ハットリズム 番外編 戦場の朱色 「――駄目なものは駄目だと何度言ったら分かるんですか」 「いいから黙って予算追加だ経理。こんな予算では何も出来んぞと現場からの意見、以上」 「言っときますが私もしょっっっちゅう駆り出されるんで現場の人間と言って貰っていいと思うんですがね主任。足らないんじゃなくてその中で抑えりゃいいんですよと事務側からの意見、以上」 夕方のオフィス街。 その一角、何の変哲もない、やや古めのビル。その中のワンフロア。 夕日が赤々と差し込む時間とは言え未だオフィス内から人が減る様子は無い。そんな中、大声での言い争いは延々と続く。 威圧的な物言いには屈さずに座したまま淡々と答えて、経理と呼ばれたその男は指サックの嵌められた指先で眼鏡を軽く押し上げた。 「本気でこの問答はもうおしまいにして下さい。……アンタ主任だろう、統括する立場の人間が部下に予算せびってどうするんだ」 「あとたったニ十万で上海との新規ルートが拓けるんだ。安いぞ? これはかなり破格だぞ? ……俺はここで多少予算オーバーしてでも突っ込んでおくべきだと思う」 「じゃあその『二十万』の通貨名を教えて下さい」 「元」 「ハイ却下! 日本円に直したらいくらだよ! ……いい加減にしろよ百地!!」 「年上を呼び捨てすんなと何回言わせんだこのクソガキ! チッ、男の屁理屈ぐらい鬱陶しいものは無いな」 「アンタが言うな!」 経理と呼ばれた男――服部壮介が苦々しげに机を叩く。 「百地さん、アンタの嗅覚は俺も一目置いてる。だからその上海への新ルートは拓いといた方が後々有利なんだろう。話だけは前も聞いたしそれは分かる」 「よし、いい子だ壮介」 煙草に火をつけ、我が意を得たりとばかりにニヤリと笑んで、百地が頷く。 その様子にもう一発机を叩いて壮介が立ち上がった。 「だからって易々とそんな一種のバクチ的なもんに大金出せる訳無いだろ! 先月対象確保の際に勢い余って高速で炎上事故出した奴の尻拭いで予備予算まで消えたんだぞ! 今月どころか今期末まで帳簿は真っ赤だ! どうすんだよ!」 「それは遠回しに俺を責めているつもりか」 「ストレートに責めてるつもりですがね!」 「……」 「………」 ここでどちらともなく沈黙が満ちた。しかし剣呑な雰囲気は変わる事無く、お互いに立ったままでお互いを睨みつけて威嚇する。 正に竜虎相対。 夕暮れ時で静かなはずのオフィスには、今やドロドロとした何かよく分からない暗雲が立ち込めていた。 「あっ主任ー、服部さんー、お茶ここに置いときますねー」 見下ろす視線で黙って紫煙を吐き出す百地とそれを冷たい眼で威嚇する壮介に、ようやく声をかける隙間を見つけた女子社員が横からお茶を出す。 「お茶菓子、頂き物でおまんじゅうとマドレーヌがあるんですけど、どっちにしますー?」 「甘いもんは要らん。欲しい奴にやる」 「余った方で」 「じゃあおまんじゅうが多いんで、服部さんこっちどうぞー」 慣れているのか動じる事無くお茶とお茶請けを出し、笑顔で女子社員は去っていく。そして同様に他の席の人間にもお茶を配り始めた。主任の分はぁ、ジャンケンで勝った人にあげまーすと明るい声が響く。 ――周囲が二人のケンカ(?)を気にしている様子は一切無い。皆ごくごくフツーに、何事も起きていないかのように自身の仕事をこなしている。 そんな中でオヤジ二人は同時に湯呑みをつかみ、お茶を飲み干し。 ――第二ラウンドが唐突に始まった。 「大体俺とお前の仲なんだから言いたい事は分かるだろう! お前何年俺とつるんでんだ黙って一言ハイと言え!」 「バカ言うな! この苦しい時にハイハイ言う程余裕が無いのは分かってんだろ!」 「この上海ルート開拓が今後どんだけ活きてくるか考えろ! 悪い事は言わん、黙って隠し予算の通帳を寄越せ!」 「な……っ、何であるって知ってんだ?!」 「カマかけただけだ。……よし壮介、これで無いとは言えなくなったな?」 勝ち誇ったように口の端を吊り上げた百地を壮介は眼光鋭く睨みつけ、大きく息を吐く。 そして嵌められたままだった指サックを勢いよく取って机に叩きつけた。 「上等だ……! そんなに予算が欲しけりゃな、今から奥に行ってヌシにOK貰って来い!」 「それが出来れば誰がお前にグダグダ訊くか! ……お前が行って訊いてこい。今すぐ」 言葉の勢いとは裏腹に声のトーンは落とし、尚もやり取りは続く。 「――断る!」 「お前社長の甥だから、建前上は立場強いだろうが」 「アンタ社長の養子だろう。俺よか何とかなるはずだ」 「いや、ここは甥に譲る」 「いやいや、俺は他所に婿に出た身だからもう殆ど他人」 先程までの勢いは既に無い。今度は額を突き合わせてボソボソと擦りあいが始まった。 「お前行け。予算の陳情なんざ経理の仕事だろう」 「いやだね。主任が行くべきだ」 「俺はヌシと相性悪いんだよ。お前好かれてるんだから行って来い」 「顔は俺より百地さんの方が好みだって前に言ってたぞ。だから自信持ってアンタが行け」 「断る。寿命が縮む」 「俺だっていやだ。精気抜かれる」 「お前はちょっと抜いてもらって来い。ガキ二人も作っといて、いつまでも新婚気分でいちいち帰るコールだの手作り弁当だの何だのと鬱陶しい、口から砂が出るわボケ」 「う、うるさい黙れ独身者! お前みたいな枯れた奴こそヌシに何か注入されて来いっ」 擦りあいの内容のアホらしさに合わせて音量は落ちていく。 そして二人の周囲の喧騒も、一瞬のさざめきの後に引いていく。 オヤジ二人はそれには気づかず更に言い合う。 「壮介テメエ、あのヌシに喰われたら五体満足じゃ済まないに決まってんだろ」 「まあ……ヌシって言うかウワバミだからな……。喰いついたら離れないって言うか、何もかもを吸い尽くされるというか」 「お前はまだ若い、多少は平気だ。頑張って行って来い」 「妻帯者にどんな意味で言ってんだ! 笑えない冗談はともかく、どっちにしろ俺はヌシは趣味じゃ」 「――――そこの二人、いい度胸ね」 言葉が静かに響くやいなや、鈍くて重い打撃音が続けて二回。 ……夕暮れのオフィスに満ちて消えた。 「主任が逝った――!!」 「服部さんが白目剥いてます――!」 「ふふ、背後に気がつかずに無駄口を叩いた者の末路ですよ。皆さんも気をつけなさいね」 年経た女性特有の穏やかな語り口でその人物は、背表紙に被害者二人の返り血がついた広辞苑を片手に典雅に優美にゆるりと微笑む。 「し、支社長……っ」 「藤林さ……っ、いつから……?!」 「あらいやだ、まだ口が利けるの? ……流石は社内きっての武闘派二人といった所かしら」 笑んで、その笑顔のままで床に突っ伏した二人の頭を遠慮も無しに踏みつけた。 そのままヒールの足先でねじってため息をつく。 「でも年は取りたくありませんね。若い頃の貴方たちなら背後に迫ったウワバミの気配くらい軽く察してたでしょうに。……ねえ?」 そして、嘲笑う。 その表情はどこまでも優雅であったが、怒りに満ち満ちている事は容易く想像できる。 ――この時、オフィスにいた全員が、彼女の後ろに立ち上る深紅の闘気を幻視した。 支社長・藤林朱乃。 人呼んで『鬼藤』、または『ヌシ』。社長からは『あけちん』。 その優雅さと美しさと、それらに巧妙に隠されてしかし隠し切れない毒牙とで、若かりし頃から老齢に達した現在まで色々な意味で名を馳せた女傑である。 前線交代の激しいこの『職種』に於いてそれでも未だ現役であり、お局を通り越した社内最大権力保持者であるとして名高かった。 「ねえ、百地主任、服部くん」 ねじ込むように踏みつけていた足をようやく離す。 冷たい床に接吻する羽目になっていたオヤジ二人がゆらりと首を巡らせ、この惨い仕打ちに対して抗議の眼差しを向けたが、一向に意に介さない様子で笑って続ける。 「上海ルートの開拓、それって民間? それとももっとイイ所?」 「……民間からの搦め手で、その『上』と、です」 「まあ素敵。百地主任が仲良くなりたがるくらいなんだから、チンケな下流役人風情ではないと見て良いですね。あっちのヤクザ屋さんとだったらウチの娘のお婿さん関係から行けそうだし、そうね、興味自体無いけども、『上』となら美味しそうでいいわね上海ルート」 先程とは違う意味合いで口角を上げ、藤林支社長が笑んだ。 「支社長として裁可します。頑張りなさい」 「……ありがとうございます……!」 その笑顔は若かりし頃の華やかさと艶を未だ残して美しい。 ――が、中身は所詮ヌシである。 「その代わり資金は自分達で調達しなさいね」 サラリと何か言い出した。 「は?!」 「予算が足らないのは事実でどうしようもないから。モモチームが頑張りすぎた所為での炎上事故、トラックが横転しちゃったのって言ってごまかす様にお願いするのに経費大分かかったから。でもアレあの場合仕方が無いですしね、怒るつもりは全然無いけど、その所為でお金も全然無いですから」 超笑顔。 「――だから二人とも、頑張って稼いで?」 「んなっ?!」 「待って下さい! 自分達って二人ともって何で俺まで組み込まれてるんですか?!」 壮介の叫びは聞こえない振りをして、藤林支社長は更に続ける。 「ねえ、私達のお仕事って派遣されてそこで言う事聞くのがメインでしょう? 色々とワガママ言われたり無理難題押し付けられたり、尻拭いだったり、雑用だったり、大変よねえ」 あまりのSプレイに傍で硬直しながらやりとりを見守っていた女子社員を指で招き、お茶を受け取りながら藤林支社長が空いた席に着いた。 「挙句に私達の事、ただの派遣業と勘違いしてる政治家さんも多いし。官庁や察庁の連中に昔の倣いで乱破透破とバカにされるのも癪でしょう? 私の古い友人がお役所の中で手が足らないって言ってちょうど苦労しているの。紹介してあげますから、貴方たちで恩と貸しとをたっぷり作って色々見せ付けてきなさいな」 すっかり静かになってしまったオフィス内に、支社長の朗々とした声だけが冴え渡る。 オフィス内にいた全員、藤林支社長が歴戦の猛者である百地と服部両者の頭を土足で思いっきり踏みつけた現場を目撃してしまったのだ。今このオフィス内を今支配しているもの――それは、恐怖以外の何物でもない。 ――残業してないでさっさと帰れば良かった…… ヘビに睨まれたカエルの如くに硬直しているのは百地・服部の両者のみだが、その他全員、思う気持ちは同じである。 「……………………友人なのに、恩とか貸しとか……」 誰も一言も発せない中、かなり長かった沈黙を破って百地が果敢に切り出した。 主任すごい。口には出せないが皆が瞬時にそう思った。 「ついでにルート開拓費も作れるんだから一石二鳥じゃないの」 「しかし」 「二人とも何か勘違いしてない? これは命令。……お願いされてるとでも思った?」 笑顔。 超笑顔。 同時にオフィス内が凍りつく。 「ヌシの言う事が聞けないなんて、貴方たちは何様のつもりかしら」 「……壮介、今から家族に長期出張が入ったと伝えて来い。多分しばらく帰れない」 「分かってる。………百地さん、アンタはいいのか」 「労わってくれるような家族は居らん。……しかし上海ルートがこんなにも高く付くとはなあ……」 「クソ、アンタの所為だアンタの所為だアンタの所為だ! 覚えとけよアホ百地……!」 「このガキてめえ黙れボケ。元はと言えば……!」 毒づき合いつつ、オフィスと言う名の戦場を往くオヤジ二人の罵りあいは延々と続く。 朱く差し込む夕日に彩られた背中は、それはもう、哀愁に満ち満ちていた。 ―― 終
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