こはるびより うららかな日の午後、新妻に、欲しいものは無いかと訊いた。その答えは、夫の予期せぬものだった。 「――……は?」 「あっすみません違うんです! あっやだ! うそっ!」 耳まで真っ赤に染まった顔を、書斎に茶を運んできたお盆と袖と袂とで何とか隠そうとする新妻のその姿は、必死ですらある。 「ああああすみません違うんです! 今、あの、そんな事聞かれるだなんて思ってなくって、新しい寝間着作ったげたいなとか、作るんだったら寸法測らなきゃなとか、測るんだったら側に寄れるかなとか、触っても怒られないよねとか、そんな、思ってるとこだったんで、その、あの、いやそうじゃなくて」 「……背中を触りたいと」 「あああああああやだもう私ってば何でうっかりー!」 「いや……、私の訊き方も悪かったのかもしれない」 「お気遣いありがとうございます本当にすみません……!!」 彼がこの歳になってようやく迎えた妻は、賑やかで大きな町から嫁いで来たうら若き娘だ。縁あって夫婦となったはいいものの、親子ほど年の差があると言っても過言ではない。 派手好みの性(しょう)という訳では決して無いが、町育ちの娘の身ではこの山奥の一ヶ谷の里では何かと物足らない部分もあるだろう。泣かせたり他の男に攫われたりの紆余曲折の末、向こうの両親に頭を下げに行って周囲から盛大に冷やかされつつ娶ったはいいものの、仕事ばかりで家の中に放っておいてばかりと言う後ろめたさもあった。 そこで、機嫌取りという訳では無かったが、何か入用なものや欲しいものは無いかと尋ね――……そして冒頭に立ち返る。 「……ごめんなさい。あの、今のは忘れて下さいね、高次さま」 嫁いで来て早二ツ月。大人の女相応の落ち着きを得たいと日々頑張っているのに、何かあるとすぐに狼狽えて地が出てしまう。ようやく何とか取り繕って、小春は夫にまだ火照って赤い顔を向けた。 「忘れろと言うなら、では」 「あっでも」 「でも?」 さっきの言葉は書き物仕事に精を出す高次の背中を見つめていて、ついうっかり声に出てしまったものだ。触れたいと思った気持ちは偽りでは無く、出来る事なら叶えられて欲しい。 書き物の手を止めてこちらに身体を向けた夫に対し、零れた笑顔は心からの本物だ。 「お時間のある時に、寸法は測らせてほしいです」 打算の一切無い、好意と愛情に満ち満ちた顔で笑む小春は、ひどく愛らしかった。 「……今日は忙しいが」 「あっ今日じゃなくていつでもいいですっ! いつでも!」 言い置いてくるりと背を向けた高次に、小春の背筋が一気に伸びた。 「ご迷惑でしたら、あのっ、そもそも大丈夫ですので!」 日々忙しい高次の邪魔をしたい訳では決してない。ここは退散した方が多分良いのだろうと、涙目になりながら小春は素早く立ち上がった。高次の声だけがそれを追う。 「いつでもいいなら今やりなさい」 「はいごめんなさい!」 勢いよく頭を下げ――……内容を反芻し、小春は目を瞬いた。 「早めに終わらせたい仕事があるからあまり構ってやれないが、それでもいいなら」 小春へと肩越しにゆっくり向けられた視線と笑みは、この男にしては珍しく柔らかい。 「今、やっていきなさい」 抱きついてもいいですかと叫び出しそうな唇を必死で抑え、小春は何度も強く頷いた。 「じゃあ、失礼しますね」 嬉しくてじたばたしてしまいそうになる自分を抑えながら、改まった声で小春は告げる。 「多少は構わないが、右腕に触れる時は言いなさい。筆が揺れると支障が出る」 「はいっ、気を付けます」 小春は元々老舗の呉服問屋の娘である。針仕事も然る事ながら、採寸などもお手の物だ。最初はそろりと遠慮がちな手付きだったが、それはすぐに手慣れた動きへと変わっていった。 「……今着てらっしゃる寝間着から採寸しちゃえばいいのかもしれないですけど」 淀みなく採寸紐を手繰りながら、小春が笑う。 「一度、自分でちゃんと測りたかったんです。きちんと測って、それで」 夫となった人の腕の長さを、肩幅を、背の広さを、知っておきたかったのだと、鈴の転がる様な声が小さく囁いた。 「裄丈(ゆきたけ)測りますねー」 「ああ」 書面から離れる事のない高次の目線は、小春を一切顧みない。だが、測りやすいよう小まめに態勢を変えてやり、腕を上げてやり、忙しいと言いつつも文句無く時折立ちまでしてくれる夫に小春の頬は緩み、目尻は下がりっぱなしだった。 (やっぱり大きい) 出会ったばかりの頃、夜の薄闇すら恐ろしかったあの頃、この広い背中が部屋の障子の白表(しらおもて)に毎夜現れる度、どれだけの安堵を感じたか。 その時の事を思い出し、高次の広い背にそっと手の平を添わせる。 (あったかい) 背中から伝わる温もりが、やけに嬉しい。 無駄口は一切叩かず愛想も無い、何が本業なのかもよく分からない――そんな男の大きな身体が障子を隔ててとは言え側近くにあるのは、当初は威圧にしか感じず、恐ろしさや息苦しささえあった。だが、いつの間にか、その背中の到来を毎夜心待ちにしている自分が居たのだ。 その後に紆余曲折を経て、この山奥の忍の里に嫁ぎ、この男の妻となった。 自分は必ず先に死ぬだろうし、悲しませる事も多いだろう。幸せにしてやれるかも分からないが、それでも良いと思えるなら嫁いで来なさい。 ただ、娶る以上は最大限の努力で貴女を迎えるつもりでいます―― 一ヶ谷の里で初めて雪を見た夜、雪明りの下で小春は高次にこう告げられた。 その言葉と、不器用な誠実さと真摯な気遣いが、一体どれだけ嬉しかったか――……背にそっと触れて撫でながらそんな事を思い返していると、高次が前を向いたまま唐突にぼそりと呟いた。 「一度、実家へ帰るか」 「はい?」 「……幸いそこまで遠い訳でも無いから、十分甘えたらまた戻って来ればいい」 振り向き、小春と目を合わせ、気遣いを乗せた顔で高次がこくりと頷く。 「父が恋しいのだろう?」 「……私、高次さまの事を父さんみたいだなんて思った事一回も無いですよ?!」 微かな自虐を匂わせて呟いた高次の目が、どこか悲しげなのは見間違いでは無いだろう。 「何でそんないきなり……あっ分かった! 菊さまが仰ってた事まだ気にしてるんですね?!」 先日高次が菊を叱った際、負け惜しみで菊が放って行った暴言を思い出す。 「そんな事は」 「高次さまは臭くないですよ! いい匂いです!」 「……いや」 「男らしい匂いです!」 「小春」 「私は好きです!」 「もういいから」 「枕とか! 臭くないですよ!」 「ああ……、うん、そうか……」 平生冷静なはずの男から生気が無くなっていく事に、新妻は気付かない。 「私、幸せですよ」 思った事が、また口から出た。零れた言葉は、漏れ零れた瞬間に温かく大きく広がって、小春の胸を一気に満たしていく。 「幸せです。ここにこうしていられる事が、とても嬉しい」 高次の背中へと額をつけて、ぺたりともたれかかる。少しだけ逡巡したが、先程の誤解を解いておかねばとふと思い、小春はそのまま高次へと抱き付いた。広い背中へ腕を回し、力を込める。怒られるかと思って様子を見てみたが、こちらにちらりと視線を投げただけでまたすぐ書き物に戻った高次からは、嫌がっている様子も怒っている様子も伺えない。 「……とても幸せ」 忍の常として体臭の元となる物を絶っている高次からは、実家の父親や店の古参の者達のような首を傾げたくなるような臭いは一切しない。また、任務明けや長旅からの帰参したてなどのよっぽどの事が無い限り、脂臭さや汗の臭いもあまり感じない。本当は首筋にでも顔を埋めて確かめたかったが、それをやるにはまだ日が高いし、はしたない女だと思われでもしたら一大事だ。背中でそっと息を吸い込むに留めて、小春が呟く。 「あとで菊さまに、高次さまをいじめないで下さいってお願いしておきますね」 「……もうこの話はやめなさい」 心底渋い溜息混じりの言葉に笑って返事をしながら、小春は更に強く抱き付いた。 「――後で出湯(いでゆ)に行くから、準備を頼む」 お互いしばらく無言でそうしていたが、高次が不意に口を開いた。長年実の娘のように思って接してきた菊に言われた事が、地味に堪えているのだろう。山深い中に有る一ヶ谷の里は、近隣に少し足を伸ばせば山中に出湯がいくらかある。里の外れにも皆で共同で使えるように整えた湯場がある。葛木家にも風呂場はあるが、思い立った時にすぐ湯浴みするには外の方が便利である。 呟かれた言葉に、小春は返事をして大きく頷いた。 「じゃあ私の糠袋(ぬかぶくろ)と洗粉(あらいこ)をお貸ししましょうか。私の洗粉は小豆の他にもいろいろ入れてあって、実家の秘伝なんです。お義母さまにも褒めていただいたんですよ! 肌も髪もすごーくきれいになりますよー!」 「そんな女じゃあるまい…………いや、今日は借りておくか……」 「私もついて行っちゃおうかなあ」 「何をバカな事を」 夫のたしなめにそれでも笑って、小春は高次の背から離れていく。 「じゃあ準備してきますね、湯から戻ったらすぐ食事に出来るようにもしておきますからね!」 嬉しそうな声を残し、軽やかな足取りで小春はあっと言う間に出て行った。 「騒々しい……」 高次の口から思わず呟きが漏れるが、不思議と不快な気持ちは一切無かった。遠ざかって行く足音を聞きつつ、苦笑混じりに再び書面に目を落とそうとしてふと気付く。 柔らかな日差しの中、温もりが消えた背が妙に寒かった。 ―― こはるびより 終
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