が何とか一声絞り出したのと同時。
 飛薙が、素っ頓狂に叫んで飛び起きた。
「あれ俺なんか言った! 今! なんか凄い事言った気がする!!」
「や、ちょ、待っ」
「酔ってました! うん! うわはははははすみません失礼しまッす!!」
 勢い良く立ち上がり、脱兎の如く部屋を駆け出る。出る時に方向を間違えて庭に裸足で飛び出したのはご愛嬌だ。これ以上は無い勢いで中庭を突っ切り、渡り廊下を猛烈に駆けて、そして轟然と消えて行った。

 部屋に一人取り残され、菊は呆然と座り込む。
「なん……、何なんだ……」
 あまりの事に掠れた声しか出てこない。
 開け放たれた縁側の障子向こう、宵闇に消えて行った背中を目で追って思わず呟く。

「……酔ってるのか酔ってないのか……ハッキリしろ……!」



 里の外れまで駆け抜け、そこで力尽きて倒れた飛薙が発見されるのは、この二日後。





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