仙石と行之介が宮津庵を訪れて一刻が過ぎ。

気付けば、ほんのりと街に灯りが灯っていた。

















「芳ねーさぁん」
















珍しく呼ぶ客もなく、呆けたように往来を見つめていると、新参者の禿に声をかけられた。
人見知りの激しい子供だったが、気さくに話しかけてやったお陰か、最近では実の姉に言うように、話しかけてくる。
舌っ足らずな口調が何とも愛らしく、自然に芳は目を細めた。

「どうしたィ?めぐ」

「上の空き部屋に、なめくじみたいなのがいるの」

天井を指しながら、めぐがそう報告してくる。
別段、芳に解決を頼んでいるわけではない。ただ単に、自分の見たものを訊いてもらおうとする口調だった。

「梅雨にゃあまだ早いだろうに…風間の兄ちゃんはいないのかえ?」

めぐの面倒も一時見ていた小間使いの名を出してみるも、めぐは勢い良く首を振るうだけだった。

「ああいうのは苦手だって」

「どんななめくじなんだい?」

風間は潔癖なまでに仕事に忠実な男だ。この前など、嫌だ嫌だと言いながらも、大人の手ほどもあるムカデを退治してくれた。
そんな風間が、いくら子供の頼みとはいえ、なめくじで音をあげるとは考えずらかった。

「うんとねぇ。ちょっと色が白くて、痩せてて、とっくり持ってて、藍の着物着てるの」

めぐの回答に、芳の眉がぴくりと上がる。
色が白くて痩せてるなめくじはいるかもしれないが、徳利は持てそうにないし、着物も着れそうにない。
そして、まさかめぐが、客に対してそんな発言をするとも思えない。
とすれば、消去法だった。


「空き部屋ってのは……あの、お武家様をお通ししたお部屋かい?」

「うん、仙さんがいるお部屋」


やっぱり。

深く芳が頷くのを、めぐは不思議そうに見つめてくる。


「まぁ…宮津の旦那は放っておけっていうから。気味悪いけど、悪さする類じゃないよ。安心おし」

「はぁい」

白い手で、柔らかい黒髪を撫でると、めぐはくすぐったそうに肩を震わせた。
芳のその言葉だけを聞きたかったかのように、腰まで使って頭を下げ、奥へと引っ込んでいく。





「大丈夫…よ、ねぇ」





芳のため息のような呟きは、繁華街の喧噪にかき消えた。
































薄雲


































「ねぇ?そんなとこにいたら風邪引きますよ」


盆に熱燗を乗せたまま、佳織は廊下で呆れる。
目の前にはなめくじがいるのだ。なかなかに通りづらい。遠回しに「どけ」と言ってみたのだが、やや色白で、痩せ、どこで借りてきたのか、とっくりを持ち、藍の着物を着たなめくじは、その意図を読みとることが出来ない。


「大丈夫だ。体は丈夫だから」

「そうでなくてねぇ…如月屋の若旦那が、どうしてそんな……」

「すまないが、少し黙っていてくれ」


なめくじ、別名行之介は、佳織の言葉を遮って、襖にとっくりを当て、そのとっくりに、自分の耳を貼り付かせた。
所謂「女座り」で廊下に座り、襖に貼り付く姿は、まさになめくじだ。
呆れて佳織がその場を去るのも気にせずに、いや、自分が今、宮津庵に居るということすら忘れているのかも知れない。



仙石の腕を掴み、半ば強引に拉致していった、髭面の侍。
抵抗すればできたろうに、それに従い、自分を置いてきぼりにした仙石。



どちらにも腹が立つが、どちらかといえば。




若狭の目的が気になる。





佳織が幼い頃、若狭は仙石を連れ戻しに来たと言っていた。
それから何年経ったか知らないが、今回も、何か目的があって来たことには違いがないだろう。
あの強面の武士と、仙石は幼なじみだったという。つまり、仙石も武士だったということだ。
そんなことすら、行は知らなかった。
こんなにも、自分は仙石のことを知らないのだと。

泣きたくなるのを、必死で堪えて、とっくりを襖に貼り付かせた。

「お前の家の橘が、今年は見事なものだぞ」

仙石よりもやや低い声、若狭の声は、手前にいるのか、良く聞こえる。
しかし、先ほどから仙石の声はほとんど聞こえない。
相づち程度のものなら分かるが、特に、さっき若狭が何か怒鳴り散らした辺りは。
もっとよく聞こえないものかと、耳を押し当てるも、襖がみしりと嫌な音を立てたので、もどかしい気持ちを抱えながらも、行は距離を縮めることができない。
微かに、絹連れの音がする。膝を立て、誰かが立ち上がる空気。
それが仙石であるというのは、距離感から何となく分かった。


「それじゃあ、そろそろ帰るとするか」


襖に近づいたのか、急に仙石の、芯のある、そのくせ柔らかい声が聞こえた。
続いて、若狭の、やや慌てたような声が聞こえ。仙石が言い返す。



その会話に、行のこめかみが熱くなった。




「いいのか?」

「仕方ないだろう。これも何かの定めだ」

「そうか。…そうだな。お前がその気なら、そうするよ」

「ああ、もう、帰るよ。俺は」










若狭の落ち着き払った声。

仙石の『帰る』の言葉。

帰る?



帰ってしまうのか?仙石は。武士に還ってしまうのか?







俺の、届かぬところへ。














「嫌だ!」


深く考えることすら恐くて、行はとっくりを放り投げると、襖をはね除けるようにして開けた。
かまいたちのような音に、仙石と若狭が一斉に顔を上げた。

「何奴」

「わ、若旦那?」

武士らしい若狭の硬質な声とは対照的に、仙石は行の顔を、否、行の声を聞くと、とにかく度肝を抜かれたように、少し浮かせていた腰を、再び畳に落とした。

「幼なじみだか、許嫁だか、もう知らん!」

ぴしゃりと叫ぶと、ずかずかと部屋に入りこみ、仙石の真正面まで足を進める。
やや戸惑ったように見上げてくるその眼差しは、今朝見たときと変わらない。
何の損得無しに、行の芯を見てくれる瞳。





手放してなんか、やれない。できない。させない。





自分でも理解できない衝動に駆られて、行は、しゃがみ込むと仙石の首に抱きつき、やや威嚇の込められた、若狭の目をぎらりとにらみ返した。



「仙石は、俺のだ!!どこにもやるな!!!」



なんて、単純で幼稚な言葉を並べ立てたものなのだろうと、行自身、少し後悔していた。
しかし、言葉の隅々に至るまで、嘘のないことに、満足していた。




「仙石、コレが、お前を要する者か」




少しの沈黙のあと、若狭が口を開いた。
呆れたようにもとれる。ふうと肩の力を抜き、後ろ手を付く。
その目に、もう威嚇の色はない。確かに強面は変わることがないが、どこか飄々とした雰囲気を感じさせていた。

「何とも頼もしいだろう」

抱きついた行を拒絶することもなく、仙石は、嬉しそうに、苦笑しながら若狭に返す。その仙石の言葉に、若狭は更に深く、わざとらしくため息をついた。

「…まぁ、いい。愛想が尽きたらいつでも帰ってこい。家に帰れぬなら、俺の所に来たっていい」

「お前に擁されるなど願い下げだ」

立ち上がる若狭に、仙石が生意気に笑う。
若狭は、立ち上がると、そこでやっと行の顔をまともに見る。
商家の御曹司と聞いたが、なかなかに骨の有りそうな顔だと、武士らしい値踏みをしながら、未だ野良犬のように睨み付けてくる行を、まじまじと見返していた。

「……福井町の如月屋、だったか?」

「…」

自分に対して言われた言葉だと自覚しながらも、行は口を真一文字に閉じて、意地でも答えまいとしている。
嫌われたか、と、髭を撫でながら一人ごちると、背を向けて、鴨居を邪魔そうにくぐった。


「そのうち件の橘を送ってやろう。また、な。恒史」

「今度は細君と一緒に」

「いや、一人で。あいつは焼き餅焼きなんだ」


すかさず仙石が言うと、背中を向けたまま、若狭は手を出して、手をひらひらと振って見せた。
どこか、笑っているような声だった。




「さて、俺達も帰りますか」




若狭の草履が砂利を踏む頃になって、仙石が、やたらと明るい声で切り出した。

「帰る?」

「如月屋に決まってるじゃないですか。菊政と旦那様が待ってますよ」

何を言ってるんです、と、仙石は笑って、行の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。



















































「わ、若旦那…」

繁華街の中、仙石は珍しく恥じらいながら、斜め前を歩く行を呼んだ。
本当は咎めるような声を出したかったのに、なぜかどこか甘い声色になってしまった。
芳を宮津の旦那に礼を言い。久方ぶりに江戸に帰ってきたという竹にも挨拶をして、宮津庵を出たのはついさっき。
そして、一歩、宮津庵から外に出るなり、行は、ぐいと仙石の腕を掴んで引き寄せ、無理矢理、手を繋がせて歩き始めたのだ。




男女が隣り合って歩くだけでも破廉恥とされていた時代。
手を繋いで寄り添い歩くなどという行為がどう見られるのかは、推し量っていただきたい。




とにかく仙石は、耳まで赤くして、それでも立ち止まるわけにも行かず、おぼつかない足取りで行の背中を追う。

「……」

行は早足で、言葉も発さず、ただ黙々と歩いている。
その首筋に、ひとかけらの怒りを見つけて、仙石は囁くようにして訊ねた。

「そんなに…心配でしたか」

「当たり前だろ…」

仙石に合わせたように、行もまた、繁華街の中、互いにしか聞き取れぬような声で言う。
手を握る力が強まり、仙石は微かに眉を寄せた。






おれは、おまえをしらなすぎる。






言っていしまいたかった。けれど、言ったその瞬間、仙石を縛るものが、砕けて散ってしまいそうな気がして。
行が沈黙でやり過ごそうとしていると、仙石が喉の奥で笑って、まるで見透かしたように言葉を放つ。








「どこにも、行きやしませんて」








急に言われても、意味の分からない言葉。
けれど、少なくとも行にはしっかりと理解できていた。













「帰る場所は、若旦那と同じです」













望んでいた言葉を、吐息のように放ってしまう、この男が、たまらなく愛しくて、愛しくて、そして、やはり、どこか不安で。
仙石に対して、満足することはたくさんあっても、安心することは皆無に近いのではないだろうか、と、行は思った。

「あ、でも」

不意に、仙石が否定の言葉を言って、行が慌てる。
足が止まり、不安げに仙石を振り返った。
置いてきぼりをくらった子供のような眼差しに、仙石はからかってしまったかと微笑し、行の頭を撫でてやりたいのを堪えた。







「若旦那が要らぬといったら、居られねぇでしょうねぇ」










宵に入った繁華街の、行灯の街並みの中で、仙石が言う。

その顔は、確かに笑っていたのに、どこか悲しげで。

きっと、仙石にはそんなつもりは無かっただろうけれど。




だから、どうしても、言いたくなった。

いや、言わなければならないような、義務感に追われて、口を開いた。

























「恒史」

「わっ、ととっ!!」

行の纏う空気が動いたと思ったのも束の間。行独特の、若草の匂いが、仙石の鼻先に押しつけられた。
背中に回った、細くも逞しい腕。
夜風から守るように合わさる胴体。
自分よりも遙かに年下だとは微塵も感じさせずに、行は、仙石を抱擁していた。


「……っ!」


往来の真ん中で捉えられた仙石は、周囲の目が一斉にこちらに向くのを自覚して、話すのがやっとなほどに、赤面する。


「わ、若旦那、早く帰りましょう?ね??」

「いいのか?」


行の肩に手を置くも、何故か引き剥がすことも出来ず、仙石はやっとの思いでそう告げる。
一刻も、この拷問のような羞恥から逃れたかったのだ。
一方、行は、体は密着させたまま、顔だけ上げて、仙石を見つめた。


偽りを拒絶する、痛ましいまでに真っ直ぐな眼差しを、仙石だけに向けて、低く呟く。

















「帰ったら、俺はお前を抱くぞ」










本当に、なんて正直な人なのだろうか。
傷つきやすいまでに誠実で。



やはり、この男から離れることは、当面無理だと、仙石は諦めにも似た笑みを浮かべた。




































「何を改まって聞いてるんです?」













呆れたように、仙石はため息と一緒にそのセリフを吐く。
行の体は離れ、また、歩きだしたが、二人は二人、同じ空気を切って進んでいった。








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