自分はいったい誰なのだろう ずっとずっと考えてきた みすぼらしい育ちきらない哀れな孤児 闇の帝王を倒した英雄 でも、みんな僕を知っていても、僕の居場所はどこにもなかった 孤独だけが満ちる世界… ハリー・ポッターにとって一年で一番惨めな日は、きまって自分の誕生日だった。 ハリーには両親がいない。それはハリーが物心つく前に、恐ろしい怪物と恐れられた悪者に奪われてしまったのだけれど、十一歳になって真実を知らされるまで、身を寄せた親戚にずっと交通事故で死んだと聞かされていた。その唯一の親戚は、自分を存在しないかのように厄介者として扱い、時に無視し、ちょっとでも失敗すると酷く責めて折檻した。 ハリーにとって、それは日常だった。だれも自分を気にかける者はいない。まして誕生日を一緒に祝うなんて…。 悲しみや絶望が諦めに変わるのは早かった。時々、自分と正反対に大事にされるダドリーを羨ましいと思うことはあっても、太って鈍いダドリーに成りたいとは思わなかったし、自分達が世間で一番まともだと狂信的に信じているおじさんやおばさんのようになるもの嫌だった。 自分は自分のままでいい。誰にも縛られずただのハリーのままで。 けれど、惨めな記憶の重なりは、ハリーの中で澱のように凝り、誰にも癒せない孤独を生み出し、運命の日が訪れ、魔法という新しい世界が開けてもそれは心の片隅に在りつづけた。 魔法の学校、ホグワーツは、いつもにように活気ある朝を迎えていた。 「ねぇねぇ、あなた達、あの話もう聞いた?」 ざわざわと大勢の仲間がさざめく朝の食堂で、ハリーとロン、それにハーマイオニーの三人はとある噂話に興じていた。 「ああ、例の夢の話だろ。眠る前にある『おまじない』をすると自分の見たい夢が見れるっていう。あれって本当なの?」 ハリーが聞くと、今日の朝食『オートミールに尾長カモの燻製サラダ』を頬張りながら、ロンが身を乗り出した。 「あんなのどうせ眉唾だろう?トレローニー先生の占いより怪しいよ」 「それはわたしも同感よ」 トレローニー先生が大嫌いなハーマイオニーがうなずく。 彼女の言う話とは、この秋の半ばからは流行り出した奇妙な呪い遊びのことだった。もともとは、新学期に入ってハリー達が習い始めた新しい学科『夢に関する魔法術』がきっかけで流行り出した夢占いの遊びに過ぎなかったのだけど、占いを信じる生徒が夢見を良くする呪いを始めたことから、あっという間にそれが広がってしまったのだった。 「ジニーもこの前、王子様の夢を見たなんてはしゃいでいたけど、どうせあいつの見る王子様はハリーのことに決まってるし、俺はあんまり信じないけどなぁ」 そう言って、なぁ、とロンは隣のハリーに同意を求めた。 「ハリーだったらどんな夢見る?」 「僕は呪いなんてしないから、見ても良くわからない夢ばかりだよ」 「そうだよなぁ。オレだって怪獣が出てきたりママに怒られたり、いい夢なんて見ようとしても見れないもんな」 「……」 「でも、問題はかなりの生徒がそれを信じて実行してるってことよ。なんだか学校中が落ち着かない感じで、マクゴナガル先生も心配してらしたし。それにわたし、なんとなく悪い予感がするのよねぇ」 占いを理論的ではないと信じない彼女らしくもなく、ハーマイオニーは不安げな顔で眉をひそめた。 「何がそんなに心配なんだい?」 「自分でもよくわからない。けど、夢って深層心理に影響するって言うでしょ? だからこんな風にみんなが夢中になるのは危ないっていうか…」 上手く説明できないハーマイオニーだったけど、ハリーはなんとなく言いたいことがわかる気がした。夢は個人の欲望に満ちている。けれど、夢に囚われ出したら、きっと現実にも影響する。ハーマイオニーはそれが心配なのだ。 「大丈夫だよ。夢は夢だ。みんなわかってるって。それに何かあっても、ここにはダンブルドアがいてくれる」 ハリーは気を取り直すように明るく言って、 「それより、早く食べてしまわないと。なんたって一時間目はあのスネイプ先生なんだから、遅れたら大変だ!」 と自分も慌ててオートミール掻き込んだ。 ハリーは、朝食に集中するふたりを見ながら、今朝見た夢のことを考えていた。ロンには言わなかったけれど、ここ最近、ハリーはずっと同じ夢を見ている。しかもそれは、ハリーにとって誰にも言えないくら酷い悪夢だった。 ―――君が逃げつづければ、それだけ多くの人間が傷つくことになる。わかっているだろう? 夢の中で囁くその声は、夜の霧のようにしっとりとハリーに纏いつき、ある意味悪夢よりも恐ろしい恐怖を持って、毎晩ハリーを苛んだ。 ―――大丈夫。あれはただの夢だ。 ハリーはできるだけ声の主について考えないようにしていた。思いつめたら、きっと良くないことが起こりそうな…。ハーマイオニーじゃないけど、なんだか悪い予感がして、ハリーはこっそりため息をついた。 それからしばらくは、ハーマイオニーの不安をよそに比較的穏やかな日々が続いた。 スネイプ先生の授業はあいかわらず嫌味だったし、トレローニー先生は胡散臭い占いでみんなを煙に巻いた。ハリーは、近々スザンリンと対決するクィディッチの練習で忙しかったし、ハーマイオニーは試験でもないのに毎日遅くまで勉強してロンを心配させた。 何も変わらない毎日。けれど、それはいつものように慌しく破かれてしまった。夢占いに夢中だった生徒の一人が、ある朝突然目覚めなくなってしまったからだ。 「大変だ! 下級生が夢に取り込まれてしまったぞ!」 学校は、蜂の巣を突付いたように大騒ぎになった。 その頃には、本気で夢呪いを信じる者のほかにも、面白半分に呪いをする生徒がかなりいて、だれもかれも次は自分が眠ったまま目覚めなくなるのではと思い、学校中がパニックになってしまった。 「意識が戻らない生徒は一時的に医務室へ保護します。眠るのが怖くて不眠症になりそうな人は、薬湯を煎じますので申し出るように」 校医のマダム・ポンフリーの奮闘も虚しく、目覚めない生徒は毎日少しずつ増えて、一週間も過ぎる頃には十人あまりが眠ったままの状態になった。 「いったいどうなってるのでしょう。眠りの夢に捕まるのはみんなグリフィンドールの生徒ばかり。これは即急に対策を講じねばならないわ」 さすがのマクゴナガル先生もうろたえて、授業も一時中断された。 喜んだのは、ハリー達グリフィンドールを目の敵にしているスリザリンの生徒達だ。特に、リーダー格のドラコ・マルフォイは、食堂で顔を合わせる度に何かとからかいの言葉を浴びせてきた。 「やぁ、ポッター。君まだ起きていたんだね。今日こそ眼が覚めないんじゃないかって心配してたのに、残念だなぁ」 マルフォイの後ろで、くすくすと笑うスリザリンの生徒達。 「うせろ、マルフォイ」 ハリーの隣で、ロンは歯を剥き出して低く唸った。 「ああ、ウィーズリー、君もいたんだね。そういえば、君の小さな妹は、熱心な呪いをしていたそうじゃないか。そろそろやばいんじゃないか? 次に夢に捕まるのは、きっとジニー・ウィーズリーさ。せいぜい気をつけるんだな」 「マルフォイ!!」 いまにもロンが掴みかかろうとしたところへ、 「何をしてるんです!?」 ちょうどマクゴガル先生が通りかかった。スリザリンは不謹慎な言動をしたということで、五十点の原点とされた。 「覚えてろよ」 悔しげに毒づきながら立ち去るマルフォイを、ロンが噛み付きそうな顔で睨みつける。 「なんであいつはいつもいつもオレ達につっかかるんだろう」 「かまうことないよ。あいつが嫌なこと言うのはいつものことじゃないか。なぁ、ハーマイオニー」 「……ええ」 ハーマイオニーは曖昧に頷くと、ハリーの顔を伺いつつ、こっそりため息をついた。 気づかないことは、時に罪作りなことだ。 ハーマイオニーは、二人とは違う意味でマルフォイの複雑な敵愾心を理解していた。だから、時々彼が嫌なことを言っても、怒りより哀れみの方が先に出てしまう。 「それよりハリー、ジニーがあいつの言うとおりになったらどうしよう」 ロンは泣きそうな顔でハリーを見た。 「夢に捕まるのはグリフィンドールの生徒ばかりだし、ジニーは夢の呪いに夢中だったんだ。いつ眠りから覚めなくなってもおかしくないよ」 聞けば幼いジニーもこのところそれを不安に思って、不眠症に悩んでいるのだという。 「ロン…」 縋るように自分を見つめる友人に、ハリーは何と答えればいいかわからなかった。 この眼差しは、ホグワーツに来た最初の頃よく見たものだ。 英雄を求める眼差し。 あのヴォルデモート卿を倒したんだから、怖いものはない。誰もがそういう眼で自分を見ていたことを、ハリーは知っていた。 「大丈夫よマルフォイの予想なんて、トレローニー先生より当たりっこないんだから」 黙ってしまったハリーの横から、ハーマイオニーがロンを慰めた。 それから二日後。 「今日は、みなさんに残念なお知らせがあります」 朝、食堂に行くと、集まったみんなの前にマクゴナガル先生の青い顔があった。 「あなた達の後輩のジニー・ウィーズリーが、今朝マダム・ポンフリーのもとへ運ばれました。大変残念です。また、今までこのグリフィンドールだけに止まっていた被害が、他の寮生にも広まりつつあります。今日はそのことで緊急会議がありますので、授業は中止になりますが、どうかみなさんは落ち着いて行動するようにしてください」 ロンはすでに知っていたのか、ショックを通り越してマクゴナガル先生よりもっと青い顔をして俯いている。 「ロン、ねぇ、しっかりして。ジニーはきっとよくなるわ」 必死に慰めるハーマイオニーの言葉も届かないのか、ロンはじっと俯いたまま、ブツブツと何かを呟いた。 「きっとあいつだ。マルフォイのせいだ。あいつがあんなこと言ったからジニーは…」 「ロン…」 スリザリンの生徒も、先日の威勢は消えうせ、すっかり不安そうな顔をしている。その中で特にマルフォイの眼は虚ろで、ロンを気遣いつつハリーはなんとなく気になった。 「なぁハリー、こうなったら俺たちで夢の原因を調べよう」 「調べるったって、どうやって?」 「マルフォイだよ。きっとあいつ何か知ってる。だって、夢の被害者が一番少ないのは、あいつのいるスリザリンじゃないか!」 ロンはすっかり頭に血が昇っているようだった。 「冷静になりましょうよ。マルフォイが犯人だなんて証拠はないんだから」 「だから、それを見つけるために調べるんじゃないか! 行こう、ハリー。まずはスリザリンの知り合いに当たってみる」 「ロン!」 ハーマイオニーが止めるのも聞かず、ロンはさっさと立ち上がる。ハリーは一人にしては置けないからと、彼女に眼で合図をしながら後を追った。 「もうっ。どうしてああ単純なのかしら」 理性派のハーマイオニーは、直情型のロンの行動を時々理解に苦しむときがある。それでも、日頃はとっても気が良くて、大切な人にはとことん優しい彼だから、あんなに熱くなれるのを、彼女はよくわかっていた。 「さ、あたしはあたしのやり方で手伝ってあげるとするか」 とりあえず図書室で夢魔法について調べてみようと立ち上がったとき、視界の端にマルフォイがこっそり一人で食堂を出て行くのが見えた。 食堂を抜け出して、かなり遠ざかった人気のない教室に入ったところで、やっと一息ついた。 あたりに誰もいないのを確かめたマルフォイは、ポケットから古い日記帳を出す。それは、表紙の真中を何かで貫かれたような日記帳で、彼はそれを震える手で開くと小さな声で話し掛けた。 「どうしよう、あんなに大変なことになるなんて思わなかったのに…。こわいよ。もうやめたい」 ―――だめだよ 誰もいないはずなのに、それはマルフォイよりずっと大人びた低い声音だった。 ―――夢を現実にしたいと言ったのは君じゃないか 「でも…」 マルフォイは言いよどんで唇を噛んだ。 学校で例の夢呪いが流行り出す少し前、マルフォイは続けて不思議な夢を見た。それは宿敵ハリー・ポッターの夢で、信じられないことに、マルフォイに向かって笑いかけたり抱き締めたり、およそ親友のように振舞う彼の夢だった。 最初にその夢を見たとき、あまりの馬鹿馬鹿しさにマルフォイは眩暈がしたほどだった。けれど、その頃ちょうど習い始めた「夢に関する魔法術」の授業で夢占いについて学んだとき、彼は夢が奇妙に人の深層心理を具体化する機能があることを知った。 (あのハリー・ポッターと仲良くしたいだって? 嘘だろ?) マルフォイはとまどった。そんなことあるものかと否定したりもした。でも、そう思い込もうとすればするほど、視線は吸い寄せられるようにハリーを追ってしまった。そしてついつい憎まれ口をきく。 その繰り返しに疲れ果ててきた頃、ちょうどあの声が彼に語りかけてきた。 ―――夢を現実のものにしてみないか? 声は、聴いたこともないような極上の音楽のように、マルフォイの耳に心地よく響いた。 ―――本当は、誰よりも英雄ハリー・ポッターを独り占めしたかったんだろう? 「そうだ。僕はヴォルデモート卿を倒したという英雄に憧れてたんだ」 なのに、その英雄は純血種の中でも由緒あるマルフォイ家の息子である自分よりも、格段に落ちるウィーズリーや穢れた血のグリンジャーなんかを大切にしている。マルフォイにとっては、それは学年でトップを取れないことよりはるかに屈辱的なことだった。 ―――大丈夫だ。僕の言うとおりにすれば、ハリーは必ず自分の過ちに気づいて、誰が一番親友としてふさわしいかわかるだろう。 実に魅力的な誘惑だった。周りの低俗な連中を取り除いて、自分がハリーの一番近しい存在になる。そのために、まずトレローニ―先生の占いに心酔しているラベンダー達に入れ知恵し、夢呪いを流行らせた。ハリー達は思いもよらないことだったが、それは夢を見る者の意識を夢ごと閉じ込める恐ろしい呪いだった。 「でも、こんなことになるって知ってたら、絶対にしなかった」 マルフォイは恐怖に慄きながら、必死に言いつのった。 「僕はただ、ハリー・ポッターに僕の存在を認めて欲しいだけだったのに…」 「それで? 今更怖くなって言い訳してるわけ?」 誰もいないと思っていたマルフォイは、突然の侵入者にうろたえた。 「ハーマイオニー…、どうしてここへ…」 「あなただったのね、マルフォイ。グリフィンドールの生徒ばかりが被害に遭うのも、スリザリンが全然被害に遭わないのもこれで納得がいったわ。いったいどういうことなの!」 こっそり抜け出すマルフォイの後をつけて来たハーマイオニーは、信じられない内容に声を震わせて彼を問い詰めた。 「し、知らない、僕は何も知らない」 「マルフォイ!」 ―――やれやれ、とんだ落ちがついてしまったね… 突然、どこからともなく響いてきた声にハーマイオニーが顔を上げると、教室全体が見知らぬ異次元空間に呑み込まれたように暗くなり、その真中に、煙のような闇が立ち上って、たちまち人影を形成した。 「始めまして、ハーマイオニー。君に会うのは初めてだったかな」 闇の煙が晴れた後、そこには漆黒の髪の少年が一人立っていた。 「あなたは誰なの?」 「僕のことは、君の友達がよく知っているよ。ほら、ちょうど彼らも到着したようだ」 「ハリー!」 入り口を振り返ると、いつの間にかそこにハリーとロンが立っていた。 「トム・リドル・・・」 事態がよく呑みこめないロンをよそに、ハリーは愕然と中心に立つ、大人びた少年を凝視していた。 ―――――ジニーは心を打ち明けることで、僕に魂を注ぎ込んだ。 それはかつて、ホグワーツの秘密の部屋を解き放つことに妄執し、思念として残ってしまったヴォルデモート卿のもう一つの姿だった。 「やぁハリー。久しぶりだね。ああ、夢の中では何度も会ったかな。」 親しげに微笑むトム・リドルの姿が、ハリーに毎夜見る夢の風景を思い出させた。 ―――君が逃げつづければ、それだけ多くの人間が傷つくことになる。わかっているだろう? 纏いつく夜の霧のようにしっとりと囁くその声は、ハリーがよく知っているものだ。ただ、認めたくなくて、必死に忘れようとしていた。 トム・リドル…。忌わしいその名は、ハリーの夢の中に毎晩実体化して彼を悩ませていた。 「トム・リドル…」 「どうしたの? 何を怖がってるんだい? 君はウィーズリーの小娘と違って僕と魂を分け合っても平気なほど強いのに」 「僕がいつ君と魂を分け合ったというんだ」 近づいてくるリドルに、ハリーは警戒心も顕に言い放ちながら後ずさろうとした。しかし、それより早く彼の腕が伸びて、肩を引き寄せられて囚われる。 「僕の日記に書いただろう?」 耳元でくすくすと笑い声がささやく。 「マグルなんか大嫌い、ダドリーなんて呪われればいいって」 「そんなこと書いてない!」 ハリーが叫ぶと、いつの間にか落ちていた日記が、宙に浮いてひとりでに開いた。 「実際に書かなくても日記にはちゃんと残ってるさ。見てごらん」 リドルが開かれたページを指すと、そこには見覚えのある字で彼が言ったとおりのことが書かれていた。 「こんな・・・嘘だっ」 「言っただろう? 僕たちはお互いに魂を分け合ってつながってるんだ。君が心の奥で望んでいることは、この日記が記録して僕に教えてくれる」 「そんなこと…」 ないと言い切る自信が、ハリーにはなかった。 両親が魔法使いだったと知ったあの日まで、ダドリーとその家族を憎んでいなかったと言ったら嘘になる。 「ハリー、騙されちゃダメ! 彼は嘘をついてあなたを取り込むつもりよ!」 「やれやれ、うるさいお嬢さんだ。けど、この僕を前に強がっていられることには敬意を払おう。ほかの連中はほら、僕の魔力に当てられてもう意識を失ってるんだから」 ハーマイオニーも、だんだんと力が抜けてきているのがわかった。 「ハリー、逃げて…」 意識が沈み込んで、とうとう倒れこむ。 「ハーマイオニー!」 「心配かい? この連中だって本当は君をどう思っているかわからないのに」 「わかるさ。ロンやハーマイオニーは友達だ」 ハリーにとって生まれて始めての友達。 「そう、それなら君は、なぜ今も孤独なんだい?」 「え…?」 「いいんだよ、ハリー。僕には嘘をつかなくても。君のことならよくわかっている。かわいそうに、君はマグルの中にいて、ずっとその存在を無視されてきた。こうして魔法界で英雄として注目されるようになった今でも、どれだけの人間が本当の君を知っているというのか」 優しげにささやくリドルの声は、旅人を眠りにさそう夜の香りのようにハリーを包んだ。 「本当は不安だったんだろう? 誰もが称えた英雄の君は、その記憶さえない。みんなが注目する自分は、もしかしたら違う自分じゃないかって」 それは、ある意味ハリーの気持ちを言い当てていた。小さい頃からの孤独は、ホグワーツに来てようやく癒されたはずだったけれど、心のどこかでいまだ本当の彼を理解するものはいないのではと感じていた。 ロンや、ハーマイオニーでさえ、時々自分を特別な人間のように扱う。そのたびに、ハリーは言い知れぬ孤独感を味わっていた。 「怖がることはない。君がマグルの世界で孤児だろうと、魔法界で英雄だろうと関係ないんだ。僕が関心があるのは、君が君であるということだけさ、ハリー。」 「ダンブルドア先生は、君が僕に関心を示すことを予期されていた」 「そう、ダンブルドアの言うことは正しい。僕達は似ているからね。混血で、孤児で、マグルに育てられ、見た目さえも。でも、彼の言うことはほんの少し違う」 そう言ってリドルは指でハリーの前髪を優しくかきあげ、額の疵にかすかに触れた。 「これはもう関心ではなくて執着さ。証拠を見せてあげようか?」 リドルの唇が優しく額の疵に落ちる。ハリーは口づけされた疵からじんわりと熱が広がるのを感じた。頭の片隅で警鐘が鳴る。これは彼の罠だとわかっていても、ハリーには振り払うことができなかった。 誘惑は、甘く優しいほど深く絡めとろうとする。ハリーを見つめるリドルの瞳は優しく、未来の彼が両親を殺したヴォルデモートだと知っていても憎しみが湧かない。そのことが怖い。 「君を僕のものにしてあげる」 リドルが囁いて、ハリーの身体を抱きしめたときだった。 突然二人の足元から真っ赤な炎が立ち上った。 「フォークス!?」 炎の中から現れたのは、白鳥ほどの大きさの金色の尾羽を持った不死鳥だった。 「ダンブルドア、またしても邪魔をするか!」 いらだたしげにリドルが叫ぶ。同時に、ハリーは囚われていた意識がはっきりしてくるのを感じた。 「離せっ!」 引き寄せる腕を、ハリーは精一杯振り切って逃れた。 やっと戻った正気が、ここは危険だ、早く立ち去れとハリーを急かしていた。 ハリーは、倒れているロン達の傍まで走ると、リドルから彼らを守るように結界呪文を唱えた。 「ハリー」 トム・リドルは、フォークスに威嚇されて立ち止まったまま、悲しそうにハリーを見つめていた。 「残念だよ。もう少しで君を手に入れられたのにね」 そう言って、彼が指を一つ鳴らして合図すると、教室を閉ざしていた空間がゆっくりと端から崩れ始めた。 「今回は、君の友人達に免じて引き下がるとしよう。けれどハリー、これだけは覚えておいで。僕は君がどこにいても見ているよ」 リドルの身体が、闇に解けるように輪郭を失っていく。 「トム・リドル!」 「またね、ハリー」 ―――次はきっと、君を僕のものに・・・ やがて、だんだんと闇が薄れて、気がつくとハリー達はただのガランとした教室に取り残されていた。 「結局、また『例のあの人』の仕業だったんだな」 夢の呪い事件がようやく落ち着いた頃、いつものように活気に溢れた食堂でロンが言った。 トム・リドルが去った後、校長であるダンブルドアの指示のもと、学校中の先生達が協力して夢の呪いは解除された。マダム・ポンフリーの医務室で眠りつづけていた生徒たちも元どおりになり、ジニ―もすっかり元気になってロンを安心させた。 「でも、『あの人』のねらいがハリーだったなんて」 「いつものことだよ。僕に倒されたのがよっぽど悔しいのさ」 何でもないようにハリーは言った。 ―――でも、本当にそれだけなのだろうか・・・ 誰も知らないハリーの心を言い当てたトム・リドル。どこにも居場所が見つからなかったハリーの孤独が、あの一瞬だけ癒されたように感じたのは気のせいだったのか。 ホグワーツは、寂しかったハリーを受け入れ友達を与えてくれた。けれど…気がつくと、ハリーはあの自分だけを見つめるひりつくような視線を探しているのだ。 もう一度『彼の人』会ってしまったら、どうなってしまうのか。ハリーは不安に戦きながらも、かすかな期待に戸惑っていた。 fin |