夢浮橋














絵を描くと、母様が褒めてくれた。

だから、好きだった。


今でも覚えているのは、饐えた匂い。それが、記憶の中で一番古いもの。
お祖父様の話からいけば、その頃はまだ一歳にもなってなかったというのに。
あの、気持ちの悪い匂いの正体が、男と女の腐った匂いだと知ったのは、かなり後になってからだった。
その匂いから、すくい上げたのは父親だった。
母親似だったから、酷く残念だったと、酔ったときに話していた。

決して、父親のことは好きではなかった。
ので、父の機嫌取りのために絵をやめる、という考えは毛頭なかった。
けれど、父が不機嫌だと、決まって母様をぶって、蹴って、泣かせる。
だから、絵は描かない。母様が泣いてしまうからだ。














「名前は?」

「行之介というのですよ」


母様が、代わりに答えてくれたと思う。頭を撫でられるのが、大好きだった。


「行之介…。立派な名前だがな。少し長いから行と呼ぼう。行、お前、蝶は好きか?」


差しのばされた大きな手が、今でも忘れられない。



渥美の兄様は、よく遊びに来てくれた。



年の離れた子供と遊ぶのが楽しいのか。それとも、遊び相手といえば菊政しかいなかったのを見かねて、だったのか。
渥美のお祖父様は、年下と遊ぶ兄様を、始めこそ、渋い顔で観ていたが、年頃の娘に手を付けるよりかはマシか、と納得したようだった。
美味いと評判の菓子を買ってきてくれたり、自分が面白そうだと思ったおもちゃを、お前が気に入りそうだから、と口実を作って、買ってきたり。
チャンバラや肩車もしてくれたし、体の弱い母様や、忙しい祖父様やクメに代わって、祭りに連れ出してくれたこともあった。


いつも、瀬戸と呼ぶ付きの者を引き連れてくるのだが、屋敷の中で一緒に行動しているのは見たことがない。
とても剣士らしい風体をした人だ。
瀬戸さんは、短い用ならば店の着物を眺めて、番頭達と産地や染め方についての話をしているのだが、長い用ならば、兄様と一緒に上がり込み、兄様が遊んでいる間、お祖父様の蔵書を読んでいる。
仲が悪いのかと思えば、帰るときはいつも一緒に、肩を並べて帰っていく。
あまり話したことはないけれど、優しそうな人だった。

「そんな、お父上に知れたら大事でございますよ」

渥美の兄様が肩車をしていると、クメは決まってそう言った。
それを、決まって渥美の兄様は笑い飛ばす。

「初音殿は俺の叔母上の姪君だ。ならば、その子の行だって、俺の甥か従兄弟か、そのくらいの縁があってもおかしくはないだろう。親戚の子供と戯れて、何か咎があるのか?」

兄様が来ていると、母様も嬉しそうだった。そして、母様と話している兄様も嬉しそうだった。





そして、渥美の兄様も、父親が嫌いなようで、安心した。




父親は、母様を憎んでいた。
きっと、父親本人すら、知ることがなかっただろうが。

美しく、どこまでもどこまでも澄んだ母様が、恐かったのだろう、と思う。






「あの女、ああ見えて強かだったからなぁ。俺の子かどうか怪しいもんだぜ?」





小さな頃は、目の前でも平気でぶっていたが、だんだんと、こちらの体が大きくなるにつれて、隠れて母様を殴って、蔑んで、罵倒した。
母様は、始めこそ泣いていたが、もう、最期の方では、涙も尽きてしまったように思えた。
















「…まぁ、できそこないのお前には、丁度いい玩具かもなぁ」




















































雪も降らない、寒い朝だった。











































渥美の兄様が、会津の絵蝋燭をくれた。












とても綺麗だったから、母様に差し上げようと。











母様は、お部屋にはいらっしゃらなかった。




















庭で、艶やかな蝶が、地を泳ぎ。
































友禅の似合う母様は。








































渥美の兄様の脇差しで、その、首を。



















かあさま、かあさま。










こんなところでは風邪をひいてしまうと。









肩を揺すれども、その肩は風より冷たく。




























































兄様が泣くのを見たのは、その時が最初で、それから見たことがない。








































































また、父親が金の無心に来ているらしい。

俺を見ると、化け物でも見るかのような顔をする。
渥美の兄様も来ているそうだが、父親が来ていると知っているのか、祖父様の書斎から一向に出てこない。
死んでいるのかと思って、様子を見に行くと、珍しく、難しい顔で本を読んでいた。

ふいに、祖父様と父親の声が聞こえた。
隣は祖父様の部屋だ。
もっとも、父親の方は、怒鳴り声だった、が。


「耄碌ジジィが!!俺の子かどうかも分からねぇ、あんなガキがいいってか!!!」


渥美の兄様の眉が、ぴくり、と動いた。


「…行之介には絵の才がある。本人にその気がないのなら、継がせる気はない」

「跡継ぎ?バカ言うな。この家の金はなぁ、全部俺のモノだ!俺の代で、全部使い果たしてやるよ!!!」

「っ…!何をするっ!!」


何か、鈍い音がしたのを聞いて、渥美の兄様は跳ね起きて、襖を開けた。

そこには、血みどろの祖父様が、歪んだ顔をした父親の前にいて。






嗚呼。あの色は。


















母様が最期に着ていた。





















死の色だ。
















































その後の事は、あまり覚えていない。

「行」

渥美の兄様の声で気が付いて、見れば、父親が転がっていた。
泣いているような、怯えているような。苦しそうな、怒っているような。
この世のものとは思えない形相で、こちらを睨み付け。
死の色を全身にまとって。
ひくりひくりと、体の先が痙攣している。

ぼうっとした意識の中で、自分を見ると、やはりこちらも同じように、死の色を浴びていて。
手には、渥美の兄様の刀が。血で、ぬらぬらと光っていた。
鉄の刀が、どちらかの体温で、生暖かかった。

「刀をよこせ」

こちらが渡す前に、兄様は、手から刀を外し、慣れた手つきで懐紙で血糊をふき取り、鞘に収めた。
何もものを言わないのを心配したのか、子供の頃にそうしてくれたように、ぽす、と頭を軽く叩いた。

「お前は、母の仇を討ち、育ての親であり、自らの祖父の命を救ったのだ」

だから罪ではない、とか、だから気に病むことではない、とか。
そうとは言わなかった。


「奉行所へ、報せて参ります」


礼儀正しく礼をして、兄様は静かにその場を去った。
祖父様は、腕を切っただけだったようだ。血の気はないが、しっかりとした瞳でこちらを見ていた。

「行之介。すまぬ」

目の前に、自分の息子の肢体が転がっているのに。
その顔は、俺への謝罪で満ちていた。
いや、母様への謝罪だったのかもしれない。







クメには見せるべきではない。早く渥美の兄様が少しでも早く走れるようにと思った。









そして、懐にしまってある、あの人の絵が、よりによってこの男の血で汚れてはしないか。

















少しでも早く確かめたかったが、生憎、俺の手は、汚れていた。















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