あの日は、夏だというのに寒く、塩辛蜻蛉が悠々と宙を泳いでいた。

寒がって馬がまともに動かないほどに。

だから、いくら走っても、汗1つかかなかった。

どうせなら、気が遠くなるほど火照り、正気を持たずしてたどり着ければいいのにと、どこか冷えた脳髄が呟いた。

ゆるやかな坂を下りれば、飯玉家が見えてくる。

青い薄が、駆けるたびに足首を切るのがくすぐったく。

前を走る若狭が、急に、落ちるような加速を見せた。


「屋敷奉公だのとは偽りです!騙されている…あの者は女衒ですぞ!!」


怒鳴ったのは、若狭の方だと思う。
まさしくそれは、妹の身を案ずる兄そのものの姿だった。
息を荒くさせ、目を丸くした細君に詰め寄る。
菜園で取れた、今年は凶作だった、赤子の指ほどの胡瓜を籠に入れ、彼女は言う。


「知っていますよ。……………頼も…ね………」


若狭の肩が強張るのが、後ろにいたのでよく見えた。
消え入りそうな。それなのに、聞き逃すことの出来ぬ細君の声は、続く。


「参拾両なんてお金、普通の奉公じゃ、出ませんでしょう」

「承知の上…ですか」


そう言ったのは、多分俺だ。
俺が口を開いたのを、彼女は随分珍しそうに眺めていた。



もう、この人を将来義母上と呼ぶことはない。




それは、とても重大のようにも思ったが、別段今の現状と何ら変わりないような気もした。





蜩が、激しく鳴き出していた。















やっと、汗が顎から落ちた。





























朝顔




















































「遊女屋の用心棒の次は、呉服屋か」



丸腰の仙石を見ながら、不機嫌さを隠さず、若狭は言った。
遊女屋らしく、一組の布団を横に、二人向かい合い、酌をする。
灯りという灯りはない。行灯が、角でぼうっと照っている。

「人に要されることほど幸福なこともあるまい」

言いながら徳利を差し出すと、案外素直に猪口をよこしてきた。
酔っているわけでもないだろう。若狭はザルだ。


「………女房は元気か」


闇に飲み込まれそうになって、口を開く。
仙石が、あまりに普通に友人として接した話しぶりが意外だったらしい。言葉を理解するのに時間を要し、一拍置いて返事をした。

「昨日、文が届いた」

「相変わらず仲むつまじい」

記憶ではおぼろげになってしまった、彼の細君を、仙石は脳裏に輪郭だけでも甦らせる。
笑うとえくぼが出る、とてつもない美人というわけでもなかったが、気だてのいい、よくできた娘だった。
あれほど美しく着飾った娘は見たことが無かったし、あれほど緊張した、そして、酔った若狭は見たことがなかったので、よく覚えている。
そして、その席の酒が、仙石が武士として呑んだ最後の一滴だった。


だから、よく覚えている。


タン、と膳に叩き付けるようにして猪口を置くと、若狭が仙石を下から睨み上げた。
本人は気付いていないだろう。真剣になったときの若狭の癖だ。
はぐらかすな、と脅されているようで、仙石はこの若狭の目は好きではなかった。

「仙石、戻れ」

「…………」

今日、顔を会わせたときから言いたかった言葉を、酒の力を借りている。
一度目に来たときは、酒など勧められても呑まなかったのに。

若狭が弱くなったのか。
自分が頑なになったのか。

「道場の連中も、お前の剣を欲している。お前が戻るならと、ご老中のご子息の剣術指南役を
、お前に回してやってもいいという話も来ているんだぞ。呉服屋の真似事より、随分良かろうに」

まるで兄どころか母親のような口調に、仙石は苦笑する。
笑い顔が、薄闇の中でも見えたのか、咎めるように、若狭の眼光が鋭くなった。

「兄上はせっかく縁を切って下さった。…はいそうですかと戻れまい」

「切ってくれた……?おい、仙石」

身を乗り出した若狭の気配を感じたが、仙石は、猪口に映る自信の瞳を見た。
ここだけは、彼の面影があるように見えた。

「……」













あの男は優しさの余る男だったのだ。

歌と学問を愛した彼を、軟弱者と罵ったこともある。

それでも、彼は殴ることもなく、ただ、申し訳なさそうに微笑むばかりで。

大事にしていた猫が獣に食われて、泣きこそしなかったが、子どものように悲愴な顔をして。

人の善すぎるあの人だったが、誰よりも頑固で、その強固さが剣に勝る硬度を持っていた。

敬わなかったことなど一度たりともない。






今では名を呼ぶのも畏れるほどだというのに。


























仙石が長いこと沈黙していると、若狭が懐を探り出した。
誰かの手紙でも預かってきたのかと思ったが、それは紙よりも小さく、紙よりも重いものだった。

じゃらり、などという軽い音ではない。

どすり、という音がふさわしい、その重い小袋は、丁度仙石の隣に放り投げられた。

「…なんだ、これは」

「六百両だ。……案ずるな。汚い金ではない。しかし、出所は訊かないでくれ。ややこしい」

何かを誤魔化すように、並々と注がれた猪口を一息に呑み、手酌して注ぐ。
訊くなと言っておいて、その小袋は、しっかりと、仙石が通っていた道場主の品だった。

「…………わかさ」

「頼……いや、胡蝶と同じ値だな。偶然」

偶然なものか、と仙石は毒づいた。
大金を前にして胡蝶の名など呼んで。何のための金なのか分からぬほど、仙石は鈍感にもなれなかった。





威厳すら感じる六百両。


重さにして一貫20両といったところか。人の重さに比べれば軽いものである。


あんなものと、頼とが秤に掛けられて、それが成り立ってしまうというのだから、滑稽な話である。







「俺は…頼をダシにしただけなんだ。剣を捨てる理由を探して、絵を描きたかっただけなのだよ」




少しの間、闇に身を委ねてから、仙石は、初めて猪口に口を付けた。

上等な酒の味がする。誰かが気を遣ったのだろうか。




何年もかけて、漸く探し当てた本心を、若狭に吐露した。

冗談だ、という逃げ道を残さないためにも、真っ直ぐに、若狭の双眸を見つめる。






「嘘を付け。お前はそんな男じゃない。俺をごまかせると思うなよ」


「頼には……すまない事をした」





朝靄の向こう、あの笑顔に、心が震えなかったと言えば偽りだ。


しかし、結局のところ、二人は交えてはならぬ定めだったのだと。


いつの間にか、気付かされた。誰が教えてくれたわけでもない。


強いて言えば、時の流れを統べるなにものかだ。





問いつめるような若狭の声に、苦笑で答えながら、仙石は再び酒を煽った。




瞬間。


































「嘘を付け!!」



































だすん、と、階下にも聞こえたのでは、という程に、若狭が勢い良く立ち上がり、癇癪を起こしたように、肩を震わせ、親の敵を見るような目で仙石を睨め付けた。
この数年間の怒りを一度にぶちまけようとしている風体だった。








「あの時のお前ほど悲しげな顔をしたやつを、俺は知らぬぞ!泣きもせず、わめきもせず!…そうすれば、慰めようもあったのにそうもせず!!俺ばかりが喚き散らし、地団駄を踏み、…お前がそうしなかったから!!!」







一気に息を吐き出して、脳が麻痺したのか、立ち上がったときと同じくらいの威勢でその場に座り込むと、首をがっくりと垂れた。

「…あれほど……あれほど、似合いの二人だったじゃないか!!」

拳を叩き付ける若狭の、声の端々が震えていた。
その、若狭の張りのある声に、仙石は俯き加減に聴き入った。
彼の声で詠む歌は好きだったなどと、不謹慎なことを思い出した。







「連理の枝、比翼の鳥……何で、何でお前達がこんなことに」







猪口を握ったままの手は、畳を擦り。
仙石は何も応えることなく、中途半端に注がれた猪口を飲み干し、頭を垂れた若狭を見つめた。




「若狭」

「…」

「泣くなよ」

「……莫迦野郎」









笑いかけて、若狭は咽せた。







お前がそうしないからだ、と聞こえた。


















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