泥の華


泥の底に咲く、赤い花のように。



海を見ているうちに、ふいに眩暈のような感覚が襲った。
疲労から来るものなのだと思っていたが、それは違うと気づくのに時間が掛かった。やわらかく抱きしめられているのだ。背後から。


「…行」

 低い声で仙石は名前を呼ぶ。
かつて自分の部下だった男は戦闘の血なまぐさい世界から抜け出し、穏やかとも言える日々を手に入れた。
ぎりぎりの線で命のやり取りの果て、二人はそれぞれの路を歩みだした所で仙石は如月を探し、こうして海の見える静かなここで再会した。それから、遠く隔たった場所に居ても仙石は折りを見て如月の住む、画材以外にはほとんど何も置かれていない部屋に来ていた。
時にはこうして海を眺めたり、ぽつぽつと少ない会話の合間に、啄ばむような唇を交わしたり。

それは如月から望み、如月が望む形で仙石はそれを与えた。
愛と名の付く心も感情の動きも何ひとつ、与えられた事も求めた事のない如月が見せた執着心を嬉しく、自分以外の他者を強く求めるという人としての当たり前の心を見せるようになった如月を仙石もまた、受け止めた。

そうして、通わせあった情は如月を時に大胆に変えるようだ。
当然、陽も落ちかかった海辺には砂に直に腰を下ろしてスケッチブックを手にしている仙石以外には誰も居ないと分かってはいるが、背後から猫のように気配もなく忍び寄ってきてこうして抱きしめられるのにはまだ仙石も慣れていない。

振り返ったそこには静かに佇む月の光のように冴え冴えとした怜悧さをたたえた如月の小さな笑みがある。20歳以上も年の離れた、まるで親子程の年の差がある、この年下の男に仙石が見ほれるのはこんな時だ。
如月を知る者は、こんな笑みを彼が持っているという事を知らないだろう。
工作員として、全ての情を捨て徹底的に自己にも他者にも距離を置き、切り離してきた男がただ一人そうしたものを彼方へと置き去った存在が自分であるというのは、ひどく仙石にとっては嬉しく、他の何者にも換え難い喜びであった。

「…何が描けた?」

言葉こそぶっきら棒で素っ気ないが、仙石の手の中のスケッチブックに向けられた視線は優しい。

「いつもの通りだ。何度見ても、ここの海は飽きない」

そう言葉を継いだ次の瞬間、背後から覆いかぶさるように抱きしめられ、わずかに仙石がためらうように身を引きかける。
その瞬間のためらいを、如月は見逃さない。

「誰も見てないのになんであんたはそう固くなるんだ」
「…見てないって分かってても、緊張すんだよ」

 いつもながらの仙石の言葉だ。こうして如月が触れ合いたくなるのも分かるが、時に抑えの効かなくなる如月の若さを仙石は身をもって知っている。
身体と心を分かち合い、抱き合うようになったといってもこの男はいつも、どこかそうした大人の男としての顔か、それともかつての上官としての顔がそうさせるのか逸脱するという事に一歩、距離を置く。
そんな男が、硬い芽がほころぶように腕や胸の中で崩れていく瞬間が、たまらなく愛しいと如月は思っているが、仙石には届かない事もある。

言葉と吐息を飲み込み、如月は背後に回っていた腕を薄いシャツの合わせ目に差し伸べる。

「…あんたがこうやって欲しくなる」
「如月っ…こらっ、家に戻ってからにしろっ」

 海からすぐ傍に如月の家はある。
越してきたすぐの頃には何もなかった家だが、今は仙石の買ってきたものや、私物も置かれるようになった。
仙石の言葉とは裏腹に差し込んだ如月の冷たい手が、シャツのボタンを外しに掛かる。拘束されるようで嫌なのだと言う理由でアンダーシャツを仙石は身に付けない。
触れれば直に、熱い肌に当たる。

「こらやめねぇかっ…」
「…アンタ、春の泥って、分かるか?」

悪戯を仕掛ける手を止めようともせず、耳元で囁きながらそんな言葉を吐く。
相変わらず敬語は使わないままで。

「…何、だ、それ…」
「生暖かいんだ。脚とか突っ込んでるとどうしようもない程汚れてくの分かってんのに、気持ちいい。ぬるりとしてて、生暖かくて、ひどく気持ちよくって。…なかなか、抜けられない」

泥の中に脚を入れて遊ぶ幼い子供。
春の陽によって暖められた泥の持つ、やわらかさと人肌のような滑らかさ。
そう、思えばあの感触が抱きしめた人の持つ体温と情事によって温められた淡い色を持つ肌によく似ていると如月が気づいたのは、ごく最近だ。
そんな事すら知らないまま、一人で生きてきたのだ。

脚を泥まみれにして家に戻れば当然、叱られるのは分かっていたのに嵌まり込んだ足を抜く事が出来なかった。
母は母で、小言は多少言っただろうが仕方がないわねと、目を細めていた事を思い出す。
あれは、こうして自然に抱かれたこんな非日常的な状況で交わされる情交のようにひどく魅惑する存在だった。
してはいけない、触れてはならないと分かっていてもその感覚に溺れていく。

「アンタとここでこうしてると、それを嫌でも思い出す」

母親に叱られる後ろめたさよりも、やわらかいものに溺れる方を選んだ幼いあの頃のように。如月の手は、言葉と共に大胆になる。
背後から抱き寄せて、この愛しい男がどこにも行かないようにと願う行為は、母にすがる子のようだ。


「…泥の中に嵌って、抜けられなくなったのは俺にもある…。お前の言う通りだ。…なかなか抜けられないんだ…。思い出しちまったよ」

 仙石の唇の端が、小さな笑みを浮かべる。
仙石も如月の言葉に、子供の頃の自分を思い出していた。
都内で生まれ育った仙石だが、あの頃はまだ泥のある空き地などどこにでもあった時代だった。
帰るのを惜しんで遊びほうけて、文字通り泥だらけになった日々を。

年も離れ、遠く離れた地で生きてきた二人がこうして同じ経験をしてきている事に、なぜか笑みがこぼれた。
そして、思う事も同じ。
何故あの感触から抜け出せなかったのだろう。
理由がやっと分かったような気がした。
如月は仙石の無骨な身体を、あの時の泥の持つ暖かさを持つ高い体温を愛する。
熱い彼に触れているだけで、自分もまたそこに存在しているのだと実感出来る熱と生暖かさを。
それを知れば、離れられない。

「あんたも分かってくれるんだ…」
「そうだ、だから…俺は…」

-------こんな所で抱き合う事を止められない。
幼い頃に味わったあの生ぬるさの持つ快楽が、そのまま人肌で再現出来るという事を知ってからは。
更に、その背徳感はこんな海という場所で交わされる行為でも、加速されるのだ。
泥の中に嵌って、抜け出せなくてもいい。
暖かく湿った胎内を思わせるそこに脚を入れ、身体を繋げ合わせて。
波音だけがたぷん、と足元に寄せる。
唇の端で薄く笑った男の腕を受け止めて、仙石は目を閉じる。

戻らなくてはならない予定も全て消し飛んで。
泥にまみれるような恥知らずな、それでいて快楽の生ぬるさに行為に今は溺れる。
スケッチブックは、砂に落ちていた。

-------二人は、泥の中へ落ちてゆく。
誰にも邪魔をされない、深く生暖かい春の日によって温められた泥という名の互いの肉の中へ。



水中都市』の紫月様が書いてくださいました行仙ssです
とてもとても大人な文調で、色っぽくて、ええと、素敵すぎて言葉に出来ません…
飾らせて頂くのが勿体ないくらいですが、一人でも多くの方に読んで頂きたくてここに置かせて頂きました
紫月様、本当にありがとうございました!
(05/10/10)



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