ハットリズム番外編 寝室のメリー・クリスマス 〜クリスマスキャロルが流れる頃にブッシュとノエルの悲痛な叫びが木霊する〜 ふわふわと甘い香りが鼻をくすぐる。 「……浩二……」 同じくらい甘い声が薄暗い寝室に小さく響いた。 返事が無い事を確認するようにゆっくりとした間を置いて、その人影はベッドへと密やかに歩を進める。 早朝の冷えた空気の中、人の身体の形に盛り上がったそのベッドは、温もりに満ちていていかにも暖かそうだ。そこに引き寄せられるようにして、柔らかな指が枕元のシーツに触れた。 そして、こちらに背を向けて寝入っている相手の頭上、枕元をそのまま覆う様に腕をつき、寝入っている人物の耳元へそっと唇を寄せる。 長い髪がさらりと落ちた。 「――起きてってば……ね、浩二……」 笑みの混じるその声はどこか蟲惑的な響きさえ感じさせる。 吐息含みの、かすれたような囁き。 「……寝たフリしてるの……?」 薄暗い寝室に甘く漂うのは、その女の身の香りか、それとも。 「ねえ……」 なにか、別の。 「起きて」 語尾が若干強くなった。これだけ起こしているのにも関わらず、いつまでも目を覚まさない相手に焦れたのだ。そのまま相手の肩を揺する。 「いじわるしないで」 それでも言葉には未だ蟲惑的な甘さが混じっている。甘えるような、何かをねだるような、男に対して女が発する身体的な誘惑にも似た、その響き。 再度、相手の耳元へ唇を落とす。 「ねえ……浩二ってば……」 一言囁き。 そして。 「―――――!?」 気が付いた。 「しまった!」 声を荒げ、目の前の布団を剥ぐような勢いで取り払うが、そこには予測していた人影など無かった。あるのは、ヅラを被って子供物のパジャマを着た、抱き枕のしろたん(大)。 同時に寝室の天井スミから悲痛な声が降ってきた。 「オレはもーやだつってんだろ――! バカ母! 鬼! 甘味女王!!」 「女王で結構! 浩二っ! ちょっとアンタ何これ変わり身の術?! ねえこれ変わり身?! どこで覚えんのこんなん!!」 「日頃の成果っ」 「チッ、そうだと思ったよ!!」 しろたんに被せられたヅラを引きむしり床に叩きつけ、さっきまでの甘い声はどこへ行ったのか的下町ボイス(重低音)で中村母が叫ぶ。 「そんなところに張り付いてないで降りといで! そして観念して母ちゃんの自信作を食いな!」 「朝からケーキかよ! つーかまだ日も昇ってねえよ母ちゃん! 寝かせてください!!」 「母ちゃんはもう二日連続で寝てないから!」 「そんなん知らね――!!」 台所からの甘い香りが充満する中、中村が絶叫した。 日本の古き良き伝統と歴史の遺物である『忍者』に普段から傾倒している彼は、自分の部屋を趣味に併せて心行くまで改造している。(賃貸だというのに) 『天井に張り付いて敵から身を隠す』という初歩的忍術の実践の為、子供の自分でも張り付きやすいように天井のコーナーに引き出しの取っ手を付けて細工をし、日々特訓していたのが思わぬ所で役に立ったようだ。 足音を潜ませて中村の寝室に侵入せんとした母親の、その身に染み込んだバニラの臭いにいち早く気づき、身代わりとしてヅラを被せたしろたんをベッドに置いた後は、タンスづたいにどうにかよじ登った天井から一部始終を見ていたようである。 部屋の高いところから、ものすごくアクロバティックな体勢で自分の母親を見下ろしつつ、切羽詰った声で中村が続ける。 「なあ母ちゃんよく考えてくれよ、オレ育ち盛りだぜ? 栄養はまんべんなく何でも食わなきゃいけない年頃だぜ? 野菜が大事、お肉は二番、なんだぜ?! それが何でこう毎日毎日ケーキケーキケーキケーキ時々ディナー用オードブルそしてケーキと偏ったもんばっか食わせられてんだよ親としておかしくね? て言うか家で試作すんのやめてくれー!」 「だってうちでやんないとアンタと顔合わせらんないじゃん!」 「いいって! オレは忙しい時期の一ヶ月や二ヶ月くらい会えないのなんかガマンできるって!」 「じゃあ母ちゃんは何でストレス発散すればいいわけ?! 母ちゃんがガマンできないんだってば!」 「結局自分中心かよ!」 器用な体勢で天井に張り付いたまま、中村が悲痛な面持ちで叫んだ。 世間では今、正にクリスマス商戦真っ盛り。 腕利きパティシエールとして日々忙しくクリエィティブに働く中村母とて例外ではなく、むしろ商戦の最前線、クリスマスケーキ部門という、華やかで美しくも苛烈な火花の散る矢面に立つ身である。日々夜遅くまで通常勤務のほかに新作研究に時間を捧げているのだが、そんな事をしていては家庭での時間が取れなくて息子いじりのヒマがなくなっちゃうじゃん?的思考の元、最近では夜間はどうやら自宅で研究と製作と試行錯誤を重ねているらしい。 試食係はもちろん息子だ。親権乱用で強制である。 「ねーそれよか浩二聞いて聞いてー。母ちゃんさあ、さっきちょっとひらめいてさあ、新たなるブッシュ・ド・ノエルを創造しちゃったワケでさあ、もう自分の才能に今週のビックリドッキリメカーだっつーのってカンジって言うか」 中村母が天井に向かって真顔で続ける。 「名前はプレジデント・ノエル 菓子1225」 「いじりすぎてて元ネタわかんねーよ母ちゃん! そんなキケンな名前のケーキを聖夜に売り出したらダメだって! 一回ちょっと寝て考え直せよ!」 「いやでも自信作なんだって。美味しいって。母ちゃんが寝ないでネタ絞って作ったんだから美味しいってマジで絶対。だからちょっと食いなよ。そして感想を言え」 「て言うか母ちゃん頼むから夜は寝てくれよ目が怖えーよ!」 狭いマンションである。少々長めの棒か何かがあれば、間単に天井隅の中村にまで手が届く。 中村の勉強机のヨコに立てかけてあった伊勢戦国時代村土産の模造忍者刀で、未だ天井から降りてこられない(降りてくる事は即ち敗北を指す)息子の急所をつつきながら中村母はつぶやいた。 「……アンタの舌は頼りになるのよ。性格は大味なのに舌だけは繊細なのアンタ母ちゃんに似て。――そう! 母ちゃんが見落としてた些細な盲点を子供らしい純粋な視線でズバッとさくっと指摘できる子なのよアンタは! だから浩二! 母ちゃんの為に食え!!」 「助けて児童相談所――!!」 「早く降りてこないとパンツ脱がすよ!」 早朝のマンションに子供の悲痛な叫びが木霊する。 しかし、防音がしっかりしているせいか、はたまたいつもの事なので慣れっこになっているのか、近隣住民や行政が助けに来てくれた事はまだ一度も無い。 ――父ちゃんが帰ってこないのって、母ちゃんの試食攻めのせいなんじゃないか? 子の心親知らず。 聖夜だろうと何だろうと、主の救いは一切無し。 中村浩二少年の魂の叫びは誰にも届かないまま、中村家の12月は毎年毎年こんなカンジで暮れてゆくのだった―― 終
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