1.野分
























日が沈むと、この町はまどろみから目覚める。



























全ての観念が普通と逆転しているとも言えるこの町に住んで、何年になるのか。
仙石はもう勘定する気にもならなかったが、来た頃に禿だった佳織が、夏を越す頃には新造になるというから、短い年月でないことは確かだ。

秋の風は冷たいが、何処でも火を灯すから、この辺りは秋と冬の境目が付きにくい。
女達のけたたましい笑い声の中に、男達の砂利を食む音が時折混じり、近づいては遠のきを繰り返していた。

「仙さん、珍しいじゃアないかい。いい女の匂いでも嗅ぎつけたのかい」

奥から顔を出してきた、見るからに気怠そうな仙石を見て、囃すように紫の着物の女は言う。芳(カオル)、ここでの名は、朧月夜という。夜桜を模した着物に、凛とした姿勢が似合っていた。

「鼻なんざ白粉の匂いでとうに狂ってらア。たまには下界の空気も吸っとかないとな」

「仙さん、今度は何描くの?また売れない海の絵?」

「頼(ヨリ)、売れないが余計だ」

緋色−恐らくは牡丹と蝶の構図だ−の着物を身震いするほどに着こなす頼(ここでの名は胡蝶だ)が上品に微笑むと、仙石は頭をガリガリと掻いて叱るように言ったが、芳と顔を見合わせて、だァってホントの事じゃないのネェ、と鈴のように笑った。

「なンなら頼を描けばいいのサ。仙さん、絵は巧いんだから。頼の美人画はよく売れるそうだよ」

「芳姐さん、仙さんはどちらかと言えば武者絵でしょうに」

「俺を描くンじゃねえぞ、頼」

「あぁ、そうでしたっけねぇ」

とぼけたように頼が言うと、そこでまた二人して笑った。
芳も頼もこの「宮津庵」では一番聡明で美しい遊女だ。こうして並べば桜と梅が一度に咲いたような艶やかさがある。

しかし、仙石は格子越の向こう側の男達と同じように、鼻の下を伸ばすことは出来なかった。







ここの女達は、哀しすぎる。









否、「宮津庵」の主は、吉原にいるのが不思議なほどに、人がいい。
こうして売れない絵を描く喧嘩の強い男を、用心棒として随分長いこと雇ってくれている。
何せ吉原。岡場所(非公認の遊郭)でもないから、いざこざなど見たこともないし、横暴な客がいたら主人の弘隆が自ら赴いて話を付ける。
要は、妓楼が男にタダ飯食いさせているということなのだ。
幸い、ここの女たちは過去にいかなる事があっても皆明るく、芳や頼のように、仙石を慕い、からかう。
泣き顔など、どんな時にも見せない強さがある。
しかし。

その裏で、彼女らは幸せになりたいと常に叫んでいるのを長年住み着いているうちに知ってしまった。









金で売られて金を稼ぎ、金を積まれて買われていく。

金、金、金。

それじゃあ「物」だ。

絶世の美女と呼んでも罰は当たらない。芳や頼でさえ、この空間では物だ。

こんなところに連れてこられて、それでも幸せになりたいと思うのが、ここらの女達だ。


物になりきれず、どんな屑でもいいから人でありたいと願う。


それ自体が、哀れだ。










仙石はとうの昔に遊女を「物」として見れなくなっている。それと同時に、遊女と女は全くの別物であるということ理解してしまった。
だから、哀れんでしまうのだ。






何かの苦し紛れに、キセルを吹かしてみる。そうしたところで、そこら中に漂う白粉の匂いを消せるわけでもなかったのだが。
カタカタ鳴るのは女の笑い声かと思ったが、どこかで回る風車だった。どこかの遊女が客に買わせたのだろう。
しばらくすると、小さな風車を帯に指した遊女が、見るからに軽薄そうな男の腕を抱き、上機嫌そうな表情を作っていた。


「あら、あの長羽織の。ねぇ頼、あの人ァ…」


格子に顔を寄せて、芳が頼を手招きする。
別段見る物もなかったので、仙石もそれに倣って格子から、西側の道筋を見た。
いつもと代わり映えしない。
壁からは異様なまでに白い女達の腕が伸びているし、お世辞にも趣味のいいとは言えない着物を纏った男達がふらりふらりと歩いているだけだと思ったのだが。


不思議なことに、芳の言っていた「あの人」はすぐに分かった。


この通りには不似合いな程の美男子だった。それも、とても若い。
唐桟の長羽織を纏い、髪は風に揺れている。羽織は遠目に見ても相当の上物に見えるが、見事に着こなしている。唐桟…縦縞のせいなのか、すらりとした長躯で、すれ違う男は皆咎はないだろうに身を小さくしていた。
伏し目がちの目をまつげが覆っていて、若衆歌舞伎の二枚目…否、女と間違われても無理は無い気がした。
いつもなら我先にと黄色い声を上げる女達だったが、その男に関しては静まり返っていた。
叫び上げることがどれだけはしたない事なのか、実はしっかりわきまえている様子で、しきりに髪を直し、着物の袷を微かに下にずらしたりして、静かながらにも、男の今宵の相手になろうと必死だった。

そんなものには目もくれず、淡々と男は歩いてくる。
仙石でさえ見とれる男は、近くで見れば見るほど美しかった。

こんな男を相手にするのは、ここらの遊女には酷だろう。

仙石は無意識のうちにそう値踏みした。頼でも釣り合うかどうか怪しいところだ。
そんな仙石の目線に気付いたのか、男はぼんやり眺めていた視界を格子の中に注ぎ、驚いたようにして、早足で宮津庵の格子に手を突っ込んだ。


「アンタ、幾らだ?」












「………あ……?」


その美男子はよどみなく、仙石の、他の女達とは間違えようのない太い腕を鷲掴みにして言った。
真っ直ぐ仙石を見ているあたり、隣の芳や頼の腕を掴み損ねたわけではない、と仙石は悟った。

「旦那よ、お前さん…目盲(めしい)か?」

ちゃんと視線は合っている。そんなわけないと分かりながらも、仙石は今の状況を肯定するにはそう訊ねるしかなかった。

「いや?よく見える。綺麗な指だ」

仙石の声を聴けたのが嬉しい、というように、男はその形のいい唇を品よくつり上げて、掴む物を仙石の腕から指に変えた。
そして、仙石の指一本一本を確認するかのように撫で上げた。
こんな風変わりな男をまともに相手にしていたら夜が明けてしまう。
仙石は呆れながら、自分の指をうっとり見ている男に言う。


「若旦那。いいか?ここらは遊郭だぜ?そしてここは妓楼。遊女屋の宮津庵。女を買う所だ。俺が女に見えるか?」

「いや?」

「じゃあ冗談かい。その仏頂面にしちゃあ巧いこと言ったなぁ」

「冗談ではない、アンタがいい」


真面目そうに男は返したが、実は先ほどからほとんど表情を変えていない。
感情は空気で表現する男らしい。ひどい仏頂面だ。


「妓楼で用心棒を買いたがるだなんて、聞いたこともねぇ。男が買いたきゃ陰間茶屋だろ。芳町は美少年揃いだっつうぜ?」

「用心棒なのか」


話の後半はまるっきり無視している。


「本職は絵描きだ。それで喰えねぇからココで用心棒で置いてもらってる」

「絵描きが人を殴るのか」

「そりゃあ、用心棒だからなぁ。喧嘩と花火は何とやらっつうだろ?」


さも当然そうに、おどけて仙石が言うと、男は泣きたいのだか怒りたいのだか分からない表情を作って、仙石の手の甲に囁いた。


「……勿体ない」

「あ?」

「この手が人の脂にまみれるだなんて、悲惨すぎる」


まるで自分の女房が死んでしまったかのような顔で仙石の手を握り、少しの、本当に一寸の間顔を俯かせると、男はまたよく通る声で言った。


「決めた。俺が買い取る。うちに来い。傍にいてくれ。用心棒などしなくても絵なら幾らでも描かせてやる」


ぶつ切りながらも筋の通った口調に仙石は臆したが、それでもおどけたように話す。
もう、道化を装わないと、まともに話が出来そうになかった。


「宵越しの金は持たねぇってか?しかし、金の使い道は考えなくちゃいけねえぜ若旦那」

「酒は飲まない。欲しいと思ったのはアンタが初めてだ………主は奥か?」


思い立ったが吉日、というのはその事だろう。
一番近くにいた芳に目配せをしてそう尋ね、芳が勢いに臆してこくりと頷くと、仙石の手を仰々しく離して、玄関口に周り、多くの視線をものともせず、店の奥につかつかと入っていってしまった。









「仙さん、仙さん。あれは行様よ、きっと」

唖然としている仙石を呼び起こすように、頼が仙石の袖を引っ張った。
そこでハッと我に返った仙石は、一寸遅れて頼の口に顔を傾けた。

「行様ァ?随分短けぇ名前だな」

「莫迦ねぇ、渾名に決まってるじゃないのさ。如月屋の若旦那。行之介様とおっしゃるそうよ」

「……如月屋っつったら、あの如月屋かい。呉服屋の」

宮津庵も贔屓にしている、老舗の名前だ。
成る程、それであんな上物の羽織を、などとどうでもいいようなことで納得していた。

「そうよオ。いっつも仏頂面で、つれないって有名なンだから」

芳は、未だ信じられないというように息を大きくついてぼやいた。
どうやら、如月屋の若旦那、行之介…行が、自分たち遊女ではなく、「男」で、「無骨」で「武者のよう」な仙石を選んだことに放心しているらしかった。


「本気にするなア芳。あの仏頂面で言われちゃあ、冗談も冗談に聞こえねぇがなア。今頃弘隆の旦那と将棋でも打ってンじゃねぇのか?」


そんな芳を気遣ったのか、それとも今までの出来事への言い訳なのか、仙石は必要以上に大きな声でそう言った。

「そうよネェ。仙さん買ったって、お屋敷が狭くなるだけだもの」

本気なのか冗談なのか、頼がコロコロと笑った。つられて芳も笑う。

「ははは、違げぇネエ」

「話がついた」

仙石笑いに便乗しようとしたとき、背後から仏頂面の声がした。
振り向けば、先ほどよりかは随分機嫌がよさそうな行が、仙石の後ろに座っていた。

「…は?」

「明朝、迎えに来る。それまでに支度を」

口をぽかんと開けた仙石を愛おしそうに見返して、行はそう続けた。
言葉を繋げる間も、行の目はきらきらと光っていて、祝言前の新郎の表情に似ていた。

「え、………あ?」

「誓って、もうこの指を、何物にも汚させはしない」

「ちょ、え」

仙石が反論、質問する前に、行は仙石の手の甲に口付けし、ふわりと風のように去っていき、アッという間に見えなくなってしまった。


野分のような男だ。


そのあとを仙石はぼんやり見つめたが、野分の跡に何かが残っているはずもなかった。
ただ、いたという痕跡が、手の甲に感触として残る。
































「玉の輿じゃアないかい。仙さん。こりゃあ赤飯だネェ」

「………………………………」

愉快な芝居を見させて貰ったというような、何の悪気もない頼の声が、どこか遠くで聞こえた。






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