出先から帰ると、ラボの中は人の気配が少なかった。 稼動中の機械の音だけが、静かに空気を振動させている。 冷房の効いた室内は、マイアミ特有の強い日差しと熱を遮断し、快適に仕事ができるよう管理されている。 外の熱気で蒸れた肌から、スッと汗が引いていく感覚が気持ちいい。 エレベーターから降りると、スピードルは、鑑識キットを片手に自分の専用ルームへまっすぐ向かった。 すれ違う人は皆忙しそうで、顔もなんとなく険しく見える。 しかたがない。どこも人手不足なのだ。 スピードルが所属するCSIも、数ヶ月前から現場を指揮するメーガンが長期休暇に入って以来、配置転換も絡んで慢性的な人手不足に陥っていた。 新人も入ってきたが、お互い自分の仕事をするので精一杯だ。 全米屈指の犯罪多発地帯であるマイアミを守るには、心もとない状況だった。 そして、今日もまた、いつものように事件が起きて、スピードルは電話一本で現場に呼び出された。 殺害現場はどれも悲惨な状況だが、今日のは特に酷く、スピードルの気を滅入らせている。子どもが犠牲になる事件だけは、何度起きても慣れるものではない。 スピードルは、軽く頭を振って気持ちを切替え、白衣を纏ってラテックスの手袋を装着した。 この瞬間、スピードルの意識は切り替わり、目の前の証拠品に集中し始める。 被害者の衣服に付いた血痕を丁寧に麺棒で採取し、それをDNA判定機にかける準備をする。一連の作業は慣れたものだ。 その時、作業に集中しているスピードルの背中が、ふいに誰かの強い視線を感じ取った。 「…?」 目を瞬かせて振り返る。 ドアのところに見慣れない背格好の男がひとり立っていた。 「すみません、ここ部外者は立ち入り禁止なんですが…」 肩越しに首だけ向けてそう言ったスピードルに、男は小首を傾げて頷いた。 「すまない。今度ここに赴任してきた者だが…」 「え…?」 新人が来るなんて聞いてないぞ。 スピードルは、体ごと振り返り、改めて男と向かい合った。 鑑識の目が、じっくりと男を観察する。 歳は、四十半ばだろうか。顔は濃いサングラスに覆われてわからない。 年齢の割りにスラリとした背格好だ。 髪は赤毛に近い金髪で、蛍光灯の明かりに絹糸のような毛先が透けて、さぞ人目を引くだろうと思われた。 しかもマイアミには珍しく日に焼けてない白い肌だ。 だが、それよりもっとスピードルの目を引いたのは… 「もう、いいかな?」 気が付けば、目の前の男は口元に僅かな苦笑を浮かべていた。 「え…、あ、ああ…」 どうやら観察されることをわかっていて、スピードルの不躾な視線を許容していたらしい。 腰に当てた手で捲れたジャケットの裾から、ベルトに付いた警察バッジが見えた。どうやら警察関係なのは本当らしい。 「ええと…」 「ホレイショ。ホレイショ・ケインだ」 男は、スピードルの思考の先を読むように自己紹介をし、そしてゆっくりと両手でサングラスを取り外した。 そのとたん、吸い込まれるような感覚に、スピードルは目を見開いた。 蒼い瞳だった。 マイアミの太陽に輝くライトブルーの海のように、深く澄んだ蒼。 それが、じっとこちらを見つめている。 微動だにしなくなったスピードルをいぶかしむように、ホレイショと名乗った男が一歩部屋に踏み込んだ。 「君?」 「あ、ああ、いや…」 見とれていた気恥ずかしさを誤魔化すように手を振る。 スピードルが、何か言わなくてはと焦っていると、部屋に入ってきたホレイショが、ふとデスクの上に広げられた衣服に目を留めた。 「それは、被害者の服か?」 一見して幼い少女のものとわかるワンピースの胸元に、インクのようなシミが広がっている。 今日起きたばかりの事件だった。 実際は、誘拐が絡んでいるので、事件発生は数日前に遡る。 「指紋も遺留品も、現場で犯人に繋がるものは見つからなくて…」 遺体が見つかった現場は、街外れのゴミ処理場だった。 薄いビニールに包まれた小さな遺体は、今アレックスが解剖している。 写真だけ先に現像して拡大し、刺し傷の箇所と衣類の血痕を照合していた。 ビニールに犯人の指紋はなく、ゴミの搬入のため一日何台も出入りする車両のせいで、タイヤ痕も満足に取れていない。 この場合、前歴者を当たって探すのが妥当な線だが、周辺にその手の変質者はいなかった。 「身代金は?」 事件の概要を聞いたホレイショが質問した。 「一昨日の夜、5千万ドルの要求があったが、この子の家はそんなに裕福じゃない」 「ふむ…。金額も持ち歩くには不便な額だ。ところでこれは?」 腰に手を当てて証拠品を眺めていたホレイショが、衣服の裾を指差した。 血痕は、致命傷と思われるナイフの傷を中心に、広範囲にシミを作っている。刺し傷が多い分、シミはあちこちに点在していた。 「被害者のものだろ?」 「いや…、この形は少し違う」 「え?」 言われて、スピードルは拡大鏡を取り出し、その部分を確認した。 ホレイショが指したのは、小さなシミだった。 「おそらく滴下血痕だ」 「まさか」 傷が多いせいで、血しぶきが飛んだとも考えられる。 「これほどの刺し傷だ。おそらく犯人も無傷じゃない」 ナイフを使った犯行は、しばしば犯人自身も怪我をするリスクがある。 「……調べてみるよ」 「そうしてくれ」 ホレイショは軽く頷いて、それから背を向ける直前にフッと笑みを浮かべた。 瞬間、周りの空気がふわりと和らいだ感覚を覚えた。 ライトブルーの瞳が、優しげに光る。 スピードルは、彼の背中が視界から消えるまで、完全に見とれていた。 あの笑顔は不意打ちだろう。 そう思ったところで、ようやく彼が何のためにここに来たのかを思い出した。 「新しい仲間か」 その割には、指示に慣れた様子だった。 まぁいい。今は事件に集中するのが先だ。 スピードルは、ホレイショが見つけたシミのサンプルを取りながら、事件の犯人像を探り始めた。 結局、あの血痕はホレイショの指摘どおり犯人のもので、右手に傷を負った人物が犯人と特定された。 それが、被害者の父親で、母親の元夫だったことは、スピードルの気を更に重くした。 「解決したようだな」 犯人が捕まった翌日、ホレイショは再びラボに姿を見せた。 「ああ。あんたのおかげだ」 スピードルは素直に礼を言った。 アドバイスは、必要な状況でこそ意味を成す。 彼のそれは、行き詰っていたスピードルにとって、絶妙なタイミングだった。 「根気よく捜査すれば、おのずと答えは見つかる」 そう言いながらも、ホレイショの笑みはスピードルを労っているように優しかった。 「ところで、あんたは…」 いつからここに配属されるんだ、とスピードルが言いかけた時、ミーティングルームに新たな訪問者があった。 「ホレイショ、ここにいたのか」 「部長」 現れたのは、デイト署の刑事部長だった。 「みんな、集まってくれ。紹介しよう。今日からこのラボのチーフに就任したホレイショ・ケイン警部補だ」 集まったラボの皆に向かって、部長がホレイショを紹介した。 チーフだって? スピードルは驚いて彼を振り返る。 「ホレイショだ。よろしく」 新しいチーフは、トレードマークのサングラスを外すと、あの印象的な碧い瞳を細め、皆に向かって微笑んだ。 FIN |