2.早蕨









「よかったじゃないかい。絵に専念できて。気が向いたら遊びにおいで」

楼主の部屋に駆け込んだら、弘隆に満面の笑みでそう言われて。
仙石には何も返す言葉はなかった。























………本当に来やがった………。








昨日の仏頂面はどこへやら。如月屋の若旦那、行は宮津庵から出てきた仙石を見るなり、にっこりと微笑んだ。

「それだけで、いいのか?」

指し示すのは、仙石のぶら下げた風呂敷包み。
画材道具と、キセルと、一着しかない着替えと、







−日本刀が包んである−








老舗の御曹司にしてみれば確かに少ない家財道具であろう。
そもそも引っ越しという考えなど頭にない男なのだ。
仙石がこくりと頷くと、行くぞ、と言って歩きだした。


「お前さん、名前は」

「何故知りたがる」


知ってはいるが、行の口から聞きたくて、如月屋までの道すがら、仙石は訊ねた。

「呼ぶときに困ンだろうが。それともあれか?俺ァ名も名乗れネェような人に身請けされたのかい」

とりつく島も無さそうな行の言葉ではあったが、もっともな言い分を仙石が返すと、行は不意に、正面に向けていた顔を仙石に向けた。

「行之介だ。行と皆呼ぶ」

なんとも嬉しそうに。誰がどう見ても上機嫌そうな顔で言うものだから、仙石はその顔を直視できないで、往来に目を向けた。
予想通りに、町娘は残らず行を見つめるし、その視線がそのまま仙石に流れていき、安心したように肩をなで下ろしていた。

「呉服屋なんだってな」

「あぁ。祖父様(じいさま)がな」

面倒臭そうに答える。俺は違う、という意味だ。七光りを嫌っている。
正直で、なかなか好感の持てそうな男だ、と仙石は思った。

「上方言葉隠してンのはわざとかい」

「俺も祖父様も江戸っ子だ。曾祖父さんの代で江戸店(えどだな:上方商人の江戸支店)に奉公行って、暖簾分けしてもらった。その直後に元祖は潰れた」

「そりゃ、立派なお人だなぁ」

奉公人が暖簾を分けてもらえるとは、滅多にないことだ。よほど才覚溢れる男だったのだろう。

「俺は仙石だ」

「知ってる」

「……あ?」

「着いたぞ、仙石」

いつ名乗ったのだろうか。
仙石が首をひねっているうちに、行は慣れた仕草で暖簾をくぐった。
一際大きな屋敷の造りは、いかにも老舗という風格を無言のうちに語っている。
呉服屋ということもあってか 、暖簾ひとつをとっても、藍染めの素晴らしい品であることは、素人の仙石にも感じられた。



「若旦那、お帰りなさいまし!」



行が敷居をくぐるなり、小柄な少年が小犬のように駆け寄ってきた。
行よりも年下だろう。前垂れがよく似合っている。

「菊政、今日は饅頭は無いぞ」

「酷いじゃないですか若旦那、それじゃあ俺が饅頭目当てで旦那をお迎えしたみたいじゃないですか」

「絶対にそうじゃないと言えるか?」

「……いやあ、若旦那もお人が悪い」

行の羽織を脱がせながら、菊政と呼ばれた少年は口を尖らせるも、次の瞬間には悪戯小僧のように笑う。
行とは全く正反対の性格のように映る菊政は、そのよく動く目で、行の後ろに立つ仙石を素早く見つけ、それでなくても大きな目をこれでもかと言うほどに広げた。

「仙石という。俺のだからな。手を出すな」

「へ?……あの、じゃあ、吉原で身請けなすったってのは、この……」

じろじろと遠慮なく仙石を見る菊政に気付いて、行は釘を差すと、そのまま奥に引っ込んでしまった。
どうするべきか仙石が戸惑っていると、旦那様に呼ばれてるンですよ、と菊政は明るい調子で言い、江戸紫の座布団を敷いてくれた。
旦那様、というのは行の祖父に当たる人物だそうだ。

「妙だとは思ったンですよ。若旦那が女を買うだなんて。あの旦那様が飯吹き出しましたからね。ぶわっと」

そう言いながら、昨日若旦那が買ってきてくれたンです、と、黒饅頭を出してくれた。
3つ出したので、そんなには要らない、と言おうと仙石が口を開けるも、菊政はその1つを掴んで、自らの口に放り込みながら、話を続けた。

「あ、俺は菊政と申します。如月屋さんには、ガキの時分からばあちゃんと一緒に使用人として置いてもらってるんです」

仙石も名乗ると、菊政はのけぞった。

「ひゃあ、じゃあ若旦那、吉原は吉原でも宮津庵で身請けなすったんですか」

「まあ…俺ァ遊女じゃネェがな」

無理もない。宮津庵と言えば美人揃いで教養高いと評判の妓楼の1つだ。
行のような商家や武家ならともかく、庶民はひやかしに覗くのが限界だ。
そういえば行は自分の身請けにいくら払ったのだろう、とぼんやり思った。弘隆に訊ねそびれた。

「でもよかった。悪い女に引っかかっちまったんじゃないかないかって、旦那様と心配していたんです。仙石さん、いい人で本当によかった」

「見た目ですぐ判断するのはよくネェぞ」

「その言い方がいい人だというんです。それに伊達に客商売してるわけじゃありませんから」

あはは、っと調子よく笑うのと、早足で行が戻ってくるのとはほぼ同時だった。

「仙石、祖父様が呼んでる。来い」

仙石の様子など構わず、といったように背中を向けてしまう。
饅頭を慌ててお茶で飲み下し、仙石はそのあとに続いた。














































一番奥の、樫の木の見渡せる部屋に、行の祖父、如月屋の主はいた。
好々爺とは程遠い老人は、利休茶の着流しを姿勢良く着こなし、上方商人が支配する商人社会に於いて生き抜いてきた生粋の江戸っ子の眼光は、時によって朽ちることなく、静かに、それでいて力強く現代を見据えていた。

「行、お前は下がれ」

「…………」

深く染み入るような声色をものともせず、行は仙石の後ろに控えたまま微動だにしない。
予測できた孫の態度に、主人は軽く息を付いて言葉を足した。

「何もとって食うわけでもあるまい。下がれ」

「………」

しばらくふてくされたように行は祖父を見つめたが、やがて根負けしたのか、不作法に立ち上がると、襖を閉めていった。



「儂が如月屋だ」



やや微笑をたたえた顔に、やっと人間らしさを見いだして、仙石は座り直して手を付いた。

「仙石と申します。あの、ご老体」

深刻そうな仙石の表情を見るなり、如月屋は手をひらりと前にやり、言葉を遮った。

「あぁああ分かっておる。先刻あれから話を聞いたがの。…まあ、あいつらしいと言えばあいつらしいが。宮津庵の主人も、よくあんな理由で身請けさせたものだ」

「何て……」

「欲しいから手元に置いておきたくなった、だそうじゃ」

「……………」

そこでお互いが沈黙する。
仙石も戸惑いの色を浮かべていることに気付いて、先に言葉を出したのは如月屋の方だった。

「気まぐれということもあるまいが、申し訳ないことになったのぉ。行のことはそう気にせんでもええ。元の暮らしが気に入っているなら、儂から弘隆の旦那に言っておくが…どうするの、仙石殿」

「そう。ですねえ」

昨夜のうちに腹をくくってしまった仙石は、思いもよらない自体に目を丸くした。
何故、これほどの人格者からああいう孫が生まれるのだろう。

「行のことだ、一筋縄ではいかんだろうが、なあに、儂もあれのじじじゃ。なんとか説得する」

「はあ……」

「もちろん、お前様がいたければ、一生だってここにおればよい。一目見ただけじゃがの。儂はお前様が気に入った。よい目をしておる」

「そりゃー…どうも」

少し喋りすぎたかの、と言って、如月屋は快活に笑った。
行も笑うとこんな顔になるのだろうか、と思った。

「どちらにせよ、今日は家に泊まって下され。なァに、ここは呉服屋。売るほど替えの着物はあるからの」

そして、不意に手を叩くと、声を張り上げて菊政を呼んだ。

「菊政、菊政!仙石殿を部屋にお通しなさい」

「はい、旦那まうわぁ!!」

すかさず聞こえた菊政の声の後半は、驚愕の悲鳴に変わる。
何事かと、如月屋が立ち上がり襖を開けると、そこには顔を伏せて座っている行が廊下になおっており、その隣にはひっくり返っている菊政が転がっていた。

「行、下がれと…」

「下がっているだろう、部屋から」

頭が痛そうにやれやれと如月屋が息を付くと、行は頭を下げたまま反論する。
頓知なぞどこで覚えた、と如月屋はひとりごちた。

「仙石は俺が買ったんだ。いくら祖父様とはいえ、何と言われようが俺は仙石を手放しはしないからな」

「行之介……」

顔を上げると、その目はぎらついていた。
その眼光に、一瞬、本当に一瞬だったが、如月屋が怯んだ。
その一瞬の隙をついて、行は勢いよく立ち上がると、仙石の腕を掴んで廊下に出た。



「お、おいっ……!」

意を心得た屋敷の中を、仙石を引きずり回しながら、すたすたと歩いていってしまう。
行の方が2寸ばかし低いので、腕を掴まれた仙石は、それでなくても不案内なよく滑る廊下を、しゃがんでいるのか立っているのか分からないような不安定な姿勢のまま、転ばないようにすることに必死だった。


どれほど歩いたのか分からないが、行が止まったので仙石も止まると、行の視線の先には空き部屋があった。

「この部屋を自由に使え。身の回りの品は一通り揃えたはずだが、何か足りなかったら言え」

「っ…若旦那、離して下せぇよ…!」

時間と共にきつくなっていく腕の力に、仙石は顔をしかめた。
この細腕のどこにこんな力が眠っているのだろう。

「さっき言っただろ。行之介、だ」

「い……っ!」

むしろますます強くなる握力に、仙石は短い悲鳴を上げた。
行は念仏のように、一人ごちる。

「俺が買ったんだ、祖父様じゃない。覚えておけ。俺が…」




「人を痛めつけて喜ぶ趣味があったのか、行」




よく通る声が念仏をかき消し、仙石と行は背後を見た。

「……渥さん」

「渥美の旦那!」

江戸小紋が憎らしいほど似合う、絵に描いたような粋な侍は、名の知れた色男である。
二人に別の呼び名で呼ばれた渥美は、その垂れ目をやや細めて、諫めるように行の手を見た。

「とりあえず行、その手を離してやれ。お前は童の頃から加減を知らぬな」

「人の家に入り込んでおいて随分な物言いをなさる」

乱暴に仙石から手を離すと、行はきっと渥美を睨み上げる。
その目を子供のもののようにかわしながら、小さく方を竦めて、苦笑した。


「心外だな。俺らのじじ様は昔からの将棋仲間だろうに。菊政が泣きついてきてな。まァ、確かに歩き飽きた家ではあるなァ」

「………!」


噛みついたのに全く痛がられずに悔しそうな犬の顔で行が睨み上げているのなど全く無視して、渥美は口をあけたままの仙石に笑いかけた。

「やあ仙さん、呉服屋に転職か?」

「はあ、まあ……」

「事情は聞いている。行に身請けされたんだってな」

意地の悪い男である。
そこに、転がるようにして菊政が行たちに追いついた。

「仙石さん!ご無事で…!!」

「菊政」

「ああ、菊政は責めるな。コイツは泣きながら床に転がっていただけだ」

責め立てるような行の声をなだめてから、また渥美は仙石を見て、それはそれは楽しそうな顔で、こう告げた。

「仙さん、大目に見てやりなさい。多分コイツは初めてだろうからなぁ」

「…初めて?」

やっと仙石が声を出すと、渥美はわざとらしく驚いたような顔を作って、当然そうに言った。

「男が身請け引き受ける理由なんざ、1つに決まってるだろう。お前さん、あれだけ妓楼にいて、分からぬこともあるまい」

「……は…?」

それでも首を傾げる仙石に、渥美は深くため息を付き、肩を落としてから、行と仙石を見比べながらも、さらりと答えた。









「行は仙さんに惚れてるんだろ」












「えぇえええ!!?」

声を出せたのは菊政だけである。仙石はどう反応していいのか分からずに硬直し、行は仏頂面。三者三様の顔に渥美は愉快そうに、高らかに笑った。


「さてさて、菊政。行儀鮫を頂戴しようかな。そういえば瀬戸を待たせてるんだ、早くしておくれ」

「は、…ははははははい!!」


引き返していく渥美に、慌てて菊政はついていき。
そしてまた、二人きりになった。











「……な、なあ、行の旦那」

恐る恐る仙石が呼びかけると、すかさず行は顔を明後日の方向に向けてしまった。





首はもちろんのこと、耳の先まで赤かった。








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