存在証明







弟を純粋に可愛いと思っていたのはいつの頃までだっただろう。
ドンは一向に進展しない事件の捜査資料を眺めながら、つらつらとそんなことを考えていた。
今日は特に事件も起きず平和だったせいか、他の皆は定時に帰っている。
いつもは検証につきあってくれるテリーも、友人と食事の約束をしているからとさっさと出て行った。
ひとりオフィスに残っていたドンが、時計を見ると、もう日付が変わっている。
そろそろ帰るか。
固まった背中を伸ばし重い腰を上げて机の上を整理していると、カード式の扉が開く音がして、ドンは振り返った。

「チャーリー…。どうしたんだ、こんな時間に」

暗いドアの入り口にいたのは、弟のチャーリーだった。

「こんな時間はこっちの台詞だよ。あんまり遅いから迎えにきたんじゃないか」
「え?」
「やっぱり忘れてる。今日は父さんが旅行で留守だから、家で一緒に食事しようって約束してただろ?」

チャーリーは呆れたように苦笑した。

「あ、ああ、そうだった。ごめん、忘れてたよ」

約束を思い出したドンは、素直に謝った。
今日の自分は本当にどうかしているらしい。ほんの数日前に交わした約束を忘れるとは。

「いいよ。忙しそうだったし。食事は今から暖めれば十分おいしいから」

チャーリーは怒ることなく兄を気遣った。

「もしかしておまえが作ってくれたのか?」
「うん。時間があったからね」

照れくさそうに頭をかくチャーリーに、ドンはすまないともう一度謝った。
FBI捜査官の自分とは違う意味で、数学教授のチャーリーは多忙なのだ。
その彼が、せっかく自分のために頑張ってくれたというのに。

「すぐに帰ろう。今更だけど、腹が減った」

ドンは机の上の書類を急いで束ねると、キャビネットの中にしまいこんだ。
FBIの捜査は多岐に渡るため、それに比例して担当するケースも多い。
まだ捜査中の事件が片付かないうちに、次の事件が起こることなどしょっちゅうだ。
今日見ていたファイルも、そうしたケースのひとつだった。
それをちらりと目にしたチャーリーが、ふと尋ねる。

「それ、先週起きた事件の?」
「……ああ」

ドンはギクリと手を止めた。

「容疑者は見つかったんだろ?」
「あ、ああ。だが、証拠が固まらない。動機もあいまいだしな」
「確か、エリートの弟が射殺された事件だったよね。兄が容疑者だって聞いたけど?」
「……」

兄による弟殺し。
署内ではその方針で調べを進めている。当然疑わしいからだが、動機が嫉妬だけとは思えず、ドンはまだ逮捕まで踏み込んではいなかった。
兄弟は他人の始まりだと言うが、そのことを言えば、長年疎遠だったチャーリーとの関係がギクシャクしそうで、ドンは曖昧に頷くに留めた。
今では信じられないことだが、ドンとチャーリーはその昔、他人以上に係わりを持たない時期があったからだ。
捜査中にじゃれ合いのような喧嘩を見ている同僚も、きっとすぐには信じまい。
そして、ドンは、そのことに触れるのを、ずっと避けてきた。
それなのに……。

「どっちにしろ時間の問題だ。そのうち解決するさ」
「そうかな…」
「チャーリー?」

エレベーターに乗り込もうとしたところで、ドンは立ち止まった弟を振り返った。

「どうした、何か気になるのか?」
「……ドンは気にならないの? 僕たち、今じゃこうして普通にしてるけど、少し前までずっと口聞いてなかったよね」

ずっと触れないようにしていた核心を先に突いたのはチャーリーだった。

「何を今更…」
「今だから言うんだよ。本当は、ドンがロスに帰ってきた時に話し合うべきだった。でも怖くて…」

チャーリーは、ドンの視線から逃れるように俯いて顔を背けた。
大学教授という肩書きが信じられないほど、チャーリーは時々幼い顔をする。
そしてそんな弟を目にするたびに、ドンは、チャーリーが幼い頃のことを思い出した。
それは、弟が天才だと周囲が認めた時から深まった溝だった。
弟は、生まれながらに数学の天才的なひらめきを持っていた。
彼が特別だと知った両親は、彼の能力を伸ばそうと付きっきりになり、ドンは心に穴が開いたような気分で成長期を過ごすことになる。
優秀な弟は、ドンが高校に行く頃にはスキップで同じく高校に入学し、早い時期に大学で論文を発表して教授となった。
嫉妬しなかったと言えば嘘になる。
だが、それより辛かったのは、自分なりに伸ばしてきた能力と自信さえ、弟と比較しようとする世間だった。
このままでは、本当に自分達の関係は世間の評価に押しつぶされると思ったドンは、まずは自分の足場を作ろうと必死だった。
距離を置くこと。
そして精神的に自立すること。
それだけを目標に、ドンはがむしゃらに努力した。
結果、チャーリーと疎遠になってしまったのだが、周りが思っているほど嫌っているわけではなかった。
むしろ、弟を可愛いと思う気持ちを大事にしたくて、ドンは距離を置いたのだ。
今思えば、その時間は無駄ではなかったと思う。
だが、それがチャーリーにとってはどうかは知らない。
あの頃のドンは、自分を守ることに精一杯で、弟をかまう余裕はなかったのだから仕方がなかった。

「おまえが何を思っているか知らないが、俺はおまえと気持ちが離れたとは思ってなかったぞ」
「ドン…」
「人間の成長にはいろんな環境要因がある。俺たちには、それに時間という要因が必要だっただけだ」
「嫌いじゃなかった? 僕が父さんや母さんの関心を引いて、ドンに寂しい思いをさせてたのは本当でしょ?」
「それは……、仕方なかったのさ。天才を育てるには親の努力も必要だ。それに俺は、父さんや母さんから蔑ろにされた覚えもないぞ。もしおまえがそう思っているんなら、それは父さん達への侮辱だ」
「ドン……」
「世間に比べられるのは辛かったが、おまえが弟じゃなかったらなんて考えたことは一度もない」

ドンは、立ち尽くしたままこちらを見つめる弟に近づくと、そっと頬に片手を添えた。

「おまえを誇りに思うよ、チャーリー」

黒い印象的な瞳で、小さな頃から一生懸命自分を追いかけていた弟。
どんなに大きくなっても、その目の輝きは昔とちっとも変わらない。

「おまえはおまえのままでいいんだ。俺たちは今うまくいってる。そうだろ?」
「……うん」

大学教授になっても、小さな子どものように兄を追う弟を、ドンは安心させるように抱きしめた。
人よりうんと頭がいいくせに、子どもっぽくて寂しがりやな弟は、家族の絆を信じたくて、今でも父親と暮らしている。
ドンは、そんな弟を、素直に愛しいと思っていた。

「おまえがいるから、俺も安心して仕事ができるんだ。おまえが家を、父さんを守ってくれてるから」
「……じゃあ、もっと頻繁に戻ってきてよ」

兄の肩に額を押し付けて、チャーリーはおねだりする。

「父さんも心配してるし、僕も……仕事以外でドンと一緒にいたいよ」
「チャーリー…」
「仕事が忙しいのはわかる。でも僕が手伝ってるんだ。父さんに反対されても手伝うのは、ドンと一緒に居たいからだって、わかってる?」
「おまえ…」
「仕事を手伝ってる見返りくらい求めてもいいだろ?」

金より無茶な報酬を期待する弟に、ドンはしょうがないなと苦笑した。

「わかった。今度からもっと側にいるよ。だから今日は、早く帰っておまえの手料理を食わせてくれ」
「了解」

可愛い弟の我侭に白旗を上げたドンは、やっと機嫌が直ったチャーリーの肩を抱いて、エレベーターに乗り込んだのだった。






FIN









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