松風
ぽつり、ぽつりと明かりが灯る。
闇夜を昼に変えるなど、不相応なことは望んではいない。
ただ、そこを照らし、螢の如く、人を魅せ、呼び寄せる。
時にそれは、寂しい心であったり、やるせない悲しみ、絶望だったり、筆舌尽くしがたい欲望だったり。
何色と表現はできない。だから、人はこう名付けた。色町と。
男と女。そして金と時間。
篝の下、混ざり合うだけ混ざり合い、陽の光に当たれば、たちまちに蒸発してしまう。
儚い町。現と幻の狭間。
そうして今日も、現から、幻に、かりそめの温みを求める男が、一人。
途端に、木枠の内の女達は、そろって黄色い声を上げる。
今宵の相手を、などと、身の程知らずな思いは抱かない。
ただ、ほんの数刹那、瞳が合うだけで、いつもと変わらぬ夜が、胸躍る夜となる。
絵に描いたような、流麗な姿。
上級な楽器によく似た、すり足の音。
その、決して不貞不貞しいとは思わせない、生まれながらの、気高い風格。
彼の歩む後には、ため息がこぼれるばかり。
それを知ってか知らずか、彼は、今日も足を進めるのは、同じ刻限、同じ場所。
ほんのりと灯る、その炎に品を感じてしまうのは、ただの思いこみだろうか。
高級遊女屋、宮津庵。
「あら渥美様。今、上がり花をお持ちしますね」
敷居をまたぐ渥美の姿を、一番年かさの禿が見つけて、茶を持ってこようと背を向ける。
それを制止するように、ああ、ともおお、ともつかない声を上げながら、渥美は手で禿を呼び止めた。
「胡蝶は部屋か?」
短い息づかいで訊ねると、禿は、何かを諦めたような顔をして、お待ちです、とだけ答えた。
「瀬戸、ここで分かれよう。お前も、縁の女が居るなら逢ってこい。それがないなら、帰って良いぞ」
渥美が振り向き、声を掛けたことで、その男は、やっと実体を露わにする。
どこか飄々とした目つきながらも、固さを崩すことのない瀬戸和馬の眼差しは、一瞬、渥美を哀れむような、咎めるような意志を見せたが、了承の意も込めて、遊女屋に上がり込んだ渥美に背を向け、禿が渥美用にと持ってきた上がり花を、代わりに飲み干した。
キシリキシリと、子猫のように階段は泣きながらも、渥美を二階へ通してくれた。
右から3番目、一番街道を見渡せる部屋。そこから朝日を見たのは、一度や二度ではない。
自分の記憶が正しければ、この、子猫まがいの泣き声に眉をひそめた回数よりも三度ほど少ない数だけの夜明けを見たはずである。
いつも禿を引き連れるのを嫌うことを知ってか、今ではもう、渥美一人でここに向かうのが、宮津庵では見慣れた光景となっている。
自分でサラリと襖を開けると、女のうなじが目に入った。
その光景を独占したくて、即座に部屋に入り、襖を閉じ、女の背後にどかりと座った。
女は、動かない。
唐織の衣装が、行灯の日の揺らめくたびに、赤や金や緑や銀に代わるのを、渥美は目を細めて見送った。
「胡蝶」
投げかけるように、女の名前…否、女がそう呼ぶように言いつけてある単語を口にすると、胡蝶はゆっくりと正面を向いた。
闇に浮かぶ白い肌は、もう少し暑いと溶けてしまいそうに見えた。
「この前のお話は、お断りいたします」
瞳を揺らすことなく、胡蝶は口にした。遊女特有の、全てを悟りきったような凛とした声に、渥美は、自身がゾクリと欲情するのを自覚した。
「楼主はお前が首を縦に振ればよいと申したぞ」
「首を振ってないじゃないですか」
「胡蝶」
諫める、というよりは縋るように渥美が名を呼ぶと、胡蝶は今日初めての笑顔を見せた。
本当に、何と流麗に笑うのだろうか、この蝶は。
「渥美の若様が遊女を本妻になさるだなんて。とんでもないお話ですよ」
酒(ささ)でもお召しになりますか?と、眼差しで訊ねてから、否を唱える様子のない渥美を一瞥し、胡蝶は渥美の前に猪口を差し出した。
「お前以外を妻になど出来るものか」
「困らせないで下さいな」
大人しく猪口を持ったくせに、まだそんな子供じみたことを。
母親のような口調になりながら、渥美の猪口に酒を注いでいく。
それが、一杯になる前に、渥美は猪口に唇を付け、一気に喉に流し込む。
荒々しい飲み方の癖に、唇は商売女よりも艶めいている。いつものことなのだが、今日に限って、やけにそれが、胡蝶には目に付いた。
「…俺は本気だ。お前と祝言を挙げられるのなら、何だって捨てられる」
「その御言葉、捨てられる物がない方の仰りようですよ…私は捨てられぬものがございますから」
「仙さんか」
「…………」
下から渥美が睨みあげるものの、胡蝶は酒のせいだろうと薄く微笑んだまま、表情を崩さない。
ここで飲む酒には滅法弱いのだ。渥美という武家の子は。
猪口をずいと差し出し、せがむので、胡蝶は猪口を満たす。
「俺くらいの侍なら誰でも覚えている話だ。飯玉家の息女は絶世の美女。しかし幼き頃より、許嫁がいるそうな、と」
「枕話にもならぬ、ただの昔話です」
「想いは常住だ」
「渥美様も」
「………」
不意に目を合わせた二人の瞳は、偶然なことに、同じ冷たさだった。
お互い、初恋はとうに枯れた齢であるし、この世の常識のように、恋を徒花とした者達である。
似た傷を持つから、似た場所で、似たような人間を、もとめる。
当然のようでいて、随分と奇妙な気がした。
やや長引いた沈黙の後、先に口を開いたのは渥美であった。
しかし、それも、酒の滑りを使った、やや卑怯な手法だったが。
「仙さんは歩いているぞ」
「私は遊女。殿方の妾(めかけ)にございます。目欠けがどうして歩めましょう」
再び空になった猪口に、胡蝶が酒を注ぐ。
しかしながら、渥美はそれを自身の唇にではなく、几帳面に紅の引かれた、胡蝶の唇に差し出した。
拒絶することもできず、胡蝶はそれを、渥美の手のままに飲み干す。
瞬間、熱い痺れが喉を襲った。胡蝶は、酒には弱い。
「虚しくないのか」
「人の心など、そこの窓から、とうの昔に捨てました」
「頼」
「その名で呼んでいただく殿方は、たった一人と決めておりますの」
言葉に紛れて呼んだつもりだったろうが、その一言を耳聡く聞き分けて、胡蝶はつめたく渥美を見据えた。
渥美が、胡蝶に注いでやろうと徳利を持つが、その重さに眉を寄せた。
徳利の中身は、胡蝶が口にしたのが最後だった。
それが、渥美の、幻から抜け出る合図。
いつからだろうか。この、白い肌を抱くことなく、渥美が現の街へ帰るようになったのは。
一番始めの祝言の誘いを断ってからだろうか。
流石に、胡蝶は冗談だと思って、真剣だった渥美にとっては、随分手酷い受け答えをしてしまったのだ。
それが発端だとするならば、何かのつまらない意地だろうと思っているのだが。
始まりの日時を、思い出すこともできぬ程に時が経ってしまうと、それはハズレではないかという思いもよぎる。
好いてもない(客なのだ、当然だろう)男に抱かれずに済むのは有り難いことだというのに。
この体が冷えていることに、不満を持つ自身に、胡蝶は戸惑い。
客に言うはずである、刹那ばかりに効く、耳を溶かすような安上がりの睦言を、そういえば渥美には吐いたことがないことをには、気付かないようにするのに必死になり。
なんと滑稽な女に成り下がってしまうのか。
だから、この男が来る時刻が、胡蝶には恐ろしく、億劫に感じられる。
去るときも、同じ心地であることを、腹立たしく思いながら。
「…1つ答えてくれ」
徳利が空になったのに、渥美は物憂げに、てらてらと妖しく光る猪口を見つめながら、胡蝶に問うた。
「あの時、婚約の相手が仙石家ではなく、渥美家であったなら、お前は…………」
「詮無いことを申しまするな」
続きを聞くのも、行儀良く聞き終わった後に、行儀良く答えるのも耐えられなくて、胡蝶は叫びたいのを寸前で堪えて、渥美の声をうち消した。
感情を露わにした胡蝶の声に、渥美は目を丸くしたが、何か義務のようなものを感じて、渥美はカラカラと、渥美にしては子供のような笑い声をあげた。
「………あぁ、そうだな。枕話にもならぬ」
「また来るぞ」
「どうぞお好きに」
襖に手を掛けて渥美は胡蝶にいつもの言葉を言うと、胡蝶もまた、いつもの言葉で答えた。
このやりとりが、永久に続けばいいと思うのに、それが叶わないことを知っている。
「……俺は、ここでしか、お前に触れることができない。情けないものだ。人の心とは、金の重さでしか示すことが出来ぬ。この街は」
「…そうでなければ、この街は、壊れてしまいます」
「壊れる前に、俺は、お前を出したいのだ」
「そんなにお優しくては、その高さに座られてるのはお辛いでしょう」
「…お前がいると思うから、耐えられるのだ」
襖に手を掛けた渥美が、振り向く。
胡蝶は、既に街を眺めている。
嗚呼、胡蝶は、そうして自分を見送っているのかと、渥美は初めて知った。
「また来るからな」
行って、胡蝶の返事を聞かぬまま、渥美は襖を開け、閉め、去った。
「…優しい御方」
胡蝶の声は、窓の下の、黄色い女の声に混ざり、飲まれて消えた。
子猫の声を聞きながら、階段を下ると、縁側に、まだ10にも満たない、幼い禿が3人ほど集まっていた。
その中心には、渥美のよく見慣れた男が。
「待ってたのか」
渥美の声で振り返ると、瀬戸は、手元に持っていた紙片を、3人の禿にそれぞれ手渡した。
どうやら、禿たちと、折り紙をしていたらしい。
「女遊びは好かぬ。それに、胡蝶という遊女に、半刻待っていろと言伝られた」
「…そうか」
「振られたか」
「あぁ」
「遊んでばかりいるからだ」
「そうだな」
無駄のない瀬戸の言葉に、渥美は苦笑しながら答える。
ここは色町だというのに、この、深い声色に、渥美は現実を思い出す。だからこそ、ここに連れてくるのだが。
「惚れた女には、振られてばかりだ」
にかっと笑ったつもりだったのだが、瀬戸の顔が固くなったので、失敗したかと、心内で舌打ちした。
「……呑むのか?」
「あぁ。そうだな、お前の酌が欲しい」
今度の冗談は通じたようで、瀬戸が目だけで笑い、付いてこいとばかりに、敷居を跨いだ。
「……なぁ瀬戸」
「ん?」
呼ばれて顔を横に向けると、暗がりに、渥美の顔が浮き出る。
その眼差しが、女のように艶っぽく、毎日飽きるほど見ている横顔だというのに、少し動揺してしまう自分を憎らしく思う。
「お前の伯母だか叔父で、京から椿を送ってきたのがいたな。あれを、一枝もらってもいいか?」
「…お前にしては随分な執心ぶりだな」
「知らぬのか?俺は一途だぞ。確か、まだ遅い花が残っていたろう」
「他の花…では、駄目なのだろう?胡蝶侘助でないと」
胡蝶、を強調して言うと、お前には敵わない、と口の中で言ってから、渥美はへらりと笑った。
「からかうなよ」
「真実しか言わぬだけだ」
大門をくぐり、堀を抜ければ、その空気から白粉と酒が抜け、今は真夜中だと言うことを告げていた。
星は見えない。
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