「三倍返しなんてサギだよなぁ」 ピペットでビーカーの液体を抽出しながら、隣で同じ作業をしていたデルコがぼやいた。 カレンダーは3月13日。明日はホワイトデーだ。 「零時過ぎたからもう今日か…」 女性に受けの良いデルコは、貰ったチョコのお返しに苦慮しているらしい。 「調子に乗って愛想振りまくからだ。本命からは貰えたのか?」 「……聞かないでくれ」 落ち込むデルコに、スピードルは内心ほくそ笑んだ。 デルコの本命がホレイショだということは、聞かなくてもわかっている。 それだけは譲れないから、スピードルはそれ以上話を掘り下げることはなかった。 「だいたいさ、チョコひとつで指輪やバックを期待するっていうのが信じられないよ」 でもそんな女から嬉々としてチョコを貰っていた自分は棚の上らしい。 スピードルは、デルコの愚痴を聞きながら、ホレイショに贈る「お返し」のことを考えていた。 バレンタインデーに貰ったケーキは、なんとホレイショの手作りだった。 先回りしておねだりしたせいでホレイショの機嫌を損ねたスピードルは、貰えないかもしれないと心配していたから、ラボの机の下でケーキの箱を見つけた時は、飛び上がるほど喜んだ。 だから、自分もそれくらいサプライズなプレゼントを用意したい。 だが、いざ贈るとなると、何を準備していいか迷うものだ。 ホレイショは、上司だからもちろん自分より給料が上で、金にも困ってないから、何かに執着することがない。 付き合えば付き合うほど、物欲のなさに半ば呆れ、反対に自分の俗っぽさを反省した。 できれば本当に欲しいものを贈りたいものだが……。 仕事を終えて、週末のデパートに足を運んだスピードルは、悩んだ末に結局何も選べず、以前ホレイショが好きだといった銘柄のワインを購入した。 どうも、自分は三倍返しどころか一倍も返せていないような気がする。 少し沈んだ気持ちでホレイショの自宅のドアを叩くと、ギャルソン風に腰エプロンを巻いたホレイショが、「お帰り」と出迎えてくれた。 何やらおいしそうな匂いもする。 「もしかして、夕飯を作って待ってたのか?」 「おまえの行動はわかりやすいからな。今日は来るだろうと思っていた」 さすがホレイショ。読みが鋭い。いやこの場合、自分が単純だということか? 頭を悩ませながら、スピードルは背中に隠し持っていたワインを差し出した。 「エイチ…。その…、ハッピーホワイトデー」 恋人に贈ると言ったからか、ボトルには赤とピンクの綺麗なリボンがかけてある。 「ありがとう。ケーキのお返しにしては豪勢だな」 「あ、いや、まぁ…」 「これ高かっただろう? ディナーの時に一緒に開けさせてもらうよ」 「うん」 ホレイショは嬉しそうな顔をしたが、スピードルにはこれが正解だったかわからなかった。 夕食を作っていてくれたことを考えると、やっぱり三倍返しにはなっていない気がする。 そんなことを考えていたせいか、せっかくのホレイショの手料理を食べている間も上の空だった。 それが顔に出ていたのだろう。 一通り料理を口にしたあたりで、ホレイショがグラスを置いてスピードルの斜め向かいの椅子に座った。 「どうしたんだ? 料理が口に合わなかったか」 「…い、いや、もちろん美味しいよ」 「でも、何か言いたげだな。言ってくれないとわからない。付き合い始めた頃、そう言ったのはおまえだろう? スピード」 ホレイショは、二人だけのとき、「スピード」と呼ぶ。 そんな時は、決まって少し下から覗き込むような蒼い瞳に、誘惑されているような錯覚を覚えた。 そんな瞳で促されたら、スピードルは陥落するしかない。 もじもじと視線を逸らしながら、白状した。 「その…、ワインのことなんだけど…」 「これか? 美味しいよ。私が好きな銘柄をわざわざ探してくれたんだな。マイアミでは出回ってる数が少ないから、探すのは大変だっただろう?」 「いや、そんなことはいいんだ。俺にはこれくらいしか返せないし」 「スピード?」 「……本当は、何を贈れば喜んでもらえるかわからなくて、これにしたんだ」 スピードルは言ってて情けなくなった。これで相手が女性なら、女の気持ちがわからないと振られてもおかしくない。 ホレイショからは、本当にたくさんのものを貰っているというのに。 スピードルは気持ちを返す術を持たない自分が情けなかった。 「これじゃ三倍返しどころか、一倍も返せてないよな」 落ち込んだ気持ちが溜息になって零れ落ちる。 すると、ホレイショがスピードルの顔を両手で包んで持ち上げた。 「バカだな、おまえは本当に……。でもそんなところがらしいというか…」 「ホレイショ?」 間近にある蒼い目は、呆れるどころか微笑んでいて。 スピードルは思わずじっと見つめてしまった。 「私の方こそ、おまえに返せないくらいたくさんのものを貰っているよ。ワインもそうだが、こんな風な…」 「……キス…?」 唇に触れた柔らかさに、スピードルは目を瞬かせる。 「そう。誰かにキスする気持ちよさとか、帰っても一人じゃない安心感とか。そういうのは、他の誰でもない、おまえだから意味があるんだ」 「ホレイショ」 「おまえはそうじゃないのか?」 小首をかしげて問う恋人に、今度は自分から深い口付けをしながら、スピードルは「俺もだ」と吐息で答えた。 エリックの悩みに踊らされて、大事なことを忘れていた気がする。 そんなスピードルに、ホレイショはいつだって正しい答えのヒントをくれるのだ。 「好きだよスピードル」 「俺も……ホレイショ、あんたに惚れてる」 キスを交わしながら、スピードルの足はホレイショを抱いたまま、キッチンから寝室に向かった。 ホワイトデーのお返しはこれからだ。 スピードルはホレイショをどんなに愛しているか、ベッドの中で証明するために気合を入れた。 FIN |