きくづきよ



 身体が泥の様だった。
 重い。だるい。目が開かない。疲れた。眠い。
 飯は食わないのか、と背後で年嵩の男の声がしたが、その声が誰の声なのかも分からないほど、今何か胃に入れたら多分戻すだろうほど、小太郎は疲れ切っていた。

 重い足を引きずる様にして、葛木家の庭へと足を踏み入れる。
 疲れた。眠い。ひたすら眠い。
 呪文のように繰り返しながら、夕暮れで薄赤く染まった中をよろよろと小太郎は進む。
 今日の仕事は散々だった。血生臭さと常に隣り合わせの忍とは言え、徳川の世も十幾らかを越えて数える昨今では、戦仕事などはそうそう無い。駆け出しの忍である小太郎が駆り出される仕事と言えば、早飛脚代わりの運搬任務や上忍衆の供回り、そしてせいぜいが夜盗狩りの下調べくらいのものだ。忍の花形とも言える諜報の細作になど、若輩の小太郎程度では出してはもらえない。
 先日の菊との大喧嘩以降、与えられた仕事は何でも精一杯以上にこなそうと小太郎は心掛けている。そんな地道な努力と、主家の一人娘とド派手以上の取っ組み合いを衆目の前で晒した度胸を買われてか、あの日以降小太郎へ仕事の声がかかる事が目に見えて増えた。なのにそれでも、華やかな仕事などからは未だ遠いのが現状だ。
 ――小太郎が本日与えられていた仕事は、隣村から頼まれた井戸掘りだった。

 身体が重い。腕を動かす事すら辛い。眠い。疲れた。眠い。眠い。
 先遣隊からの増援要請だった。見立てでは、二丈
(約6m)も掘れば十分だと言われていた。それがどうだ、実際掘り始めてみればまさかの大岩にぶち当たり、ならばと場所を変えれば水脈からどうも外れたらしく何も出ず、こうなれば出るまで掘るだけとばかりに忍軍の威信をかけて体力自慢と若い衆とが集められ――……。
 結果、何とか水は出たものの、里の若い衆は大半が半死人の態だった。小太郎も例外では無い。

「こたろーだ!」
 庭をよろけた足取りで進んでいると、背後から甲高い元気な声が投げかけられた。この幼い声は考えなくてもすぐ分かる。葛木家の第二子、菊の弟、跡取り息子、藤千代だ。
「藤さま」
 よろけながらもその声に笑顔で振り向くと、屋敷の縁側から庭の小太郎に向け、藤千代が手を振っている所だった。そのまま裸足で縁側から飛び降り、小太郎に向けて駆け寄ってくる。
「小太郎っ」
 抱っこをねだるのだろう。遊んでくれとでも言いに来るのだろうか。幼い腕を目いっぱい伸ばし、満面の笑みで藤千代が駆け寄ってくる。
 単なる下忍と頭目の跡取り息子という身分の差こそありすれ、実の兄に対するように日々自分に甘えてくる藤千代は、菊以外に家族と呼べる者を持たない小太郎には可愛くて可愛くて仕方が無い存在だ。名を呼びながら駆け寄ってくる幼い声を聞き、疲れ切った小太郎の顔に生気が戻る。
「藤さま!」
「あっクサっ!」
 だが、迎え入れようと広げた小太郎の腕に藤千代が飛び込む事は、無かった。

「小太郎くさいよ! なんかすっぱい! 目がいたくなるにおいがするよ!」
「目? 何? ……えっ?」
「なんかね! あのね! ……くっちゃい!」
 最後の一言は、鼻をつまんで遠ざかりながら言われてしまった。
「藤さま?!」
「小太郎くさーい! やだー!」
 真顔の藤千代が脱兎の如く逃げていく。
 それはそうだろう。今日一日、延々泥と汗とにまみれて働いていた。井戸を掘りに行ったのに水浴びする暇も無かった。飯を胃に入れる余裕すら無い。身繕いに使えるそんな余力なぞ、到底無い。
「…………」
 そして立ち上がる気力すら、たった今消え失せた。
「やだって言われた……」
 膝からガクリと崩れ落ちた小太郎の呟きが、夕暮れに悲しく吸い込まれていく。


 そして気付けば、辺りは完全に日が落ちた真っ暗闇だった。山に囲まれた夜空の隙間に、丸い月が何とも所在無げに浮かんでいる。
「……ああ……」
 疲れに加え、予期せぬ精神的な大打撃のせいで最早何も考えられない。……いや、予期しなかった訳では無い。自分でも何となく汗臭くて死ねるとは思っていた。しかし周囲の全員がそうだったのだし、何よりも労働の結果なのだし、仕方が無い事だ。――そう思いつつも、幼い声で存在を否定された事は、多感な時期である小太郎の心の柔らかい所をザックリえぐる残酷な行為だった。
 故に、最後の力を振り絞って庭の井戸で水浴びをしたのだが……
「……力尽きてたのか」
 着衣ごと全身ずぶ濡れになるほど浴びたはずだが、髪まですっかり乾いている所を見ると結構な時間が経過してしまっているようだった。葛木家離れの濡れ縁で、洗った着物を握り締めて半分ずれた下帯一枚の凄い格好で寝ていた――と言うより気を失っていた自分の姿をぼんやりと認識しながら、これ誰かが見てたらえらい事になってただろうなと未だ働かない頭で考え、小太郎は再度立ち上がる。
 立ち上がった際によろけて頭を廊下の柱にぶつけたが、それでもどうにも意識は覚醒しない。

 身体が重い。まだ眠い。足を動かすのが精いっぱい。疲れた。眠い。
 寒い。
 ひたすら眠い。
 そして寒い。
「……布団で寝よう……」
 重く鈍い身体を引きずり、月明かりの下、小太郎は部屋を目指す。




 初めて寝室に男が来たのは、去年の年明け早々だった。
 年に数回顔を合わせる程度の遠縁の従兄だった。その時も正月の集まりで親戚中が集まっている最中だった。
 深夜、皆が寝静まった頃、襖
(ふすま)の陰からするりと身を差し入れて来たかと思うと、熱っぽい声で名を呼んで、布団の上に柔らかく押し倒された。――制止を言っても聞かなさそうだったので、実力行使で謹んで前歯を折って差し上げた。
 二回目は、見合いのためにやって来た年上の男だった。詳しい関係は聞いた筈だがすっかり忘れた。親戚の紹介の見合いだったので、最初は丁寧に女らしくやんわりと退室を願っていたが、そのうち面倒になってきたので腹に三発ほど入れて庭に捨てた。その男は朝になったらいつの間にか居なくなっていた。
 三回目は、葛木家の血族でこそないが、一ヶ谷の里でも名のある上忍家の次男坊だった。色男だと評判で、若い娘に大層人気の男だった。――その事も考慮してやり、顔では無く左手の指二本圧し折りで勘弁してやった。

 それ以降は、菊の部屋に夜這う不逞の輩は激減した。どうも前述の次男坊が菊の所行を尾ひれ込みで吹聴して回っている所為らしい。指ではなく鼻を折っておくべきだったかと苦々しく思わないでもなかったが、菊本人ではなく、葛木の家名と菊の後ろに在るモノしか見ないで忍んでくる輩が居なくなったことは素直に喜ばしい。今では、幼い弟が怖い夢を見たと言って夜中に枕を抱えて泣きついて来るくらいが関の山だ。
 ごくごく稀に、婿入り狙いなのか何なのか、恋文紛いのものが届けられる事もある。だがそれも度胸試しかあわよくばの運試しの域を出ていないような、誠意の分からないものばかりだ。
 だから、男が部屋に来るのは、本当に久し振りだった。

「私はなー、お前があの夜に絶対来るものだと思って待ってたんだぞ」
「あー……」
「わざわざ髪まで洗ってなー、新しい単衣着てなー、布団の上で待ってたのに」
「あー……」
「来ないから、こっちから行くべきなのかと思って部屋に様子見に行ってみたら、なんでか藤千代と一つ布団で寝てるし、しかも二人で腹出して寝てるし」
「うあ゛ー……」
「もうな、腹が立つを通り越して達観したぞ私は。お前はそういう奴だ。故にもう怒るまいと決めた。ほら、だから夜具を返せ。私が寒い。面倒だし追い出したりはしないからもう少し詰めろ。あーもー重たいなお前!」

 夜半、菊の部屋の襖が鈍い音を立てて開かれた。久々に阿呆の夜這いかと布団から菊が起き出してみれば、そこに立っていたのは――……否、ほどけかけた下帯一枚というものすごく誤解される格好で部屋にずいと入り込んできたのは、髪は乱れて目の全く開いていない小太郎だった。
 よくこんな格好で誰にも見咎められずにここまで来たなと、呆然と立ちすくんだ菊の姿が目に入っているのかいないのか。小太郎はそのままよろめきながら部屋の奥まで侵入し、疲れた、眠い、寒い、もういやだ、眠い、寝る、寒いと口の中でブツブツ繰り返しながら、先程まで菊が温めていた布団に頭から潜り込み――……そしてそのまま、小太郎は思いっきり眠り込んでしまったのだ。
「……まあいいけどな。疲れてるんなら仕方ない」
 眉根をこれ以上無くしかめて寄せて、デカい図体を布団に乗せて丸くなっている小太郎からの返事は無い。
「いいさ、仲直りしたんだもんな」
 菊の夜具を奪って眠りこける小太郎の隣に身を横たえ、小太郎の前髪を指先で梳いてやる。
 疲れ果てて前後不覚になり、それでも無意識で辿り着いた先が自分の所だと思うと、菊は小太郎が可愛くて仕方がない。
「なあ? 私と一緒に寝たかったんだよな」
 しかめっ面で、うなされるようにうんうん唸りながら眠っている小太郎からの返事らしい返事は無い。幼い頃は菊の腕でもすっぽりと包めたものだが、昨今の小太郎の身体は良く育って厚みもある。自分の胸元に小太郎の頭だけを抱え込んでやりながら、菊は更に重ねて呟く。
「いい子だ」
 小太郎の頭のてっぺん、前髪の張りついた額、全く開かない目元と順繰りに口付けて、剥き出しの冷えた肩をさすって撫でてやりながら、満ち足りた気分で菊は深く息を吸う。
「はは、本当に起きないな」
「……今起きた」
 温かく柔らかい肉に顔と鼻先を包み込まれて、ようやく目が覚めたのだろう。小太郎が鈍重な動きで顔を上げた。
「うぁー……何これ、……菊?」
「そうだ」
「布団……?」
「私のな」
 覚醒はしたが、頭はまだよく回っていないらしい。肘で身体を支えて起き上がろうとして失敗し、菊の胸元に再度顔を落とした小太郎が低く唸る。
「俺、菊の部屋に来てんの……」
「そうだよ」
「うぁあぁあああああ何やってんの俺……丸っきりガキじゃんよぉおぉお」
 唸り声なのか泣きごとなのか判断しにくい声が響く。
「そうじゃねえーもうやだーこれじゃダメだあ」
「何で」
「大人の男はこんな事しねえー」
「諦めろ、お前はしてるからこうなってる」
「うあああああ眠い」
「もう本当諦めろ。そして寝ろ」
「やらかい」
「良かったな」
 半泣きの頭を再度胸元に抱え込んでやると、小太郎の手の平が菊の身体をまさぐりはじめた。大きな手が触れてゆく箇所に一瞬菊の身体が強張るが、その動きは小太郎が藤千代のほっぺたや尻などのもちもちを弄る時と完全に同じ、色気とは程遠い手付きである。
「あったけえー」
「おいコラ、尻を握るな尻を」
 菊の尻肉を握り締めた小太郎が、自分の顔を菊の胸の谷間に押し付けた。乱れた寝間着の袷
(あわせ)から直に素肌に顔を埋め、香りを嗅ぎ込むように大きな呼吸を繰り返す。
「なんか……変な気分になってきた……」
「ええっそうなのか、えっお前、そんな、急に」
「でも疲れすぎててチンチン立たねえ」
「……黙って寝ろよ小僧」
 脳天に一発重いゲンコツを落としてやると、小太郎は完全に沈黙した。
 そしてそのままピクリとも動かなく――と思いきや、菊の胸元から規則正しい寝息がすぐさま聞こえ始めてきた。
「全く……!」
 苦々しい菊とは裏腹に、あっと言う間に再度の眠りに落ちて行った小太郎の顔付きは平穏そのものだ。男が女を抱いて寝る――と言うよりも、子供が母親に抱きついて寝るのと大差無い、幸せそのものな顔をしている。
 小太郎が自分を女として見る日は来るのだろうか。いや、ちゃんと見ているしそう言う気持ちを持ってもいるのだろうが、一体いつになったら二人の間に甘い蜜月が来るのだろうか。
「……まあいいか」
 ほぼ全裸なのに一切合切色気の無い小太郎に夜具をかけてやりながら、菊もゆっくりと目を閉じた。
 薄い寝間着越しに感じる小太郎の体温は、幼い頃に感じたそれよりもうんと熱い。これがきっと大人になった証拠なのだろうと、宵闇の中、菊は小太郎の肌に身を添わせる。

 障子越しの月の光も、心なしか暖かな色を漂わせていた。



―― きくづきよ 終








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