Jast Harry ―ただのハリー―




それが、ホグワーツを、魔法界の存在を知るまでのハリーだった。
ちびでやせっぽちな貧相な子どもが、一夜にして英雄になるなんて、誰が想像しただろう。
真夜中、寮生が寝静まった寮の出窓で、膝を抱えたハリーはこっそり溜息を吐いた。
みんながハリーを知っている。
恐ろしい魔法使いを倒し、生き残った男の子、それがハリーだ。
でもそんなの僕は知らない……
好きで噂の的になっているわけではない。
それなのに、あの陰険な教師はハリーを責めるのだ。

英雄殿はそんなこともご存知なにのか ――― と。

まるでハリーは名声に胡坐をかいて努力を怠っているような言い様だ。
ここに来るまで、ハリーがどんな環境にいたのか、少しぐらい考慮してくれたっていいのに。
理不尽な態度は、小さなハリーの胸を棘のように苛む。
魔法界に来てからこっち、人々の好奇心や過剰な好意にさらされていただけに、ハリーの心は過敏に傷つきやすくなっていた。
そこにあのあからさまな悪意だ。
彼が宿敵スリザリンの寮監ということを差し引いても、その冷たさはハリーを深く落ち込ませた。

「スネイプなんか嫌いだ」

寄り添うヘドウィグが慰めるようにクルルと鳴いた。




一人歩きする噂に翻弄されながら、その日ハリーは他の新入生と一緒に地下の薄暗い教室にいた。
同じ教室に、ハリーがいるグリフィンドール寮生のライバル、スリザリンの寮生もいる。その代表格であるドラコとは、入学早々お互い馬が合わないことを確かめたばかりだ。
金髪をオールバックにセットした生意気そうな顔と睨み合っていると、教室の扉がバタンと開いた。
とたんに生徒達の私語が止む。
黒いマントをたなびかせて、風のように登場したのは、教室を恐怖政治のように支配するスネイプ教授だった。

「教科書は584ページ」

地を這うような低い声が響く。
緊張に指を震わせて、生徒達が教科書を開いた。

「弛緩の魔法薬の神秘的な効能は、四肢の自由を奪うだけでなく、配合の割合によって弛緩具合や時間、またその感覚を支配できることだ。さて、その配合に欠かせないものは?」

くるりと振り向いた鋭い視線が、生徒達を射抜く。
ハーマイオニーが勢いよく手を上げる隣で、ハリーは石になりそうなくらい緊張していた。ゆっくりと獲物を狙う猛禽類の目が、ピタリとハリーに止まる。

「……ハリー・ポッター」

きた。
ハリーの心臓がドキンと鳴った。

「答えなさい」
「……わかりません」

衆目に晒される羞恥に耐えながら、ハリーは答えた。

「知識は何物にも勝る武器なり。愚か者は命を守る術を持たないようだ」

辛らつな言葉に打ちのめされるハリーに、スネイプは更に追い討ちを掛けた。

「グリフィンドール5点減点。ポッターは後で残るように」
「……はい」

理不尽な減点に、ハリーは怒りと悔しさでいっぱいになった。
どうせ自分は嫌われてるさ。
こっちだってスネイプなんか嫌いだし。
木の根を意地になって刻んでいると、視界の隅にドラコを褒めるスネイプが入った。
飼い猫のように懐くドラコが、やたら癇に障る。
再び怒りと悔しさが胸を突く。
だが、それだけではなく、ハリーはなぜか胸に穴が開いたような虚しさも感じていた。




気もそぞろになったせいか、ハリーの鍋で煮詰められた液体は、隣のハーマイオニーの鍋とはまったく違う色と臭いになっていた。

「満足に集中もできないのかね」

呆れた声音で、10点の減点を言い渡される。
項垂れたハリーに、授業が終わって去り際、

「気をつけろよ」

と気の毒そうにロンが言い、ハリーはひとり教室に残った。
教壇に立つスネイプとふたり、重々しい空気に包まれる。

「さて…」

長いマントがスルリを裾を引き、ハリーの前にスネイプが立った。

「どうして残されたかわかるか、ポッター」
「……質問に答えられなかったから、ですか…?」

ハリーはおずおずとスネイプを見上げた。
見下ろす瞳は、氷のように冷たい。

「そんなことはどの生徒にも期待していない。我輩の教える分野は理解するのに時間がかかる。それだけ高度な知識と技術が必要なのだ。だが、貴様は違うぞポッター。チヤホヤ英雄視されていい気になっておれば、いずれ授業について来れなくなる」
「僕、そんなつもりはありません」

ハリーは本気で否定したが、スネイプはそれを即座に遮った。

「そうかな。我輩の目はごまかさせん。皆貴様に騙されているからな」
「騙すなんて…」

勝手にハリーを祭り上げているのは周りの方なのに。
ハリーはどうしてわかってもらえないのだろうと、悔しさに唇を噛んだ。
スネイプは、そんなハリーにはお構いなしに、冷たく言い放った。

「化けの皮が剥がれる前に、実力をつける努力をしろ。それともさっさと逃げ出すかね」
「……え…?」

一瞬、何を言われたのか理解できずに、ハリーはぽかんと口を開けた。
努力…努力って言わなかったか?

「ポッター、聞いているのか?」
「あ、えっ、ええ」

慌てて頷きつつ、ハリーはすばやく意味を考えた。
スネイプは、日頃からハリーを愚かで不器用な劣等生だと指摘している。
大勢の前で、そう言われて悔しくない人間はいないし、それはスネイプが自分を嫌っているからだと思っていた。
だが、もともと自分はそんなに優秀な子どもだったか?
ハリーは自問し、そうじゃなかったことに気がついた。
ハリーの知っている自分は、もともとちびでやせっぽちの貧相な、何の取り得もない子どもだったではないか。
そんなハリーに、スネイプは努力しろと言った。
そして、実力をつけろと。

「先生」

ハリーは、俯いていた顔を上げて真っ直ぐスネイプを見上げた。

「なんだポッター」
「努力したら、認めてくれるんですか?」
「何?」
「努力して、実力をつけたら、ちゃんと認めてくれんですか?」
「そんなことは、努力してから言うものだ」

すげなく返されたが、ハリーはめげなかった。
魔法界でハリーを知らない人間はいないが、本当のハリーを知る者は少ない。
だが、目の前の男には、最初からそんなことは関係なかったのかもしれないとハリーは思った。
スネイプの目に写っているのは、特別でもなんでもないただのハリーだったからだ。

「次回はちゃんと授業に集中するように」

スネイプはそう言い置いて、来た時と同じように風のようにマントをひるがえして出て行った。
たぶん、これからもスネイプの嫌味は減らないだろう。
なんたってグリフィンドールはスリザリンのライバルだ。
それでも、ハリーの気持ちはもう沈んではいなかった。

「いつか認めさせてやる」

途方もない目標を掲げて、ハリーは自分に気合を入れた。





FIN





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