「綺麗な奥さんをもらうわ。恒史さん、お優しいもの。それでね、可愛い赤ちゃんが出来るのよ。きっと恒史さんに似て、丈夫な男の子。道場では師範代になられることでしょうね。私が知らないと思っているの?恒史さん、今じゃ若狭様よりもお強いのでしょう?」
彼女は、笑っていた。
笠の下から、ちゃんとこちらは見えていたのだろうか。
随分同年代の娘と比べて大人びたが、鈴のような笑い方は、昔と変わっていない。
「今でも思い出すの。お祭りの夜、私の為に手を繋いで、ゆっくり歩いてくれた。お小遣いで赤い風車を買って下さった。怪我した私を負ぶって、背中越しに見せてくれた大きな花火。…綺麗だった。こんな小さな子どもの頃から、切れた鼻緒を、いつも上手に直してくれた。………どれもこれも、大切な思い出よ」
笑っていた。
「桃の節句に描いてくれた私の絵。…ごめんなさいね、なくしてしまったの」
嘘を付くとき、首を傾げるのは、多分彼女すら知らない癖。
「不幸だったことなんて、一度たりとも無いのよ。これ以上、何かお願いしたら、バチが当たってしまうほど」
今でも、あの顔は、離すことが出来ない。
こんな時でさえ、彼女は気丈で。
そうしなければならない、と思わせてしまっている自分が不甲斐なくて。
けれど矢張り、彼女の予想通り、自分は突っ立っているだけで、情けないばかり。
「でも……やっぱり、恒史さんのお嫁さんになりたかったなぁ……」
朝靄の向こうで、笑っていた。
悲しそうに。笑っていた。
そんなつもりはなかっただろうに、そう、笑って見えた。
一言、臆病な口から、一言出れば、あんな顔をさせずに済んだのかも知れない。
たった、一言。
頼、と。
賢木
行之介は、悩んでいた。
椎茸が夕飯に出て、それを残す言い訳を考える時以上に悩んでいた。
誰もいない大広間。畳に俯せに横たわる行の脳裏には、昨日の佳織の言葉がぐるぐると回っている。
あまり女には興味のない行。
家業柄、女、特に美人に関しては見慣れている行ですら、美しい女だという印象を受けた、宮津庵の華、胡蝶。
その胡蝶と、自分が焦がれて止まない仙石との関係。
いつもの行ならば、大抵のことには「それがどうした」とふんぞり返るものなのに。
仙石のこととなれば話は別である。
それでなくても、半ば強引に(という自覚はある)引き込んでしまった仙石。
行にとっては、彼が生きる糧であり、全てであり。
仙石ににっこり微笑まれながら頭を撫でられた日には、それだけで丼メシ三杯はいける。
ただ傍にいるだけではなく、可能な限り触れ合い、繋がりたい。
それと同時に、彼の気を損ねることは、出来る限りしたくないのだ。
それが、だ。
昨日の仙石と胡蝶の様子を見て、更にその二人が許嫁だったという過去まで聞かされて。
多分、行に入り込めないほどに、あの二人には様々な想いとか、絆があるのだ、あるに違いないのだ。
とすれば、仙石にとって、行は永久に2番手止まりなのか?
それは、絶対に嫌だ。
わがままを言えば、仙石の傍らには四六時中ついていたいし、仙石の傍らに自分以外の人間がいるのは許し難いことだ。
けれど、仙石が行以外の人間を隣に置くことを望むならば、行はそれを阻止することは出来ない。
何故なら、確実に仙石を不快にさせてしまうから。
でも、そんなの俺が嫌だ。
自分の望みを叶えようとすれば、仙石が嫌がる。行を。
仙石の気を害するのは嫌だし、嫌われるのも嫌だ。でも誰よりも近くにいたい。
でもそうすると嫌われるかも知れない。
でも、でも。
「…………………!!」
終わりのない思考に頭が付いていかず、行はむしゃくしゃした気を静めるために、突然ゴロゴロと横転をする。
その先に柱があることなどすっかり忘れて、狙い澄ましたように、柱に激突。
如月屋に鈍い音が響き。
行の口から微かなうめき声が漏れた。
「若旦那〜。何をジタバタ暴れてんですかィ。底、抜けちまいまサァ」
庭掃除をしていた手を止めて、菊政は呆れた声で、案外冷静に行を叱る。
一番始めこそ、医者をだの何だの騒いだものだが、今日だけでこの頭突きが三回目ともなると、騒ぐ分だけ損したような気にもなる。
むしろ、あの行の石頭の衝撃を、健気に享受し続けている、柱の強度の心配をする方が、よっぽど正しいような気にもなる。
…まあ、行の悩みの理由を知れば、菊政も釜戸に手を突っ込むくらいのことはすると思うのだが。
「おぉ?随分でけぇ太巻きだな」
襖がサラリと開くと、仙石の足下には、丁度、呻きうずくまる行がいた。
仙石もまた、始めこそ、何がどうしたと訊ねてはいたが、昨日今日会わせて七度目の風景ともなると、慣れてしまう。
「あ、仙さん、お出かけですかィ?」
菊政もそれは同じ事で、行を視界にも入れず、仙石に話しかける。
「あぁ、宮津庵に届け物をな、店、頼むぞ」
「言ってくれれば配達は俺が行きますのに」
「宮津の旦那にも、たまには顔出しておかないとな」
宮津庵、の言葉を聞いて、行の耳がぴくりと動く。
そうだ。悩んでいても仕方がない。
行動力の良さは、じじさまも褒めてくれたじゃないか。
「俺も行くっ!!」
腕立て伏せの要領で、行ががばりと起きあがり、襖を閉めかけていた仙石の背中に怒鳴る。
突然の行の声に、菊政も仙石も目を丸くし、また、出不精の行が、花街に行くことを望む行動の奇怪さにも、度肝を抜かれる。
「…こりゃ、珍しい」
何の魂胆があって、とも言いたかったのだが、菊政の心境も兼ねて、仙石はそう言うのが精一杯だった。
如月屋の若旦那、行之介。
祖父に似て、行動力は有り余り。
祖父に似ず、非常に単純な男であった。
どこか寄る場所があったのかと思ったが、行はただ無言で、仙石に、文字通り付いていっただけだった。
何が行をそうさせているのか、さっぱり見当のつかない仙石だが、家に残らせたところで、小規模な地震が続く一方だし、あえて何も訊かずに、真っ直ぐ宮津庵へと向かった。
「あら、仙さん、そっちから来てくれるなんて。それに如月の若旦那も。珍しいことは続くものねぇ」
裏口から入って、始めに仙石を見つけたのは芳。ここでの名は朧月夜、が小気味よく言う。
髪を梳かしていたのか、豊かな黒髪が、微風に流れている。
「変わりねぇか?芳」
「まあねェ。…あ、そうそう、仙さんにお客さんなのよ、今日は」
「客?」
最近客が多い、と内心思いながら、仙石は訊ねる
「今、宮津の旦那と話してるけど。髭たくわえたお武家様でね。何でも相模と武蔵の間からおいでなすったとかで。えっと……ワカサギだかハヤブサだか……」
何て名前だったっけネェ、と、隣で芳の手伝いをしていた禿に話をふるも、子どもらしく首を傾げただけで、満足な回答は得られなかった。
その時、芳の背後の障子がサラリと開き、一同の目が集中する。
「久しいな、仙石」
芳の言うとおり、髭を蓄えた、強面の侍は、淀みなく仙石の名を口にした。
流行廃りのない、藍色の着物が、彼の威厳に華を添えている。
仙石だけに注がれた眼光を、臆することなく、また、仙石も侍を見つめ返した。
「………若狭」
名を呼ぶと、自嘲めいた笑みが、若狭の方からこぼれた。
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