その日、曽良という人間は生まれ変わった。
その言葉を聴くまで。
そのうたを知るまで。
彼は確かに生活していたのに。
それら全てが。
まるで、無意味なもののように打ち消された。
『はじまりの、うた』
曽良は元々感情の起伏というものが少ない子供であった。
怒ることも喜ぶこともあまりない。
かといって全くそれが無いわけではない。
ただ表現すること、それを表に現すことは酷く下手であった。
それは大人達にとって、可愛いげのない、扱いにくい子だと思われることになる。
曽良は少年の域を出る頃には、すっかり無表情・無感動な人間だと思われていた。
しかし。
その実。
曽良の心の奥深く。
焔のような感情が潜んでいることを、誰も気付かなかった。
唯、一人を除いて。
曽良が芭蕉に出会ったのは、全くの偶然であった。
その時曽良は十歳をようやく越えた頃。
両親を早くに亡くし、伯母の養子となった曽良は親しい友人もおらず、その日もただ河原をふらふらと歩いていた。
今の家に引き取られてから数年経つが、依然として曽良は『客』のような扱いだった。
特に手酷く扱われるわけでも、何か不自由をするわけでもない。
その代わり、子供に向けられるべき特別な愛情を注がれるわけでもなかった。
叱られることも、褒められるようなこともなく。
ただ諾々と生活している毎日。
しかし曽良には、それが悪いことなのか良いことなのか、恵まれているのかそうでないのかすら分からなかった。
曽良は真っ黒なその両眼で、じぃっと川の水面を見つめている。
陽の光を受けて、それはきらきらと輝いていた。
川の中には魚も泳いでいるのが見える。
そよぐ風も。
さらさらと流れる水も。
虹色に輝く光も。
全てが美しいと思う。
しかし、それが表面化することはない。
端から見れば無表情な子供がしゃがみ込み、川を見つめているとしか見えなかった。
そんな折。
唐突に。
曽良へ声を掛ける人物がいた。
「綺麗だねぇ」
「・・・?」
上から降るような声に、曽良は顔を上げた。
太陽の光が逆光になり、顔は見えない。
ただ男だということが分かった。
そして笑っていることも。
「風も水も光も、全部その目に焼き付けてしまいたかったのかな。食い入るように見つめてたけど」
「・・・」
男が曽良を見下ろした。
侍でも、農民でも、商人でもないように見える。
風のようだと、なぜか曽良はそう思った。
「・・・・君は、・・・・まるで炉のような顔をしているね」
「・・・・・・・・・・・ろ・・・?」
意味が分からなくて、曽良は首を傾げる。
男は曽良と視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。
ようやく男の顔が見える。
目が、澄んでいる。
青い空をそのまま写し取ったような。
曇りの無い、赤ん坊のような目。
「目の前にあるこの綺麗なものを内に取り込んで、それを吐き出すことが出来ずに燻ってる」
にこりと笑顔を向けられる。
曽良はじぃっと探るように男を見つめていた。
一見無表情のようにも思えるが、その実曽良は酷く驚いていた。
『なぜ、分かったのか』と。
そう。
いつも、曽良は思っていた。
自分は感情の表現が上手くない。
顔に出すことも、言葉に出すことも。
けれど、人並み以上にその情緒は豊かで。
見るものも感じるものも、澱のようにどんどん心の中へ溜まってゆくのだ。
吐き出す術を知らないから。
ぐずぐずと音を立てて燻り続けている。
それが。
酷く苦しくて。
「・・・どうして・・・」
『それが分かったのか』。
言葉に出来ない曽良の感情を汲み取ったように、男は微笑んだ。
「分かるよ。見れば分かる。君が、どれだけ様々な感情を抱いているのかも。・・・それが、どれだけ辛いかも」
男の手が、曽良の頭を撫でた。
春の風のように暖かい。
「炉の中を、綺麗にしてあげるといい。吐き出せなかった、どろどろした焔を全部」
男にそう言われ、曽良は緩く首を振った。
その術を知らない。
言葉では表せないのだ。
身体でも表現出来ない。
けれど男は、何てこと無いとでも言うかのように川の方へ向き。
一つ、二つ。
言葉を発した。
短い言葉。
音としては17語。
光と、水と、風。
そして、空のうた。
たったそれだけの言葉の羅列。
けれど曽良にとって。
それは生涯忘れられない言葉になった。
「・・・ね?簡単でしょう?」
男は曽良へ顔を向けた。
曽良は。
目の前で繰り広げられたその『奇跡』に、ただあっけに取られていた。
真っ黒な両眼をこれでもかと大きく見開き。
口はぽかんと開いている。
頬は興奮のため、僅かに紅潮していた。
「今の・・・」
「うん。今のははね、『句』だよ。『俳句』。知ってる?短いけど、その中に多くの意味が込められるんだ。・・・君にはぴったりなんじゃないかな」
きらきらと曽良の目に光りが映った。
闇のような目に、何かが灯る。
それを確認したかのように男は頭を撫で、また笑った。
「良かったら、いつでもうちにおいで。この道をずっと進んだところに、庵を持ってるから」
「・・・」
ぱくぱくと曽良は口を開く。
もっと。
もっと男の言葉が聞きたかった。
まだ、幾つも、教えてもらいたい。
そう思ったけれど、やはりそれは声になることは無かった。
「いいんだよ。ゆっくりで。・・・いつでも待ってるから」
「・・・な、名前・・・」
「芭蕉、だよ」
手を振り、芭蕉は歩き始めた。
曽良は2、3歩後を追ったが、すぐにそれを止める。
身体の中が、ゆっくりと氷解してゆくのを感じた。
彼の、うた。
句。
どろどろに溜まった澱を、一瞬で消し去った彼の後ろ姿を。
曽良はいつまでも見つめていた。
それが。
彼と、彼の。
はじまりの、うた。
おわり
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