人間関係は相対的なもので、自分と相手の関係を、他の第三者が正確に把握するのは不可能に近い。 小野田公顕は、警察庁の自室の窓際で、散り急ぐ桜を眺めながら物思いに沈んでいた。 小野田の人間関係は、仕事に深く関わっている。 警察という組織そのものが、小野田の日常のすべてだ。 だからのそ関係は、必然的に、上司や部下といったものから、同僚という偏ったものばかりだ。 だが「友人」は少ない。 特に、弱みを見せられる「友人」は。 弱みを見せ合うのが「友人」なら、あの男との関係は、それなのだろう。 お互いその存在の鬱陶しさも認め合っているほどだ。 しかし、人に理解してもらうには、それこそかなり複雑な関係だった。 まさに第三者には理解し得ないほどに。 なぜなら、彼の存在そのものが、己の弱点でもあったからだ。 自分に弱点がないと思っている人間はいない。 いたらそれは大事なもの何ももたない自分の命さえ粗末にする愚か者だと思っている。 家族、友人、恋人、そして秘密。 人の数だけ大事なものはある。 そしてこの警察組織では、弱点をコントロールし、時には他人の弱点を利用して伸し上がっていく強さが必要だった。 警察庁・官房室長にまで伸し上って来た経験が、それを裏付けている。 小野田公顕は、これまで自らの弱点を正確に把握していると思っていた。 身の丈にあった権力は、保身のためにも重要だ。 警察組織、とくに官僚クラスになると、些細なことも命取りになる。 切るべきところは切り、身の安全を図るのは当然のことだ。 それなのに……。 小野田は一本の電話で、これほど自分が動揺するとは思わなかった。 ポーカーフェイスには自信がある。意図的に感情を出すことはあっても、他人に読まれるとこは少ない。 あの男、そう杉下右京意外は。 「右京さんが、事故にあって…」 取り乱した彼の部下から電話があったのは、ほんの三十分前のことだ。 興奮状態の亀山から話を聞きだすのは骨が折れたが、どうやら杉下がヘマして意識不明になっているらしい。 事故は犯人追跡中に起き、逃げた犯人を追いかけて路地を出たところで、バイクに引っ掛けられたとのことだった。 「まったく、なんでそんなに不注意なんだ」 わずかに震える手をごまかすように、小野田を小さく悪態を吐いた。 ケガはたいしたことことはなく、脳波やCTにも異常はないという。 それなのに意識だけが戻らない。 小野田はスケジュール帳を出して、夜の予定を確認した。 本当はこんなもの見なくても把握済みなのだが、手帳を確認することで、時間に余裕があることを言い訳にしたかった。 病棟を歩くと、小野田の顔をしっている看護師や警官が頭を下げた。 警察病院は、他の病院にはない独特の緊張感がある。 病室の前で一息ついて呼吸を整え、小野田は静かにドアを開けた。 室内は暗かった。 個室のため、カーテンの引かれていないベッドに、横たわる杉下の姿があった。 ほんのり枕元に灯る常夜灯が、深い影を落とすように顔を照らす。 昼間、見舞い客があったのだろう。窓際には花が生けられていた。 小野田は、静かに杉下の枕元に近寄り、青白い滑らかな顔を覗き込んだ。 年齢を重ねても、男から受ける硬質で冴え渡る月の光のイメージが変わらない。 物静かで上品な物腰とは裏腹に鋭い眼光も、かつては小野田のお気に入りだった。 いや、今でもそうかもしれない。 昔とは違う意味で、あの眼差しを自分だけのものにしたいと願っている。 長い間の沈黙を破って再び交わった関係は、もうひとつの関係も引きずってしまっていた。 誘ったのはどちらだったのか。 久しぶりに触れた肌は、昔のような若さと張りはないものの、思った以上に小野田を夢中にさせた。 信頼という絆を自ら断ち切った小野田には、ベッドで組み敷く以外に手段はない。 青臭い正義感を宿した瞳が、指先ひとつで乱されて潤むのが暗い愉悦だった。 その目は、いまは青く影を落としたまぶたの奥に隠されている。 まるで良くできた人形のようだ。 静かに上下するシーツに、生きていることを気づかされる。 わずかに開かれた唇に、 「キスを待つ眠り姫のようだね」 と小野田は呟いた。 我ながらバカなことを言っている。 純潔のまま王子の訪れを待っていた姫と比べるには、小野田は杉下の矛盾を知りすぎていた。 自分の所業を憎み、蔑み、そのくせその相手に簡単に身体を開くこの男は、同時に自分の部下の好意の上に胡坐をかいているのだ。 人間関係の複雑さを、大人の汚い妥協だと切って捨てるほど若くはないが、手玉に取られているようで気に入らない。 自分と彼の部下は、杉下を挟んで対極に位置する関係にあるが、お互いの事情は、間にいる杉下を通してしかわからないのだ。 だが、おそらく向こうも薄々気づいているだろう。 杉下は、そういうことを隠そうとしない性格なのだから。 「おまえの待っている王子は、どっちなんだい?」 手綱を握っているつもりが、気がつけば翻弄されているこの状況は、小野田の許容するところではない。 それでも、杉下にだけはそれを許している。 情なのか。馴れ合いなのか。もうそれさえわからないほど混ざり合ったこの感情を、小野田はどうすることもできずに持て余す。 本気になったら負けだとわかっていても、そう思った時にはもう遅いのだ。 「ひどい男だねぇ、おまえは」 こちらの気も知らず、ひたすら昏々と眠り続ける男の頬に指を這わせ、小野田はゆっくりと、一見硬質な、だが触れれば柔らかい唇を盗んだ。 眠り姫が目覚めたのは、翌日の朝だった。 FIN |