エレベーターでその階に上がると、リック・ステイトはいつも古傷が疼くような感覚を覚える。 理由はわかっていた。その階はSCI専用ラボであり、彼、ホレイショ・ケインがいるからだ。 ホレイショとは、かつて警部補昇進の際、図らずもお互い候補者として名が上がった。 上司からは確実に自分の方に分があると言われていただけに、リックは自分がそのチャンスを逃し、それまでライバルとして意識したこともないようなホレイショが警部補になったことを、信じられない気持ちで知った。 今でも、自分の方がすべてにおいて条件的に有利だったと信じている。 それなのに、ほんの十年前にN.Y.から来た彼に、その座を取って代わられるとは…。 以来、リックは復讐心にも似た感情で、ホレイショの一挙一動を意識するようになり、今日も何と言って彼の悔しがる顔を見てやろうかと、エレベーターから降りたのだった。 「ホレイショ」 ラボの奥に、見知った赤毛の男を見つけ、リックは近寄っていった。 誰か親しい人間と話していたのか、見たこともないような穏やかな顔をしている。だが、リックが声をかけると、とたんに険しい顔がこちらに向いた。 「リック。おまえの顔はあまり見たくないんだがな」 あからさまに不快な顔でそう言ったホレイショに、リックは内心複雑な興奮を感じながら、表面上はお互い様だと言い放った。 「仕事で来てるんだ。俺の仕事を増やしてくれる人間が多いんでね」 「だったらさっさとそこへ行けばいい」 そっけない言い方だが、それだけ自分を意識している証拠だ。 そう思うと、不思議と腹も立たない。 自分の部下にも、他の刑事仲間にも親しげな笑みを見せる彼が、リックだけに見せる顔。 それが特別なことのように思えて、リックはついホレイショをわざと苛立たせてしまうのだ。 「ホレイショ?」 睨み合うように見詰め合っていると、いつの間にかホレイショの横に立っていた人物がこちらを見ていた。 「ああ、イエリーナ。悪い。まだ話の途中だったな」 「ええ、いいのよ。いつでも話せることだから。それより…」 イエリーナと呼ばれた女性は、豊かな髪をなびかせるようにこちらを振り向き、 「内部調査室の方だったわよね?」 と、リックをまっすぐ見上げた。 コロンビア系のはっきりした顔立ちの美人だ。 「リック・ステイトーだ。よろしく。ええと…」 「イエリーナ、イエリーナ・サラスよ。こちらこそよろしく」 イエリーナは、魅力的な笑顔を浮かべて、リックの手を取った。 「じゃあ、ホレイショ。もう行くわ」 「ああ。また電話するよ」 名残惜しげに見送るホレイショとは裏腹に、イエリーナは軽快な足取りで歩き去っていった。 「彼女が例の未亡人か?」 ホレイショのことは、隅から隅まで関係書類に目を通している。 もちろん、弟の事件のことも知っていた。 ホレイショの弟は、麻薬捜査の潜入捜査官だった。 長い間潜入すれば、悪に染まる人間もいる。 そうして、ホレイショの弟は裏切り者の汚れた刑事という噂を残して逝った。 残されたホレイショは、その妻であるイエリーナと子どもを守るという義務を自らに科した。 「おまえには関係ない。彼女には係るな」 鋭い声で、牽制される。 弟のことだけに過敏になるだろうと予想はしていたが、理由はそれだけではないようだ。 番犬よろしく彼女に近づこうとする男を睨みつけるホレイショは、彼女をどう思っているのか。 おそらく自覚はないのだろう。 「彼女が君の弟の妻だったことは知ってるさ。だが、もう弟はいないんだろ?」 「……何が言いたい」 「恋愛は自由ってことさ」 ホレイショの蒼い瞳が、信じられないものでも見るように見開かれる。 いつもなら、どんなに嫌味を言われても、内面を悟らせるような男ではないのに。 その彼が、今は動揺を隠せていない。 瞬間、リックは勝ったと思った。 この男が、一瞬でも自分以外の誰かに強い関心を持つことは許せない。 こちらが彼に執着する分だけ、彼も自分を意識すべきなのだ。 それが憎しみだとしても、リックはかまわなかった。 イエリーナ・サラスに興味はないが、彼の関心をこちらに向けるにはうってつけの当て馬になるだろう。 ホレイショが、彼女に好意を寄せているなら尚更だ。 案の定、ホレイショは不快感も露に、その独特の蒼い瞳で威嚇している。 だが、犯罪者が恐れている視線の強さも、今のリックには毛を逆立てて虚勢を張るネコほどにしか感じなかった。 おもしろい。 いつになく浮き立つ気分で、 「君が止めるなら考えるが?」 とカマを掛けると、ホレイショは感情的になった自分を悟られたと思ったのか、ぎこちなく視線を外した。 「……イエリーナに聞けばいい」 「へぇ。それじゃ、そうしよう」 一瞬、悔しそうに歪められた顔を、リックは満足げに眺め、 「それじゃあ、また」 俯いたホレイショの肩を叩いて、ゆっくりと背を向けた。 きっと、ホレイショは今はらわたが煮えくりかえっていることだろう。 エレベーターを降りたときに感じた傷の疼きは、きれいに消え去っていた。 かわりに、新しいおもちゃを見つけた子どものような高揚感が、リックを包んでいた。 真綿を締めるように、彼からすべてを奪い取ってやる。 手始めに、義妹のイエリーナからだ。 そう思った時、リックは自分が性的興奮を覚えていることに気が付いた。 そして、ようやく自分の本当の望みを知る。 彼が欲しい。 彼を支配し、欲望のままに貪ってやりたい。 意思の強さを示す蒼い瞳を、哀願する涙でいっぱいにしてやりたい。 あのCSIの鬼チーフと恐れられる彼の顔を、羞恥と屈辱にまみれさせてやったら、どんなに楽しいことだろう。 絶望に堕ちる彼を、誰の手も届かないところに閉じ込め、自分だけが支配する。 歪んだ独占欲だった。 妄想は、切望に変わり、実現するために、リックは行動することにした。 FIN |