9. 眼鏡を外す
ハットリズム番外編 : 『KISS OF THE お父さん。』 普通の日、普通の朝。 フツーに目が覚めたから、フツーに着替えてフツーに顔を洗って歯を磨いて。そしてぼくはいつもの通りに、家族みんなが朝食をとってるはずのリビングへと足を向ける。 「――おはよう」 のれんをくぐり、誰に言うでもなく、それでも大きな声で朝の挨拶をする。 すぐさま母さんだけからおはよう翔ちゃんと返事があって、それで今朝はぼくが一番乗りなんだなと知った。 ――と思ったんだけど。 「……母さん、父さんは何であんな真剣な顔で奥様向けワイドショーを凝視してるの……?」 「ああアレ? お母さんもわかんないんだけど、今日の天気とわんこを見るって言ってチャンネル替えたくせに、それっきりすごく夢中で見てるの」 ね、急がないと電車に間に合わないのにね。 そう言って母さんはほがらか〜に笑ったけど、ぼくは乾いた笑いしか出てこない。それくらい、テレビを見つめる父さんの視線は超真剣だった。 「父さんおはよう」 「――ああ……」 声をかけてもどこか上の空。 腕を組んで、食い入るようにコメンテーターの顔を見てるその顔は、ぼくの知らない人みたいだ。 「翔ちゃんは先にご飯食べちゃっててね。まだ愛ちゃんが寝てるから、お母さん起こしてくる」 超真剣にテレビを見てる父さんにはかまわず、相変わらずなマイペースで母さんが台所から出て行った。はーいと返事をして、ついでにいただきますと言ってから、ほかほかと湯気の立つごはんにぼくは箸をつける。 父さんは、まだテレビを見ていた。 父さんは毎日一人だけ朝が早い。夜も遅いのに朝も早くて大変だなーといつも思う。 味噌汁のおわんに口を付けながら、ぼくは横目で父さんを観察してみる。 背はわりと高い。顔は、なんか愛とかぼくとかに対してデレデレしてなかったら、ちょっと怖いけどかっこいい。でも頭は将来絶対ハゲるだろう。(母さん談) 年は、クラスのみんなのおじさんと比べればまあまあ若い方だと思う。 あと、じいちゃんが前に「壮介は姿勢がいい」と褒めてたけど、確かにそんな感じで姿勢がすごくいい。背筋がピシッと伸びてて、そういうところがカッコよく見えるのかなあと。 そうぼんやり思ってたら、不意にテレビの音が耳に入った。 『ではここでクリップにまとめてみましょう。アメリカの心理学者団体が提唱するこの問題ですが、日本でも以前より研究が進んでおり、先だっての学会では――』 ……なんか、朝から難しい話の番組だ。だけど父さんは一言も漏らさないような真剣さで画面を見つめるばかり。ときどき大きくうなずいたりしている。 そーいや父さんは結構アタマいいんだよなー、たまにじいちゃんとかと難しい話題でしゃべってるもんなー、と、ぼくがおかずの焼き鮭をほぐそうとした正にその時だった。 『――そうですかぁ、では、やはり親子のスキンシップ不足が最近の若者の非行の遠因にもなっている訳ですねー』 『ええ。ですので、ご家庭でもまずはカンタンなところから始めてみると良いと思いますよ。手をつないで歩いてみるとか、それこそ行ってきますのキスでも』 「翔太ぁ――!!」 「うわ――!!」 突如、父さんが食卓のぼくめがけて走ってきた。 「翔太っ、行ってきます……!」 「父さん怖い! ちょっとマジで怖い! うわあ母さん助けて――!!」 父さんの顔がぼくの顔面に迫ってくる。さっきテレビから聴こえてきた、“行ってきますのキス”のフレーズが頭の中でグルグル回る。 「ちょ、父さん、うわ何、ちょっと……!」 「翔太……こら待て、なんでそんなに力一杯抵抗するんだ……! 親子なのに……!」 「親子でも限度があるってば……! て言うか父さん冗談抜きで怖いよ!」 目いっぱい腕を伸ばし、ジリジリと迫ってくる父さんの唇を少しでも遠ざけようと、ぼくは歯を食いしばってうなる。でも、さすがに父さんにはかなわなくて、ありえないくらい真顔で唇を突き出している父さんの顔が本当に目の前まで迫ってきて。 「あーもうやだ――!! 父さんのヘンタイー!」 「なっ、親に向かってヘンタイとは何だ……!」 何で朝から実の父親に唇を奪われそうになってるのかと。 「……なにしてるのー?」 ぼくが半泣きになったとき、台所の入口から、妹の愛ののんびりした声が響いた。 「うわー愛――! 来ちゃダメだ――!」 「えっえっなに? なんでお兄ちゃん泣いてるの? えっ」 「ハッ、愛! 父さんお仕事に行ってくるぞ!」 頑なに抵抗を続けるぼくから身を離し、父さんが愛に向かってダッシュする。 「え――?!」 なにが何だか分かってない愛がうろたえる。 でも、恐ろしいほどの敏捷性で愛の元まで走った父さんが、キスしようと愛を抱き上げるよりも早く。 ぼくの妹は、強烈な一撃をくり出した。 「イヤ――!! おとうさん気持ちわる―――い!!!」 魂の叫び。 身を縮め、心からの拒絶をこめて愛が絶叫する。 途端、父さんがガクリとその場に膝をついた。 「おおおおおおお………」 「愛……気持ちわるいは言いすぎだよ、父さん泣いちゃったよ……」 「だってほんとに気持ちわるかったんだもんー! わーんおかあさんー」 台所の床に崩れ落ち、肩を震わせて父さんが嗚咽するけど愛はそんなん一切目もくれない。真顔で迫る父さんがよっぽど怖かったのか気色悪かったのか、その場で泣き出した。 「なんだぁ? お前らケンカでもしたか?」 ――と、そこへ、どうやら今までペットのタロウを連れて散歩に行っていたらしいじいちゃんが玄関から現れた。床に倒れ伏して泣く父さんと、立ったまま泣きじゃくる愛と、イスの上で未だ硬直状態で動けないぼくを見やって首を傾げる。 「朝から騒がしいなオイ。こら愛、何だか分からんが泣く前にとっとと朝メシ食っちまえ。せっかく母ちゃんが作ったのに冷めるだろう」 「だってぇぇぇ」 「だってもデモもストも内閣総理大臣。……やれやれ」 仕方ないなとばかりにじいちゃんが溜息をつく。そして―― 「いーから泣くな、いい女が台無しだ」 何でもない事のように愛を抱き上げ、その頬に、キスをした。 ……もちろん愛は抵抗しない。 目に涙をためたまま少し微笑んで、じいちゃんの首にぎゅっと抱きついた。 「何が何だかじじいにはよく分からんが、壮介もメシ食ったんならさっさと仕事行けよ? 遅刻するぞ?」 どことなく頬を染めた愛を抱っこしたまま、じいちゃんがぼくの頭を撫でる。そして、眼前で繰り広げられた衝撃の光景に更に泣き崩れる父さんに、優しく声をかけた。 ……じいちゃん絶対分かってない。 今ので父さんの傷口に塩を叩き込んだ事に、絶対気づいてない。 愛を膝の上に乗せてじいちゃんが食卓に着いたのと同時、父さんがゆらりと立ち上がった。 「――じゃあ、行って来ます……」 「おう行って来い! 気をつけてな!」 じいちゃんのその言葉に、父さんが力無くうなずく。そしてどことなくフラフラした足取りで玄関に向かって歩き去っていった。 「さーてじゃあメシ食うかー。翔太ソース取ってくれー、愛は納豆混ぜろー、理愛―! 壮介が出るぞー! お前見送ってやれー!」 じいちゃんの能天気な声が食卓に響く。 なんか……いくらなんでも父さんがかわいそうになってきた…… 「――壮介くんどうしたの? 何で急に元気なくなっちゃったの?」 「いや……子供は残酷だと思ってな……」 革靴に足を入れつつ、朝から憔悴しきった様子で壮介が呟く。 たまたまつけたテレビで、年々増える少年犯罪を取り上げていて。 たまたま見入っていたら、親子のスキンシップは大事だとコメンテーターが言っていて。 ……だから実践してみただけなのに、何がいけなかったのか。 同じ事をした祖父は受け入れられて、何故自分はダメだったのか。ひょっとして自分は嫌われているのか。年か、年の功なのか。それともあれも手品か。手品練習するか。 ――ちょっと主観の入った呟きは胸の内だけで漏れて、だから理愛の耳には入らない。 「壮介くん?」 「何でもない……」 だが落ち込んでばかりもいられない。自分はこれから『仕事』なのだ。 ひとつ大きく息を吐き、靴を履き終え、そして立ち上がった。唯一見送りに出てきてくれた妻に向かい、精一杯笑顔を作ってみせる。 「じゃあ行って来る」 「あっ、ちょっと待ってちょっと待って」 どこかいたずらな笑顔で理愛が微笑み、何を、と壮介が問うよりも早く、妻の指が夫の眼鏡をやさしく外した。 「はい」 そしてやや上を向いて、瞳を閉じる。 ――それが何を指しているか分からないほど、壮介は朴念仁では無い。 「……バカ、何考えてる……!」 「だってスキンシップが大事なんでしょ? さっき言ってたじゃない」 クスクスと笑うその表情は、さっきまでのあの惨事を見ていた顔だ。途端にむくれて、壮介が呟く。 「あれは親子間の話だ」 「私は夫婦間でも大事だと思うよ?」 そして、再度目を閉じる。 「はいどうぞー」 その声音は、ひどく優しい。 ……まだ独身だった頃。帰る家も守る家族も、何も持たなかったあの頃、この声と笑顔に何度救われたかと思い至り、壮介は息を吐いた。 最近では手の平で転がされている感も否めないが、それでも―― 「――いいから眼鏡返せ。遅刻する」 「んもー、どーしてあの子達と私とじゃ態度が全然……っ」 言いかけた理愛の手から眼鏡を奪う。 そしてそのまま腰を抱き寄せ、深く深く口付けた。 ……暫し、時が止まる。 「――――っ」 「ご馳走様。行って来ます」 されてもきっと頬どまりだろうと踏んでいたに違いない理愛の顔は、耳まで真っ赤だ。 少しの優越感と大きな幸福感を胸に、壮介は玄関から足を踏み出した。 そしてその日の夜。 壮介は子供達からおかえりとごめんなさいのキスで迎えられ、更なる幸福感を味わう事となったのだった。 その代わり、どうも見ていたらしい義父からは、場所考えろよお前と突っ込まれたが。 終
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