Lion Heart (5) 東京は、天上と下界の入り乱れる複雑な街だ。 翌日、上京して来た森下刑事と落ち合った火村は、二番目の被害者、有吉今日子の最後の目撃者に話を聞くため、目黒に程近い小さな公園に向かった。 ここらあたりは、バブルの影響をもろに喰らったためにその繁栄に預かることなく忘れ去られ、中途半端な賑わいしかない町だった。 「ええ、確かにこの人でした。きれいな人だったからよく覚えてますよ」 犬の散歩中にすれ違ったという五十代の男は、写真を見てはっきり証言した。 「この辺は商店街から住宅地に向かう裏通りになるせいか、車の通りも少ないかわりに日中でも人通りがほとんどないんですよ。日曜日は、向かいの公園に家族連れが来て賑わいますから別ですけどね。おかげで犬の散歩も気を使わなくていいから楽です」 男が有吉今日子を目撃したのは、平日の水曜日だったという。 「ほかに怪しい人影は見ませんでしたか?」 森下刑事が聞くと、男は腕を組んで考え込んだが、すぐに見なかったと答えた。 「さっきも言ったとおり、人通りが少ないですからね。そんな人間がいたら、すぐに目に付きますよ」 「いや、どうもありがとうございました」 それ以上は何も聞き出せないと判断した火村は、早々に礼を述べると、先に立って公園の方へ足を向けた。 「どうも芳しくないですね」 ぼやく森下刑事に、火村は仕方ないですよ、と苦笑した。 「本庁がローラー掛けた後ですからね。そうそう変わった証言は望めません。今日は私も確認のつもりで来ましたから」 口で言うほど落胆はしていなかった。火村には火村の独自の捜査方法がある。警察が人海作戦で事を急いで見落としたことも、見つけ出す自信は十分あった。 だが、肝心の集中力が続かない。 気を抜くと、火村の思考は夕べ無理やり抱いたアリスのことにすぐに飛んでしまいがちだった。 今朝方、部屋を出て来る時、まだ死んだように眠っていたアリス。 あちこちに所有の印を刻まれてシーツに横たわった身体は、カーテン越しの朝日の中、まぶしいほどに清廉だった。 まるで、暗い欲望で何度汚しても、けして染まらない聖者ように・・・。 あんな一方的で酷い抱き方をしてさえ、泣きながら「好きだ」と言い続けた。 それは火村が信じたくても絶対に信じきれない言葉だった。 (怖いんだろうな) 今では素直にそう思う。 誰かに執着し、捕われるのは恐ろしいことだ。 理性ではわかっていても、相手の感情に引きずられ、自分が自分でなくなっていくことだってある。 火村にとって、誰かに執着するということは、己が弱くなることと同義語だった。 けれど、求める気持ちは止まらなかった。 火村は、その持て余す感情をどうにかしたくて、心を掻き乱される焦燥感をすべて苛立ちや怒りに変えてアリスにぶつけた。 完全に自分のものにしてしまえば、誰かに奪われる焦りや失うことへの不安に苛まれずにすむ。 だが、ここにきてその企みは完全に行き詰まっていた。 アリスの寄せるあまりに無防備な信頼が、別の意味で火村を怯ませていたからだ。 アリスと自分とでは生きてきた世界が違う。 あの澄んだ瞳で縋るように見つめられると、自分の薄汚い欲望を見透かされているようでたまらなかった。 孤独を癒す相手を願っていなかったわけではないが、自分の孤独な色のない人生にアリスを巻き込んで後悔しないと言ったら嘘になる。 明るくて人の輪の中にいるのがふさわしいアリスを、このまま自分に縛り付けていていいのか。正直火村にもわからなかった。 「いつかは開放してやらなきゃいけないんだろうな・・・」 もう少しだけと言い訳しつつ、ここまで先送りにしてきた結論をもう一度確認して、火村は自嘲ぎみに顔を歪めた。 ふと顔を上げると、公園の入り口はとうに過ぎ、沿道の小道を歩いていた。 公園を挟んだ道向かいには、住宅の間に静かな雰囲気のアンティーク喫茶や小さな花屋が並んでいる。 しばらく行くと公園から張り出した木々の切れ間から、小さな教会が姿を現した。 木造の小さな教会で、管理者がいないのかかなり荒れているようだった。 「火村先生? どうかしましたか?」 立ち止まって、しばらくその教会を眺める火村に、森下刑事が声をかける。 「そういえば、有吉今日子がボランティアをしていた教会への聞き込みはどうなってました?」 「ああ、害者の自宅近くにあるんですが、二週間に一度は顔を見せていたそうです。けっこう大きな教会で、日曜日のミサには信者がよく集まっているとか」 「今からちょっと行けませんか?」 「いいですよ。車を回してきます」 何かを思い付いたような火村に、森下刑事は俄然やる気が出てきて走り出した。 三十分後、二人は都心の少しはずれにある比較的大きな教会の門をくぐっていた。 「すみません、突然おじゃましまして。もしよろしければ、有吉今日子さんのことを、少しお話していただけませんか」 教会責任者は松原という人の良さそうな初老の紳士で、火村達の要望に快く応じてくれた。 「あれは本当に気の毒な事件でした。私どもは今でも信じられません」 警察に何度も同じ事を聞かれたのだろう。司教は有吉今日子のボランテイアの内容や、関わっていた人間関係について、スラスラと答えてくれた。 「特に恵まれない孤児の学資募金活動に熱心でして、毎年関連するミッション系の進学校に入学枠を確保していらしたし、そのほかの福祉活動にも熱心に参加されていました。とても人様から恨まれるような方ではありません」 司教は生前の有吉今日子の表の顔しか知らなかったらしく、ボランテイア活動に熱心な良い人だったとしみじみと語り、最後に冥福を祈るように胸の前で十字を切った。 ここまでは警察から事前に聞いていた内容だ。 「失礼ですが司教、ここは私が知っている教会の中でもかなり大きなものだと思うのですが」 一通り耳を傾けながら、火村はおよそ事件に関係ないことをから、つらつらと切り出すことにした。 「ああ、気がつかれましたか」 教会の歴史にそれなりに誇りがあるらしく、司教は心持ち胸を反らせて、ここら辺りでもちょっとないくらい大きな中央支部クラスだと教えてくれた。 「普通、教会は学校の敷地内か、個人の宣教師が管理しているのはご存知かと思いますが、うちはその教会に赴任する神父の養成も兼ねた学校組織でもあったんです。戦前は、関東一帯のカトリック学校の宣教師も兼ねて礼拝堂管理を一手に任されていましたし、各個人教会の取りまとめもいたしてきました」 「かなり歴史があるのですね」 「はい。ですが、最近は人手不足と管理費の問題から、各支部の教会も閉鎖に追いやられています。残念なことです。中には歴史的に価値のある建造物も多くありまして、可能なかぎり維持しようとこの敷地に移築したものもあるのですが、とても全てとはいえません」 司教の説明では、三百坪ほどの敷地内に、貴重な礼拝堂などの建築物を現在全部で五つほど移築しているということだった。小さいながらもヨーロッパのゴシック建築のように美しい礼拝堂の向うに、小さな噴水や薔薇園がある。 「有吉さんは、私どもの宣教師が派遣されているカトリック女学校の出身者とあって、古き良き建築物の保存のための基金に、多大な寄付をして頂いていました」 「ちょっと待って下さい。彼女、そんな以前からこちらと関わっていたんですか」 それは警察からも聞かされていない内容だった。 「そうですね。高校時代からですから、新しくここに赴任してきた者よりずっと馴染んでいたことは確かですね」 「特に親しかった方とかはいらっしゃいますか?」 捜査方針で顔見知りの可能性が高いことを聞いていた森下刑事は、あわてて手帳を取り出す。 「ボランティア窓口を担当していた笹原神父ともそうですが、あと、建築物保存に携わっている春岡神父とも親しかったですね」 人の良い司教は、自分が容疑者を挙げているとも知らず、何人かの神父の名前を教えてくれた。 「笹原神父はここでも私と同じくらい古株の方でして、彼女が学生の頃には学校の宣教師として週二回ほど通っておりました。春岡神父は…」 「司教様」 話の途中、遠慮がちなノックの音が響いた。 「お話の途中失礼します。クリスマスミサの記念品のことなんですが」 入ってきたのは、まだ見習いらしい若い神父だった。 「例の十字架の発注はいかがいたしましょう」 「おお、そう言えばそろそろですね。去年の分はどれくらい残っていますか?」 「それが、一箱もないんです」 「そんなに減ってますか…。しかたないですね、いつもより少し大目にお願いしなさい」 「はい」 話が終わると、若い神父は一礼して下がっていった。 「失礼しました。今クリスマスの準備などで立て込んでまして」 「そういえば、明後日がイヴでしたね。お忙しいところをすみません」 「いえいえ。そうだ、あなたがたもせっかくいらしたのですから、どうぞ記念にお持ちください」 そう言って司教は、別の若い神父に頼んで小さな紙袋を持ってこさせた。 中を見ると、それは手のひらくらいの鈍色の十字架だった。 「これは、銀ですか?」 「ええ、そうです。毎年ミサの参加者に、記念としてお配りしているものです。子ども達には、これとは別にいろいろなプレゼントも用意しますが。ええと…、それで何の話をしてましたかな」 「有吉さんと親しかった方のお話です」 「そうそう、春岡神父のことでしたね。彼は、こちらに来てまだ間もないんですが、今時の若い神父にしてはとてもしっかりした方でしてね」 「以前はどちらにいらしたんですか?」 メモは森下刑事に任せて、火村は質問を続けた。 「横浜の教会です。ここと同じ神父の養成をする大きな母体教会で、彼はそこで神父の免状を頂いたと聞いています」 「若いとおっしゃっていましたが、お幾つなんですか?」 「今年二十九歳だったと思います。建築学に造詣が深く、とても熱心な活動をなさっています。すべての移築は無理でも保存に力を注ぎたいと、月に何度も無人の教会の管理に出向いたり、そうそう、向うに見える薔薇園は、彼が礼拝堂のかわりにそこの庭の薔薇を移植したものなんですよ」 今が最盛期ですから、と誘われた二人は、司教の案内でその薔薇園を見学することになった。 いくつか種類を寄せ集めているだけだろうと思っていた薔薇園は、まるで英国庭園のようにシンメトリー風に整えられた庭園だった。立ち木風に刈り込まれた大輪の薔薇の木から、コニファーの寄せ植え風に咲いている一重咲きの原種まで、見ごたえのあるものばかりだ。 花に興味のない火村でさえ、思わず簡単の声を漏らすほどだった。 「見事なものですね」 「彼が管理している教会の多くは、以前、外国人の宣教師がいらしたとかで、自国の珍しい薔薇が庭いっぱいに咲いているそうなんですよ。そっちのピンク色の一重咲きはフランスの原種で、となりの大輪は同じくフランス産のピースを掛け合わせたものだそうです。昔から薔薇はキリストにちなんだ逸話がいくつかありましてね。真紅の薔薇はワインと同じようにキリストが流した苦難の血や涙だと言われていますし、その使徒の数だけ集めた花束は完全なる愛の象徴だとも言われています」 いくつか説明しながら司教はゆっくりと薔薇園を先導していく。 「あれも移植したものですか?」 薔薇は中心の噴水を囲むようにしてそれぞれの美を競い合っている。 その真ん中で、一際火村の目を引く薔薇の木があった。 「はい。確か、目黒あたりの個人教会から移した花だったと思いますが…」 何かが、火村の琴線に触れたような気がした。 それは大輪の立ち木の中でも、特に一目で丹精込めて育てられているとわかる美しい白薔薇だった。他の立ち木がほとんど円筒に整えられているのとは違って、その種は一本の木に一輪の花しか付けないように剪定され、周りを蔓薔薇の囲いが取り巻いている。 「春岡神父が言うには、フランス産の白薔薇の中でも特に白色が美しいとされる種だそうで、昔から花嫁の純潔になぞらえてブーケに用いられていたとか。彼も特に気に入っているようです」 にこやかに答える司教とは反対に、火村の眼は鋭く目の前の薔薇を捉えている。 「目黒…ですか」 何か、小さく引っかかるものがあった。 嫌な予感に無意識に眉間が険しく寄る。 それが何だとはっきりしない分、火村の胸には不安の波がかすかに渦巻いていた。 「さて、これからどうしましょうか。他の被害者の自宅とかあたりますか?」 教会を辞して、車に乗り込んですぐ、運転席の森下刑事が聞いた。 火村は、さっき教会でもらった十字架を手に何か考え込んでいる。 「火村先生?」 「…そうですね。少し気になることがあるんですが、これを…」 「あ、ちょっと待って下さい。電話だ」 携帯の着信音が、二人の会話を遮って、森下刑事が慌てて出た。 「もしもし、森下です。あ、佐伯さん、お疲れ様です。何か…えっ?」 相手の声がよく聞き取れず、何度か聞き直していた森下刑事だったが、 「…なんですってっ!?」 次の瞬間、その声が急に緊張した調子にかわった。 携帯に応じながらこちらを見る森下刑事に、火村も瞬時に事情を察して頷く。 車内は一瞬にして緊迫した雰囲気に包まれた。 「はい、はい、わかりました。すぐ署の方に向かいます」 携帯を切ると、森下刑事はすぐにエンジンを掛けながら言った。 「殺しです。例の変死体がまた出ました」 「い、イテテ」 階段を上る途中、気を抜いたとたん腰に鈍い痛みが走った。 「もう、火村のやつ、無理するんやから」 昨夜のことを思い出すと、まだ顔が赤らむ気がして、アリスは誰も見ていないのに周りを伺った。 何度もイカされて、何時に寝たのかも覚えていない。 気がつくともう昼近くで、火村はとっくに出かけてしまっていた。 大阪から森下刑事が来ることになっていたから捜査に行ったんだろう。 正直、どんな顔で話せばいいのか戸惑っていたアリスはほっとした。 (火村のヤツ、どうしたんやろ・・・) セックスで気を失ったのは初めてのことだった。 どんなに夢中になった時でも、あんな無茶な抱き方をするような男じゃなかったのに。 抱き合う前に見せた暗い表情が気にかかる。 それでなくても最近らしくない言動が多い火村を、アリスはずっと心配していた。 火村が何を考えているかが読めない。こんなことは初めてだった。推理している以外、お互い分かり合っていたように思っていたのに・・・。 それとも、そう思っていたのはアリスの方だけだったのか。 二人で話していても、なんだかギクシャクしているようで気が安まらない。かと言って、他の誰かに関心がある素振りや無関心な態度には我慢できない。相反した気持ちを抱えたまま、ただ決められた行為のように身体を重ねる回数だけが増えていく。 「もしかして、火村は後悔してるんやろか」 成り行きで出来た関係だっただけに、アリスははっきりと火村から『好きだ』と告げられたことはなかった。 ただ、今まで二人でいて、これからも二人でいる関係ならば、アリスは言葉にしなくてもいいと思っていた。 アリスだって、それまで火村のことをそういう風に意識したことはなかった。大切な存在に変わりはないけど、いつも傍にいすぎて『親友』という曖昧な枠に甘えていたのは自分だ。 その関係に、火村は名前をくれた。 鈍いアリスは、抱かれて初めてそれが恋だと知った。 思い出すと顔から火が出るほど恥ずかしいが、全然嫌じゃなかったことは覚えている。 別に男が好きなわけじゃない。火村だからいい。火村がいい。 だから、アリスはその感情を隠すことなく火村に晒していた。 「でも、火村は違うのかも・・・」 ベッドの中で好きだと告げたときの火村の顔を思い出し、アリスはため息をついた。 何か痛そうな、何かに耐えているような複雑な顔だった。まるで、アリスにそう告げられるのが辛く感じているような・・・。 思い過ごしかもしれないが、そう思うと、アリスは胸が締め付けられるように痛んだ。 いまさら、『親友』に戻ることはできない。 もし、火村がそうしたいと望んだら、自分はどうするのだろう・・・。 とてもそんなこと想像できそうにない。 ぐるぐる回る思考にうつむいて歩いていると、後ろからポンと肩を叩かれた。 「有栖川センセ、何泣きそうな顔してるんですか?」 振り向くと、大きなダンボール箱を抱えて片桐氏が立っていた。 いつの間にか編集部の喧騒の中心にいたらしい。 「泣きそうって、そんな顔してました? 俺」 「また火村センセと喧嘩したんでしょ」 喧嘩じゃないけど・・・と、言いながら、アリスは片桐さんて結構するどい、と思った。 「ところで、宣伝用のポスターできたんですけど、見ます?」 片桐氏は抱えたダンボールを降ろし、中からポスターを一本取り出して言った。 「見ます、見ます。へぇ、もう出来たんですか。早いですねぇ」 撮影したのは確か五日前だ。 「うわーっ。俺じゃないみたいや!」 広げられたポスターを見たとたん、アリスは驚いて声を上げた。 薄いベールを何枚も重ねた窓辺に、文庫本を片手にアリスが座っている。窓の外はCGで描いた深い夢想の森が広がっていて、手前からアリスが物憂げな様子でそちらに視線を向けている様子が写っていた。 「これでまた先生のファンが増えること間違いないですね」 気恥ずかしさに目を逸らしたアリスに、片桐氏がからかうように言った。 「またそんなこと言って。片桐さん、いつも推理小説は中身で勝負だって言ってるやないですか」 「どんな形でも、読者が増えるのは良い事ですよ。そうそう、さっきまた例の花束届いてましたけど、こちらに持ってきましょうか?」 「いいですよ。自分で取りにいきます」 居心地の悪さに足早にその場を辞して、アリスは上ってきたばかりの階段を受付までまた降りていった。 ちょうど三時の休憩時間に重なったのか、誰もいないカウンターの上に花束が置いてあった。 「あーあ、貰うのはうれしいんやけど、こう毎回やとなんか面倒くそうなるなぁ」 最初のうちこそホテルの部屋まで持ち帰って飾っていたのだが、最近は編集部の女の子に配って回っている。 「また誰かアルバイトの娘にもらってもらうか」 花束は一抱えほどありそうな白薔薇でできていて、ざっと見五十本以上はあった。 「金かてずいぶんかかるやろに」 ついつい勿体無いと思うのは、庶民的感覚か貧乏性か。たかが一介の推理小説家に送るプレゼントとしては、いささかズレがあるような気がする。 「あのメッセージさえなけりゃ、もっと素直に喜べるんやけどな」 花束には、いつもメッセージが添えられていた。最初の頃、それは作品についての感想だったのだが、最近は、まるでストーカー一歩手前のような内容になっている。 『あなたの純粋さは作品に溢れて、私にはわかります』とか、『思ったとおりお姿も素敵です』とか、面映ゆいのを通り越して、なんだか気持ち悪くさえ感じてしまう。 とりあえず編集部に運ぼうとカウンターから持ち上げたその時、その挟んであったカードが滑り落ちた。 慌てて拾おうとして手を伸ばし、次の瞬間、アリスはそのまま固まった。 「なんだ…これ」 二つ折されたカードの開いた部分から読み取れた文章は、思いもしないものだった。 夕べ、あなたの純潔は汚されてしまった 「…純潔って…」 いったい、これはどういう意味なのか。 アリスはしばらく呆然となって言葉もなかった。 夕べって、それはまさか…。 「火村とのこと?」 コクリと喉が震えた。 もう一度、今度は手にとって最初からじっくり読む。 夕べ、あなたの純潔は汚されてしまった どんなに隠そうとも神の目はごまかせない 残念だ あなただけは違うと信じていたのに しかし、わたしはこれがあなたの本意とは思ってはいない むしろあなたは被害者だ きっとあの獣のような男に騙されているに違いない 目を覚ましなさい あなたにはわたしがいる あの男のことは忘れることです あなたの純潔を汚したあの男には神罰が下るだろう ―――――― あなたのファンより 「なんや、これ…」 読み終わっても、内容を認識するまでしばらくかかった。 認識すると、今度は衝撃的な内容に、一瞬頭が真っ白になった。 予想もしない展開だった。 誰だか知らないが、そいつは自分と火村の関係を知っている。内容からして、それを知ったのは、つい昨日のことだ。 どうやって知ったのかはわからないが、アリスのファンと称するそいつは、そのことを快く思わなかったのだろう。 「まるで脅迫状やないか」 わざわざこんなものを送り付けて、自分の意に染まないから別れろと言う。 火村とは、合意の上で愛し合っているのに、なんでそれを他人にこんな風に言われなきゃならないのか。 勝手な思い込みに腹が立つ。 「こんなものっ!」 アリスは手にしていた花束を、力任せに投げつけた。 「有栖川先生、どうしたんですか」 ちょうど受付に戻ってきた女子社員が、びっくりして声をかけた。 投げ出された花束を見て、もう一人が慌てて拾い上げる。 「悪いけど、その花束捨てといて」 言い捨てて、立ち尽くす女の子達の前を足早に通り過ぎた。 手にはまだ、クシャクシャにしたカードを握り締めていたが、内容が内容だけに、簡単には捨てられない。 階段を上るにつれ気持ちが落ち着いてくると、かわりに言いしれない不安が押し寄せてきた。 メッセージには、アリスは火村に騙されているようなことが書いてあった。 見当違いの思い込みから書かれたものだとわかっていても、さっきまで考えていた火村への不安な気持ちが拍車を掛ける。 「別に、騙されてるわけやない。火村だって俺のこと…」 そう思いたくても、どこかで火村のことを疑う気持ちが抑えられない。 それに、もう一つ気になることがあった。 階段の途中、誰もいないのを確かめて、手の中の潰れたカードを広げてみる。 文面には、火村に神罰が下るようなことが書かれていた。 嫌な予感がする。 「まさか…」 こうしている間にも、カードの送り主がどこからかアリスを伺っているとしたら…。当然、火村のことも調べているに違いない。 早く火村に連絡しなくては。 アリスは焦った。 こんな、訳のわからないことで火村が傷つくようなことがあったら、とても正気ではいられそうにない。 「とにかく、火村に知らせなきゃ…」 でも、なんて言う? 俺達のことを知っている奴から変な手紙が来たから気をつけろと? 「……」 そこまで考えて、アリスの足ははたと止まった。 どんな言葉で伝えようと、火村にとってはアリスのせいで被る迷惑に違いはない。 もし、これが決定打になって火村との間に距離ができてしまったら…。 火村の恋人としての自信がない今、それが一番アリスには恐ろしいことだった。 「どうしよう…」 躊躇わせた視線の先に、公衆電話が見える。 ふらふらと頼りない足取りで近づいたアリスは、震える手で受話器を手にした。 火村の声を聞くだけでもいい・・・。 今は、あの低い落ち着いた声を聞いて、この不安な気持ちをどうにかしたかった。 to be continued… |