4.須磨













まだ、宮津庵を紹介される前の話だ。













紹介された道場の帰りに、福井川の川縁で絵を一枚描くのが、その時の日課だった。
いつの季節だったか、河原で絵を描いていると、小さな子供が寄ってきた。
子供なのに羽織を纏い(となると秋か冬頃のことか)、身分が良いのだろうと思った。
そのくせどこか子供らしからぬ物憂げな表情で、こちらを夕日に当たりながらじいっと見ていた。


「なぁんだ、坊主。仲間はずれか?」


怖がらせまいとおどけた調子で言うと、そのやけに綺麗な顔立ちをした少年は、顔をうつむかせた。
幾つぐらいだろう。十かそこらか。

「よっしゃ、兄ちゃんがな、お前描いてやんよ。ほら、ここに座った座った」

画材道具が珍しいのだろう。しきりに自分の背後にある画材道具をのぞき込んでいるのに気が付いて、仙石は自分の眼前の草むらをたんたん、と叩いた。
一瞬戸惑ったようにまごついた少年だったが、小走りに仙石の正面まで駆け寄ってくると、膝を曲げてそこにちょこんと座り込む。
役者のような派手さを持っていないものの、静かに見据える仕草はとても流麗で、人形のようだった。
人を描くのは久しぶりだったが、相手がよかったのか、筆はサラサラとすすみ、半刻もしないうちに仕上がり、できた、と声を上げた。

「お前、絵が好きならやってみればいい。人も物もな、こっちが真っ直ぐに好きだと思い続けてりゃ、向こうも好きだって返してくれるもんなんだよ」

描きあがったものを渡してやると、少年は人相画とこちらを何度も見比べて、大きな目をくりくりさせている。
やるよ、と言うと、その目は更に大きく見開かれた。

「じゃ、もう日暮れだから家に帰れよ。坊主、おっかさん心配させちゃなンねえぞ?」

慣れたように画材道具を片づけて肩に背負い、立ち上がり際に、丁度いい高さにあった少年の頭をがしがしと撫でた。













「また、ここにいる?」

















小さな声で、少年が土手に立ちつくし、そう訊いた。

耳聡く聞きつけて振り向くと、大層驚いたように体をすくませる。
そこにやっとの思いで子供らしさを見つけて、微笑んだ。

「あぁ。また来な」

大きく手を振ってやると、少年の方も夢中で手を振り返した。
それに応えてやるように角を曲がって姿が見えなくなるまで、立ち止まっては腕を振ってやった。
















その夜、宮津庵を紹介されて、それから福井川へ行く習慣は無くなってしまった。






あの子は、次の日も来たのだろうか。








































「仙さん、仙さん。朝ですよ」






菊政の明るい声が、寝起きにはよく響いた。
もぞりと顔を覗かせると、心配そうに眉を寄せた菊政が、仙石をのぞき込んでいた。

「……起きてるよ」

子供のような菊政の声を聞いていたから、あんな夢を見てしまったのだ。
そう決めつけ、仙石は菊政を一瞥すると、体を反転させて背を向けた。

「俺はもう出ますけど……旦那様には疲れて伏せってると言ってあります。朝ご飯は、後でばあちゃんか俺が運んできますから」

反応を期待するわけでもなく、菊政は静かにそう言って、立ち上がる。
襖を開けるすうっという音が布団を被った仙石の耳にも届いた。


「……菊政さん」

「いやだナァ。菊政と呼んで下せぇ。気色悪ィ」


力無く言う仙石を元気付けるようかのから元気は見え見えだったが、それが今の仙石には嬉しかった。


「………………すまねぇな」

「…若旦那のこと、なんですか?」

「……………」




あの夜。

行の手から逃れたくて走っていた仙石と鉢合わせしたのは、風呂掃除を終えた菊政だった。

青い顔で息を乱した仙石を見るなり、菊政は黙って自分の部屋に通し、布団を引いて寝かせてくれた。








それでも気にならなかったわけではないのだろう。とても言いにくそうに、それでも聞き間違えようのない言葉を選んで、菊政は訊ねた。
仙石の沈黙を肯定と捉えて、菊政は言葉を続けた。


「悪いお人ではないんです。本当は、とても、とても気の付く優しい方なんですよ」

「…それも、あるんだがな………」


言葉を濁して、仙石は身じろぎをした。
これ以上言葉を連ねるのは無意味だと理解して、菊政は中途半端に開いていた襖を再びすうっと開ける。
庭から朝の鋭い光が、布団を暖めた。

「………今日はいい天気ですよ。落ち着いたら、散歩なんていいかもしれやせんね」

決して強制する言葉遣いではなかった。
それが、菊政の精一杯の言葉で、仙石の背を見て、堪らず呟いて、襖を閉めた。











「仙さんを迎えに行くときの若旦那、本当に嬉しそうだったんですよ……」

























朝と思い込んでいたが、時刻は、どちらかと言えば昼だった。
さっきの言葉は、仙石を幾分気遣っての菊政の下手な芝居だったようだ。
行と同じ屋敷にいることもいたたまれず、菊政が差し入れてくれた、仙石にとっての朝食を半分ほど平らげてから、菊政の助言通り外に出ることにした。
裏口から出て、三町ほど歩けば、勝手知った福井川が流れている。



































俺のもの




















そう言った行を許せなかったわけではない。
そう言われて嫌悪を感じた自分が許せなかったのだ。

出会ってきた遊女達は、「もの」扱いされても凛として生きていたのに。


自分よりずっと強くて美しかった遊女達を哀れんだ自分が、愚かで、情けなくて。




そして











やはり行が自分を選んだ基準が、遊女を選ぶのとそう大差なかったことが。










どうしてか、虚しかった。










数年ぶりの福井川の土手は、それでも仙石を昔と変わらない風と、水音で仙石を受け入れてくれた。
腰掛けて目をつぶれば、遠くで金魚売りの声も聞こえる。

「やあ、仙さん散歩か?」

今の心境に一番不似合いな声が、頭の上から振ってきた。

「……渥美の旦那」

首を上げてみれば、垂れ目のいかにもな色男の武士が、微笑みを称えて、仙石を見下ろしていた。
付きの者もつけずに出歩ける身分では無いというのに、隣、空いてるか?と訊くのと同時に、仙石の隣に腰を下ろした。

「行のことだな、顔に書いてあるぞ」

金魚売りの声を聞きつけたのか、買ったことあるか?と仙石に尋ねた。
仙石が曖昧に肯定すると酷く羨ましがり、その後、やや伏せ目がちになって、早口に告げた。



「行は、石女(うまづめ:子の出来ない女)だった女房への当てつけに、あれの父が吉原の花魁に生ませた子だ」



思いもしなかった言葉に、仙石は渥美の顔を見やる。
渥美は仙石の様子を見やりながら、続きを拒絶している風ではない事を確認してから、矢張り仙石の方は見ずに、続けた。

「…あぁ。それなのに女将さんも如月屋の爺様もそりゃあえらい可愛がりようでな。行もよく懐いていた。ただ……博打と酒しか頭にない馬鹿親父の入る隙なぞなかったのだろうな。それを女房に八つ当たりして、女将さんは自害。雪も降らない冬のことだった。…子供には、酷だったろうなぁ…」







渥美は、見通している。

行が、仙石に何を求めたのかを。

だから、こうして言葉を続けるのだ。

仙石が、行を見逃さないように。







「あれは知らぬのだ。大事な人の扱い方というのを。おそろしく不器用な男なのだよ。側に置かねば置いてかれると思ってるのだろう。だからそうして早急に事を進ませたがる。…まったく、莫迦な子だ」


無造作に草を毟り、風に飛ばしながら、渥美は仙石を見た。
苦笑したような顔に、仙石もつられて固く笑った。


「若旦那の子供の頃を、よくご存じで」


相づちのような言葉を仙石が口にすると、渥美はよくぞ訊いてくれた、と、体を仙石の方に向けた。


「如月屋には元服する前からじじ様に付いていったからなぁ。あれのことなら、喋りだす前から知っているぞ。勿論、寝小便の回数もな」

からからと快活に笑う様は、到底武家の、しかも旗本の子とは思えない。
しかし、そんな渥美の態度を、仙石はかねてより気に入っていた。

「あの仏頂面は童の頃から健在でな。同じ齢の子らと遊ばず、よくここらで遊んでいた。…ん?否、あれは遊んでたというとりかは何か探しているような……」

「探す……ですか」

子供が捜し物とはこれ如何に。
行ほどの身分ならば、おもちゃを無くしたとしても、すぐに新しいものを買い与えられただろう。
それに、十年以上経過しても渥美の記憶に残っている程、熱心に、何かを刹那的にではなく、ずっと探し続けてきたといえる。

「ああ、そういえば……」

思考を辞めたのか、顎に手をやり、渥美は話を変えた。
別段大したことではないのだが、という前置きを置いてから、渥美は言った。

「童らしくないといえば、あの時分から後生大事に人相画を懐に入れてたっけなぁ。今でも持ってるようだが」

「人相画?」

仙石が反応したのを意外そうに見やりながら、渥美はこくりと頷く。

「それが何かと訊ねたらそう言うだけで、決して見せてくれなんだ。大事な大事な物だからとな。…まぁどうせ贔屓の役者か何かだろうが」

「………!」










福井川。


人相画。


少年。


捜し物。









また、ここにいる?



















脳髄の奥がチリチリと熱くなり、仙石は渥美の存在などすっかり忘れて、駆け出していた。
















約束を覚えていたというのか。




あの子は。


















『人相画は、そこそこだったがな』


















ちゃんと、教えてくれていたというのに。




















店番をしていた菊政は鬼気迫る仙石の形相にひどく臆したようだったが、仙石が若、と言う前に、仙さんのお部屋にいますよ、と短く説明してくれた。

どたどたと、何度も滑りそうになりながら廊下を駆け抜け、昨日逃げ出した部屋の襖を戸惑いもなく勢いよく開けた。








「若旦那!!!」









見れば、書机に姿勢良く座っている行が、びくりと肩をすくませて仙石を見ていた。
仙石がいるのが信じられないと言うような。
そんな、顔で。

「な…んだ」

たどたどしくそれでも行は言い返すも、仙石は行の顔よりも、その懐から除かせている、侍で言う懐紙のように忍ばせている紙に目が釘付けだった。


「そ、その懐の…人相画!!」


半ば奪い取るようにして、行の懐からその古ぼけた紙を手にし、四つ折のそれを開いてみれば。





真正面を向いた、澄んだ瞳の童が一人。





その紙の感触に酷く覚えがある。

そして







向かいに座り込む青年に、あまりに似すぎていた。


「俺の……絵だ…。じゃ、じゃああの時の!!」
















また、ここにいる?
















「渥さんか…」

泣きそうな顔して、行はそう言って納得したように頷いた。
その声があまりに細くて、仙石は襖を閉め、行の背後に座った。


薄い背中。


あまりにも、薄い背中が、痛々しいほど真っ直ぐに伸びている。




「あの頃…」




薄い背中が呟いた。




「母上が死んで………寒くて………死にたくて死にたくて仕方がなかった。けど、…お前が笑ってくれたから。お前が、お前だけが、俺の……」



雪も凍った寒い日に、行の母は自害したという。



あの日は、冬だったのか。







「…なぁ、仙石。もう離れないでくれ。何でもする。………分からないんだ…どうして、いいのか」


振り向いて、崩れるように、行は仙石にもたれかかった。
その袖は、既に濡れていて、肩は震えていた。
力を込めて仙石の着物を掴めば、手は白く変色した。







仙石にはなんのことはない、ほんの数刻の出来事だったろうが。

行にはそれが全てで、永遠だった。








「お前はどうすれば、ここにいてくれる?」


見上げる瞳は、濡れていた。



包んでくれた母は、自害した。

「また」と言って別れた男は、少年にとって永遠に近い歳月の別れを要した。




それならば力ずくでしかないではないかと。

それが、行なりに出した結論だったのだろうと思うと。


行を許すとか、許さないとか。






そういう次元の話はどうでもよくなってしまった。



「何処にも…行きはしねぇよ」



白くなるほど握りしめた行の手をやんわりと外し、変わりに自分の手を持たせてやりながら、仙石は言った。

「…身請けってのはそういうもんだ。金だけ積んでハイそうですかで、楼主は……宮津の旦那は売ったりしねぇ」








もっと、早く気付いてやるべきだった。






この細い背中に。


あの時と寸分変わらない瞳に。





















「お前さんが置いてくれる限り、俺はいくらでもここにいるよ」

「せんごく…」

微笑みかけてやれば、行の瞳からほろりと涙が零れ、それを仙石が確認できないうちに、行が仙石の頭を抱えるようにして抱きしめた。





ここに、こういうものがあるのだと、言い聞かせるように。




























「随分……探させちまったナァ…」


















行の胸で呟くと、頭の上に乗っかった顎が、左右に揺れた。













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