藤裏葉

















哲生(テッショウ)は、藤が昔から好きだった。





春に薄紫に咲き乱れたと思えば、夏に緑の葉が茂り、秋に黄金に色づいて、冬はしんと静まり返る。
哲生は、特に冬の藤が好きだった。
何物にも媚びず、己そのままを堂々と晒している、裸木の藤が。

それは、憧れだったのかも知れない。

あの方も、藤を好んでいた。

それは、やはり憧れだったのだ。









山寺の冬は早い。
いつものように庭に出てみると、早くも霜が降りていた。
俗人には辛い季節だが、哲生はやはり、冬が好きだった。張りつめた空気は思考を明確にし、悟りに少し近づいたような気がするからだ。
何度目の冬になっても、哲生は、この藤のある庭の掃除が、大好きだった。
砂利を箒で撫でる音も、同じだ。



「哲生様、お客様がおいでです」



言われて振り返れば、去年入山した小坊主が、やや臆したように立っていた。
その姿を見て、いつの間にか自分も小坊主と呼べる歳ではなくなったのだと、心の内で笑った。

「私に、ですか。どちら様でしょう。例のご浪人ですか?」

よく説法を聞きに通っていた浪人が、そういえばとんと来ていない。
第一こんな檀家も少ない山寺で、わざわざ坊主を指名してくるなんて。
哲生に身内はいない。消去法だったのだが、良円は首を振るって答えた。

「いえ。初めておいでになる方だと。…和(にき)なる藤をお見せしたいと、おいでになられました」

「和なる藤?」

思わず背後の藤を振り返り、反芻すると、良円が頷くのが気配で分かった。

「はい。哲生様にそう申し上げれば、お分かりになるはずだと」

言伝をそのまま伝えたとはいえ、良円も解せぬ様子だった。




藤…この季節では、どんな藤でも枯れている。
そもそも和(柔らかい)藤とはこれ如何に。


哲生は顎に手をやり、少し俯いた。考え事をするときの癖。未だに抜けることが出来ない。



何かを掛けているのか。



そう思ったが、藤が出てくる歌などあったろうか?藤は季語にはなろうが、藤は藤以外の意味はなかったのではないだろうか。

哲生は正面を向き、樹齢50年は越えたと聞いた藤を見、去年の春を思い出す。
この寺の藤は白藤。それは立派な花房(はなぶさ)が付き、暖簾のように垂れ下がる。



そう、藤は英(はなぶさ)になって咲く花だ。

和なる英。

和の英(にきのはなぶさ)。























英の和(はなぶさのにき)。英和。


















英和(
ひでかず)。

























「哲生様?」

良円の声で、我に返った。
一瞬の間に感じたが、長いこと固まっていたのだろうか。

「……お取り引き願いなさい。そのような方に覚えは御座いません」

良円に背を向けたまま、哲生は言う。
無感動に響かせようと思った声が、どこか冷たく響いた。冬の空気のせいだ。



「い、いえ、それが……」

「お久しゅうございますな。哲生和尚」

「…」



良円の声に被さる、男の低い声。
生きた声。この山寺にふさわしくない声が、哲生の声に届き、哲生は振り返ることもせず、沈黙するしかなかった。


藤を好んだ男が、今、この背に。


「あ、あの、お待ち下さるように申し上げたのですが」

黙ったままの哲生に恐れを覚えて、あわてて良円が言葉を足す。
恐らく意地悪くあの方は微笑んで居らっしゃうるのだろう。常人の良円には辛いものだろう。

「…分かりました。良円。お下がりなさい」

声だけ和らげて言うと、良円は慌ただしく砂利を蹴って去っていった。
池の水音だけが、この時が無常であることを教えた。














「探したぞ」
















まるで一月ぶり程度の言葉の重さ。
背中に、あの強い眼光が降り注がれていることを、哲生が感じざるを得なかった。
ジャリ、と足音が鳴り、一歩近づく。

「お前の髪、気に入っていたのだがな」

少し笑いが籠もっている。
彼の世界…自分がかつて居た世界には、剃髪などそういないだろう。
もう自分は慣れてしまったので、むしろ放っておくとどうなるのかを忘れた。

「…懐古の念からおいでになられたとは思えませんね」

「やっと出した声で、その言葉を紡ぐか。つれないな」

今度こそ声を出してくつくつと笑った。
静寂に溶け入る声。決して品悪く聞こえない声。
まさか寺でも流麗に響くとは思いもしなかった。



流石だ、と。



殺しきれなかった自分のどこかが呟いた。






「哲(テツ)、こっちを見ろ」

背中に語り続けるのに飽きたのか。剃髪を見飽きたのか、そう注文するが、哲生の体が動くことはなかった。

「なりません」

「何故」

「哲なる男は滅しました。ここにいるのは、哲生なる愚僧が一人」

「では哲生和尚。私をご覧下さい」

「…」

やはり笑っている。
どのみちこの方に勝てるわけもないのだと、ため息は飲み込んで、哲生は振り向いた。
袈裟がふわりと翻り、哲生の白い足を隠してから露わにした。
漆黒の袈裟がよく似合うと、目を細めていた。

やはり笑っていた。



「山に入って何年になる」

「次で九度目の冬になりまする」

意外と淀みない声が聞こえた。
寺に居れば、いただけのことがあるようだ。

「瞳は昔と変わらぬな」

「凡念が未だに消えぬ証にございましょう」

「美しい色のままだ」



指摘されて、哲生は顔を背けた。
その様すら面白がっているようだった。
何も、変わっていない。



「…貴方様も、お変わりないようで。静様は、お元気でいらっしゃいますか」


最後に見たときは童女だった。
今の頃は年頃の娘になっているだろうか。
彼の妹君なのだ。大層美しかろう。

「変わらぬ」

「左様でございますか」

ややふてくされたように言う。ちらりと様子を伺えば、やはりどこか不機嫌そうだった。
話題を変えられた上に、自分が目の前にいるのに他人の話をされたからだろう。
変わらない。


「……哲」

「拙僧の名は、哲生にございます」


すかさず言い返すと、更に凶悪な顔になる。わざと、だろうが。
そんな脅しが通用しないと、分かっているはずなのに。
それを思い出したのか、ハッとした顔になって、急に戸惑ったように首を掻いた。昔と変わらぬ癖だ。
彼も彼なりに、変わり果てた哲生の姿を見て、狼狽えているのか。

ずいぶん長いこと宙を眺め、言葉を探していたようだったが、結局気の利いた言葉など見つからず、変わりに顔を伏せた哲生を真っ直ぐ見つめた。









「哲、私の元に戻れ」








「…」

「哲」

口を閉じたままの哲生に言葉を促すも、それでも動かないと分かれば、言葉を続けた。

「八度も冬を過ごしておいて、まだ分からぬか。お前は所詮私の元以外の場所など無いのだ」

「…」

「父は死んだぞ」

「…」








彼の言う父は、彼の父ではない。
厳密には、「哲」の父でもある男のことだ。



















そして、「哲」を「哲生」に変形させた男でもある。



























そうか、死んだか。

哲生は思った。


























「あまりにも呆気なかったから、経も上げてやらなんだ」

「…」

「哲」


聞いたこともない情けない声が鼓膜を震わせた。
自分一人が、この山寺特有の空気に食われてしまいそうに、やや怯えているように聞こえ、咄嗟に救ってやりたいという思いが生じて、口を開いた。


「…拙僧は、哲生にございます」


やっと言葉を放つも、それは先刻いったものと同じだと、言った後で気付いた。
ジャリ、と、足音が近くで呻いた。


「そんなものどちらでもかまわぬ。私はお前の魂(たま)の名を呼んでいるのだ。俺がお前を欲しているのに、お前が俺を拒めると思うな」


しびれを切らした、とでも言うように、声高に、高らかに言ってのけた。
堂々。朗々。
本来有るべき彼の声だった。














変わっていない。

それが嬉しく、悔しく。




















変わらぬところを探し回っている自分に、哲生は八度冬を越しても、自分はこの方が居ようが居まいが、何も出来ぬ男なのだと、今更ながらに思った。













そして、どうせ変わらぬならば。







ここにいて、この方を煩わせるようならば。










自分の本意(ほい)に従うべきであろう、と。
















その結論に至るのに、どれだけの時を要したのかと思うだけで、急に莫迦らしくなった。











「…変わらず、真っ直ぐでいらっしゃる」



静かに哲生が微笑すると、更に堂々として、答える。

「真っ直ぐ故に、支柱を所望だ」

「そして素直であられる」

正面を向くと、思った通りの顔があった。
隠すことなく、喜んでいる。

「哲」

犬を呼びつけるかのように言い放った。
だが、居て当然なのだと言われているようで、この呼ばれかたが好きだった。

「何で御座いましょう」

「待っているぞ」

それが、哲と共に下山する、という意味だと分かるまでに、少し時間がかかった。
昨日を再開した脳髄を休ませる暇もなく、言葉を足した。

「戌の刻ほどもかかりますが」

「八度の冬より短かろう」

不敵に笑う。
哲も笑った。

「良円に白湯でも持たせましょう。どうぞこちらへ……英和(ヒデカズ)様」

そう言って先達(せんだつ)をすると、おう、ともああ、とも聞こえる返事をして、英和はそれに続いた。

「哲、お前、昔から思っていたが、頭の形がいいな」

「ありがとうござります」

「剃髪がよく似合ってる。髪を付けない方がいいかもしれぬ」

「私の髪がお気に召していらっしゃったのではありませぬか?」

「よい。俺は媚びず晒すのが好きだ。飾るとろくな事がない」

「ほんに、変わらず真っ直ぐであられる」

哲が笑う。
英和も笑った。


シャリシャリと砂利を踏む。






目の端で藤を捉えてみたが、ただの古木が座っているだけのように見えた。












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