Lion Heart (8)





「いっ・・・いややっ、こっち来んなやっ」

身体の中を走り抜けるあやしい感覚を堪えながら、アリスは男の手から逃れようと必死に後ずさった。

死ぬほど嫌なはずなのに、触られたところからゾクゾクと快感が広がりアリスを怯えさせる。

「無駄ですよ」

男がことさら優しく囁いた。

「もうクスリが効いて辛いでしょう? ああ、想像していたとおりだ。どこもかしこもピンク色でほんとうに、同じ男とは思えないくらい可愛らしいですね。ほら、こうして撫でるだけで気持ち良いはずだ」
「さ、触るなっ!」

シーツが擦れただけで痺れるように鋭い感覚が走るのに、男はそれをわかっていて首筋から胸にかけてアリスの敏感な肌を撫で下ろした。
思うように動けない身体は、男の伸ばした手に簡単につかまってしまう。
被害者の女性の遺体から検出されたものと同じ興奮剤の一種を打たれたのは、ほんの五分前のことだった。それなのに、身体はもう耐えられないくらい熱くなっている。
息を詰めて堪えようとするが、唇をついて洩れる喘ぎは防ぎようがなかった。

「案外強情なんですね。他の女はこの次点で意識が混濁して浅ましい本性を丸出しにしていたのに。それとも、あの火村とかいう犯罪学者の前でだけケモノになるんですか?」

下卑た笑いを浮かべて揶揄されても睨み付けることしかできない。
部屋の片隅にはビデオカメラが回っていて、アリスは懸命にそのレンズから逃れようと身を捩るが、男はわざとアリスの身体をカメラの法に向けて開き、「あの男に見せてやりますよ」と笑った。

「どうせ、誰にされても同じでしょう? 知ってるんですよ。こうされると弱いこと。秘め事をするならカーテンはきちんと閉めなきゃ・・・」
「あ、ああっ・・・! や、やめ・・・」

男の舌先がねっとりと胸を舐め上げた。
嫌悪感に仰け反ると、それを感じたのだと思った男の手が股間にも伸びてくる。

「ほら、やっぱり。ここは正直だ」
「ああっあー・・・っ!」

やんわりと握りこまれたところから鋭い感覚が突き上げて、次の瞬間アリスは昇天した。

「おやおや。我慢できなかったんですね。ふふ・・・。あの犯罪学者とどちらが良かったですか?」

醜悪な笑みを浮かべた男はアリスの蜜で濡れた指を目の前で舐めた。
悔しさに目頭が熱くなる。

「ひ、火村はあんたとは違う! あいつはこんな・・・こんな人でなしなことせえへんし、第一人殺しやない!」
「・・・私だって人殺しではありませんよ。単に悪魔の芽を摘んで裁きを下した、それだけだけですよ。淫蕩は神の世界では大罪だ。生きている価値はない」
「狂ってる・・・。あんたは、自分の法則に従わない人間が赦せないだけなんや。思い込みで誰かを支配しようとして、でも思うようにいかないから殺すやなんて・・・あんたの方こそ悪魔やないか!」
「私が悪魔ですって? だったらあの男だって同じですよ」

アリスの罵倒に男は余裕の顔でせせら笑った。

「人殺しじゃないから私とは違うですって? ですが、私たちは本質的な意味で同類なんですよ。眼を見ればわかります。少なくともあれは、人を殺そうとしたことのある人間の眼だ」
「・・・・・・!」
「そして、それを実行に移せなかったために、犯行に及んだ人間に嫉妬してそれを追い詰める卑怯者なんですよ」

衝撃に、アリスは思わず息を呑んだ。
なぜ、この男はアリスでさえ踏み込めない火村の内面を知っているのだろう。いつだったか、火村が犯人の心情について自分のことのように話す姿が思い出されて、アリスは動揺した。

「うそや・・・そんな、火村は違う。そんなん俺は信じない。火村は、俺の知ってる火村は・・・」

それ以上言い募ろうとて言葉にならないもどかしさに、アリスは必死になってかぶりを振った。
男の言ったことはでまかせだ。信じることはできない。
だが、火村が昔誰かを殺したいと思ったことがあると言ったことがあるのも本当だ。
否定するアリスの気持ちを読んだように男が言った。

「彼はね、今悩んでいるんですよ」
「え・・・?」
「私にはよくわかる。もしあの男が罪を犯すとしたら、それは有栖川さん、あなたに関してですよ」
「・・・・・・!?」

思ってもいなかったことを言われて、一瞬混乱する。

「なんやて・・・」
「あの男はね、あなたに狂ってるんです。あなたが欲しくて欲しくて、もし自分から離れることがあるならば、殺してでも自分のものにしておきたいと思っている狂人ですよ。私もかつてはそうだったからよくわかる。存在全てが命のようだったものが去っていくのは身を切られるほどに辛い。だから・・・」

殺した・・・。そしてすべてが男のものになった。もう誰にも触れることはできないことで、ようやく得られた安堵。

(そうか・・・)

その瞬間、アリスは火村の心が見えた気がした。

(俺だけが不安やなかったんやな)

らしくない冷たい態度。気のない振りに強引な性行為。アリスを不安にさせた裏に隠されていたものに気付いたとき、アリスは恋人の不器用さに思わず目頭が熱くなっていた。
おそらく、聡い火村のことだ。アリスが気付くよりずっと前に自分の気持ちを理解していたに違いない。だとしたら、その不安はアリスが感じるよりずっと長く深いものだったことだろう。
恋をすれば誰だって、強くもなるが弱くもなる。気持ちを伝え合うのは、いくつになっても難しいものなのだ。

(馬鹿やなぁ・・・火村。ホンマ、君ってやつは・・・)

どんなにアリスが望んでも、決して好きだと言葉にしなかった火村。
欲しければ欲しいと言えばよかったのだ。最初から答えはそこにあった。
どんな人間であろうと、たとえ人殺しであろうとも、火村が火村でさえあれば最初からすべて赦していたことなのに・・・。
目を閉じると、懐かしいキャメルを咥えた火村のニヒルな笑みが浮んで涙が出た。
今すぐあの広い胸を抱きしめて、言ってやりたいことがある。
アリスはゆっくりと眼を上げて言った。

「やっぱり、火村はあんたとは全然違う」
「なに・・・」

きっぱりと告げたアリスに、男の方が怯む。

「あんたはあいつを人殺しができなかった卑怯者や言うけど、それは犯罪者の理屈や。どんな理由があっても、人を殺すのは人として最低の行為なんや。むしろ踏みとどまったあいつの方を俺は尊敬するね」
「だまれ! この神を裏切る汚らわしい悪魔め」
「いいや黙らへん。俺は自分に嘘はつきたくないから、あいつを好きなの隠さへんだけや。だれにバレても怖くない。あんたの方こそ神様を隠れ蓑にした卑怯者や!」
「うるさい!」

怒声とともに平手が飛んできて、アリスの力ない身体は吹っ飛ばされた。
そのまま腰に馬乗りされて抑えつけられる。
そこまで啖呵を切るなら覚悟はできてるんでしょうね。堕落した人間には容赦はしません。少し予定は早まりましたが、あなたを神の御許に送ってさしあげましょう」
そう言った男の指が動けないアリスの首に愛撫するように掛けられた。

「く・・・っ」

徐々に締め上げられる苦しさに、抵抗もままならない。

(火村・・・)

朦朧としてくる意識の中で大切な人の名を呼びながら、このまま死んでしまうのかとギュッと目を閉じたその時。

「アリス・・・!」

叫び声とともに銃声が響き、大勢の人間が押し入ってくる姿が見えた。

「そこまでだ松原敏弘、殺人及び殺人未遂の現行犯で逮捕する!」
「くそっ!」

不意を突かれて一瞬反応が遅れた男が、あっという間にアリスのうえから引きずり下ろされ押さえつけられる。
次の瞬間、アリスは誰かの広くて暖かい腕の中に抱きかかえられていた。

「ひ・・・むら?」
「ああ」
「ホンマに・・・?」
「ああ!」

信じられない。

「君、カッコ良すぎや」

こんな、タイミング良く助けにきてくれるなんて・・・。
もう会えないと思ったのに。顔が見えた時でさえ、夢かと思ったのだ。

「アリス、無事でよかった・・・」

抱きしめる腕の強さに安堵感から涙が溢れて止まらなくなる。
けれど不思議と気恥ずかしさはなかった。なぜなら、火村の頬も温かいものが流れていたから。

「火村、来てくれてホンマ・・・」

おおきに、と言った言葉が声になったかはわからない。
緊張が解けたアリスの意識は、火村に抱かれたまま、そこでフェイドアウトした。















to be continued…










アリス危機一髪!
火村先生間に合って良かったっす。







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