Lion Heart (2) 府警本部での調べで死体の身元が割れたのは、午後一時を過ぎた頃だった。 「えぇと、遺体の身元は、浜崎裕子、二十歳。本籍地は東京足立区で現在大阪女子大の三年生です」 捜査本部の別室へ通されたアリス達は、そこで森下警部からその後の進展について話を聞いていた。 「検死の報告によりますと、死因は首を絞めたれたことによる窒息死。死亡推定時刻は昨夜十一時から翌午前一時までの間で、これは現場の出火発見時刻とあまりズレがありません」 「すると、同一犯の可能性が高くなりますね」 「はい。ただし、犯人は、極めて理解不能なことをしてまして・・・。発見時は焼け焦げた状態で判らなかったんですが、バラバラにされた遺体の一つ一つに本人の血で文字のようなものが書かれているんです。はっきりとは判りませんが、遺体の解体で付いた血痕とは別物と考えられます」 「血文字・・・ですか」 報告を聞きながら、火村は壁の一点を見つめたままゆっくりと指先で唇をなぞる。こんな時はたいてい思考が深まっている証拠なので、アリスは口を挟まずじっと友人の様子を見守ることにしている。 「害者についての情報も気になりますが、もしかしたらこれは警視庁との合同捜査になる可能性があるな」 「へ? なんで東京なん?」 話が見えず小声で聞くアリスをよそに、森下刑事は感心した様子で頷いている。 「さすが火村さん、鋭いですね。実はそのことでもう本庁の関係者が見えられてるんです。もう少ししたらこちらへいらっしゃいます」 森下刑事がそう言ってまもなく、ドアが開いて船曳警部が入ってきた。後ろから見慣れない刑事が二人続く。 「いや、お待たせしました。話はもう聞かれましたか?それなら早いですな。こちらが警視庁からいらっしゃった例の事件を担当されている三越さんと佐伯さんです」 例の事件と聞いて、アリスはようやくこれがあの東京のバラバラ焼死体事件と関連があることがわかった。 「こちらの事件を聞いてすぐ、東京から駆けつけました。佐伯です」 「はじめまして三越です。火村先生のお噂は東京でもよく耳にしております。できましたら是非今後の捜査に御協力をお願いします」 二人ともまだ二十代と思われる年齢だ。 「こちらこそ。よろしければ例の事件について詳しくお聞かせ下さい」 火村の要請で、それからしばらくは捜査の進展状況について話が進んだ。 東京での被害者は二人。いずれも女性で、殺された状況が酷似していたことから同一犯による連続殺人事件として扱われている。 被害者の身元は、一人は世田谷に住む荒木万紀子、二十九歳。もう一人は有吉今日子、四十一歳。荒木の方は六本木のクラブのホステスで、有吉は都内に豪邸を構える大手不動産会社社長夫人だ。今のところこの二人に接点はない。 「荒木万紀子はこちらと同様に黒焦げ状態でしたが、有吉今日子は火が付けられる前だったので、それによって殺害時の状況がよく判りました。例の血文字も、はっきり残っています」 「マスコミには発表がなかったようですが、何て書かれていたんですか?」 「それが・・・」 二人の刑事は言いよどんで、お互いに顔を見合わせた。 「正確には文字ではなかったんです」 年長の三越刑事が口を開いた。 「書かれていたのは『バツ印』でして、それがバラバラにされた遺体の一つ一つに書かれていました」 「バツ印・・・ですか」 「・・・ずいぶんへんなことする犯人やな」 バラバラにしただけでは満足しなかったのか、それとも何か別の意味があるのか。アリスは火村と顔を見合わせて首をかしげた。 「これがまぁ、一通りの状況報告なんですが…実はここからが重要なことなんです」 事件のあらましをほぼ話し終えると、佐伯刑事は一旦言葉を区切って同僚の三越刑事へ視線を移した。 三越刑事は小さく頷くと、脇に抱えていた紙封筒から何やら取り出し、 「すみませんが、ビデオの準備をお願いします」 と、八ミリビデオを差し出した。 それは、見る者にとっては異常な嫌悪感を催す内容だった。 最初、そこで何が起こっているのか分からなかった。いや、理解しがたかったというのが正しい。それが何なのか理解した時、アリスは一瞬自分の目を疑った。 その部屋は、どこか湿気を帯びた薄暗さに包まれていた。 わずか四帖半ほどの狭い部屋の中央には、簡素なパイプベッドが置かれている。 その上に女が一人横たわっていた。二番目の被害者である荒木万紀子だった。 画面の日付は彼女が殺害された前日、十一月十六日を表示している。 実際、彼女の消息は殺害二日前から途絶えているので、おそらくこれはどこかで監禁されていた現場なのだろう。 だが、薄暗く狭いその部屋にいる彼女は、その時すでに正気ではなかった。いや、正気なら、とても考えられないことをしていたのだ。 彼女は、ベッドの上で全裸のまま、狂ったように自慰をしていた。 誰もいない部屋で一人、ビデオカメラに向かって恥ずかしげもなく脚を開き、一心不乱に行為に没頭しているさまは、場末の淫乱婦より浅ましく、アリスはとても正視できなかった。 時には仰向けに、また獣のように四つん這いになったり、だらしなく開いた唇からはひっきりなしに涎と喘ぎ声を垂れ流す。だが、その目は虚ろで表情はなく、それがかえってこの行為をおぞましく感じさせた。 やがて、行為もクライマックスを迎える頃、突如、画面の端から黒い影が彼女の傍らに現れた。 背の高い、痩せた男のようだが、画面の暗さとカメラの向きからその容貌ははっきり分からない。 影は、しばらく彼女の浅ましい行為を侮蔑するかのように見下ろしたあと、おもむろに手にした細紐を彼女の首に巻きつけ、一気に締め上げた。 画面の前で皆が、一瞬、息を飲む間もなかった。行為に没頭したまま首を絞められた彼女は、文字通り極楽を迎えて息絶えたのだった。 時間にしてほんの三十分ほどの長さだった。 「・・・以上が、犯行後一週間して被害者の家に送られてきたビデオです」 巻き戻しボタンを操作しながら佐伯刑事が振り返った。ゆっくりと皆の顔を見回し反応を伺う。 しばらくは誰も言葉が出なかった。衝撃が大きすぎたのだ。 アリスは、隣に座っている火村がどう感じているか気になっていた。 他の人達が息を呑んだあの瞬間、火村は身動き一つしなかったが、握り締めていた拳が微かに震えていたのをアリスは見逃さなかった。 「ビデオは被害者宅へ直接送られてきたとおっしゃいましたが、もう一人の有吉今日子についてはどうなんですか?」 最初に口を開いたのは、その火村だった。 「おそらく同様に送られて来ていると考えられます。ただ、会社社長という社会的な体面もありますから、しばらくは任意提出は難しいでしょう。 荒木万紀子の方は、家宅捜索中に本人宛てに送られて来たので、その場で押収しました。内容ついては家族には知らせてありません」 「まあ、知らせない方がいいでしょうな」 船曳警部の意見には皆一様に頷いた。 「被害者には薬物が使用されているようですが、遺体からの検出は?」 「荒木万紀子の方は、ほぼ消し炭のような状態だったので無理でしたが、有吉今日子はボヤ程度だったので、一種の興奮剤のような薬物が確認できました」 つまり、あの露出狂のような狂態は薬のせいだったのだ。 「犯人の悪意を感じますね」 潔癖な若い森下刑事は、嫌悪も露に吐き捨てた。被害者の人間性を踏みにじり、その上で殺害する。アリスも、犯人のこのおぞましい感覚は理解できない。 「こんなことする目的はいったい何なんやろ」 「そんなもの犯人に聞くに限る」 火村はあっさり答えた。 「まずは動機について聞いてみたいな」 動機・・・。その辺のことを警察はどう考えているのだろうと、アリスは佐伯刑事に質問した。 「今のところ、はっきりしたものは何もつかめていません。ただ、脅迫状ではありませんが、荒木万紀子の自宅から妙なカードが見つかっています。現物は残念ながら持って来ていませんが、内容は『堕落したマリアに救済が必要だ』とありました。有吉今日子の方も、同じ人物からと思われるもので、『あなたには失望しました』とか」 「ストーカーですかね。今流行ってますし。そうすると、恋愛感情のもつれも考えられますか」 船曳警部が横から口を開く。 「被害者の身辺調査等は進んではるんでしょ?」 「ええ。でも、先ほども申しましたとおり、東京の二人の被害者でさえ生前の関わりが見えてきません。荒木万紀子の方はホステスだったことから男関係を洗っているところですが、有吉今日子の場合、社長夫人という地位と顔を活かした奉仕活動を積極的に行なっていたようで、日頃の生活面もかなり真面目な人物だったという情報しか得られてません」 「どんな奉仕活動をしてたんですか?」 今度は火村が質問した。 「資金を集めて寄付をする組織活動じゃなかったかなあ」 三越刑事は手元の手帳をめくりながら、 「そうそう、彼女自身カトリック教徒とかで、洗礼を受けた教会に協力する形でボランティア団体を運営してるとあります。チャリティーバザーとかよくやってたみたいですね」 「キリスト教徒ですか・・・」 火村は小さく呟いて、人差し指で唇をなぞった。 「一つ確認ですが、遺体の発見現場から見つかった遺留品に、おかしなモノはありませんでしたか? 違和感を覚えるようなモノとか」 「う〜ん、どうだったかなぁ・・・。佐伯、きみ何か覚えてるか?」 「思い出す限りではこれといった物証はなかったですねぇ。それが何か?」 「・・・いえ。とろろで、今後の捜査方針はどうなりますか?」 「一応、現場周辺の聞き込みを中心に被害者の人間関係を洗って行くつもりですが、動機については保留ということになりそうです」 苦しい捜査になりそうな予感がした。 『女子大生バラバラ焼死殺害事件』は、その日の夕刊のトップを飾り、クリスマス一色だった街の浮かれ気分を一瞬にして吹き飛ばした。 夜の十時過ぎに本部を出たアリスたちは、そのまま夕食を取るために道頓堀の馴染みの店に身を移した。 早朝からの騒ぎで身体は疲れていたが、頭は妙に冴えている。このままじゃ今夜は眠れないかもしれない。 おそらく火村もそうだろう。しかし… 「君、よくそんな食べれるな」 目の前には料理皿が所狭しと並んでいる。すべて火村の注文したものだ。本人はさっきからそれらを黙々と片づけている。アリスは遺体のショックもあって、食べる気もおこらないというのに。 「死体を見るたび食欲をなくしてたら、栄養失調になっちまう」 それだけ死体に慣れてしまったというのか、暗にアリスの軟弱さを指摘しているのか、たぶん後者だろうな、とアリスは黙ってビールを啜った。それより今はもっと気になることがある。 「今日の事件、どう思った?」 箸は動かしたまま、火村はアリスにチラリと見上げた。 「おまえは?」 「まだ混乱してる」 「俺もさ。少なくとも、殺害方法はわかったけどな。」 ビデオの映像を思い出すと、アリスはさらに食欲が減退した。あきらめて箸を置き、思考に集中する。 「う〜ん…、問題は動機やろうな。被害者に共通点が見つからなかったら通り魔的な凶行か、精神異常者の犯行になるやろうけど」 「動機はあるさ」 火村は低い声で言い切った。 「たぶん、これは警察が考えているよりずっと根が深い。あのビデオを見てはっきりした」 火村には、確信めいたものがあった。 「犯罪は動機じゃなくて結果でしかない。あんな犯行ならなおさらだ」 「君には動機が分かってるんか?」 アリスは思わず身を乗り出した。 「動機は…妄想からくる正義感」 「は?」 意味がわからずアリスは聞き返した。 「まさか正義感溢れるヤツが、悪いヤツをお仕置きしたなんて言わんやろな?」 「別に珍しいもんじゃない。人が暴力行為に出るときは、どんな場合でも相手を悪者とみなしているもんさ。それがどんな理不尽な言い分実であれ、本人にとっては正義なんだろう」 火村は冷たく言い放った。 「ある種の犯罪は、信仰のようなものだと思わないか、アリス」 「……」 「犯人には犯人の信じる世界がある。常人には理解しがたい妄想でも、本人にとってはそれが真実だ。だからその世界が壊され、追い詰められ、もう選るべき手段が何も残されていないと悟った時、人は殺人という大罪を犯す。思い込みが強ければ強いほど、犯罪に駆り立てられるといってもいい」 アリスはかすかに眉を潜めた。 (・・・まるで犯罪者の気持ちがわかるような言い方やな) 自嘲ぎみな口調が妙に気になる。 いつもは、越えてはいけない一線を越えた人間として、とことん犯人を追い詰め、決して共感はしない男なのに。こんな火村はめずらしい。 いつもと違う雰囲気にアリスは漠然とした不安を感じる。 火村が言葉を続けた。 「おそらく、この犯人は、女はすべて聖女のようだ、もしくはそうあるべきだと妄想を抱くタイプなんだろう。被害者の家にあったカードからそれがわかる。だから、何らかの形でその女に失望した男は、『堕落したマリア』を自分の信じる方法で『救済』した」 「異常や」 アリスは眉をひそめた。 「結果だけ見るとそうなるな。しかし、女の何に失望したかで見方も変わる」 「だから、犯罪は結果であって動機やない、か…」 「そう。必ずどこかに繋がりがあるはずだ」 アリスの頭の中に、昼間見たビデオの映像が浮かび上がる。別の視点で見れば、彼女は裁かれる罪人のように思えるから不思議だ。 犯人はいったい何に失望し、どんな理由の正義で彼女達を裁いたのだろう。 そして、その犯人を自分の正義で裁こうとする火村は、今でも同じ憎悪に捕らわれているのだろうか。 (君はどうだったんや?) そう聞きそうになるのを、アリスは膝の上で拳を握り締めてじっと堪えた。 アリスが、知りたくてしかたない彼にとっての動機がここにある。 今日のような殺人事件に遭遇するたび、アリスは火村との距離を感じて恐くなる。二人でいても、恋人と呼べる関係になっても、二人を隔てている壁が確かに存在していて、それがいつか火村を自分の手の届かないところへ連れ去っていくのではという不安。 真夜中、彼が叫び出すたび、何度アリスはその胸にすがって理由を問いただしたい衝動に駆られたことか。 (何が君をそんなに孤独にしたんや…) (誰をそんなに殺したいほど憎んでるんや…) 結局、いつも聞けないままに朝を迎えてきた。 それを知らないかぎり、本当に理解できないとわかっていても、知ればプライド高い彼を傷つけてしまいそうで…。 だから、いつか火村が口を開くまで、何も聞かないかわりに、捜査に関わる彼を間近に見詰めていこうと決心した。 何も力になれないけれど、いつも自分が側にいることを知っていてもらうために。 一人ではないと囁くかわりに。 「アリス、どうかしたのか?」 名前を呼ばれて我に返る。 急に黙り込んで俯いたアリスを、火村が心配そうに覗き込んでいた。 そこには、さっきまでアリスが感じた空気はもうなかった。少しほっとする。 「やっぱり、腹がへったとか」 「アホ。そんなんやあらへん」 的外れな火村の気遣いに苦笑しながら、アリスは暗い考えを振り払った。 「こんな時、仕事で東京なんてツイテへんて思てたんや。気になってしょうがないやろ」 「例のサイン会か?」 「うん。打ち合わせや会場の確認やらで早めに来てくれて」 「だったら、あっちで落ち合うか? どうせ事件の中心は東京だ。俺もすぐに向うへ立つ」 昼間、火村は正式に東京の捜査にフィールドワークの一環として参加する了承を得ていた。 「すぐって、君授業はどうするんや」 「なあに、どうせクリスマスやら何やらで浮かれまくってる学生にはたいした授業は要らないさ」 火村はすでに休講を決めているらしい。 アリスは大学の学務課職員に同情せずにはいられなかった。 「とりあえず、来週頭にはあっちへ行くと思う」 「わかった。あとでホテルの場所を連絡する」 それから二日後の十二月七日、アリスは大阪の事件に後ろ髪引かれながら東京へ立った。 to be continued… |