小指の約束


 気が付いたら、いつの間にか足が向いていた。
 下町情緒溢れる裏路地を抜けると、すぐ手前に火村の下宿先が見えてくる。
 学生時代はよく通った下宿先。だが、就職して忙しい日々を過ごすようになると、めっきり足も遠のいてしまった。
今だって、本当なら決算期で残業する毎日のはずだったのだが…。
ハァ…と漏れる重いため息。
「火村おるかなぁ…」
 立ち止まったアリスは、悪友の間借りする二階を見上げて呟いた。
「では、アリスの通算十回目の失恋を記念しまして、カンパーイ」
 たるそうな口調に合わせて、音頭を取った火村が面倒くさそうに片手を上げる。
「だ、誰が十回目やねん! そんなん振られてへん!! だいたいなんでそんなこと君が知っとるんや」
「何回振られたかなんて知るわけないだろ。けど、どうせ振られた理由が同じなら、いずれ十回目もすぐに来るさ」
 火村の部屋はあいかわらず雑然としていた。3月下旬とはいえ、まだ朝夕の冷えがあるため出しっぱなしのコタツに背を丸めて潜り込んで、二人してビールを開ける。
 こうして振られて落ち込むたびに、ここを訪れるようになったのはいつからだろう。回数はともかく、アリスにとってはもう恒例行事のようなものだった。
「で? 今回は何ヶ月持ったんだ?」
「……4ヶ月…」
 聞かれてぽそっと答えた。
「へぇ。この前は確か二ヶ月半だったから、結構持った方なんじゃないか?」
「う…」
 思い出すとまだ胸が苦しい。別にキライで別れたわけではないから尚更だ。
「なんでこうなるんかなぁ…」
 仕事―――…は確かに忙しい。営業でいろいろ回るところも多いし、不景気と人手不足もあって、その分残業も増えるため休日出勤とかも多い。けど、それは仕方がないことだ。生きていくためには必要なこと。ツライと思ったことはない。ツライのは…
「やっぱデートの時間を原稿に割いたのはまずかったかなぁ」
 アリスはいつまでもサラリーマンのままでいるつもりはなかった。いずれは小説家として生計を立てていきたい。そのためにも、できるだけ早く賞を取るなり何らかの結果を出したかった。
「俺、焦ってんのかな…」
「しかたないんじゃないか? どっちか一つしか取れないんなら、大事な方を選ぶのは当たり前のことだろ」
「……うん」
 だから、悪いとは思いながらもアリスは彼女より原稿を取った。何度も破られたデートの約束。悲しそうな顔をした彼女。
「ま、俺だったら、会ったときにセックスしかしない男なんてお断りだね」
「ヴ…★」
「まじ、図星かよ」
「……」
 呆れた顔で火村は溜息を吐いた。
「そりゃ振られても文句言えねぇな」
 膝の上の猫にまで、そうだそうだと言わんばかりに揃って鳴かれて、アリスはさらに落ち込んだ。
「だって、ずっと会わないでいると共通の話題とかが少なくなるやん? そうすると会話も途切れがちになって、なんや二人でおっても精神的に距離があるっていうか…」
「それで手っ取り早くボディランゲージかよ。『本当にあたしのこと大事なの?身体だけが目的なんじゃ?』って思われてもしかたがないな」
「別にそんなつもりはなかったんやけど」
 ただ、言葉では埋まらない溝を埋めたかっただけだ。
「思うんだけどさ。平日は仕事で忙しい、休日は投稿用の原稿で忙しい、それで会う時間もない彼女なら、いてもいなくても一緒なんじゃないか?」
「そりゃそうやけど…」
 何缶目かのプルタブに指をかけながら火村が言った。
「知ってるか? 女と付き合うにはマメでないとダメなんだぞ」
「よう付き合わん奴に言われてもなぁ…」
「アホ。知ってるから付き合わねーんだ」
 そんな風に言われたら身も蓋も無い。
「せやかて、寂しいねんもん」
 呟かれたセリフに、火村がビールを噴出した。
「っ! おまえなぁ…。だったらいっそ割り切っちまえよ。二股かけられても身体だけは付き合えるぜ」
「そ、そんなんやったら付き合うとる意味ないやんか!」
「こーの乙女チック野郎が…。おまえの方だって二股かけてるようなもんじゃねえか、彼女と小説と」
「そうかも知れへんけど…」
 自分の夢はもちろん大事にしたい。でも、一人の寂しさは絶えられない。
「おまえなぁ、そんな我侭聞いてくれる女が本当にいると思ってんのか? 何かに夢中な時には会うのも時間が惜しいくせに、寂しさだけ埋めたいなんて都合良すぎるぜ」
「うん…」
 だから、先日街で知らない誰かと歩いている彼女を見たとき、裏切られたと思うよりも先に『ああ、そーか』と思ったのだろう。そう考えると、本当に自分は彼女に振られたことがショックだったのか怪しくなってくる。
 学生を離れて一人大阪で就職したあたりから、アリスはふとしたことに孤独を感じるようになった。ガムシャラになればなるほど何かに取り残されていくような…。
「………」
 その感覚をどう説明すればいいのかわからない。
 考えてみれば、学生の頃は悩みも多かったはずなのに、孤独を感じるということはなかった。
目線を上げると、すぐ傍には学生時代からずっと変わらない火村がいる。
「そっか…、火村がいたからや」
 言葉にしなくても察してくれる。まどろっこしい説明もいらない。何より悩み多い学生生活の中で、自分以上に自分をわかってくれているという安心感が、いつもアリスを支えてきた。
「いっそ火村が彼女だったらよかったのに」
 呟きは、酒の勢いから出た本音だったかもしれない。
 言ってしまってから、頭の中に浮んだイメージに、アリスはハッとなってかぶりを振った。
―――こんな女がおったらはだしで逃げ出しそうや。
「ま、それは冗談やけど、ホンマ、火村みたいなのやったら、恋愛するのも楽しいやろうな。なんぼほっといても平気やし」
「…いいぜ。試してみようか」
「え?」
 驚いて顔を上げると、すぐ目の前にからかうような火村の顔があった。その身体がゆっくりと、獲物を狙う禽獣のように圧しかかってくる。
「お、おい、火村、ちょ…待てや。冗談やて…」
「なんで? 俺もアリスが相手なら恋愛しても楽しそうだと思うぜ?」
「や、でも、何か…これ立場がちゃう…って、火村…っ!」
 皆まで言う間もなく口付けられる。完全に押し倒された状態で、シャツを捲り上げられ、ズボンを脱がされそうになって、アリスは焦った。
「大丈夫。全部まかせて大人しくしてろ。おまえは押し倒すより押し倒される方が性に合ってんだから」
「そんな、勝手な…って、ひ、火村っ」
 抵抗するアリスをあざ笑うように、難なく服が剥がされていく。とうとう最後の一枚まで剥ぎ取ると、火村は少しの躊躇いもなくアリスの股間に唇を寄せた。
「あ…火村…っ、そんな…っ」
 股間のものを含まれて、アリスの喉から思わず甘い声が漏れる。恥ずかしさに身を捩って逃れようとするが、そのたびに嗜めるように甘噛みされて、腰を走る痺れに背を仰け反らせるはめになった。
「あ、やだ…火村、離して、こんな…あぁっ」
「これくらい、おまえの彼女もやってたことだろ?」
「そんなっ、AV女優やないねんやから…って、喋るなぁっ」
「ほら、出せよ。全部飲んでやるから」
「あ、ああ…ん、やぁっ、離…し…は、あああっ!」
 強く吸い付かれて、アリスは勢いよく絶頂の徴を吹き上げた。
 ぐったりとして荒く息をつく胸元に、火村が伸び上がってキスを落とす。
「どうだ? 女より良かっただろ?」
「ば…っかやろ…」
 激しい追い上げに付いていけなかった体は、腰砕けになっていた。
「これくらいでくたばっててんじゃねぇぞ、アリス」
「…え?」
 悪戯を楽しむ子どもの顔で笑う火村。それを訝しげに見上げながら、股間の、もっと奥のほうへ這い下りていく指先にギクリと竦む。
「お、おいっ! 火村、そこは…っって、女はこんなことせぇへんぞ!」
「黙ってろ。こっちは早い者勝ちだ」
「なにーっ! あ、嫌っ、あ、ああっ!」
 そこから先は、アリスの想像力を遥かに越えた展開だった…。




 ―――戦い終わって日が暮れて…。
「……こ…んの、人非人! 鬼畜野郎っ! 勝手に雪崩れ込みやがって、なんが早い者勝ちや!!」
 さんざんやられた腰は当然立たず、アリスは腹いせにその原因を作り出した男に向かって思いっきりクッションを投げつけた。火村がそれをひょいとかわすのも腹立たしい。暴れるアリスの身体はあっさり御用となり、再びベッドに縫いとめられる。
「だったらおまえ、俺に入れたいのか?」
「ヴ…★」
 想像したらクラクラした。
「だったらいいだろ?」
「ヴ〜…」
「そのかわり、どんな女より俺がおまえを甘やかしてやる。おまえが寂しくないように、一人に泣かなくてすむように」
「火村…」
 見下ろす真摯な瞳は吸い込まれそうだった。火村は出来ないことを約束しない。
「俺、わがままやで? それでも…?」
 ―――ほんまにええの? 
 恐る恐る見上げると、火村は笑って、疑い深いアリスの前に自分の小指を差し出して言った。
「じゃ、これで約束しよう」
 ―――指切りげんまん、嘘ついたら針千本…
「ばか…」
 不思議なことに、たったそれでかで気持ちが軽くなる。
 たぶん、この約束は、永遠に破られることはないだろう。
そう確信して、アリスは自分の小指を、男のそれにそっと絡ませたのだった。


〜FIN〜



初期のアリス本に掲載したSSです。
自分で言うのも何ですが、甘いですねぇ。
恋か夢(小説)か悩むアリスですが、
火村氏がいればノープロブレムっすね(笑)。
(2002/11/01    さくら瑞樹著)