若紫









よくよく晴れた、昼下がり。




「ちょっと、あんまり押さないでよォ」

「だったらそこどいてよ。よく見えないじゃない」

「今日は珍しく表に出てらしてるのね」





きゃいきゃいと、流行の髪型で決めた町娘が、小鳥のように囀りあっている。














ここは福井町の呉服の大店、如月屋。
今日も若い娘の黄色い声が、あちらこちらで聞こえている。
目当ては西陣織でも友禅でもなく。











「もう、行様、ちょっとでもこっち向いてくれないかしら」

「バカねぇ。あのつれないところがいいんじゃないの」








こちらの若旦那、行之介の美貌。




長いまつげに、白い肌。
女形よりも美丈夫で、そのくせ男らしい骨格の持ち主だ。
いつもなら騒がしい声にうんざりして、庭の草むしりでもしているのだが、今日は丁稚の菊政と、津々浦々から取りそろえた着物の数々を眺めながら、神妙な顔をしていた。
もちろん、娘達の声など、さらっと聞き流している。



「こちらの辻が花なんか、良く似合うんじゃないですか?」



よく通る、人なつっこい声で、菊政は、座り込んだ行によく見えるように、目の前に座り込んで、着物を広げて見せた。
素人目に見ても、その仕事の良さが見て伺える辻が花。
深い色合いの中にも、今の季節にピッタリなさわやかさがある。



「それ、もらおう」



裏から回ってきたので、草履を脱がないまま、玄関に腰をかけてた状態で、行は悩むまでもなく、一瞬見ただけで即答する。
いや、十分に悩んではいるのだ。それを、一度決めたら揺らぐことがないだけで、そうならそうと決めてしまっているだけ。
証拠に、返答の少なさの割には、眉間には散々悩みましたというように、皺が寄っている。

「あ、でもこっちの絣なんかもおすすめですよ」

「それも」

自分の気の向くままに勧める菊政の言葉全てに、行は対応していく。
菊政を信頼しきっている、というのもあるが、何よりも何を来ても似合うだろうという憶測も相成って、悩む時間は次第に短縮されていく。

「そうそう、最近は深い藍色なんかが流行ですねィ」

「それも、まとめて」

「そこまで!!!」

店の外の町娘に聞こえんばかりの怒声が、如月屋に響き渡った。
菊政が驚いて跳ね上がるのと、行が店の中を振り返ったのは同時だった。


そこには、如月屋の前掛けをした仙石が、腕を組んで仁王立ちしていた。








「売り物買い占めてどうするんです!」









子供の悪戯を咎めるように、菊政と行を見比べながらぴしゃりと仙石が言う。
しかし、菊政も行も、お互いの顔を少し見合わせただけで、あまり反省の色は見られなかった。
そう、叱られ慣れた悪ガキそのものである。
菊政が腕一杯に抱えた衣装をちらりと見てから、行は腰を軽く上げた。

「………じゃあ、隣町の丹原屋へ……」

「呉服屋の若旦那が、何で着物買いに他の店行くんですか…菊も、面白がって、あれこれすすめてるんじゃない」

「だァって」


不服そうに、口先を尖らせて菊政が言うと、仙石は目に込める力を少し強めて、低い声で菊政に囁く。


「……後で旦那様に言ってもいいんだぞ」

「すいませんでしたっ」


旦那様、の単語を訊いて、菊政の頭はあっさりと下がる。
そう、何を隠そう、行の祖父である如月屋の旦那のカミナリは、菊政の天敵である。
菊政の真正面に向けられたつむじを見て、仙石は軽く息を付くと、今度は草履を脱いだり履いたりして弄んでいる行に、視線を向けた。
仙石の視線を感じると、足弄りをやめて、ひょんと、子供のように顔を上げる。

「けれど、流石呉服屋の若旦那だ。ご自身のお着物はご自分で見定めるタァ。そういうのにゃ頓着しない方かと思ってましたよ」


その日の朝ご飯にさえ無頓着な行にしてみれば、そういう面で興味を持つのは好もしいことだと、仙石は顔を緩ませた。
仙石に褒められたと思って、行之介も嬉しそうに目を輝かせ、そして、一度、未だに頭を下げたままの菊政を見ながら言う。

「お前の着物を見立ててた」

「は………?」

















お前?


とは、矢張り俺のことか?

















行の言動をすぐに理解できなくて、仙石が間抜けに口を開けていると、おずおずと、菊政が、上目遣いで行の言葉に補足を入れる。

「だから、この辻が花。仙さんによくお似合いでしょうって…」

「辻が花は嫌いか?」


何か変なことを言ったろうかと、小首を傾げて仙石を見ている。


「………あなたって御方は………」


時折、いや、大体の場合、この人の思考にはついていけないことがある。
今日何度目になるのか、仙石が大きなため息をついた時だった。




























「こんにちは!」




















明るく高い声を見れば、店の入り口に、仙石にとってはよく見慣れた娘が立っていた。
明るい声と揃えてしつらえたような笑顔をたたえ、着る者を選ぶであろう、薄い桃色の着物がよく似合っていた。



「佳織」



咄嗟に仙石が名前を呼ぶと、更に顔をほころばせて、こんにちは、と、頭を下げた。

「この前頼んでた着物、取りに来たの」

「あ、俺取ってきます!」

脱出の好機とばかりに、菊政は立ち上がり、誰の返答も待たずに店の奥へと引っ込んでいった。
佳織はまだ新造の遊女。夜は先輩遊女の身の回りの世話をしているが、昼は宮津庵関連の買い出しをよくやっている。
菊政とも顔なじみで、行を見ても騒がぬところが、如月屋の面々には気に入られていた。

「似合ってるね、その格好」

「そうかぁ?どうも、こう、腰の辺りが寂しくってな」

浪人で用心棒をやっていた頃の仙石の印象が矢張り強いのか、丸腰の仙石を物珍しそうに眺めながら、悪戯っぽく笑う。
丁度仙石が宮津庵に来た頃に、佳織も宮津庵にやってきたせいもあってか、まるで自分の娘のように、仙石は佳織を可愛がっている。
それと同じように、佳織もまた、仙石によく懐いていた。


「今日はねぇ、仙さんに会いたいって人を連れてきたのよ」

「俺に…?そんなん、いつだって会えるじゃネェか」


機嫌良さそうに笑う佳織の顔を訝しげに見ながら、仙石は頭を三度掻く。
当てはまる人間がおらず、誰のことだ?と佳織に訊ねようとしたときだった。










ざりっと、砂を擦る音がして、店の外を見た。









花魁特有の高下駄を履いての八文字を踏みの歩み。


今日は町人と大して変わらぬ格好をしているが、それでも歩き方のクセが抜けないのだろうか。
すり足に似た音が聞こえて、仙石はその方を向く。


藤の描かれた白色の着物が、上品さを際立たせていて、町人、と言うよりかは、武家の娘、の形容の方が正しいような気がする。
やや気恥ずかしいのか、紅を差した口元は、微かに上がっていた。







「頼?」






吉原では胡蝶と呼ばれる遊女の名を、仙石は口にした。
白粉を塗らず、付きの者も佳織一人であっても、その風格、気品は、吉原のものであった。
少し身じろぎするだけで、簪の飾りが動いて、シャラリと涼しげな音を奏でた。


「今日は天気がいいからと、宮津の旦那が」


どうしてここに、という仙石のセリフを顔で読みとって、先を見据えた返事をすると、仙石は苦笑しながら、花街の似合わぬ、気の優しいかつての雇い主を思いだした。

「あの人ァ、人が善すぎだな」

「久しぶりにお竹さんがいらしてるから、機嫌がいつもよりいいんですよ」

「へぇ、いつ帰ってきたんだかなぁ。…それにしても、いいのか?芝居観に行ったりしなくて」

「それもいいですけど、人混みって苦手で……」

「仙さん心配だったんだよね!胡蝶姉さん」

「佳織っ」

得意の明るい声で頼をのぞき込みながら佳織が言うと、頼が叱るようにして、佳織の肩を軽く叩いた。

「いたァい」

「あら…大丈夫?佳織」

照れ隠しだと誰もが分かるような力加減でも、佳織がしゃがみ込んで、大げさに痛がってみせると、それが巫山戯ていると分からない頼は、心配そうに身を屈める。
その時、絹のような頼の頭から、するりと、一本の簪が滑り落ちる。



「おい、頼、簪が取れて……っ!!」



咄嗟に拾おうとした仙石だったが、勢い余って土間に顔面をぶつけるようにして倒れ込む。
語尾の声にならない驚きの声を、素早く頼は聞きつけて、咄嗟に叫んだ。














「『恒史』さん!!」













「?」

その言葉に、今まで興味なさげに傍観していた若旦那、行の耳がぴくりと動く。
仙石が転ぶのは、実は珍しいことでもない。
如月屋の上がり口は、他の店よりも少し高くできていて、オマケに漆がよく効いている。慣れない人間はよく転ぶのだ。
だから、仙石が前転をするようにして転がっていても、はだけた着物の前合わせを凝視するだけで、心配はしなかったのだが。



まるで馬に蹴られた者を見るような、頼の声に、何か違和感を感じた。

























今、この女は。









この男を何と呼んだ?



























「ってー……」

「しっかりして下さいな!怪我は?他に痛いところ有りません?」

白地の着物が汚れるのもかまわずに、土間に転がり落ちた仙石の横に、頼は座り込み、強く打ったであろう仙石の額をそっと触った。
顔面蒼白、の言葉が似合いそうな頼の顔を見て、仙石は申し訳によりも先に、どこか滑稽さを感じて、それを噛み殺しながら、軽口を叩く。

「そう騒ぐなって。転んだだけだろ?よく転ぶんだ、俺ァ」

「でも……」

「ホラ、若旦那が丸い目してんぜ?宮津庵の胡蝶が大声出して」

眉を寄せる頼に苦笑して、顎で行の方をしゃくる。
今まで目に入っていなかったのだろうか。初めて行の存在を知ったとでもいうように、さっと立ち上がって、座った拍子に汚れた着物の裾を必死ではたいている。

「ホントに、仙さんはどこかそそっかしくて……」

「ははっ」

「まァ、人が心配してるのに、笑うことァないでしょう?」

良いわけがましく言う頼が面白くて、思わず仙石が声に出して笑うと、頼が頬を膨らまして憾めしそうに見上げてくる。
それも笑って受け流して、頼の頭に体を張って拾い上げた簪を差した。

「いいからいいから。どうだ?あの蝶の簪、いい仕事だろ、1つ買ってかねぇか?」

「商売上手なこと」

こっちは貴方の心配をしているのに、と、頼は呆れたように、ため息と共にそう言うと、仙石に促されるままに、最近取り扱い始めたのだという、簪の並ぶ棚へと足を進めていった。
その二人の後ろ姿を、何も声を掛けられずに、行は見ているだけだった。












「仙さん、決して美男子ってわけじゃないけれど、ああして並んでいると、胡蝶姉さんとお似合いでしょう?」










「……………仲は、良さそうだな」



同じく頼に取り残された形になった佳織が、暇つぶし程度の気持ちで、行に話しかけてくる。
本当は全然そんなことないと虚勢を張りたいところだったが、なんだかそれが、とても子供っぽい行動のように思えて、曖昧に肯定した。
そんな、どこか不機嫌そうな行の横顔を、目を細めて佳織は眺め、そして、思い出したように口を開いた。








仙石を買った男に対して。









「…昔、若狭っていうお武家様がいらしてね。何でも幼なじみだとかで、仙さんを連れ戻しに来たのよ。その時に色々話してくれたの。私、まだ子供だったから、話しても分からないと思ったのかしらね」













知らない間に、遠巻きに見ていた町娘達はいなくなっていた。

いい加減見飽きたのか、それとも、頼の姿に恐れをなしたのか。

















「二人は、許嫁同士だったのよ。それで仙さん、胡蝶姉さん追っかけて江戸に来たの」

















視界が、一気に揺らいだ。










菊政は、まだ戻らない。


















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