何かを守るためには、何かを犠牲にする覚悟がいる。 等価交換は錬金術だけのものではない。生きていく上で迫られる選択の意味を、エドワードはすでに知っていた。 譲れないものがあればあるほど、しがらみが増えていくということを。 それまでのエドのしがらみは、己の鋼の身体と弟の鎧の体躯だった。 だが、最近は、それに新たに加わったものがある。 ロイ・マスタング大佐。 エドと同じ国家錬金術師で、軍の狗だ。 若干二十九歳で得た地位は、彼が焔の錬金術師として挙げた成果のためである。 出会いから強烈で、高圧的な態度にはじめは反発心しかなかったはずが、いつの間にこんな風に意識するようになったのだろう。 不適に笑う横顔は意外に整っていて清廉で。 どこまでも上を見据えて挑む姿は勇ましくもあり潔く。 優雅に指を操って焔を生み出す一挙一動に目を奪われる。 執着は罪だ。 母親を亡くしたときに、それは思い知ったはずだった。 代価は己の足と弟の身体。 もしもう一度そんな大切な誰かを亡くすとしたら、きっと耐えられないと思っていたのに、運命の神様はいつも皮肉なことをする。 だから離れた。 物理的な距離があれば、少しは諦めがつくかと思って。 どうせ旅から旅の生活だ。 それを理由に東部に寄り付かないようにしてきた。 弟はそんな兄の懊悩を知っているのかいないのか、ただ黙って従ってくれた。 だが、ヒューズ中佐の死で状況は一変する。 エドが旅先でそれを知った時には、もうすべてが終わっていた。 そうして、久しぶりに訪れたセントラルで、エドは彼の姿を目にしたのだった。 図書館通いの帰りに市場を通り抜けていたエドは、通りの向こうを見つめたままいきなり立ち止まった。 「アル、ちょっと先に宿に行っててくれ」 「兄さん?」 セントラルでは、いつも馴染みの宿に泊まるから街中ではぐれても問題はないが、いつになく思いつめたような兄に、アルフォンスは何事かと覗き込んだ。 「もしかしたら、遅くなるかもしれないから、夕食はいらない。戻ってこなくても心配するな」 「でも…あ、ちょと、兄さん!?」 いったいどうしたんだといぶかしむ弟を置いて、エドは人の波を掻き分けて走り出した。 目的の人は、ほっそりとした体躯のわりに、この人通りの多い歩きにくい路地を弛むことなく進んで行く。 エドは人の背中の向こうに見失いがちな後姿を必死になって追いかけたが、人並みが切れた角を曲がったところでとうとう見失ってしまった。 「ちっ、どこ行ったんだ?」 無我夢中で追いかけていたせいで、自分がどこにいるのかさえわからない。 広場というか、少し丘になっている向こうは、教会のような建物が建っていた。 リンゴーン…と鐘が鳴る。 もしかすると、と思い、エドはその教会の方に歩いていった。 セントラルと中枢としたこの国は、長いこと軍国主義の流れで内紛に事欠かない。今も地方では毎日のように紛争に明け暮れる都市があるという。 教会の向こうに広がるなだらかな丘の斜面には、そうして失われたたくさんの命の記憶が、墓石に短く刻まれていた。 教会は神様の領域だが、母を失ったときから、エドの中には神様はいない。かわりに、信念という強い意志を持っている。 軍の狗として生きてきた彼も、同じだろうと思っていた。しかし、時には大切な人の冥福を祈りたくなることはあるのだろう。 ロイ・マスタングは、無人の墓石群の中でも比較的新しい墓石の前に佇んでいた。じっと祈るように目を閉じて俯いている。 エドには、それが誰の墓かすぐにわかった。 ロイの親友で、軍の中でも数少ない彼の味方だった男、ヒューズ中佐。 何を想っている? あいつのことどんな風に想っていた? 二人の間にどんな絆があったか知らないが、時にロイとじゃれるようなやり取りをするヒューズを羨ましく見ていたエドは、ロイが彼の死をどんな風に受け止めているのか気になっていた。 もしかしたら自分のように、錬金術で甦えらせたいと一瞬でも思っただろうか…と。 発火布の手袋をした両手をポケットに入れた後姿はどこか寂しそうで、思わず駆け寄って抱きしめてやりたい衝動に駆られる。だが、同時にすべての同情を無言で拒絶しているようで、エドは長いこと声をかけることができなかった。 だが、そんなエドのことなどとっくにお見通しの上官は、やがて、からかうような声でエドを呼んだ。 「いつまでそうしているつもりだ? 鋼の。墓参りに来たんじゃないのか?」 「なんだよ、付けて来てたの知ってたのかよ」 「君の気配はすぐわかる。こっそり付けたいのならもっとうまくやりたまえ」 いつものように容赦ない挑発でエドをからかうと、ロイは墓石の前から一歩横にずれた。 新しい花で埋め尽くされた墓石の下に、彼が眠っている。 エドはそっと手を合わせて黙祷した後、ロイに向き直った。 「仕事はいいのか? またサボってホークアイ中尉に叱られるんじゃないの?」 「有難いことに中尉は了承済みだ。こっちには移ったばかりだから本格的に動くのは来週からだしな」 「そうか、栄転したんだったよな。おめでと」 野望に一歩近づいた彼にそう言うと、ほんの少しだけ苦い笑みが返った。 「栄転…なんだろうな、これも。どんなに嫌われていても、いずれ中央に戻れることは知っていたんだが、こんな形で実現するとは思わなかったよ」 若いわりに地位が高いロイを疎ましく思う輩の多い中央が、わざわざ彼を呼び寄せたのは、人材不足によるところが大きかった。 スカーと呼ばれるイシュタールの生き残りによる軍の高官と国家錬金術師への虐殺がその理由だ。 「このところ軍の人間を狙うテロが頻発して、人手が足りないとは聞いていたからな」 「ヒューズ中佐もそうだったのか?」 「いや、あいつはもっと軍の機密に関する理由だろう。だが、あいつがこんなことになる前に、戻ってきたかった…」 最後は小さな声だったが、じっとロイを見つめていたエドは、それがほんの少し震えた響きだったのも聞き漏らさなかった。 嫉妬と憐憫が胸を嵐のように駆け巡る。 思い出に生きる人間には勝てない。あのまま彼が生きていて、エドの背がロイを追い越す頃になったらわからないが、その方がずっと勝算があったと思う。 無理やり奪われたものにほど、人は余計に執着する。 自分がそうだったように…。 だから、聞いてしまったのは無意識だ。 「……生き返らせたいと思う……?」 「鋼の…?」 「あんたは錬金術師で、その可能性がないわけじゃない」 「そして君のように失敗しろと…?」 「大佐…」 「馬鹿なことを言うな」 ロイはわざと軽く言い放って、この話はここまでだと打ち切った。 「ごめん…」 「わかってる。本心じゃないんだろ? 確かに、今なら君が母親を甦えらせたかった気持ちも、そうせずにはいられなかった気持ちもわかる。だが、私には無理だよ」 「なぜ? 失敗例が目の前にいるからか?」 「いや」 短く否定したロイは、墓石から無理やり視線を引き離すように空を見上げた。 「私にはその資格がないからだ」 「大佐」 「死を悼むには、私は多くの死に関わりすぎた…」 同じように見上げた空はどんよりとくすんでいて、今にも降り出しそうな気配だった。エドには、それがロイの心を表しているようにも思えた。 焔の錬金術師として、彼がどんな過去を引きずっているかエドは知らない。 でも、おそらくヒューズはその辛い記憶を共有する数少ない人間だったのだろう。 けれど、ホークアイ中尉や他の部下にはわからないところで自分に厳しいこの男は、たぶん、親友の死を前に弱音を吐くこともできなかったにちがいない。 忙しい時間を割いてこんなところまで通うくせに、 ほんと、へんなところで強情で純なんだから… だからエドは言った。 「でも、悲しむことは罪じゃないだろ?」 そっと包み込むように腰に腕を回す。 今はまだ届かない背も包容力も、急いで大きくなってあんたを包むから待っていてという代わりに。 「泣けよ、大佐。大事なものを亡くして悲しいときに泣くのは弱さじゃないよ。誰も笑ったりしない。だから、泣けよ」 「……馬鹿。男がそう簡単に涙を見せてたまるか」 「なんで? ヒューズ中佐の前でしか泣けないってのか?」 上目遣いに言い寄ると、ロイはうろたえたように言いよどんだ。 「私とヒューズはそんなんじゃ…」 「オレがいる…。まだ中佐の位置には遠いけど、いつか必ずあんたの隣に立ってやるから…だから……」 「鋼の…」 一瞬目を見開いたロイは、自分の腰に回った手を振り解くことなくくすりと笑った。 「それはずいぶん遠い気の長い話のようだな? とりあえずそういうことは私の背に追いついてから言いたまえ」 「くそっ。あんたの背だって、あっという間に追い越してやるんだからな」 暗に小さいことを言われていつものようにキレるエドを、今度こそロイが声を立てて笑う。 「期待しないで待ってるよ」 切れ長の目を細めて見下ろす、それはもう、いつものロイ・マスタング大佐の顔だった。 勝算はあるかもしれない。 あんなに悩んだことが嘘のように、エドの覚悟は簡単に決まった。 失くすことを怖がるより、それを守る強さが欲しいと思う。 エドワード・エドリック十四歳。 早春の空に誓った想いだった。 |