3.空蝉







その日の夕食は、静寂そのものだった。
時折給仕役の菊政が「お代わりいかがですか?」と不自然なまでに声を張り上げ、仙石はそれに釣られて四杯もお代わりをしてしまった。
唯一蚊帳の外なのは如月屋の旦那だけで、孫の無口は今に始まったことではないにしても、菊政の異常な空回りぶりには首を傾げ、また何か失敗をしでかしたのかと、あれこれ考えを巡らせていた。












































そんな食卓だったので、仙石は酷く肩が凝り、風呂に入るなりあてがわれた部屋に入り、行灯に灯をともす。
見れば、書机には一通りの画材道具が揃っていた。筆の太さも様々で、全てが新品だった。
自分の為に用意してくれたのか。
筆箱1つとっても見事な品であったが、宝の持ち腐れにしてはならないと思ったし、何よりまだ宵に入ったばかり。趣味の絵で夜を潰せるなんて、仙石にとっては夢のようなひとときだ。
墨をすり、筆を硯に落とすと、すうっと素直に黒を吸う。試しに半紙に線を一本引かせると、何とも表情豊かな黒の濃淡が生まれた。

上等な品々に囲まれた絵描きがすることは1つと決まっている。

仙石はとっさに、如月屋の部屋で見た樫を思い出し、網膜に焼き付いたあの雄々しい姿を再現させてみようと、筆を持ち直した。
川や海以外の風景画は得意としない、と言うより、興味がなかったが、あれほどの画題はそうそう無いだろう。
当初は軽い気持ちで描き始めたものの、次第に熱中していって、不意に襖の開く音でハッと我に返った。

「………行灯は1つで足りるか?」

白い横顔は幽霊かと思ったが、それにしては美しすぎた。
風呂は済んだはずなのに、熱によってその頬が変動する様子は一切無く、強いて言えば、湿気で前髪が寝て、少し子供っぽい印象を受けた。

「あ、へい。上物な画材道具を揃えて下さって、ありがとうございます」



−行は仙さんに惚れてるんだ−



渥美の言った言葉を忘れたわけではなかったが、自分に何か非があるわけでもなく、行が平静(のように見えるよう)なのだから、気を遣うのも気まずいと思い、出来る限り明るい声で仙石は感謝の意を述べた。
渥美の旦那は確かに曲がったことが嫌いな方だが、調子がいい性分の方でもある。からかったに違いない。

するすると行は畳を滑り、行灯の光の届くところにまで部屋に入り込むと、真っ直ぐに仙石を見据える。その姿勢は、昼に見た彼の祖父に瓜二つで、仙石は筆を置き、行と向き合った。

「いつも使ってる言葉遣いにしろ」

「いつも、使ってる……?」

不機嫌そうに行は言うものの、仙石は何のことだか分からず間抜けに反芻すると、行も困ったように言葉を探し、やっとの思いで掴んだ言葉をそのまま口にした。

「菊政に言うような」

それでも仙石は理解に時間を要し、要するに「敬語を使うな」という事だと理解すると、照れたように、困ったように頭を掻いて首を横に振った。

「しっかし、仮にも若旦那は身請けして下すった御方。そうそう気安い言葉は…」

「使えと言っている」

「はあ………」

随分きつい口調で強制するので、仙石はお坊ちゃんの考えることは分からない、というように曖昧に返事をした。
そういえば、会ってからずっと、行は命令言葉しか使わない。
行の喋り口がそもそもそうなのか。
それとも、自分を「そういう風」に見ているからなのか。

「…祖父様の庭の樫か?」

仙石の自問など知る由もなく、書机に置かれた一枚の絵を長い腕で取りだし、仙石と絵とを見比べながら訊ねた。
その眼差しがいやに玄人じみているな、と仙石は思い、この画材道具は行の手づから選んだものだろうと確信した。

「ええ。随分立派な樫です…じゃねぇ…だ、だなぁ」

「この家が建つより前にあったと聞いている。…それにしても、下手だな」

仙石の褒め言葉も簡単に受け流し、その玄人の眼光とは裏腹に、何とも単純な批評をよこされて、仙石の頬が不自然に歪む。

どうせ売れない絵描きの絵だよ。

「木はあんまり描かないんでね」

「矢張り、仙石は川や海を描く方がいい」

「え?」

確かに絵描きの絵を知る者がいて不自然ではないことなのだが、何せ仙石は「売れない絵描き」である。
錦絵屋で一体今まで何枚店頭に並んだことか。
確か、宮津庵を贔屓にしてくれている地本問屋(本屋)の伝を辿って、なんとか頼み込んで置かせてもらったことが数回あったくらいで、とても老舗呉服屋の若旦那の目に入るものとは思えない。
いつか、自分がそう言ったのかと思ったが、昨日今日の発言を忘れるほどぼけてもいなかった。

「何で知って…」

「人相画はそこそこだったがな」

「若旦那?」

仙石の問いをかき消すようにして、行は書机に仙石の樫の絵をそっと置いた。
人相画など最後に描いたのはいつのことだったろうか?
行の言葉が理解できなくなり、ただ、造形のいい行の顔を眺めるだけだった。
行は少しの間仙石の様子を伺うように見つめたが、仙石が何も言い返さないことを確認して、立ち上がって行灯の前に歩み寄り、何の前触れもなく行灯を吹き消した。

「おぁっ、わ、若旦那!?」

急な暗闇に混乱し、仙石が立ち上がろうとするのを、どれだけ素早く駆け寄ったのだか、とにかく部屋の角にいたはずの行の手が、仙石のそれに重なり制した。



畳に押しつけられるように掴まれた仙石の手。
畳に押しつけるように握りしめる行の手。



その感触だけが、闇に感じられるものの全てだった。


「この十余年、俺はお前の為に生きてきた。お前が俺を生かしてくれた。…もう、死んでも構いはしない」

耳元で、行が囁く。
さっきまでの様子が嘘のように、吐息が熱く、仙石の首筋にかかった。

「何を言ってんっ………!!」

訊ねようと、行がいる(と思われる)方向を振り向くも、言葉の続きを許されなかった。
光のない空間だというのに、間違えることなく、行は仙石に口付けた。
触れるだけの物だったが、仙石を動揺させるのには充分すぎるもので、行は隙を見て、体重をかけるようにして仙石をその場に押し倒した。





その時。



仙石の肩口に頬を寄せ。




行は、確かに言った。










「やっと、俺のものに…」




































「い、嫌だっ!」









体の体温が急に冷えるのを自覚して、仙石は唇に貼り付く行のそれを齧り、怯んだ瞬間、突き飛ばすようにして立ち上がり、その場から足をもつれさせながら走り去った。






























「もの」




























身請けされたときから、分かり切っていたのに。




















行が追っては来ないかと思いながらも振り返ることも出来ず、仙石は唇を噛みながら、月光の元をがむしゃらに走った。



















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