リノリウムの床に、硬質な靴音が響いていた。 麗らかな春の昼下がり。 桜の花も満開のこの季節。しかし、ひんやりと静かなこの空間は、時間に取り残されたように隔離されていた。 機能的で優美な外観とはうらはらに、建物の四方の窓には鉄格子がはめ込まれ、機械的に警備員が巡回している。 「思ってたよりきれいなとこやな。もっと辛気臭いとこかと思うてたわ」 前を案内する職員について歩きながら、アリスが隣の火村にしか聞こえないような声で囁いた。 「一応、国の最新設備だからな」 すでに何度か訪れた火村は、前を向いたまま気のない返事を返す。 二人が訪れたのは、大阪市の外れにある特別医療施設だった。 「どうぞ、こちらです」 先導する若い医師が、何度目かの頑丈な鉄の扉を鍵で開け、二人は窓のない暗い部屋に通された。 手前に簡素な椅子が一脚。その向こう、透明なガラス張り越しに男が一人座っている。 「こんにちは、榊さん」 「ああ、火村先生。こんにちは。そちらは、初めていらっしゃる方ですね」 男は、火村の肩から顔を覗かせたアリスに、ちらりと視線をやって言った。 「ええ。僕の友人で有栖川といいます。今日はオマケで付いて来ましたが、気にしないで下さい」 「これはまた、かわいらしいオマケだ」 そっけない言い方がおかしかったのか、屈託のない笑顔が洩れる。 それは、恋人を殺害し、その遺体の一部を食した狂人とは思えない穏やかな顔だった。 榊智和は、昨年の暮れに恋人である大木加奈子を殺害した容疑で逮捕された。動機は痴情のもつれという極めてありがちな状況で、火村にとってはさして珍しい研究サンプルではなかった。それが突然変わったのは、年が明けてまもなくのことだった。 榊の犯行は、彼の家のガレージで近所の老人が犬の散歩中、大量の血痕を発見したことから発覚した。 血液型から恋人の大木加奈子の血痕に間違いないとわかると、事件容疑はすぐに殺人に変わり、榊はすぐさま逮捕された。ガレージいっぱいに飛び散った血の量から、大木加奈子の生存が絶望視されたからだ。 しかし、懸命の捜索にもかかわらず、彼女の遺体は発見できなかった。 大量の血痕と、唯一、左手の薬指を除いては…。 指は、榊が小さな瓶に入れて大切に持っていた。逮捕される時、彼はその指を大勢の警察官の目の前で食べたという。榊智和は単なる殺人者ではなく、異常者だったのだ。 それから三ヶ月余り。遺体はまだ見つかっていない。 「今日はどんなことを訊ねにいらしたんですか?」 ガラスの向こう側で、男はゆったりと落ち着いていた。 二十二歳と聞いていたが、年のわりに大人びた雰囲気があるのは誰にでも簡単にはできない殺人という経験をしたからだろうか。 「この前は殺人の動機でしたから、今日は遺体の隠し場所について聞かせて下さい」 持ってきたノートを開いて記録しながら火村は言った。 いきなり核心を突く言葉に、男が驚いて目を見開く。まさか警察でも供述しなかったことを、いまさら聞かれるとは思わなかったのだろう。 「ああ、隠し場所を教えろと言っている訳ではありません。なぜ、その場所を言わず彼女を隠したままなのか聞きたいんです」 「ああ、そう言うこと」 一拍置いて納得したのか、男は暫く考えたあと答えた。 「警察の取り調べでも何度も聞かれましたけど、起訴が恐くて隠し続けているわけではないんです。これは最初に言っておきますが、僕が彼女を殺したのは愛情からだった。あんなに愛していたのに、別れようとする彼女が信じられなかったし、それ以上に他の誰かに彼女を渡すくらいなら殺した方がマシだと思ったんですね。」 「そんな勝手な…」 殺人者の身勝手な言い分に呆れて、思わずアリスが声を漏らす。 「ええ。今思えば浅はかな行為でした。殺してしまったことは後悔しています。あの笑顔に二度と会えないのは辛い。でも、もう彼女を誰にも触れさせずに済むことには安心してるんです。おかしいですね」 「警察で言った桜の下に埋めたと言うのは本当ですか?」 「ええ、あれは本当です。あんまりしつこいもんだからついヒントを漏らしてしまいました」 それが仕事なのだから、しつこいなんて言われたら警察も気の毒だ。 「警察も最初は全部食ってしまったんだろうなんて酷いこと言ってたわりには、遺体の場所を聞くなりあっさり捜索に移るんだからゲンキンなものだ」 ずいぶん長いこと取り調べられたせいか、男の言葉は辛辣だった。 「遺体の一部を食べる異常な殺人犯よりただの殺人犯の方が警察も理解しやすいんですよ」 なんだか論点がズレていると思うアリスの隣で、火村はごく自然に男と会話を進める。 「まぁ、人間、自分の理解の範疇を超えるものは見ないようにできてますから」 「なるほど」 男は楽しそうに肩をゆすって笑った。 「あなた、面白い人ですね。犯罪を研究してるって聞いたけど、さすがに人の指を食べた人間は珍しいかな。あなたも気持ち悪くて理解できない?」 「そうでもないですよ。人が人を食べるには、それなりの理由があります。純粋な食欲か愛情です」 「なるほど、よくわかってらっしゃるんですね。そうですよ、僕は加奈子を愛していたから食べたのに、警察は誰も理解してくれなかった」 「警察はどんな質問をしたんですか?」 「どうして食ったのかは何度も聞かれましたよ。あと、加奈子の遺体をどこにやったか」 「本当は、最初から食べるつもりはなかったんじゃないですか?」 「何でもお見通しですね。そうです。あの指だって、警察が取り上げようとしなければ食べたりしなかった。記念にしようと大切に持っていたのに残念だ」 男はそう言って、失われた指を思い出すように目を閉じた。 最初その行為を見て、彼が被害者の身体を全て食べてしまったと思い込んだ捜査陣は、さぞ戦慄したことだろう。あまりにショッキングな出来事なだけに、公式な警察発表は事件から二週間も遅らされた。 その後、男の供述から、遺体を埋めた場所を聞き出すと、警察は男の家の庭先から近くの公園、道沿いまで、目に着くすべての桜の下を掘りはじめた。男が、それ以上限定した場所を言わなかったためだ。 殺人容疑で逮捕したものの、遺体が見つからなければ起訴はできない。 それでも、男の狂気に慄いた世間が、男を人里離れた場所に隔離し続けることを望んだ。 「あの指だけ取っておいたのには、意味があるんですか?」 指は、たしか左手の薬指だった。 「指輪をはめてあげたかったんです。僕は結婚するつもりでいましたからね。せめて記念に側に残しておこうと思っていたのに。警察が取り上げようとしたから思わず食べてしまいました」 たとえ指一本でも誰にも渡したくない、触れさせたくないという彼女に対する執着が、あんな行為につながったのか。 だとしたら、それはもはや愛情ではなく狂気にちがいない。 「……独占欲が強いんですね」 「否定はしません」 静かな声で男は言った。 こうして一人暗い部屋に隔離されていても、男の彼女への執着と独占欲は衰えるどころか、遺体という器に置き換えられた形で今なお続いている。 (これが狂気というものか…) アリスは、誰にも見つけられず、遺族のところに帰ることもできない彼女がかわいそうだと言った。 こんな身勝手な男に殺されて、その身体さえ望まぬ状況にあるなんて…と。 火村も、犯罪者が自分の犯した罪を正当化する行為は赦せない。だが、殺された被害者の無念さより、犯罪者の犯行に走った心理の方に共感してしまう自分は、基本的な部分で人間性が違うらしい。 「ところで榊さん、桜の下に埋めたのは何か意味があるんですか」 「・・・ありますよ」 「どんな?」 「綺麗だと思ったんです。ほら、昔、ある小説家が桜の下には死体が埋まっていると書いていたでしょう? あの小説のように、桜の下に加奈子を埋めれば、加奈子の血を吸ってさぞ美しい花が咲くと思ったんです」 そして、春が来るたび、その花の訪れに恋人を独占したという思いが満たされる。桜の下に永遠に眠る恋人を想って・・・。 感覚的に男に近い火村には、それはすばらしく幻想的な光景に思えた。 だが、 「遺体の場所は、ずっと言わないつもりなんですか?」 アリスが正面から男を見据えて訊ねた。 「もちろん」 「あんた、遺族の苦しみとかは考えられないんか」 「僕は加奈子を愛していたんです。誰にも触れさせず自分だけのものにしたかった。遺体になってしまったけれど、これでようやく彼女はずっと僕だけのものだ」 「そんな…!」 「触れることはできないけれど、誰にも盗られないなら安心できます。まして、彼女の居場所を知っているのは僕だけなんですから」 たとえ、一生ここから出ることはなくても・・・。 男は、声を荒げるアリスに全く動揺することはなく、満足そうに微笑んでみせた。 「あなたはマトモな人みたいだから理解できないことでしょうが、こんな愛情もあるんですよ。まぁ、そちらの先生は、よくご存知のようですけど…ね」 男の視線がアリスを流れてこちらへ移る。 「火村先生、あなたの友人にしては、ずいぶん素直な方なんですね」 「もう、その辺でよろしいでしょう」 うっすらと浮かぶ男の笑みに、隣でアリスが嫌悪感に眉をひそめるのを見て取ると、火村は書き綴っていたノートを閉じて、立ち上がってガラス越しに男の方へ歩み寄った。 「最後に確認しますが、被害者の女性と最初に知り合ったのは大阪の○○高校でしたね?」 「ええ、それが?」 怪訝な顔をする男に「べつに、それだけです」と答えた火村は、持ってきたバックの中から新聞を取り出し、ガラスの差し込み口から男に渡した。 「差し入れです。たぶん、今日の面談が最後になると思うので、今までのお礼に受け取って下さい」 施設の管理上、外の情報に疎くなりがちな患者にとって、新聞は貴重な情報原になる。 「なかなか面白い面談でした。ありがとうございました」 「こちらこそ。また機会があったらお会いしたいですね。先生とは気が合いそうだから」 男は、最後まで穏やかな笑みを崩すことなく二人を見送った。 「そろそろ百面相はやめろよ、可笑しくてハンドル切る手が滑っちまうだろ」 長い山道を下り、あと5・6キロ走れば最寄の街に着くというところで、火村は道路脇の広場に車を寄せた。 帰りの車の中でのアリスの機嫌は最悪で、さっきまでの面談を思い出しては一人顔をしかめて唸っている。 「そんなこと言うたかて、君は何も思わんのか。あんな身勝手で理不尽な殺人犯、初めてや!」 犯人に反論できなかったことが、よほど腹に据え兼ねているらしい。 「言い負かされたからって怒るなよ。あっちの方が一枚上手なのはわかってたことだろ」 「どう言う意味やねん。だいたいなぁ、あんな自己中心的な考えで相手を好きになったかて、うまくいくわけがないんや! 挙げ句に拒否されたから殺すやなんて…っ。あんなん恋愛とちゃう、ただの妄想や!」 「でも、恋愛は妄想の産物とも言うぜ?」 「君なぁ…」 まだ何か言うアリスに肩をすくめて、火村はさっさと車を降りた。山の中腹にある施設からここまで、沿道にはずっと桜が植えてあるが、ここはちょっとした花見もできるくらいのスペースがある。 「あ、火村、ちょっと待てや」 歩き出した火村を見て、慌ててアリスも車を降りた。 風が強いせいで、はらはらと散る花びらが雪のように降りそそぐ中、火村はゆっくりと歩きながら、さっきまでの面談を思い出す。 男は、愛していたから殺したのだと言った。いっそ殺してまでも自分だけのものにしてしまいたいという狂気。誰だって片思いよりは両思いの方がいいに決まっている。自分を想ってくれている相手を選んで好きになるわけではないから、どうしようもない気持ちに苦しむことだってある。 自分以外の誰かを、自分以上に好きになる気持ちはどこから来るのか。そんなもの誰にもわからない。気が付いたら好きになっていたというのが現実だ。 けれど、火村にとって、アリスを好きだというこの想いが恋愛なのか妄想なのか、そんなことはすでにどうでもいいことだった。 自分ひとりのためだけにそこに存在して欲しいと願う想いを妄想だと言うのなら、それはそれでかまわない。どうせこの欲望を 静める方法はたったひとつだけなのだ。 どうしたら、自分の想う形でその人を手に入れることができるのか。 (あの男は、本当にあれで満足したのだろうか) アリスを一目見て、意味ありげにこちらを見た男の視線は、『おまえもそうか』と嘲笑っていた。 (見透かされたな) たぶん、自分達は非常に似ているのだろう。 (だが、俺はおまえのような失敗をするつもりはない) 殺してしまっては意味がないのだ。アリスの思い出だけを抱いて生きていくつもりはない。拒否しようにもできない状況に追い込んでしまえばいいだけの話だ。 おそらく、その点では、火村は男よりずっとあざとい自覚があった。 「どうした、アリス。寒いのか?」 振り返れば、後を付いてきているアリスが寒そうに身を縮めていた。 「うん、ちょっと。風、冷たないか?」 「薄着してるからだろ」 火村は自分のコートを脱いで、震えるアリスの肩を包むようにかけてやった。 「サンキュ」 アリスがほんのちょっとはにかんだ笑みを浮かべる。 そのまま、寄り添うように二人、桜の木の下に佇んでしばらく降りしきる花びらを眺めていると、しばらくして、アリスがぽつりと呟いた。 「桜の下には死体が埋まっている・・・か。なんかシュールな光景やな。花はこんなに綺麗なのに」 「おまえ、自分の一番大事なものを隠すとしたらどんなところに隠す?」 「へ? 大事なモン? そうやなぁ、隠し場所がわからなくなっても困るから、たぶん自分にだけわかる目印のあるとこか、どっかじぶんだけの思い出の場所やろうな。なんでそんなこと聞くん?」 「榊にとっては桜の花がその目印だったんだろ」 「そうなんかなぁ」 まだ納得できない顔で、アリスは首を傾げる。 「ところでさぁ、最後に差し入れてたんは今日の新聞か?」 「ああ、関西読売の朝刊だ」 「なんか目ぼしいニュースあったっけ?」 取り立てて目をひく記事は見つけられなかったアリスが小首を傾げる。 「・・・・・・いや、特にはなかったな」 怪訝そうな顔のアリスをよそに、火村はポケットから煙草を出して火を付ける。 「俺やおまえ、いや、世間一般の善良な市民には意味のないものさ」 檻の中のただ一人を除いては。 「共感はできても行為自体が赦せないのは俺も同じだからな」 動機がどうあれ、あの男が向こう側の人間になってしまったのは事実だった。 殺人を犯して安穏と生きていられる神経には虫唾が走る。 「これも一種の同類嫌悪か・・・」 すぐ手の届く場所にいる愛しい存在を見つめる。 近い将来、火村はこの自分を信頼しきっている親友を必ず裏切るだろう。けれど、今はまだその時ではない。 「愛してるぜ、アリス・・・」 おまえを、殺してしまいたいくらい狂おしく・・・ 火村の呟きは春風にかき消され、アリスの元へは届かなかった。 火村の元に男が自殺したという知らせが届いたのは、それから数日後のことだった。それはちょうど、彼の母校の校舎裏から若い女性の遺体が見つかった日でもあった。 発見された女性の遺体に左手の薬指がなかったという報道から、それが大木加奈子と知れたが、あの日、火村が差し入れした新聞の地元欄の隅に、ある公立高校の校舎改築工事の記事が載っていたことを、アリスは知る由もなかった。 fin |